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日本全国鐵輪巡礼 ~駅夫と羅針の珍道中~  作者: 劉白雨
第漆話 本庄駅 (埼玉県)
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漆之弐


 6時。いつもの朝だが、天井が違う。そして隣のベッドにいる人物は同じだが、寝ているベッドも異なる。

 こうして始まった朝は、星路羅針にとって既に日常になりつつあった。

 まずは、バスルームに行って洗顔を済ませ、ノーパソで写真整理と昨日の纏めをする。

 そして、昨日寝惚け眼で遅くまでしていた、今日の計画を再確認する。


 本庄駅周辺には、神社仏閣や旧中山道、そしてハイキングコースや花畑などがある。もちろん、どれも魅力的なのだが、もう一つ隣の市になるが、渋沢栄一しぶさわえいいち記念館がある。新一万円札の新たな顔として、一躍時の人となった人物の記念館は、見ておくべき価値はある。

 羅針としても見ておきたいところだが、ただ場所が、2つ隣の深谷ふかや駅からバスの上、本数も少ない。タイミングによっては半日以上掛かる可能性がある。

 1週間移動しっぱなしで、流石に疲れも溜まってきているし、無理が利く歳でもないので、ここでゆっくりするのもありだが、それは旅寝駅夫と相談の上だ。羅針は、とにかくあらゆる可能性を考えて、計画を練っていくだけである。


 半になり、駅夫を起こす。

「ん~お~は~よ~。」

 寝惚け眼で駅夫が起き出した。いつもの通りだ。

「おはよ。顔洗ってこい。朝食の時間だよ。」

「りょ~か~い。」

 駅夫は、フラフラとバスルームに向かっていった。


 洗顔を終えた、駅夫を連れて、朝食会場に降りてきた二人は、ビュッフェ形式の朝食で、一通り食べたいものを皿に盛った。席に着いて、今後の予定に関する話をする。

「あのさ、今日の予定についてなんだけど、神社仏閣と旧中山道を観光して、次の香登かがと駅に向かうことになるけど、それで良いか。」

 羅針が切り出す。

「もちろん、お前に任せるけど、流石に1週間移動しっぱなしは疲れたな。お前さえ良ければ、1日休息っていうのもありだぞ。」

 駅夫が、羅針の言外を察知したか、そう言う。

「そうか。実はな、2駅隣に渋沢栄一記念館ってのがあるんだ。そこを見に行かないか。ただ、そこに行くと半日掛かりになるだろうから、時間をゆっくり取りたいと思ってたんだよ。」

 羅針がもう一つの計画を打ち明ける。

「渋沢栄一って、あの新一万円札のか。それなら、俺も是非行きたいな。」

 駅夫は一も二もなく応じる。

「じゃ、それで決まりだな。今日はこの後記念館に行って見学してから、ホテルで休む。明日いっぱい本庄市内をゆっくり散策して、明後日の朝出発でどうだ。」

「あのさ、考えたんだけどよ。なんか俺たち急ぎすぎてる感じがするからさ、これからは翌日出発じゃなくて、最低でも丸一日観光日を設けて、翌々日出発ってことにしないか。観光地が多ければ3泊、4泊も良いと思うぞ。なんか、時間に追われてる気がするし、手配するお前も大変だと思うし。もう少し余裕を持っても良いと思うんだ。」

「それは随分楽になるけど、それでも良いのか。」

 駅夫の提案に、羅針も同意するが、駅夫の本心を確認する。

「ああ、もちろん。俺も辛いしな。お互い歳なんだし、ゆっくり行こうぜ、ましてや仕事じゃないんだし。楽しまなきゃ。だろ?」

 駅夫がそう言って、ニカっと笑う。

「そうだな。楽しまなきゃな。」

 今後の方針が決まったところで、二人はゆっくりと朝食に興じた。


 朝食を終えた二人は、フロントで延泊の手続きをし、部屋に戻って、駅夫は貴重品や水筒をリュックに詰め換えて、荷物を軽装にする。

「おまたせ。じゃ、行こうか。」

 準備ができた駅夫が、声を掛け、二人は部屋を後にした。


 ホテルを出て、本庄駅に向かう。

 駅前は、日曜日ということもあり、昨日と打って変わって賑わっていた。

 駅前のロータリーには、大空に向かって飛翔する光や彗星をイメージしたモニュメントがあり、力強さと躍動感を表現しているようだ。あまりの格好良さに二人は思わず写真に収めた。

 ただ、歩道にあった説明板には、本庄市と施工会社の名前はあったが、作者の名前も作品名もなかった。


 本庄駅は、高崎線の駅ではあるが、上野、東京を経由して東海道線に抜ける〔上野東京ライン〕と、新宿を経由して東海道線に抜ける〔湘南新宿ライン〕が乗り入れている。

 1883年に開業したこの駅は、埼玉県本庄市の玄関口として賑わっている、2面3線のホームと橋上駅舎を有した地上駅で、ここ数年は落ち込んでいるが、1日平均乗車人員は1万人近くに達する、郊外型の駅である。


 二人は、改札口を抜け、高崎たかさき線のE233系3000番台に乗る。

 本庄駅を出た列車は、暫く住宅街を走り抜けていたが、小山川こやまがわ志戸川しどがわを渡る頃には田園風景が広がった。

 岡部おかべ駅を出て、住宅街に入ると、まもなく深谷駅に到着する。長距離移動ばかりしている二人にとってはアッという間である。

 10分程で到着すると、改札を抜け北口へと出る。


 この深谷駅は非常に特徴的で、関東の駅百選にも選出されている。

 1996年に改築されたこの駅舎は、赤煉瓦造りの東京駅丸の内駅舎をモチーフにしたデザインで、〔ミニ東京駅〕とも呼ばれている。これは、大正時代に竣工した東京駅丸の内駅舎の建築時、深谷に所在する煉瓦会社で製造された煉瓦が使用されたという史実にちなむという。

 この駅舎は本物の煉瓦ではなく、安全のために煉瓦風タイルを使用しているようだが、その美しさは東京駅に引けを取らない。

 二人は、早速記念撮影をし、あちこちからお気に入りのアングルを探して撮影した。


 バスの時間が迫り、二人は乗り場へと急いだ。

 バス停には、地元の名産である深谷ネギをモチーフにした、愛らしいキャラクターが描かれた、小型のノンステップバスが待っていた。周囲では、その愛らしい装いからか、カメラやスマホを構えた観光客らしき人たちが何人か撮影をしていた。


「このキャラが可愛いのももちろんだけど、緑色って言うのもなんか癒やされるよな。」

 駅夫がカメラを向けられているコミュニティバスを見て、そんな感想を言う。

「確かにな。やっぱり緑って、心を癒やす効果があるのかもな。」

 羅針も同意する。


 二人もバスを写真に撮ってから、乗り込んだ。

 車内は観光客で混み合っていた。渋沢栄一氏が脚光を浴びてから、出身地である深谷市は、様々なゆかりの施設が観光客に開放され、多くの観光客が訪れるようになったようだ。深谷ネギのイメージしかなかったこの地は、今や渋沢栄一氏の生まれ故郷として、一躍脚光を浴びるようになったのだ。


 定刻になり、ゆっくりと発進したバスは、北へと進路を取り、市街地を抜けていく。

 最近整備されたのだろうか、国道17号へと続く道は、大動脈として機能するように、幅の広い歩道が設けられた、真っ直ぐで綺麗な道だった。


 沿道では父親に手を引かれた子供が、バスに手を振っている。それを見付けた駅夫が手を振り替えしていた。

「子供って可愛いな。」

 駅夫が羅針に照れ隠しのように言う。

「まあな。」

 羅針はぶっきらぼうに答える。二人とも独身貴族を謳歌してきたのだから、無い物強請りとは重々分かっていても、どうしても子供の父親に自分を重ねて、羨ましく思ってしまうのだった。ただ、駅夫にはもう一つ別の思いもあっただろうが、羅針はそれについては触れなかった。


 国道17号を越えて暫く行くと、とある交差点で左折した。

 そこから先は住宅街の中を走って行ったために、どこをどう走っていたのかは良く分からない。とにかく住宅街を抜け、視界が開け、福川ふくかわを渡ると、そこは広大な田園風景が広がっていた。おそらくネギ畑だろう、冬の収穫のために畑を休ませているのか、今は何も植えられてはいなかった。


 国道17号のバイパスを渡り、川幅のある小山川こやまがわを渡ると、目的地の渋沢栄一記念館はもうすぐである。

 大きな駐車場の奥に、体育館のような建物が見えてくると、30分弱のバスの旅は終了である。


 この建物は公民館で、今はその一部を渋沢栄一記念館として解放しているようだ。

 建物入り口に入ると、受付があり、見学できるか確認すると、予約が必要な渋沢栄一の講義を聴くことはできないが、資料室だけなら見学可能だと言うことで、無料で入れて貰えた。


 渋沢栄一氏は、1840年に武蔵国むさしのくに榛沢郡はんざわぐん血洗島村ちあらいじまむら、現在のここ深谷市に誕生した、後に〔近代日本経済の父〕と称される人物であり、新一万円札の顔でもある。


 渋沢家は農家として、藍玉あいだまの製造販売と養蚕を兼営し、米、麦、野菜の生産も手掛けていたことから、原料の買い入れから製造、販売までを担うために、子供には商才が求められた。

 渋沢栄一氏が幼少から培われたこの商才は、その後、幕臣に取り立てられ、欧州視察で様々な近代システムを吸収する素地になったと言われている。


 明治元年にフランスから帰国後、学んだことを実践に移し、一つ一つ業績を重ねていき、大蔵省で活躍するまでに上り詰める。

 大蔵省を辞した後は、銀行の設立に尽力し、その後も証券取引所、ガス、水道、造船、製紙、印刷、新聞、保険、鉄道、電力、紡績、煉瓦、ホテル、鉱山、建築などの企業を立ち上げ、関わった企業はおよそ500に及び、ありとあらゆる日本の産業の基礎を造り上げた。


 もちろん、それだけではなく、医療や教育にも力を入れた。

 生活困窮者救済の養育院、年少の長期療養者に対する学校、女子の高等教育を実践するための女子大学を設立するなど、終生運営に心を砕いたと言われ、彼が支援を実施した社会公共事業、教育機関の数は、およそ600にも及ぶと言われている。


 また民間外交として、当時の米国における日本移民排斥運動に憂い、日本人に対する理解を深めるため、現地報道機関に、日本のニュースを伝える通信社の設立を提案し、現在の時事通信社や共同通信社の起源を造り上げたという。


 1931年、享年92、没年91歳で逝去した際は、弔問客が引きも切らなかったと伝えられている。

 明治時代の黎明期から日本の産業勃興に尽力したその業績は、今なお日本の産業会に深々と根付いていて、まさに日本の父という呼び名に相応しい人物であった。


 この渋沢栄一記念館の資料室には、渋沢栄一氏が生きた時代の年表と共に、彼の生い立ちや功績などが、手記、遺品、写真などとともにパネル展示され、その数は150点にも及ぶという。

 パネルの説明は、内容が難しいこともあり、難解な部分も多く、彼のどの功績と、どう関連しているのかが分からず、理解に苦しむ物もあったが、解説員さんに質問しながら一つ一つ紐解くと、それぞれが貴重な資料であり、彼の生きた証であることを実感した。


 駅夫と羅針は、資料を見ながら、ああでもない、こうでもないと一つ一つじっくりと時間を掛けて見ていった。

 彼の業績や生い立ちを知れば知るほど、150点という展示資料を以てしても語り尽くせない程の、彼の業績の大きさに、ひたすら感銘し、感動し、感服した。もっともっと色んなことを見て、知りたいと思ったが、無料であること、公民館の一室を間借りしていることを考えたら、これが限界なのかも知れないのだろう。

 ただ、学びの機会になったことは間違いないので、有料にしてでも、今後もっともっと充実して欲しいと、特に羅針は期待した。


「なあ、なんかちょっと物足らない気がしないか。」

 羅針が少し不満気味だ。

「そう言うなよ。俺にとってはもう頭から煙噴きそうだよ。天才の人生を追体験するのは、俺にとってエベレストに登るようなものだからな。」

 駅夫はもうお腹いっぱいのようだ。

「じゃ、登山を止めて、ハイキングに行かないか。」

「どういうこと?」

 駅夫がキョトンとした目で聞く。

「縁の地を廻って、彼の生きた足跡を見て廻るだけだよ。」

「それなら、良いか。なるほどハイキングね、上手いこと言うな。」

 こうして二人は、結局ホテルに帰って休むことなく、縁の地を見て廻ることにした。


 だがその前に、資料館の、いや公民館の裏手に回る。

 そこには、渋沢栄一の銅像が、赤城山あかぎやまを始めとした、この埼玉深谷の地を遠望していた。

 二人はもちろんここでも渋沢栄一氏と一緒に記念撮影をした。




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