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日本全国鐵輪巡礼 ~駅夫と羅針の珍道中~  作者: 劉白雨
第拾陸話 南魚崎駅 (兵庫県)
197/198

拾陸之廿陸


 谷崎潤一郎氏の旧居、倚松庵いしょうあんを見学中の旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、細雪の紹介ビデオを見た後、食堂へと移ってきた。

 部屋の中央には六脚も椅子があるには少し小さく感じるテーブルがあり、良いテーブルなのだが、ここでどんな食事を摂っていたのかと考えると、少し侘しさを感じてしまう。


 昭和初期の設えというと、兎角質素で、贅沢は敵だみたいなものを想像してしまうが、この倚松庵は贅を尽くしたとは言えないまでも、質素の美というか、華美さはなくとも贅沢な設えが其処此処に点在していた。


「ホント、細雪のイメージそのものですね。どれをとっても素敵です。」

 平櫻はそう言って調度品やら天井、床に至るまで、矯めつ眇めつ見とれていた。

「なるほどね。これが細雪の世界という訳か。二人が夢中になるのもなんとなく分かる気がするよ。」

 細雪の紹介ビデオを見た駅夫も、どうやらその世界観の美しさに気付き始めたようだ。

「なんか良いだろ。戦争前夜の世界観だからさ、余計に社会の高揚感と儚さが滲み出ているようなそんな舞台なんだよね。そのイメージがぴったりなんだよここは。」

 羅針が少し高揚して語る。

「なるほどね。」

 駅夫は、羅針の高揚とは対照的に、同じ言葉しか出てこなかった。


「旅寝さん、この照明を見て下さいよ。この時代のこの緑色の照明が、昭和レトロって感じがして良いと思いませんか。大正時代のハイカラ感を踏襲しながらも、少し洗練されたデザイン美ですよね。シンプルな作りなのにそこに美を感じさせるって、凄くないですか。」

 平櫻も少し興奮気味に駅夫に語りかける。

「なるほどね。」

 圧倒され、若干引き気味の駅夫の口からは、やはり同じ言葉しか出てこなかった。


 壁には、窓から見える庭についても解説板があり、細雪に描かれた庭木をできるだけ忠実に再現したという庭は、まさにイメージそのもので、先程見た玄関前の庭もそうだったが、幽暗で落ち着いた雰囲気があり、松の大木や、栴檀せんだん、桜、小手毬こでまり、ライラックなども植えられていた。


「戦争へ突入していく社会の高揚感に当てられた心を、この庭を眺めて癒やされていたのかもな。」

 羅針は、窓の外を眺めて呟く。

「そうですね。時代に翻弄されていく彼らの心情が、ありありと浮かびますね。」

 平櫻も羅針の隣に立ち外を眺めた。

「そんな時代でも日常生活は繰り返される。国はドンドン戦争へと突き進んでいくのに、食事をして、執筆して、団欒して、日々の生活を繰り返す。ただただ繰り返していたのか、それとも繰り返さなければいけなかったのか、いずれにしても抗えない時代の波に呑み込まれていくその心情は、確かにありありと浮かびますね。」

 羅針はそう言って、平櫻の言葉を自分なりに解釈した。


 駅夫はそんな二人の様子を、微笑ましげに見ながらも、付いて行けない自分に少し嫌気が差した。

 羅針の背中が遠く感じたのは、気のせいだろうと、頭を振り、そこにある解説板を何度も読み返した。


 次の和室へと移動した三人は、その縁側の奥にある薄暗い部屋に感嘆した。

「こういう部屋は良いなぁ。なんか落ち着くって言うか、日がな一日そこの縁側で茶でも啜りながら、庭を眺めてぼぉーっとするなんて、贅沢の極みじゃね。」

 駅夫が開口一番楽しそうに言う。

「お前らしいな。確かに、こんなところで、茶なんか啜った日には、骨抜きにされちまうな。」

 羅針もそう言って苦笑する。

「良いですね。私もそんな一日を過ごしてみたいですね。」

 平櫻も羨ましそうに言う。

「おいおい、平櫻さんはまだ若いだろ、そんなのに憧れる歳でもないだろうに。」

 駅夫が笑いながら言う。

「えええええ、でも、良いじゃないですか。私だって骨抜きにされたい時だってあるんですから。」

 平櫻が反論する。

「骨抜きにされたいって。おいおい。」

 駅夫が意味深な表情で窘める。

「駅夫、それ以上はダメだぞ。」

 羅針が駅夫を窘める。

「えっ、何がですか。」

 平櫻は二人が何を気にしてるのか分からず、首を傾げていた。


 座卓が置かれた四畳半の和室は、板の間に床の間もあり、縁側も付いているので、薄暗いことを除けば、狭苦しさもなく、快適な居心地で、三人はしゃがんでその和室から見える景色を楽しんだ。


「やっぱり、和室は目線を下げてこそ、その良さが分かるよな。」

 駅夫が言う。

「だな。和室そのものが床に座ることを前提に造られているからな。低い視線を意識してるのかもな。」

 羅針が応える。

「確かにそうですね。そんなこと考えたこともありませんでした。座った時に心地よく感じるのは、そう言う設計思想があるんですね。」

 平櫻が感心したように言う。

「いや、あくまでも私の意見ですからね。それを考えて設計してるかどうかは知りませんから。」

 羅針は慌てて否定する。

「いや、きっと星路さんの言うとおりですよ。私もその意見に一票入れます。」

 平櫻はそう言ってニコリと微笑む。

「そう、それはありがとうございます。」

 羅針はあまりの熱量に押され、たじろぎながら苦笑した。


 和室を後にし、廊下の奥にある階段を登って、三人は二階に上がった。


「駅夫、これが細雪の冒頭の句だよ。」

 羅針は二階の廊下に架かる説明板に書かれた文章を指差して言う。

 そこには細雪の冒頭、次女の幸子さちこが四女のこいさん、妙子たえこ白粉おしろい塗りを手伝って貰うシーンが書かれていた。

「あっ、さっき言ってた、こいさん。なるほどね、こうして始まるのか。この文章だけで姉妹の関係性がありありと浮かんでくるな。流石文豪と言ったところか。」

 駅夫が感心したように言う。

「そうですよね。この冒頭から、もう引き込まれてしまうんですよ。この幸子が丁度私のポジションで、妙子はウチの美音なんですよね。あの子に白粉を塗らせてると思うと、もうおかしくて。」

 そう言って平櫻は一人クククッと笑っていた。


「このお姉ちゃんとんでもないこと企んでるな。」

 駅夫はぼそっと羅針に耳打ちする。

「だな。美音さんが不憫だな。」

 羅針もそう言って笑いを堪える。


「もう、二人で何を内緒話してるんですか。」

 二人の様子に気付いた平櫻が問い詰めてきた。

「何でも無いよ。」

「何でも無いですよ。」

 駅夫と羅針は慌てて否定する。

「ホントですか。また良からぬ事考えてないですよね。」

 平櫻は更に詰めてくる。

「またって、人聞きの悪い。なぁ。」

 駅夫はそう言って羅針に同意を求める。

「まあな。でも、駅夫、お前の日頃の行いが悪いからでもあるんだぞ。」

 羅針はそう言って駅夫を突き放す。

「なんだよ、お前もそっち側かよ。汚ぇなぁ。」

 駅夫が悔しそうにしている。

「星路さんもですよ。旅寝さんを隠れ蓑にしてもダメですからね。」

 平櫻が羅針を窘める。

「へっ、ざまぁ見ろ。」

 駅夫がドヤッている。

「もう。」

 収拾付かなくなった二人に、平櫻は呆れた声を上げ、堪えられずに笑い出してしまった。

 駅夫と羅針も堪えきれずに笑い出した。


 茶番を終えた三人は、冒頭の舞台となった八畳間へと足を踏み入れる。

 一階の和室とは雰囲気の違う、大きな窓が設えられた、明るい部屋だ。ガラス窓から見下ろす庭は雨上がりのしっとりした瑞々しさを湛え、まるで三人に手を振る観客のように、青々とした庭木が生き生きと海風に揺れていた。


 隣の六畳間は資料室になっていて、倚松庵の歴史や、遣り取りした手紙、本などが展示されていた。歴史的価値のある資料ではあるが、閉館時間も迫っているので、あまり詳しく見ることは出来なかったが、家主と揉めた遣り取りなんかも展示されていて、ある意味谷崎氏の黒歴史が残されていた。


「谷崎潤一郎氏が細雪を書く舞台を探していた時に、大家であるこの家の家主と話を進めていたんだけど、彼がこの家を気に入ってしまい、家主を追い出してしまったんだよね。」

 羅針が手紙を見て解説する。

「えっ、それって大丈夫なの。」

 駅夫が驚いたように言う。

「まあ、大丈夫ではないんだけど、家主もなんだかんだで結局折れて、谷崎氏に貸すつもりだった借家の方に引っ越して、ここを彼に貸したらしいよ。」

 羅針が補足する。

「マジで。凄ぇな、豪胆というか、何というか。今なら炎上ものだな。」

 駅夫が感心したように言う。

「だな。モンスターカスタマーってヤツだ。でも、作品のためには妥協しなかった、彼の意地というか、作家魂に火が点いたんだろうな。あんまり褒められたことじゃないけど、そのお陰で、細雪という名作が生まれたんだから、家主には悪いけど、ここに谷崎氏を住まわしてくれてありがとうって感じだな。」

 そう言って羅針が呆れたように笑う。


「でも、こんなのが、後々まで残って、人々の目に晒されるなんて、恥ずかしくて堪らないですよね。私なら、もう一回羞恥心で死ねますね。」

 平櫻が冗談半分で言う。

「確かに、そうだね。俺もこんなの晒されたら、化けて出るな。」

 駅夫がお化けの手つきで言う。

「まあ、人生の恥部は、死ぬ前にデリートしておけって教訓だね。」

 羅針はそう言って笑った。


 三人は閉館時間ギリギリまで、見学を堪能した。

 どこをとっても和風建築の良さがありながらも、洋風の要素がちりばめられているのが、三人はとても気に入った。記念撮影をしたり、モデル風にポーズを決めて写真を撮ったりして、心ゆくまで楽しんだ三人は、受付の女性にお礼を言って、倚松庵を出た。


「このさ、外壁が板張りって言うのも良いよな。」

 駅夫が改めて倚松庵を振り返って見る。

「多分、焼き杉だろうな。和風建築でありながら、独特な雰囲気を醸し出しているのは、この焼き杉のせいかもしれないな。」

 羅針が言う。

「木の香りが、ホントに良いですよね。落ち着くというか、癒やされるというか。確か、佐渡島には焼き杉の塀が有名な場所があるんですよね、そこも一度行ってみたいんですよね。」

 平櫻が遠い目をする。

「佐渡の宿根木しゅくねぎ地区ですね。あそこ良いですよね。古い町並みが残されていて、絵になるんですよね。私も行ってみたいですね。」

 羅針が言う。

「佐渡島にそんなところがあるんだ。今度行こうぜ。」

 駅夫が乗り気になる。

「でも、佐渡島に駅はないぞ。」

 羅針が残念そうに言う。

「良いよ、新潟かどっかそこら辺を引いたら、ついでに佐渡も行けば良いじゃん。何でも臨機応変だぜ。ねっ。」

 そう言って駅夫は平櫻に同意を求める。

「そうですね。臨機応変ですね。」

 平櫻はそう言って頷く。

「分かったよ。じゃ、運任せで、新潟が出たらな。」

 羅針はそう言って苦笑した。


 三人は、倚松庵をもう少し愛でていたかったが、再びポツリポツリと降り始めた雨に、後ろ髪を引かれながらも、駅へと向かって歩き始めたのだった。


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