参之拾
原爆資料館を見学した旅寝駅夫と星路羅針の心は、重く沈んでいた。
冗談を言い合うことも、軽口を叩くことももちろんのこと、口を利くことさえできなかった。
二人は、暫くベンチに座り、呆けていた。心の整理を付ける必要があったのだ。
そうして、しばらく心を落ち着け、過去の悲惨な歴史と向き合い、心の整理を付けると、二人はどちらからともなく、次に行こうと無言で立ち上がり、原爆資料館を後にした。
平和公園電停から長崎電気軌道1系統200形に乗車した。
二人とも、無言でシートに座り、駅夫もいつもならかぶりつきに行くがそれもせず、運転手に礼を言って、宝町電停で降りた。
歩道橋を渡り、今度は長崎自動車バスに乗り換える。
この旅最初のバス利用である。
長崎自動車株式会社は、長崎バス、長バスとも呼ばれ、市民の足として長崎市内に留まらず、長崎県内を縦横無尽に運行しているバス会社である。
いつもなら羅針の解説が入るところだが、駅夫も聞かないし、羅針も解説をしようとはしなかった。
二人は初のバス移動にもかかわらず、気持ちは沈んだままだった。
稲佐山公園に到着すると、今度はスロープカーと言うものに乗り換える。
この頃には、漸く二人の心も重苦しさが取れ、景色を眺め、スロープカーを楽しむ余裕は出てきた。
スロープカーとは、法律上はエレベーターとして取り扱われる、稲佐山の中腹と山頂を結ぶ乗り物である。森をイメージした内装で、木を模した柱が特徴的な車内と、稜線沿いに運行しているため、眺めも最高である。エレベーターであるためか運転士はのっておらず、ほとんど揺れることなく、静かに山頂まで運んでくれ、乗り心地も悪くは無い。
気が重かった二人も、スロープカーから眺める長崎市内の景色に心を奪われ、窓の外に釘付けになっていた。眼下には動物園の猿山も見え、猿に手を振る気持ちの余裕も出てきた。
8分ほどで山頂駅に着くと、二人はそのまま展望台へと向かう。
展望台の建物に入ると、羅針は螺旋状のスロープを上っていく。眼下に広がる長崎の街は、山の影が徐々に伸び、今まさに夜の闇に包み込まれようとしていた。
「素敵だな。」
駅夫が、思わず声を漏らす。
「そうだな。」
羅針はそう言いながらも、立ち止まることなく、スタスタとスロープを上がっていく。
「待てよ。どこへ行くんだよ。」
駅夫が慌てて付いていく。
「着いたよ。」
羅針の一言に、駅夫が羅針の向こう側に目をやると、レストランがあった。
「まさか、ここで食事するのか?」
駅夫は目を瞬いた。
「ああ。」
羅針は、してやったりという顔で、中に入り、予約していた者であることを伝え、席へと案内して貰う。丁度長崎の市街が見渡せる席に着けたのは僥倖である。
「こんなとこ予約してたのかよ。」
席に着くなり、駅夫が問い質す。
「まあな。折角なら夜景を見ながら食事したいだろ。眼鏡橋でハート石を見つけた褒美のデートだ。」
そう言って羅針はいたずらっ子のように笑った。
「なんだよ。結局俺とデートしたかったのかよ。」
駅夫も、つられて笑った。
さっきまでの重苦しかった雰囲気は、漸く心の底に押しやることができ、二人に笑顔が戻った。
二人が注文したのは、長崎県産の牛肉のコースだ。
二人にとっては、上品すぎるディナーだったが、前菜の野菜から始まり、肉汁のしたたる牛ステーキを堪能し、更に自家製のパンはおかわり自由で、お腹も満足できた。
もちろん、フルボディの赤ワインもお肉に良く合い、食も酒も進んだ。
眼下の街並みはすっかり陽も落ちて明かりが灯り、100万ドルの夜景の名に相応しい光景が広がっていた。
夜景を見ながらの食事は、二人の心に優雅な潤いを与え、先程までの重苦しかった気持ちを胸の奥に仕舞うことが出来た。
最後にデザートのケーキとコーヒーが出て、優雅なデートディナーは終わった。
食事を終えた二人は、屋上に出て夜風に当たりながら、眼下に広がる夜景を心行くまで眺めた。この美しい景色が、これまで歴史の波にのまれ、蹂躙されてきたことを思うと、心が痛くなるが、この美しい景色を見られたことの幸せを噛みしめ、これからもこの景色がいつまでも見られることを、心の底から願った。
「この景色が見られたことは、本当に僥倖だな。」
駅夫が心の底からそう思った。
「確かにな。歴史の〔if〕をすべて潜りに抜けて、長崎市民が勝ち取った景色だからな。その価値は100万ドルじゃ利かないだろ。」
羅針も、感慨深げにそう応える。
「そうだな。俺たちはそのお零れを頂戴しているに過ぎないものな。」
二人は、この二日間で見聞きした長崎の歴史に思いを馳せ、美しい夜景を堪能した。
身体がだいぶ冷えてきたので、そろそろ帰ろうかと、二人は展望台を後にした。
帰りはスロープカーではなく、ロープウェイである。
ロープウェイへの通路は青いLEDで照らし出され、まるで宇宙船の通路のような雰囲気を醸し出していた。
山頂の稲佐岳駅からロープウェイに乗り、下山する。徐々に標高が下がり、街の灯りがドンドン近くなっていく。5分程の空中散歩で、麓の淵神社駅に到着する。
そこから宝町電停まで歩き、路面電車で、ホテルの最寄り駅、西浜町電停まで600形で移動する。
ホテルに着いた時には、二人はともに体力的にも精神的にもくたくたで、すぐにでもベッドに潜り込みたかったが、気力を振り絞って、大浴場へと向かう。
駅夫は、身体を洗いながら船を漕ぐ始末で、羅針はそのたびに駅夫を叩き起こし、身体を洗うのを手伝ってやる。
ほとんど烏の行水だったが、湯船に浸かって、夜風で冷えた身体を温めてから部屋に戻った。
明日はいよいよ長崎を離れる日である。
名残惜しいが、いつまでも長崎に滞在しているわけにはいかない。眠そうな駅夫に活を入れ、ルーレットを回させる。
「よし、それじゃ回すぞ。」
駅夫が自分のほっぺたを両手で叩き、眠気を飛ばしてから、ルーレットを回した。
「ドゥルドゥルドゥルドゥル……じゃん!しもじょう駅で~す。」
「しもじょう駅?場所は?漢字は?」
「新潟県十日町市で、JR飯山線だって。上下の下に、条文の条って書く駅だよ。」
駅夫が羅針にスマホを見せながら言う。
「それ、下条駅な。」
羅針が指摘すると、
「そうとも言う。」
駅夫が誤魔化した。
「ここからだと10時間以上の移動になるな。早く出たところで夕方になるから、観光は翌日にして、明日は移動だけに当てるか?」
羅針がルート検索をして、そう言う。
「ああ、それでも良いよ。何か見所というか、観光地はあるのか?」
「確かここは無人駅だから、おそらく観光地らしい観光地はないと思うぞ。あるとすれば鎮守様とか、古城跡とか、そんなところじゃないか。」
「じゃ、観光は翌日でも良いんじゃね。次の移動先が分からないから、あれだけど、観光してから次に移動しても良いんだし、もし見所満載なら、延泊したって構わないんだしさ。」
駅夫は、そう言っているが、その実、明日の朝はゆっくりとしたいのだろう。
「分かったよ。じゃ、そういうことにするか。朝食を食べて、8時ぐらいに出るか。」
羅針が妥協する。
「りょ~か~い。」
駅夫はもう既に眠そうである。
「じゃ、後は手配しとくから、ゆっくりと休みな。おやすみ。」
「おやすみ~。」
羅針の言葉に、駅夫は返事したと思ったら、既に寝息を立てていた。
羅針はその寝顔を、呆れた顔で一瞥し、早速チケットの手配を始めた。