漆之陸
最初の七福神スタンプラリーをゲットした旅寝駅夫と星路羅針は、次の円心寺へと向かう。
大正院を出たところに、〔中山道本庄宿〕の石碑があり、この通りが旧中山道だと言うことが分かる。今は県道392号線になっていて、車が行き交っているが、当時は旅装した人々が行き交い、時には参勤交代の大名行列が通ったのだろう。隔世の感とはまさにこのことである。
住宅街を通って円心寺へと向かう。
「あのさ、この辺時々大きな邸宅が現れるけど、本庄は何で儲かってるのかな。」
駅夫が一軒の邸宅を見て、冗談交じりに言う。
「確かに、この辺多いよな。昨日も何軒か見かけたし、何で儲かってるかは知らないけど、宿場町で発展した町だから、昔からの名家が多いんだろうな。」
羅針は想像で応える。
「ああ、なるほどね。商人の街ってことか。それにしては商店が少ないけど、やはりあれか、郊外型の大型ショッピングセンターの煽りか。」
「だろうな。この通りだって、旧中山道だから、商店がずらりと並んでいたはずなのに、この有様ってことは、おそらく多くの店が畳んだんだろうな。」
「だよな。シャッター街ではなくて、住宅街になってるってことは、相当以前から煽りを受けたんだな。」
「おそらくな。ちょっと寂しいが、駐車場が用意できない個人商店じゃ、郊外型の大型ショッピングセンターには敵うはずもないからな。」
そんなことを話していた二人は、ものの5分も歩かないうちに、〔浄土宗圓心寺〕と彫られた石柱が立つ、円心寺の入口に到着した。
奥には〔要行山〕の扁額が掲げられた、2階建ての山門で三間一戸鐘楼楼門の仁王門が聳え建っていた。この山門は市指定文化財で、天明年間(1781年~1789年)の建立と伝えられている。この寺院の山号は要行山、寺号は先求院で、御本尊は阿弥陀如来である。また武州本庄七福神めぐりの一柱、幸福、財産、長寿の神である福禄寿を祀っている。
山門の両脇には仁王像が立っているが、どこか愛らしい表情で、邪悪なものを威嚇するというよりも、善人の来訪が嬉しくて、思わず顔が綻んでしまっているが、一生懸命威嚇しなきゃと顔を引き締めているようにも感じた。
山門を潜るとそこには、唐破風を設えた本堂が現れた。
この円心寺は、武蔵国児玉郡北部所在の後期本庄城の城主である小笠原信之が、亡き母の菩提を弔う目的で、天正9年(1581年)に建立されたと伝えられている。歴史的矛盾が存在するため、歴史的検証では天正19年(1591年)の建立とされるが、2度の火災に見舞われ、1907年に再建された。現在のこの本堂は平成年間に新築されたそうだ。
「なんで建立年が伝承と歴史的検証で異なるんだ。」
駅夫が羅針の説明に疑問を呈する。
「ああ、それな。伝承では天正9年建立となっているけど、この時点ではまだ小笠原氏は徳川家康から本庄を拝領されていないからな。本庄城主として小笠原伸之が建立すること自体がおかしいんだ。だから、これは誤伝であると考えられている。
つまり、天正9年時点ではまだ本庄氏自体が健在で、城も前期本庄城の時代である上に、信之の養父である小笠原信嶺が本庄を拝領したのが天正18年であることを考えれば、天正19年建立の誤りじゃないかと考えるのが妥当だとする説が有力なんだそうだ。」
「なるほどね。いないはずの人物が建立するわけないだろってことか。9年と19年なら間違えて記載されてもおかしくないしな。」
駅夫は羅針の説明に納得した。
二人は本殿に向かって参拝し、本殿に向かって右にある福禄寿像にもお参りする。
そして、スマホで2個目のスタンプをゲットする。
次に向かうのは本庄城跡である。
遠くに見える市役所の建物へ向かって北進し、2車線道路に出たら右折する。暫く進むと〔城山稲荷神社〕の石碑があり、周囲の宅地より少し低くなっている路地を入ると奥に鳥居が見えてくる。
鳥居の脇には〔本庄城跡〕の石碑が建っているが、林が広がっているだけで、城らしい遺構はほぼない。
この本庄城は本庄台地の舌状部分に建築された平城で、この城に来るまでに通った道が堀の跡だったということに、二人は看板の説明を読んで気付いた。
「ここに城があったんだな。」
駅夫が感慨深げに呟く。
「ああ。今や跡形もないけど、それを考えると、歴史の長さを感じるな。」
羅針もあたりを見渡しながら、歴史の彼方に消えていった本庄氏の顛末を追懐した。
本庄氏は、平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵国で群雄割拠した武蔵七党の一角を占め、かつ最大勢力の集団を形成していた武士団である児玉党がその起源となる。児玉党の旗頭であった庄氏の庶家が名乗ったのが、本庄氏である。
この本庄氏が拠点としたのが、ここ本庄の地であり、現在の本庄市である。
本庄城は本庄氏によって築かれたが、室町時代、1590年に豊臣秀吉の関東攻めにより落城すると、小笠原氏がその後を引き継いだ。小笠原氏がこの地を治めたのは、古河藩へ加増移封となり、本庄藩は廃藩となり本庄城が廃城となった、1612年までである。
「盛者必衰の理をあらはすとは言うけどさ、まさにそれを地でいったんだな。」
駅夫が立て看板の説明書きと、羅針の補足説明を聞いて、そんな感想を漏らす。
「そうだな。まさに武士が群雄割拠した時代、大成をなすことはなかったが、歴史には名を残したこの本庄氏というのは、凄い時代を生き抜いた氏族だったんだなと思う。」
羅針は駅夫の言葉を聞いて、思うところもあってそう返した。
二人は、先に進み階段を降りると、狛犬ならぬ狛狐が出迎えてくれた。
「あのさ、狐がお稲荷様の使いってのは知ってるけどよ、なんで狐なんだ?」
駅夫が狛狐を見ながら聞いてきた。
「色んな説があるから、一概には言えないけど、簡単に言うと、米を餌にする鼠の天敵が狐だったから、農業の神である稲荷大神の神使に納まったってのが相場だろうな。」
羅針が簡単に説明する。
「それじゃ、猫でも良かったんじゃね。鼠の天敵といえば猫って相場が決まってるだろ。」
「確かにな。全国的には猫信仰は実際あって、日本遺産でもある京都府京丹後市の金刀比羅神社の境内社である、木島神社、猿田彦神社には狛猫がいるって話だな。」
「やっぱり狛猫っているんだ。じゃ、他にもいるんだろ、狛猫。」
「いや、俺の知る限り、狛猫はそこだけだな。猫を祀っている神社は数あるけど、狛猫がいるのは、そこだけじゃないかな。」
「そうなのか。猫って干支にもなり損ねたって聞くし、なんか不遇の存在なんだな。」
「猫が不遇かどうかは何とも言えないけど、神使にはなれなかったのは確かだろうな。」
羅針は首を傾げながらも、猫の境遇に思い至って、考えてしまった。
「なんか神使って言うとジェントルマンの紳士みたいで、シンシになれなかったって、まるで猫が悪辣な奴みたいだな。」
駅夫は冗談ぽく言うが、その表情は猫に同情していた。
「確かに。でも、猫って悪辣だろ。お魚くわえて逃げてくし、ロボットになっても主人公には辛辣な暴言吐くし。」
羅針は笑って言う。
「それ、二つとも国民的アニメの猫な。でも、あれだぞ、世の中には恩返しする猫だっているんだぞ。ってあれも悪辣な猫が出てくるか。」
駅夫は言い返そうとして、ドツボに嵌まる。
「ほらな。」
羅針がドヤ顔でそう言うと、二人は声を上げて笑った。
この城山稲荷神社は、本庄城を築いた本庄実忠が、椿稲荷明神を城の守護神として勧進し、社を建立して祀ったことが始まりとされる。本庄氏は稲荷神を厚く信仰していたが、続く小笠原氏も厚く信仰し、社殿を再興するなどしたと伝わる。現在の社殿は平成12年に完成した。御祭神は倉稲魂命である。
二人は、社殿に向かって参拝し、城山稲荷神社を後にし、城跡の舌状部分の先端部にある八坂神社へ、住宅地を抜けて向かう。
この八坂神社は、1556年、城下町の疫病除けの神として本庄実忠が勧進し、創立したが、小笠原氏が加増移封となり、本庄城が廃城になり、神社も捨て置かれた。しかし、1656年になって、漸く本庄宿の人々が本殿を建立したと伝わる。御祭神は建速須佐之男命である。
「ところでさ、神とか命とか日本の神様にも色々いるじゃん。それの違いって何かあるのか。」
駅夫が聞いてきた。
「強いて言えば、敬意の度合いかな。」
羅針があっさり答えて、続ける。
「つまり、簡単に言うと、尊敬の度合いが強いと神、そうでもないと命、みたいな感じかな。もちろんそれだけで決まってるわけではないし、長い歴史の中で定着したというのもあるから、揺らぎは当然あるし、色んな呼び方をされている神様もいる。だからさんとか様のような敬称みたいだと思えば良いよ。この人には様は付けるけど、さんは付けないみたいなルールが出来上がったと考えると、分かりやすいかもね。」
「なるほどね。要は佐藤神とは言うけど佐藤命とは言わないとか、鈴木神とは言わないけど鈴木命とは言うみたいな習慣が出来上がったってことだろ。」
「そう言うことだ。もちろん田中神、田中命と両方言う場合もあるからな。
この神とか命って言うのは神号って言って、神様の称号なんだ。だから、〔みこと〕に尊敬の尊を当てたり、大神とか大御神、明神、権現というのも時代と共に色々現れたりしたんだ。」
「なるほどね。だから元々は敬意の度合いで使い分けていたものが、いつの間にか定着してしまって、この神様にはこの神号って決まってしまったってことなんだな。」
「そういうことだ。もちろんこれは一説に過ぎないから、他にも色んな理由があるだろうけどね。」
疑問がすっきりした駅夫は、社殿に向かい参拝を始める。
羅針もそれに次いで、隣で参拝した。
林に囲まれた境内には、奥の方から子供たちのはしゃぐ声が聞こえてきた。この社殿の裏には城下公園があり、そこで遊ぶ子供たちの声が、ここまで響いてきていた。
二人が参拝を終えて次に向かったのは、古墳の上に建っているという愛宕神社である。
住宅街を抜け、先程参拝した円心寺を横目に、10分ちょっと歩くと現れたのが、直径24m高さ4mのこぢんまりとした小山である。これが仲町愛宕神社古墳である。反対側の入り口に回ると、歯医者の駐車場脇に細い参道があり、そこにひっそりと石造りの鳥居が建っていた。
「なあ、この庚申塔ってなんだ。」
駅夫が参道の階段手前に立つ市指定天然記念物の欅の根元に建つ〔庚申塔〕について聞いてきた。
「ああ、これね。これは庚申塚とも言って、庚申講実施の記念に建てられたものだよ。」
お供え物がしてあり、手入れはされているが、年季が入ってかなり黒ずみ、薄らと苔が生えた石碑を見ながら、羅針は続けた。
「庚申講というのは庚申信仰に基づく風習で、人間の体内にいる三尸虫という虫が、庚申の日の夜、人間が寝ている間に、その人間の悪事を天帝に報告するから、それを回避するために、徹夜して、神様を祀ったり、勤行したり、宴会をしたりするんだ。これを一般的に3年18回続けると、この庚申塔を建てるんだ。江戸時代初期ぐらいから始まった風習だって言われてるね。ちなみに勤行ってのは、念仏を唱えることな。」
「なるほどね。年越しみたいなことを2ヶ月に1遍のペースでやってたってことか。」
駅夫が身も蓋もないことを言う。
「それじゃ、身も蓋もないけど、当たらずとも遠からずだな。」
「でもさ、そんなペースで建ててたら、日本中庚申塔だらけじゃなかったのか。」
「確かに、かなりあちこちに建ってたらしいけど、明治になって、政府が迷信だからとか、区画整理だとか言って取り壊したために、相当数が破壊されたらしいね。今残っているのは、その時破壊を免れたものだけだから、江戸時代末期には相当数あっただろうことは自明だね。」
「なるほどね。明治政府が壊したくなるぐらい、沢山あったってことだな。」
駅夫はそう言って庚申塔に手を合わせて、参道の階段を上がり始めた。羅針は苦笑いをしながら、同様に手を合わせて、駅夫について階段を上がっていった。
階段を上がりきると、そこには小さな社殿があり、〔愛宕山〕の扁額が掲げられていた。
愛宕神社が建つこの古墳は、ここから西方約500mのところにある古墳と夫婦塚だといわれ、そちらには寺坂町の天神社があるという。
元々は開善寺の鎮護のために創建された境内社の愛宕神社は、明治の神仏分離の後に無格社となるが、様々な誘いを退け、独立した社として現在も地域住民に信仰されているという。
御祭神は、愛宕大神、天手長男大神、子安稲荷大神の三柱である。
愛宕神社の参拝を終え、その元所属先である開善寺へと、二人は向かう。
このお寺は、臨済宗妙心寺派畳秀山開善寺といい、本尊は聖観世音菩薩で、1591年に、小笠原信嶺の開基により小笠原家菩提寺として建立し、球山宗温和尚が開山した禅寺である。