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日本全国鐵輪巡礼 ~駅夫と羅針の珍道中~  作者: 劉白雨
第陸話 太刀洗駅 (福岡県)
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陸之参


 いつも通りの朝6時。  

 星路羅針はアラームが鳴る前に起きた。流石に強行軍が祟っているのか、身体の節々が痛く、身体をよじるたびに骨が鳴っている。

 暫くベッドの上でストレッチをして、身体をほぐした。バスルームに行き、洗面を済ませると、いつもの様にノーパソでカメラのデータを移し、昨日のことを纏め、旅費の精算をする。

 6時半になり、旅寝駅夫を起こし、「ん~お~は~よ~。」と言う彼を、洗面所に向かわせる。

 ここまではいつものルーティーンだ。


 このホテルは朝食が6時半からとあったが、準備ができてからのんびりと向かう。

 朝食会場は、昨日飲んだ居酒屋で、朝食バイキングだった。メニューはビジホの朝食バイキング程度であったが、カレーやシチュー、パンもご飯もあり、自分で作る目玉焼き用のホットプレートは、なかなか斬新なサービスである。おかずもサラダはもちろん和食系、洋食系と一応のものは揃っており、充分満足できた。


 8時半にホテルをチェックアウトし、甘木駅へと向かう。

 この時間にしたのは、羅針がお目当てのもの、そう〔鉄印帳てついんちょう〕をゲットするためである。

 〔鉄印〕とは、来訪者向けに、文字や図案を組み合わせて、押印される印章、およびその印影を指すもので、寺社で授与される御朱印をモチーフに考案されたものだ。そして、その印章、印影を押印するのが〔鉄印帳〕で、御朱印帳の形式を踏襲した蛇腹折りとなっている。全国の第三セクター鉄道等協議会に加盟する鉄道会社、40社が参加している事業で、各社工夫を凝らした鉄印を提供している。


 羅針と駅夫は、御朱印の収集は以前からしていたが、鉄印についてはまったくその存在を知らなかった。

 今回太刀洗駅に来ることが決まった時、甘木鉄道のことを調べた羅針は、鉄印帳の存在を知ったのだ。駅夫にその存在を内緒にしておいたのは、現地でその存在を知ることで行き当たりばったり感を楽しみにしている、駅夫の楽しみを奪いたくなかったためだ。


「俺も買う。」

 案の定、羅針の説明を聞いた駅夫も鉄印帳を買うことに否やはなかった。

「だよな。これから全国廻るんだから、いずれ全部廻ることになるからな。こういう楽しみはドンドン取り入れなきゃな。」

 羅針はそう言って、駅夫と一緒に、羅針は紺の、駅夫は臙脂えんじの鉄印帳をそれぞれ購入し、記帳して貰った。

 

 まだ、列車が来るのに時間があったので、記念撮影をしたり、車両基地に停まっている色とりどりの車両を撮影したりして、駅構内を見て回った。

 時間になり基山行きの列車、AR300形が到着すると、整理券を取って列車に乗り込む。


 昨日は真っ暗で何も見えなかったが、今は明るくてよく見える。生憎()()()()()()()空模様だが、景色を見るには関係ない。

 小石原川こいしわらがわを渡ると、左に線路が見えてきた。西鉄甘木線である。甘木駅から久留米くるめ市の宮の陣(みやのじん)駅までを結ぶ、西日本鉄道の路線である。

 高田駅までは真っ直ぐに進む線路が、田畑の中を突っ切っていて、流石元国鉄の線路だと感じた。用地買収に容赦なかったことが窺える。

 高田駅を出ると、次は太刀洗駅だ、車内放送でビール工場と平和記念館はこちらで降りるようにと案内があり、大きな倉庫のような工場が左に現れると、すぐに太刀洗駅に着いた。


 列車を降り、踏切を渡って、駅舎の外に出ると、二人は昨日暗がりで見たのと印象が異なる駅舎を撮影し、記念撮影をした。

 やはり、正面右上にある飛行機の存在感はでかい。違和感もでかいが。

 一通り撮影した二人は、筑前町立大刀洗平和記念館へと向かう。駅のロータリーからも体育館のような建物が見えていて、そこへ向かって歩き出す。

 

 施設入り口には〔第五航空教育隊 西部第百部隊 空五七三部隊 跡〕と墨書きされた板が掲げられた古い門柱があった。

 説明書きには、昭和14年(1939年)開隊した航空技術兵学校第五航空教育隊の正門である。最大時には6000人の航空技術兵が在籍し、航空機に関わるすべての技術をここで学んでいたという。

 

 敷地に入ると、広大な駐車場の奥に、一際目立つヘリコプターが展示してあった。

 説明書きには、MH2000ヘリコプターとあり、三菱重工業が日本で初めて国産技術のみで制作したヘリコプターだと言う。乗員含め最大10名が収容可能で、衝突回避装置や自動操縦装置を備え、値段はなんと4億円もするそうだ。初飛行は1996年で、名前の2000は西暦2000年を指し〔21世紀に羽ばたくヘリ〕の意味を込めたという。防災、警察、消防、企業のVIP輸送などで引き合いがあったそうだ。


「ちなみに、ヘリコプターってどこで区切るか知ってるか?」

 羅針がまた変なことを駅夫に聞いた。

「そんなのヘリで切るに決まってるじゃん。ほらここにも21世紀に羽ばたくヘリって書いてあるし。」

 駅夫が当たり前だろと言うように答える。

「残念でした。ハズレ。正解はヘリコで切るんだよ。」

「なんでだよ、そんな変な切り方しねえし、聞いたこともねぇよ。」

「そうだな。今じゃ正しく切ってる人は存在しないだろうからな。ただ、正しいのはヘリコ・プターなんだよ。」

「どうせ、お前のことだから、この後長々と説明するんだろ。俺の頭から煙が噴かない程度で頼むぞ。」

「分かったよ。手加減するから。」

「覚悟は決めた。良いぞ。」

「ヘリコプターと言う言葉は、ギリシャ語の〔螺旋〕を意味する〔ヘリックス〕と、〔翼〕を意味する〔プテロン〕を語源とするんだ。このヘリックスに由来する〔螺旋の〕という意味の接頭辞〔エリコ〕と、〔プテロン〕を組み合わせて造った、エリコプテールと言う言葉をこの回転翼機に命名したんだ。だから、切る場所は接頭辞のエリコ、つまり英語発音ではヘリコで切るのが正しいんだよ。」

 羅針が説明を終えると、駅夫は肩で息をしていた。

「そんな、難しい話、俺に理解できるかよ。」

「そうか?難しいところなんて何もないと思うが。」

「お前にとってはな。」

「そう言うなって。」

 駅夫の言葉に、羅針が駅夫の肩に手を置いて言う。

 いつもの茶番である。二人は笑いながら、建物へと入っていった。


 しかし、建物に入った途端、その雰囲気に、二人の笑顔はパタリと消えた。

 館内では静かにしなければいけないという常識に従ったのはもちろんだが、どうしてそう感じたのかは、二人とも良く分からないが、館内の雰囲気が少し重苦しく感じ、笑ってはいけないと、律したのだ。


 館内に入り、入館料を支払うと、床一面に航空写真が広がっていた。どうやら大刀洗一帯の航空写真で、ここにあった大刀洗陸軍飛行場などの施設規模を実感できるようになっている。


 大刀洗陸軍飛行場は、1919年10月に完成した飛行場で、かつて東洋一とも謳われた。戦前は民間機も発着し、市民の足にもなっていた。大戦末期には特攻隊がここから飛び立ち、多くの若者が戦地で散っていった。アメリカ軍の空襲により壊滅するまで使用された、陸軍の航空拠点であった。


 今でこそ日本は国産航空機の製造をほぼおこなっていないが、大戦までの航空機製造技術は世界にも引けを取らない水準だったと言われている。展示されている〔震電しんでん〕や〔零式艦上戦闘機〕により、当時の航空技術についても紹介されていた。


 ここ大刀洗陸軍飛行場では、そういった最先端の航空機を操縦する技術を学ぶため、多くの若者がここにつどったのだ。訓練の成果もあり、優秀なパイロットが多く育っていったという。しかし、大戦末期に始まった特攻作戦により、貴重な戦闘機や人材が消耗品のように使い捨てられていった。

 確実に敵に体当たりさせるために、優秀なパイロットから特攻作戦に駆り出されたという。その若者たちが遺した遺書や手紙が展示され、戦場に向かう彼らの死を覚悟した言葉が、そこにはあった。

 彼らは、今でいう高校生から大学生にあたる歳。将来に夢を抱き、これから人生を謳歌しようとする年齢だったが、国の命令一つでその夢を諦めるしかなかったのだ。


 世界で唯一現存する、零式艦上戦闘機三二型が展示され、そのコックピットをのぞけるようにタラップが設けられていた。二人はタラップを上がり、コックピットを覗き込んだ。

「一人でこれに乗って敵艦に向かっていったんだな。」

 駅夫が何か言いたそうに、呟く。

「確かに、一人でこれから死地に向かっていく、その勇気と、追い詰められた想いは、どんなものだったのか想像を絶するな。」

 羅針もなんと言って良いのか、言葉が続かなかった。

 逃げ出したくても逃げ出せなかったであろう、その追い詰められた想いをヒシヒシと二人は感じていた。


 更に、博多湾で発見された九七式戦闘機も展示されていた。

 これを操縦していたパイロットは、特攻命令を受け鹿児島へ向かっていた途中、エンジン故障で博多湾に墜落したという。なんとか脱出して、漁船に助けられた彼は、その8日後、別の機体が用意されて鹿児島から出撃し、24歳で亡くなったという。特攻命令が取り下げられることはなく、彼の命が生き長らえるという選択肢はなかったのだ。


 こうした特攻で亡くなった人はおよそ四千名と言われている。その平均年齢は21歳。まさに人生これからという世代である。その年齢はあくまでも平均であり、下は14歳からいたそうだ。つまり中学生の世代である。

 これだけ優秀な若い人材をむざむざと無駄にした、戦争というものを憎み、それを指示した軍上層部、そして政治家たちを許してはいけないし、彼らの様な無能な政治家を選出してはいけないんだと、二人は改めて思い知らされた。


 長崎で感じたのは、人々の無力さであった。巨大な破壊兵器の前に、人はなんて無力なんだろうと、それを使わせないような世界を目指さなければいけないと考えた。

 しかし、ここで見たものは、無能な人間に生殺与奪の権を握られることの恐ろしさを、実感した。物資がない中でも、工夫次第でいかようにもやり方はあったはずである。もちろん早期の敗戦選択という道もあっただろう。それをせず、どんな妄想に駆られたのか、最後まで戦い抜くことに固執したのだ。その結果が、これである。

 あまりに愚かで、あまりに粗末で、あまりに稚拙で、あまりに愚鈍で、あまりに暗愚で、あまりに……、言葉に尽くせないほどの痴れ者が、この国の舵取りをしていたのを、まざまざと見せられた気分だった。

 その結果が、広島であり、先日見た長崎の惨状を引き起こしたのだ。


 二人は、彼らの遺書や手紙を読み、長崎での体験も相まって、心に込み上げてくるものが大きかった。筆舌に尽くせないほどの大きな怒りと、悲しみと、無念さが綯い交ぜになった想いだった。

 展示物を見終わった二人は、言葉がなかった。長崎では無力さを感じたが、ここでは怒りしか感じなかった。



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