肆之壱
朝6時。
いつもの通りアラームより先に起きた星路羅針は、上半身を起こして伸びをする。
今日で長崎とはお別れである。
この二泊三日はあまりにも濃い時間だった。重苦しい思いもしたが、美味しいものを食べ、綺麗な夜景を堪能し、歴史を学ぶことができた。なによりも、なかなか行かれない場所にも行くことができたのは、僥倖だった。
そんな風に長崎での滞在を振り返りながら、洗面台に立つ。
鏡に映る顔は、ここ数日歩き通しで疲労の色が少し浮かんでいたが、そんな疲労を忘れる程、このルーレット旅を羅針は楽しんでいた。
洗顔を済ませ、着替えを済ませると、いつものようにノーパソを開けて、写真データの取り込みと昨日のことを纏めた。
6時半。
そろそろ、旅寝駅夫を起こす。
朝食の後、チェックアウトして、いよいよ今日は新潟県の下条駅に向かうのだ。11時間近くに亘る移動が待っている。本来なら飛行機を使えばもっと早く着くのだろうが、この旅は早く移動することが目的ではない。鉄道で移動を楽しむのが目的なのだ。現地での観光は、おまけというか、ついでというか、ご褒美みたいなものである。鉄道に乗るのが好きな駅夫が考えた、贅沢な遊びである。
「ん~お~は~よ~。」
その駅夫が漸く起き出す。相変わらず寝起きは悪い。
「おはよ。そろそろ出るから。顔洗ってこい。」
「りょ~か~い。」
駅夫は、ゴソゴソ起き出して、バスルームに向かった。
7時。
朝食の時間になり、荷物を持って退室する。朝食後戻ってくると、横になって寝過ごす可能性が高いので、そのままチェックアウトするつもりである。
羅針が忘れ物がないか、特にやりがちなコンセント周りを、念入りにチェックする。
部屋を後にし、レストランに着くと、セルフサンドビュッフェに、パンケーキやフレンチトースト、サラダ、スープ、ヨーグルトにドリンクと、昨日の朝とほぼ同じメニューを、ゆったりと楽しむ。
昨日は慌ただしかった上、クルーズに備えて、八分目で抑えていたので、今日は腹一杯楽しむ。駅夫は眠い目をこすりながらも、サンドイッチを3回もおかわりしていた。よほど美味かったのだろう。
8時。
チェックアウトを済ませ、最寄りの電停に向かう。
西浜町電停で、長崎最後の路面電車移動となる、1系統300形に乗り、長崎駅前電停へと向かう。路面電車の前面展望を駅夫は堪能し、羅針も車内の様子や、窓の外に見える景色を目に焼き付けるように眺めていた。色んなことを学び、感じた、この長崎の街に感謝と尊敬とそして敬意を込めて別れを告げるように。
三日間お世話になった24時間乗車券を運転手に提示し、お礼を言って二人は下車をした。
長崎駅に着くと、まずはみどりの窓口に向かい予約したチケットを発券する。
その後、一昨日駅夫と約束したとおり、〔長崎街道かもめ市場〕で買い物をする。
この長崎街道かもめ市場は〔AMU〕という商業施設の一部である。駅に隣接する形で本館、新館とある商業施設とは別に、旅行客や出張客向けに、お土産物を取り揃えているのが、この長崎街道かもめ市場である。
改札口の目の前の駅コンコースに入り口があり、旅行客や出張客はもちろんのこと、じげもんに向けても長崎限定、九州初出店の店舗も軒を並べている。
二人は、取り敢えず一周ぐるっと何があるのか見て回る。
和菓子、洋菓子、カステラ、チョコレートが多く見られるが、豚まんや角煮マン、中華系の小吃や中華惣菜のお店もあり、練り物や海産物、珍しいところでは出汁専門店なんていうのもある。もちろん、様々な長崎の特産品、雑貨、銘菓などのギフトを取り揃えたお土産専門店もあった。
二人は2週目に入り、気になったところへ向かう。と言っても、時間もあまり掛けられないので、お土産専門店に直行である。
良くあるご当地に関連した名前を冠した、中身は同じのお菓子類や、長崎ちゃんぽんや角煮マンなどの冷蔵、冷凍物は避け、移動中の車内で摘まめるものをと探していると、〔カスドース〕という変わった名前のお菓子を見つける。
店員さんによると、カステラのカスにポルトガル語で甘いを意味するドースをつけて命名された、カステラを卵黄に潜らせ糖蜜で揚げた南蛮菓子で、ポルトガルの家庭で伝統的に食されてきたものらしい。
試食を貰うと、甘さが口に広がり、しっとりふわふわな食感もまた良い。まさに〔長崎が近い〕である。
二人は、このカスドースと、長崎銘酒を買い、店を変えて、練り物などのおつまみもいくつか手に入れた。もちろん紙コップを調達することも忘れない。
そろそろ新幹線の時間も迫ってきたので、まだまだ色々見たかったが、切り上げてホームに上がる。
既に新幹線は停車していて、丁度車内清掃の真っ最中だった。例の奇跡の7分だ。
清掃を終えて出てきた清掃員の皆さんは、一礼して立ち去っていった。皆颯爽としていて、その姿はまさにエージェントである。
出遅れた感はあったものの、なんとか席を確保することはできた。
二人が席に着くと、すぐに定刻となり、新幹線は滑るように出発した。
武雄温泉駅までは、トンネルが続くので、羅針はノーパソで書き物を始めた。駅夫はというと、同様にノーパソを取り出して、何やら一生懸命打ち込んでいる。
「珍しいな。」
羅針が、駅夫に何をしてるのか尋ねた。
「ああ、これか。例のブログを書いてるのさ。早速いくつか〔いいね〕も付いたし、地元に来るのを楽しみにしてるってコメントも貰った。」
駅夫がドヤ顔で自慢する。
「へぇ。どんなこと書いてるんだ。」
「たいしたこと書いてないよ、撮った写真を貼り付けて、それにコメント打って、それでおしまい。長崎はボリュームたっぷりだったから、ちょっと多くなっちゃったけど、基本は同じ。」
「そうか。あとで、俺も読もうっと。」
「読んだら、感想聞かせてくれよ。」
「ああ、わかった。」
楽しそうにキーボードを打つ駅夫を見ながら、羅針は懸念していた三日坊主が杞憂で済みそうだと、一安心した。
二人が乗ったかもめ14号は各駅停車だったため、来る時には通過した駅も、一つ一つ停車した。ただ駅といっても新幹線駅なので、構造はほぼ変わらない。そのため、駅名を見なければどこの駅かはほぼ分からない。
駅に着く度に、発車するまで二人は外を眺めるが、今どこに停車しているのかすら、いまいち分かっていなかった。
車内放送で、間もなく武雄温泉駅に到着すると聞いて、羅針は慌ててノーパソを閉じ、バッグにしまった。隣の駅夫はとっくにノーパソをしまっていて、準備万端であった。
武雄温泉駅に着くと、ホームの反対に止まっている885系リレーかもめ14号にそのまま乗り換える。一斉にホームを移動する様は、まさに民族大移動である。
このまま博多へと言いたいところだが、今回は少し変則的な乗り換えをすることにしていた羅針は、あらかじめ駅夫にも説明しておいた。
二人が次に列車を降りたのは、新鳥栖駅である。
新鳥栖駅を降りると、在来線の改札口を抜けて、新幹線改札口へと向かう。この駅は在来線と新幹線が交差する形で隣接しているが、改札口は完全に別々となっているため、一旦改札口の外へ出ることになる。
在来線改札口を出ると、左手にかしわうどんの幟が立っていて、美味そうな匂いがするが、乗り換え時間が13分しかないため、今回は諦める。
立ち食い饂飩を横目に、そのままコンコースをまっすぐ行くと、反対側に新幹線改札口があるので、迷うことはない。
新幹線ホームは待避線のある2面4線で、在来線が2面2線の対面式だったのに比べると、やはり少し立派に感じる。
ホームから博多方面を眺めるとすぐの所に、全長11㎞の筑紫トンネルが口を開けていて、その向こうは福岡県である。
佐賀県には武雄温泉駅とこの新鳥栖駅が新幹線駅として存在するが、博多、新大阪、東京へと直接行ける新幹線駅としては唯一この駅だけである。
「なあ、羅針、佐賀県もさ、プライドあるのか知らないけど、観光客を呼びたいなら、この駅をもっとどうにかしたら良いと思わないか?これじゃ皆スルーしたくなるよ。何にもないじゃん。」
この駅が佐賀県にあると聞いて、駅夫が長崎に向かう列車の中で、なんで新幹線を佐賀県が拒否しているのかという、羅針の話を思い出し、そんなことを言う。
「確かに、これじゃ旅行客を呼ぶって言う気概は感じられないよな。
ただ、商業施設を造ったり、何か箱物を造ったりしたところでたかが知れてるし、今の時代、箱物で集客は難しいから、それもできないんじゃないかな。誘致をしても名乗りを上げる企業がないとか、そんなところじゃないか。サッカーには力を入れてるみたいだけど。」
羅針は、そんな風に想像する。
「なるほどね。この前言ってた、プライドとコストか。難しいもんだな。素人の俺にはやっぱり解決策は思いつかねぇや。」
「まあ、簡単に俺たちが思いつくようなら、とっくに解決してるよ。」
「だよな。こんどルーレットで佐賀が出たら、ゆっくりじっくり見て回ろうぜ。多分良いところいっぱいあるんだろ。俺のブログで紹介したら、一人二人は観光客増えるはずだからよ。」
「一人か二人かよ、もっと増やせよ。」
そう言って二人は笑う。
やがて接近放送とともに、九州新幹線さくら548号のN700系7000が入線してきた。
そのボディカラーは陶磁器の青磁を連想させる白藍色をベースに、紺藍色のラインを金色のラインが挟む形で側面ラインが入っていて、新幹線としては珍しい、今までにない独特の風合いを醸し出している。
車内は赤と青のシートが2列ずつ設置されていた。かなり混み合っていたが、なんとか二人並んで席を取ることができた。
このまま、広島まで乗って行き、広島でのぞみ94号に乗り換える予定である。
二人は、列車が出ると、早速、長崎で買ってきたつまみと日本酒で酒盛りを始めた。紙コップを合わせると、ちびりちびりと飲み、つまみを味わった。
長崎産の魚介で練られた練り物は味も良く、酒に良く合う。少し火で炙りたいところだが、車内なので贅沢は言わない。いや、言えない。だが、それでも充分美味い。
750㎖の瓶は、広島に着く頃には空になっていた。ほとんど羅針が空けてしまった。
広島に着くと、丁度昼時でホームにある駅弁屋の列に並び、広島と言えばの穴子飯を購入し、予定通りのぞみ94号N700Aに乗り換える。
このまま、東京まで一本。振り出しに戻るである。
乗り換えて、広島を出発したら、早速穴子飯を頂く。甘辛のタレが良く合い、ご飯に染みたタレと相まって、上品でありながら、ふっくらとした穴子の身から旨味がじわりと口に広がり、美味かった。
食後のデザートに長崎で買ったカスドースを摘まみ、甘くてふわふわの食感を楽しんだ。
腹が膨れた二人は、先程飲んだ日本酒も相まって、いつの間にか夢の世界へと旅立っていった。
二人が気付いた時には、既に名古屋を過ぎていた。
順番にお手洗いに立ち、用を済ませ、寝惚けた目を覚ます。
今日は、上り列車なので、架線柱以外邪魔な物はない。静岡を過ぎた当たりから、カメラを準備して待つ。
狙うのは、そう、富士山である。今日も雄大な姿を見せ、良く晴れた青空に映えていた。
羅針は一眼で写真に、駅夫はスマホで動画に収めていたが、今回も撮影は大成功である。
平日だったこともあり、撮影会のような鳴り止まないシャッター音にはならなかったが、それでもいくつかシャッター音は聞こえてきた。
富士山が見えなくなると、東京まではもう間もなくである。
広島から3時間54分、長崎から6時間49分の移動がまもなく終わる。
「東京に帰ってきたな。」
駅夫が何十年ぶりに帰京したかのような口調で呟く。
「ああ。っていっても一週間も経ってないがな。」
羅針が、感動している駅夫に水を差す。
「なんか、何十年もいなかったような、そんな感じがする。」
「それは、あれだ、長崎でタイムトリップをしてきたからじゃねぇか。」
「そうかもな。長崎での滞在は何十年も居たと同じくらい濃密だったからな。」
駅夫が、羅針のボケに何の疑いもなく乗っかる。
「あれだぞ、タイムトリップってタイムマシンなしでするもんじゃないからな。そういうのは、追体験って言うんだぞ。」
羅針がボケばらしをする。
「あっ、また引っかけやがった。やられた。」
駅夫が悔しそうにしている。
「まあ、タイムトリップしたような、追体験だったから、お前がそんな風に感じるのも無理はないだろ。」
駅夫が悔しがってるのを横目に、笑いを堪えながら慰める。
「慰めになってねぇよ。笑ってるし。」
駅夫が恨めしそうな目で羅針を見るが、羅針が笑いを堪えているのを見て、つられて吹き出してしまい。二人は声を上げて笑い出した。
列車が東京駅に滑り込むと、次は上越新幹線とき329号に乗り換えである。
東海道新幹線の19番ホームから、上越新幹線の20番ホームへ移動するためには一旦階下へ降りる必要がある。
その上、東海道新幹線から、上越新幹線に乗り換える際には、注意すべき点が一つある。
東海道新幹線はJR東海で、上越新幹線はJR東日本と、管轄が異なるため、乗換には一旦改札を通らなければならないのだ。
更に面倒なことに、東海道新幹線と上越新幹線の間を直接行き来出来るこの乗換改札口は、電子チケットでは利用できないことだ。電子チケットの利用者は、一旦在来線乗換口の改札を出て、在来線コンコースへ出てから、再び新幹線改札口を通らなければならない。スマホなどによる電子チケットを利用してきた者への手痛い試練とも言える。
今回二人は、長崎駅で既に紙の切符を発券してきており、スムースに乗り換えができた。
「それでチケットを発券したのか。」
駅夫が羅針の説明を聞いて、手に持った切符を改めて見た。
「そういうこと。乗り換え時間は19分もあるから、別にどっち通っても良いんだけど、時間の余裕は心の余裕。慌てたら、無用なトラブルを招くだろ。」
羅針はまるで何かの標語のように言う。
「確かにな。」
駅夫は頷いた。
ただ、元々羅針は、この乗り換え時間を使って夕飯用の駅弁を買うつもりだったので、時間が足りるかどうか懸念していたのだ。
しかし、今日宿泊する宿の到着時間が19時を過ぎるため、予約の際夕飯は断ったら、駅への出迎えに加え、夕飯の時間を遅くして貰えると言うことで、お言葉に甘えて、夕飯を用意して貰っているのだ。
もし、夕飯がないと言うことになれば、ここ東京駅、もしくはこの先の長岡駅で夕飯を調達していく必要があったので、それなりに慌てふためくところであったのだ。それが、それをしなくて済んだのは僥倖だった。
無事、上越新幹線のホームに上がると、二人が乗るE7系とき329号も丁度入線してきた。そして奇跡の7分が始まった。清掃が終わるとやはり颯爽と車内から現れた清掃員たちは一礼して去って行った。まさに長崎駅の時と同じ、エージェントのようであった。
二人が乗り込んだのは自由席の2号車である。
比較的空いていたので、2列シート進行方向左側のE席(いい席)を陣取った。
席に着くと程なく列車は滑り出すように走り出した。