参之玖
延泊してまで訪れた軍艦島の見学を終えた旅寝駅夫と星路羅針の二人は、気楽な気持ちで訪れたことに少し罪悪感を覚えていた。
ただ、あの島に刻まれた歴史を学び、肌で感じ、思いを馳せることが出来たことは、二人の心に重くのしかかってはいたが、それでも行って良かったと感じていた。
なぜなら、あの島には人間の営みが綿々とあり、確かに人間の歴史が刻まれていたのだ。
あの島で繰り広げられていた日常は、自分たちが今している日常と何ら変わりがなく、その日常が、この日本という国を支えてきたのだという事実が、自分たちも同じように日本という国を、日常生活を送ることで支えているのではないかという気持ちにもなり、二人にとってどこか安心感を覚え、これまで日本を支えてくれた軍艦島の、いや端島の人々に対する敬意で満ち溢れていた。
しかし、そんな気持ちは、腹の虫を鳴らす空腹が、心の奥底へと追い遣ってしまった。
「お昼どうする。長崎市のグルメと言えばちゃんぽん、皿うどん、そして卓袱料理だが、すべて食べたよな。あとは地元グルメと言ったら、地元で捕れた魚介類とか、地元産の肉類とか、そう言うものしかないけど、どうする。」
羅針が駅夫に質問する。
「どこでも良いけど、やっぱり折角なら地元グルメが良いもんな。何かないのか。」
駅夫は地元グルメならなんで良いと言う。
「じゃ、ムツゴロウとワラスボにするか?」
羅針が昨日の話を蒸し返す。
「だから、それは勘弁だって。挑戦するのは吝かじゃないけど、獲れるのは有明なんだろ、そこに行った時にな。」
駅夫が羅針に手を合わせて希う。
「しょうがねぇなぁ。じゃムツゴロウを食べに行こう。」
そう言って羅針は歩き出す。
「まじか、本当に行くのか?あれだぞ、珍味だぞ、地元の人だけの珍味だぞ。」
駅夫が昨日ゲテモノと言って咎められたことを覚えていたのか、一生懸命言葉を濁している。
「だからだよ。珍味、食べてみたいだろ。」
羅針はそう言って悪い顔になり、駅へと向かう。
どこに連れて行かれるのか戦々恐々としていた駅夫は、新地中華街で電車を降りた羅針に慌てて付いていった。
「ここに、例の珍味はあるのか?」
駅夫がビビりながら聞いてくる。
「さあな。着いてからのお楽しみだよ。」
羅針はそう言って、中華街に入っていく。
二人が訪れたのは、一件の中華料理店である。中華料理店としては何の変哲もない店構えである。表のメニュー表には例の珍味の名前は見当たらない。
羅針に続いて駅夫も慌てて中に入ると、テーブル席に通された。
店内は、さして広くはないが、それでも20席ほどのテーブル席が7割方埋まっていた。
店員からメニューを受け取った駅夫は、ざっと一通り目を通す。そこにはムツゴロウの五文字も、ワラスボの四文字も。どこにも見当たらなかった。
その代わり、〔当店一番人気、長崎ちゃんぽん、皿うどん〕と一番最初のページにでかでかとあった。
「謀ったな!」
駅夫が怒りを向けると、羅針はケタケタと笑っていた。
「怒るなよ。美味い地元の〔珍味〕を喰おうぜ。」
羅針はそう言って、腹を抱えていた。
「ったくよぉ!何が珍味だよ!確かに珍味だけど、珍味じゃねぇよ!まじでこの世の終わりかと思ったぜ。」
よほど戦々恐々としていたのか、駅夫は安心して、力なくテーブルに突っ伏してしまった。
「ちゃんぽんと皿うどんで良いよな。他にも何か頼むか。ムツゴロウとか。」
羅針がそう言うと、駅夫は顔を上げてキッと睨む。
「おおこわ。分かった分かった冗談だから。ここにムツゴロウはないから。そうだ、紹興酒も頼もうな。飲むだろ。」
羅針の言葉に、駅夫は渋々頷いた。
羅針は、ウエイトレスを呼び注文すると、まだふてくされている駅夫に、カメラを向けて一枚撮る。
「あっ、撮ったな。」
「お前の両親と親戚一同に見せてやろうと思ってな。」
「それだけは、止めてくれ。頼むから。……分かったよ。降参。お前にかかると何やってものらりくらりと躱される。」
「俺に勝とうなんて、永遠に1秒早いんだよ。」
「なんだそれ。1秒ならすぐ……って永遠に来ないってことじゃないか。」
「気付いたか。」
また、羅針は悪そうにケタケタ笑い、駅夫は悔しそうにしていた。
程なくちゃんぽんと皿うどんが運ばれてきた。
昨日食べたちゃんぽんと比べても遜色なく、当然のことではあるが、やはり店によって具材や味が微妙に違うのが嬉しい。昨日は鶏ガラスープがベースだったが、こちらは一般的な豚骨スープだが、チェーン店の味とも違い、濃厚でいてあっさりとしたスープが麺や具材に良く絡み、美味かった。
皿うどんにしても、具材のとろみ具合が若干さらさらしていて、醤油系の味付けがされていたので、こちらは王道とは違う皿うどんを楽しむことができた。
紹興酒を含みながら、二人はちゃんぽんと皿うどんをシェアし、味わった。
「ここも美味いな。良くこんな所知ってたな。」
駅夫も漸く機嫌を戻していた。
「全部ネット情報だよ。当たりの情報を引き当てるのが面倒くさいけど、慣れれば大抵当たるようになる。」
羅針が、ドヤ顔で言う。
「流石だな。で、この後はあそこか。」
駅夫が次に行く場所を確認する。
「そう、長崎に来たら行くべき場所。いやべきじゃなくて、行かなければいけない場所だな。」
二人は店を後にすると、再び新地中華街電停に戻ってきた。
長崎電気軌道1系統に乗って向かうのは、平和公園電停である。300形に揺られて、17分程で到着する。
交差点を渡ると〔平和公園〕と書かれた石碑に、エスカレーターと階段が併設された入り口が現れた。石碑の前で記念撮影しようと駅夫が誘ってきたので、二人でいつもの通り記念撮影をする。
階段でおよそ100段ほどのかなり長いエスカレーターを上がると、そこには大きな噴水が現れた。〔平和の泉〕と言われるもので、水を求めながら亡くなった原爆犠牲者の冥福を祈り1969年に造られたそうだ。
噴水の前に設置された石碑には〔あの日のある少女の手記〕が刻まれていた。その言葉は、痛々しいとか悲惨なんて言葉で言い表せない、魂の叫びが、生きたいという生への渇望が刻み込まれていた。
観光客は誰一人として、その言葉に目を向けることなく、噴水の美しさに目を奪われ、記念撮影だけして立ち去っていた。
二人は、大浦天主堂でのこともあってか、その石碑の前で暫く佇んでしまった。短い言葉を何度も噛みしめるように読み返し、この少女の苦しみが幾許のものだったのか、想像を絶する苦しみに、涙が溢れた。
どちらからともなく促すように、先に行こうと歩を進めた。
噴水を通り過ぎると、その先には、母親が子供を抱いた姿で、愛とともに平和を表現した〔平和像〕、女性が男の子を両手で差し上げ、母親と子供の喜びを表現した〔人生の喜び像〕、平和と人類の幸せな未来、そして諸国民友好を求める努力を象徴した〔諸国民友好の像〕、食べ物や水、赤ん坊を運ぶための器であるピティが作られる木と、そのピティを平和と調和のために家族、コミュニティ、そして国同士により分かち合うことを象徴した〔生命の木:平和の贈り物像〕、そして、軍需工場で働いていた動員学徒、女性挺身隊と呼ばれた中学生や女学生を始め、多くの人々の死を悼んで作られた〔長崎の鐘〕が並んでいた。
どの像も、被害者への哀悼と未来への希望が象徴されていたが、その姿はなぜか痛ましく、悲しみを湛え、二人とも心が苦しくなった。
先に進むと、広場の奥にあの有名な〔平和祈念像〕が鎮座していた。
右手を天に向け、左手を水平に翳すその姿は、平和の象徴としてそこにあった。像の周囲には水が湛えられ、犠牲者が心から欲していた水を捧げているかのようだった。
〔右手は原爆を示し、左は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈る〕と作者の言葉が刻まれ、戦争の悲惨さ、愚かさ、そして平和の重要性を訴え、人類の希望の象徴となるよう、作者の願いが込められ、像はそこに静かに座っていた。ただ、左足だけが、戦争を起こす愚かな人々に対し、怒りを示しているようにも感じられた。
二人とも、テレビやネットで何度も見ているこの像に、暫く釘付けになっていた。
その迫力はもちろんのこと、像の持つ慈悲とともに感じる静かな怒りに、心が奪われていた。まるで子供の頃、悪さをして父親に睨み付けられて、永遠とも思える時間、説教をされた時のような、そんな気持ちになっていた。
二人とも思わず手を合わせていた。ただ安らかに、そして平和が続くようにと。
二人は長い祈りを捧げたが、気持ちは満足していなかった。いつまでもいつまでも祈っていたかった。それほど、二人の心には悲しみが訪れていたのだから。
しかし、その気持ちを振り切るように、祈りを止め、後ろ髪を引かれるような思いでその場を離れた。
二人は公園内に設置された、様々な像やモニュメントを見て回り、入り口へと戻ってきた。気付けば二人とも入り口で記念撮影した以外、結局一枚も園内で撮影をしなかった。しなかったのではない、できなかったのだ。
平和公園を出た二人は、通りを挟んで反対側にある、爆心地公園へと向かった。
爆心地公園は、一見何の変哲もない公園だったが、そこに設置されたモニュメントに〔原爆殉難者名奉安〕とあり、ここがかつて原爆が投下され、多くの人が犠牲となったその中心地であったことを物語っていた。
二人はここでも手を合わせ、祈りを捧げた。
このモニュメントの横には、レンガ造りの塔に人形が乗ったモニュメントがあった。
これは、塔ではなく、爆風で崩れ落ちた浦上天主堂の南側遺壁の一部を移築したものだという。迫害を受けていた信徒が漸く信仰の自由を得て、貧困に苦しみながらもやっとの思いで建立した浦上天主堂が、一瞬のうちに崩れ落ちた。彼らの無念たるや幾許のものだったのか。
その無念と、平和への渇望が、このモニュメントからヒシヒシと伝わってくるのだ。
二人は、平和公園、爆心地公園を見ている間、ほとんど会話らしい会話をしなかった。いやできなかった。戦争の悲惨さ、歴史の重み、そして今ここにある平和がどれほど尊いものか、どんな言葉を尽くしても、陳腐な言葉にしかならない気がして、何も言えなかったのだ。
言葉の代わりに出てくるのは、ただただ涙だけだった。
二人は爆心地公園を後にすると、その足で原爆資料館へと向かった。
気が重くなっていた二人だったが、ここまで来て見ないわけにはいかない。
足取りも重く、建物に入り、ロビーを抜けると、螺旋状のスロープがあった。ここを降りると入り口があると言う。
二人は案内に従って、スロープを降りると、壁に4桁の数字があった。
2000から始まり、5ずつ減っている。最初何の数字かと思ったら、西暦を表していて、カウントダウンして時間を遡っているのだと気付く。
1970の数字を過ぎたあたりから、折り鶴の鎖が続いていた。オランダの芸術家マナ・オリ氏の寄贈とある。一枚の紙で折られた無数の鶴は、まさに人と人とを繋ぐ平和の鎖を象徴しているようである。
数字が1945になると、いよいよそこは展示室の入り口である。
チケットを購入し、中へと進む。
展示室は〔長崎を最後の被爆地に〕の文言で始まった。
この言葉は、長崎市民のみならず、日本人の願いであり、延いては世界の人々の願いでもある。
そこには11時2分で時を刻むのを止めた柱時計が展示してあった。
爆心地から約800m離れた民家にあったものらしい。犠牲者たちはこの時計のように1945年8月9日11時2分で時は止まってしまったのだ。
展示は、まだ長崎に日常があった頃に遡る。
この長崎という土地は、旧石器時代から人の住んでいたことが、遺跡の発見により判明している。九州は大陸、半島との交流もあり、魏志倭人伝の時代から歴史の表舞台に登場した。遣隋使や遣唐使もここ長崎から旅立ったと言われている。しかし、遣唐使が廃止されると、戦国時代に至るまで長崎が表舞台に現れることはなくなった。
ポルトガルとの貿易が盛んになり、1571年ポルトガル船が長崎港に来航したことで、長崎は表舞台に再び現れ、世界にその名が知れ渡ることになったのだ。
江戸時代唯一の海外窓口として、明治以降は貿易と造船、軍事の拠点として栄えていった。車や路面電車が走り、所狭しと住宅が建ち並び、確かにそこには日常を送っていた人々が存在したのだ。
その長崎に、あの夏の日が訪れた。
巨大なきのこ雲。
その下で日常を送っていた人々がどんな目に遭ったのか、雲の下の事実が次々と展示されていく。忘れてはならない、伝えなければならない真実として。
二人は言葉もなく、一つ一つの展示を丁寧に見ていく。
爆風で吹き飛んだ建物の残骸、熱線を受けて折れ曲がった鉄骨が展示され、更に、黒焦げになって横たわる人々や、被曝して苦しみ亡くなっていった人々の映像が、次々に二人の心を押し潰してく。
その一つ一つが惨たらしく、痛ましく、80年が経とうとする現在にあっても、その一つ一つから叫び声が聞こえてくるようである。
今の時代、テレビやネット、その他の媒体に、人の死が映像として映し出されることはほぼない。死という文字ですら忌避されるこの時代、身内が亡くならない限り、死というものを目の当たりにすることはないこの時代である。
しかし、二人の目の前には無辜の民が、たった一発の原子爆弾で殺されたその事実が、隠されることもぼかされることもなく、死というものを、真実として、ありのままに展示してあった。
そして、展示はなぜ原子爆弾が落とされるに至ったのか、その経緯が示されていた。
更には、落とされた物がどんな物で、どれだけの威力があったのか、物的証拠、科学的検証によって、その恐ろしさを伝えていた。
街は爆風と熱線、そして火災によって大きな被害を被ったのだ。当時長崎の街はどうなってしまったのか、映像や遺物によっても知ることができた。
放射線の被害についても丁寧に解説されていた。
被爆した人々の症状を映像と文章で詳しく解説し、放射能の恐ろしさを伝えていた。
その影響は被爆した本人だけではない。その子供たちにも少なくない影響があったという。ケロイド状に爛れた皮膚や、抜け毛に収まらず、白血病や癌に苛まれる人々の苦しみは幾許のものだったのか。被爆者は今でも苦しんでいるというこの事実を、忘れてはいけない。
展示は、救援救護に入った人々の活動の様子から、犠牲者たちの手記や証言もあった。そこには、読むに耐えない内容の、彼らの心の叫びが、魂の叫びが、直筆の手記として展示されていた。
続くコーナーでは、日清日露の戦争から始まり、日中戦争、太平洋戦争を経て、現在の核兵器開発の現状に至るまで、その歴史が丁寧に解説されていた。
我々日本人はいかにして愚かな戦争をし、愚かな結末を迎えたのか。時代の流れと一蹴してしまえばそれまでだが、そこには回避すべき〔if〕が数多くあったはずである。その〔if〕を教訓に、これからの世界の平和を日本は率先して担っていかなければならないはずである。
最後に、世界から核兵器がなくなる日まで、長崎市はこれからも努力を続けていくという決意表明で、展示は終わった。
二人とも、言葉はなかった。何も発することができなかった。
涙を堪えることさえできなかった。
あまりに悲惨で、あまりに凄惨で、あまりに惨たらしく、あまりに悲しく、あまりに痛ましく、あまりに……。筆舌に耐えがたい思いが二人の心には去来していたのだ。
出口に立った時には、3時間近くが経とうとしていた。
この3時間は、二人にとってはあっという間だったが、二人が見たあの日の出来事は、80年経った今でも、犠牲者を蝕み続けているのだ。
傾き掛けた陽射しが、二人の心を明るく照らしてくれることはなく。あの日、あの時、犠牲となった人々が、見ることの叶わなかったこの景色を、今自分たちが見られていることに感謝し、改めて犠牲者に哀悼の意を捧げることしか、二人にはできなかった。




