漆之肆
素朴な味の煮ぼうとうに満足した旅寝駅夫と星路羅針は、煮ぼうとう屋さんを後にすると、次は薬師堂と水藩烈士弔魂碑に向かう。
血洗島の薬師堂は、天狗党浪士2名が岡部藩に葬られた場所で、村民が不憫に思い埋葬したと伝わる。
天狗党とは水戸藩の尊王攘夷派のことであるが、渋沢栄一氏は交流もあった天狗党の浪士のために弔魂碑を建てたという。碑の隣にある石地蔵は、東の家3代目の渋沢宗助らにより建立されたと伝わる。
「ここにも、歴史ありか。」
駅夫が感慨深げに呟く。
「だな。激動の時代、切った切られたは当然あっただろうし、自分たちの信念を貫くために命を懸けていた時代だからな。」
「でも、こうして手厚く葬って貰えて、成仏してるだろうな。」
二人は、時代に翻弄されて、命を落とした烈士に手を合わせた。
二人が次に向かったのは、諏訪神社である
この諏訪神社は、旧血洗島村の鎮守で、元々、深谷城主上杉家である柴崎淡路介がこの地に移り住んだ時に、諏訪社を祀ったものが起源とされる。御祭神は建御名方命で、神徳は武の神である。
入り口に立つとそこには天まで届くと思われるような、長い鉄棒が2本建っていた。今は只の棒であるが、祭りの日には色鮮やかな幟で飾られ、神社の祭典の賑わいに華を添えるのだろう。
石造の一の鳥居を潜り、渋沢栄一氏親筆の神額が掲げられた木造の二の鳥居を潜ると、そこはまるで時が止まったように静寂が広がっていた。
正面には渋沢栄一氏が寄進したと伝わる拝殿があった。左手には手水舎、右手には樹齢何年かは分からないが、巨大な欅がどっしりと聳え立っていた。そして境内を見渡すと、いくつかの石碑がこの神社の歴史を今に伝えていた。
「渋沢栄一氏も幼い頃からここで遊んだんだろうな。友達とかくれんぼしたり、鬼ごっこしたりしたのかな。明治時代の子供たちってどんな遊びをしたんだろうな。」
駅夫が境内を見渡してそんなことを呟く。
「そうだな。小さい頃から、ここで遊び、神様に祈って、獅子舞の練習をして、まさに彼にとってなくてはならない場所だったんだろうな。」
羅針も渋沢栄一氏の幼少期に思いを馳せた。
渋沢栄一氏がどのようにここで過ごしたのかは、二人にとって想像の域を出ないが、幼い頃から祈りを捧げ、友人と遊び、獅子舞を練習したこの場所が、渋沢栄一氏にとっての精神的な故郷であると言うことだけは、確信した。
ましてや、深谷を離れてからも、獅子舞を見に度々帰省するほどだったのだ。この地が彼にとってどれほど心の支えになっていたのか、推して知るべしである。
二人は、そんな彼に少しでも肖ろうと、拝殿に向かい、渋沢栄一氏が築いた日本の礎に思いを馳せ、彼を見守っていた神様が、偉大な人物に加護を与えたことで、延いては今のこの日本を造り上げてくれたことに感謝し、その御加護の一端に預かれればとお願いし、祈りを捧げた。
この諏訪神社は、そう考えれば只の神社ではなく、近代日本を見守った神社であると言っても過言ではないだろう。
拝殿で参拝を済ませた二人は、更に拝殿の裏に回り本殿の前に出る。
二人はもう一度本殿に向かって手を合わせ、渋沢栄一氏親筆の扁額を見る。これまで見た彼の親筆同様、力強さとともに品格のある書風で、彼の為人が垣間見えるように感じた。その筆致は経済人としての緻密さと、文化人としての風雅が融合しているようで、その筆致は美しさだけでなく、彼の思想を如実に表しているようにも感じた。
諏訪神社を後にした二人が次に向かったのは、鹿島神社である。
諏訪神社から徒歩で15分強の道程で、道中に広がる畑は、おそらくネギ畑であろうが、藍玉の生産が盛んだったというので、渋沢栄一氏が生きていた当時は藍畑が広がっていたのかも知れない。
今二人が向かっている鹿島神社とは、創立年代は不明だが、10世紀中半の天慶年間(938年~947年)に、平将門追討の際、六孫王源経基の臣、竹幌太郎がこの地に陣し、祀ったと伝えられる。
畑に囲まれた長閑な雰囲気の場所にある鹿島神社に、汗を薄らと掻きながら辿り着いた二人は、水筒から水分補給をし、汗を拭いてから、境内へと進んだ。
石造の鳥居には注連縄が掛けられ、ここが神の領域であることを参拝者に示し、参道の石灯籠が神の領域に導く道標のように建ち並ぶ。
参拝者を歓迎し、悪の化身に睨みを利かせる狛犬の間を通り、境内に抜ける。
「駅夫、ここに座している2体の動物はなんて呼ばれているか知ってるよな。」
羅針がまた例によってクイズを出す。
「狛犬だろ。もっと言えば、阿形と吽形だろ。もちろん知ってるよ。」
駅夫は得意げに答える。
「流石、おばさんの教えが活きてるな。じゃ阿形と吽形は同じ動物か、それとも違う動物か。」
羅針が更に聞いてくる。
「同じ動物だって言いたいけど、そうやって聞くってことは違うんだろ。」
「当たり。では、何の動物だ。」
「えっ、狛犬って言うぐらいだから、犬じゃないのか。想像上の犬だと思ってたけど。」
「残念。半分ハズレ。」
「だろうな。じゃ、正解は何だ。」
「正解は、獅子、ライオンだよ。元々インドの寺院では獅子を一対設置していたのが始まりで、中国に伝わって唐獅子になり、それが日本に伝わると、阿形と吽形に分かれた上、吽形の獅子を日本独自の狛犬に換えたというのが、現在の狛犬に繋がるんだ。だから、一般的に阿形が獅子、吽形が狛犬ってことだな。もちろん例外はあるからな。」
「なるほどね。渋沢栄一氏も舞ったという獅子舞もそうだけど、神社仏閣に獅子は付きものだったりするのは、その辺も関係したりするのか。」
「おそらくな。仏教には牛や象、鳥、虫、空想上の生物を題材にした様々な教えがあって、獅子もそのうちの一つらしい。仏教では獣偏の獅子ではなくて、師匠の師に子供の子と書く〔師子〕を使ったりするから、教えを請う対象なのかも知れないな。」
「へえ。じゃ、俺も師子から何か学ばないとな。」
駅夫が顎に手を当てて、考えるフリをしている。
「そうか、じゃ、師子に関する話で、こんなエピソードがあるの知ってるか。」
そう言って羅針が話し始めたのは、ライオンとトラと山犬の話である。
山犬はいつもライオンとトラの食べ残したお零れを貰っていたが、ある時ライオンとトラの肉を食べてみたいと思い、二頭を仲違いさせて共倒れさせようと考えた。
山犬は、ライオンにトラが悪口を言っていると告げ口したが、ライオンはそれを一蹴した。今度はトラの所に行き、同様にライオンが悪口を言っていると告げ口をした。トラはそれを聞いて、ライオンに問い質しに行くが、「友を疑い欠点を探す輩は友じゃない、何の疑いもなく身を委ねるものこそ友である。」と言われ、トラはライオンに謝罪し、その後仲良く暮らし、山犬は悪巧みに失敗し、遠い場所に逃げた。と言う話を披露した。
「この話に出てくる、ライオンは知恵に優れ、トラは神通に優れたと言われる、お釈迦様の十大弟子の前世の姿で、つまり、師子は仏教において重要な存在であると言うことを表しているんだ。」
羅針が少し長い話をして説明した。
「なるほどね。で、その話によると、俺たちの友情は、真の友情だって言ってるんだよな。」
駅夫が、ニヤニヤしながら羅針の応えを待つ。
「お前は疑わしいことばっかりだから、真の友情ではないな。」
羅針がそう言って笑う。
「なんでだよ。俺ってそんなに信用ねぇのかよぉ。」
がっかりしたように駅夫は言うが、いつもの様にからかわれているのは分かっている。殴るフリをしつつも、羅針と一緒になって笑った。
境内に足を踏み入れると、まず目に入るのは網に囲まれた欅である。
既に朽木となった今でも、木魂が宿る神木としてそこに根を張り、この神域を見守っている。この欅の根元には今は枯れてしまったが、井戸があり、その神水を利用して共同風呂が設けられていたそうで、そこで渋沢栄一氏の母親が、癩病患者、すなわちハンセン病患者の背を流したと伝えられている。
「やっぱり偉人になる子の母も偉大なんだよな。」
駅夫が欅を見上げて、感心している。
「この母にしてこの子ありって、まさにその通りだよな。翻って自分の母親を見たら、こんな子供しか出来上がらないか。」
羅針が自虐的に言う。
「おいおい、おばさんにぶちのめされるぞ。」
駅夫が殊更恐ろしげにそんなことを言う。
「あのな、ウチの母親を鬼みたいに言うなよ。実際鬼みたいに怖かったけど。」
「だろ、俺何度おばさんに尻ひっぱたかれたか分からねえからな。お袋も嗾けてたって言うしよ。」
「二人して、良く叩かれたな。あれは痛かった。」
幼少期の痛みを思い出し、二人は思わず尻に手をやって、ブルってしまった。
お互いにその姿を見て、二人は声を出して笑ったが、神社の境内だったことを思い出し、二人はどちらからともなく、人差し指を立てて、シーのポーズをして、声を抑えて笑った。
境内右奥には神楽殿もあり、もしかしたらここで渋沢栄一氏も獅子舞を披露したかも知れないと、思いを馳せ、拝殿に向かって参拝する。
参拝後、拝殿、本殿をぐるりと一周し、板張りの壁に覆われた、その荘厳な造りを矯めつ眇めつ、じっくり見て廻った。
「これは神の化身だな。」
裏に回ると足の長い蜘蛛が一匹地面を這っていて、それを見付けた駅夫がそんなことを言って手を合わせた。
「確かに、どこか神々しいな。」
羅針もそれを見て、思わず手を合わせた。
「次は、どこへ行くんだ。」
二人が鹿島神社を出た時、駅夫が聞いてきた。
「次は、尾高さんちだな。」
羅針が巫山戯て言う。
「誰だよ尾高さんて。」
駅夫が疑問に満ちた顔をして聞く。
「わりぃ、尾高惇忠さんだ、〔あつただ〕とも呼ばれるけど、渋沢栄一氏の従兄で、師匠でもある人だよ。」
羅針が笑いながら漸く答えを言った。
「どこの親戚ん家に行くんだと思ったよ。
で、その従兄であり、師匠って言うのはどういう人なんだ。」
駅夫が漸く合点がいき、更に質問する。
「ああ、1830年に下手計村に生まれた人で、通称は新五郎、号は藍香といって、富岡製糸場の初代場長を務めた人だよ。水戸学にも精通していたって聞くから、その影響は渋沢栄一氏にも及んだんだろうな。」
「なるほどね。凄ぇ人だったんだな。で、これが生家か?何にもないけど。」
駅夫が、足を止めた羅針の視線の先を見て、訝しげに言う。
二人が話しているうちに到着したその場所には、建物はなく、土が剥き出しになった土地と、その一角に丁寧に刈り込まれた植木が並ぶだけだった。
そこにある立て看板を見ると、〔旧尾高家 長屋跡〕とある。
と言うことは、ここで間違いないのだろう。そう思っていたが、ふと振り返ると、数名の観光客が道を隔てた向こう側にある旧家へ入っていく。
もしやと思い、そちらへ向かうと、〔渋沢栄一の師 尾高惇忠生家〕と立て看板があった。
「こっちかよ。これじゃ分かんねぇよ。」
羅針は照れ隠しで腐す。
「お前でも、こういうミスをするんだよなぁ。そう言う可愛いところが、俺は好きなんだよな。」
駅夫が科を作って羅針をからかう。
「お前に好かれたって、うれしかねぇよ。」
「また照れちゃって。」
「ほら、行くぞ。」
顔を真っ赤にしながら、羅針は建物の中に入っていく。駅夫はその後を慌てて笑いながら付いていく。
こちらの建物は木造2階建てで、切妻屋根の上に越屋根が付いており、養蚕業も営んでいたことが窺える、立派な日本家屋である。
江戸時代後期に惇忠氏の曽祖父である磯五郎氏が建てたと伝わる。〔油屋〕の屋号で呼ばれ、この地方の商家の趣を残す貴重な建物である。
中に入ると、昔ながらの土間に、上がり框があり、客間がある、典型的な日本家屋の間取りである。土間の奥には、壊れてはいるが、煉瓦造りの竈もあり、ここで煮炊きをしたと推察されるが、煉瓦を使っているあたり、最先端の技術を取り入れた、先進的な思考が垣間見られる。
上に上がることはできなかったが、この土間からでも当時の営みを感じることができた。
土間の奥には、昭和年代に設えたと思われる近代的なキッチンがあったが、それもまた時代を駆け抜けた、この家屋の歴史というものを身近に感じることができた気がした。
土間を抜けて内庭に出ると、2階建ての立派な煉瓦倉庫が建っていた。こういう日本家屋には土蔵が一般的だから、違和感は大きいのだが、先進的なものを取り入れてきた渋沢家一族の思想が、ここにも反映されているようだった。
「祖父が建てた家屋を、尾高惇忠氏がひたすら改造に改造を重ねていったんだろうな。便利なように便利なようにって。」
駅夫が煉瓦倉庫を見上げて呟く。
「だろうな。こんだけ立派な倉庫を建てるのに、どれだけの費用が掛かったか想像もつかないけど、右から左に出せるようなものじゃないから、それなりに考えがないと、おいそれとできるものじゃないからな。」
羅針もこの煉瓦倉庫の造りを見て、いかにこの尾高惇忠氏という人物が最先端のものを取り入れてきたのか、時代を先取りしようとしてきたのかを感じていた。
「これが偶然か、必然か、それとも見栄かは分からないけど、これだけのものを建てる財力と、その決断は、本当に尊敬に値するな。」
「だな。この新しいものを取り入れるその思想が、渋沢栄一氏にも受け継がれて、延いては日本の人々に大きく影響を与えたと思うと、その思想の発露、伝播の源泉がここにあったのかと、そんな気になるな。」
「確かに尾高惇忠氏という人物を師と仰いだとするなら、彼の影響は大きかっただろうからな。なるほど、ここが渋沢栄一氏の思想の源泉になるか。そう言われてみると、見る目が変わる気がする。」
二人は、ここから始まり、やがて多くの思想を集め、激流となって、明治という大海原へ流れ込んでいく、その思想の流れ、思想の伝播に思いを馳せた。