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日本全国鐵輪巡礼 ~駅夫と羅針の珍道中~  作者: 劉白雨
第拾陸話 南魚崎駅 (兵庫県)
196/197

拾陸之廿伍


 どんよりとした空模様の、雨の止み間に旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は倚松庵いしょうあんに辿り着いた。


 石垣の上に生垣が設えられて、中を窺い知ることは出来ない造りにはなっていたが、生垣の上から覗く、二階建ての木造建築は、瓦葺きのしころ屋根が架かった純和風建築で、手入れの行き届いた沢山の庭木が顔を出していた。

 周囲のコンクリート建築のマンションからは少し浮いて見えたが、そこだけ時が止まったように、静かで穏やかな空間だった。


 この〔倚松庵〕は、松に寄りかかる家という意味を持つ、文豪谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう氏の旧居であり、1936年11月から1943年11月の7年に亘って氏が住んでいたと言われる。


「ちなみに、この倚松庵の松の字は夫人の松子まつこさんに由来していて、妻に寄りかかる家っていう意味にもなっているらしいよ。」

 羅針が説明する。

「へえ、奥様の名前に由来するなんて、奥様愛されていたんですね。」

 平櫻が羨ましそうに言う。

「愛されたければ、自分も愛さないとね。まあ、愛したところで、愛されるとは限らないけどね。」

 駅夫がポツリと言う。

 それを聞いた平櫻は、そうだけどと思って反論を口に仕掛けたところで、旅寝の過去に思い至り、反論するのを止めた。

 羅針もこの時ばかりは軽口を叩かなかった。


「それにしても、谷崎潤一郎氏も目の前にこんなものが建ったと知ったら、ひっくり返るだろうな。」

 羅針は話を誤魔化すかのように、話題を変え、頭上を走る六甲ライナーの線路を見上げた。

「本当ですね。この建物って、当時からここにあったんですか?」

 平櫻が羅針の意図を汲み取って、話に乗る。

「いや、元々は住吉駅近くに建っていたのを、六甲ライナーが建設されることで、景観悪化や地盤脆弱などの問題があるからと反対されてたんだけど、結局建設が強行されてしまったために、ここに移転してきたみたいですね。」

 羅針が答える。

「そうなんですね。」

 平櫻が相槌を打つ。

「そう、でも、結局専門家の言うことを聞かなかった六甲ライナーの橋脚は阪神淡路大震災の時に損壊して、移転してきたこの倚松庵は無事だったんだとか。まあ、何というか皮肉な結果になっちゃっいましたよね。」

 羅針が更に補足する。

「へえ、そんなことがあったんですね。まるで、日本昔話みたいな話ですね。正直じいさんと意地じいさんみたいで。」

 平櫻はそう言って苦笑する。


「そうですね。日本昔話が取り上げそうなテーマですね。むかーし、むかし、六甲には正直者の市民と、意地悪な鉄道会社があってなぁ。みたいな感じで。」

 羅針はそう言って笑う。

「正直な市民は、意地悪な鉄道会社に忠告しましたが、聞く耳を持ちませんでした。って。」

 平櫻もそう言って笑う。

「心を入れ替えていると良いけどな。」

 二人の話を聞いていた駅夫がぼそりと口を挟んだ。

「確かにな。まあ、心を入れ替えたかどうかは、本人たちと、神のみぞ知るってことだな。」

 羅針が苦笑して言ったが、駅夫の内心を思うと、それ以上の軽口は叩けなかった。


 丁度その時、三人の頭上を六甲ライナーの車両が、ゴォーっという音を立てて通過していった。

 車両を見送った三人は、倚松庵に上がる石段を上がった。


 質素な造りの冠木門かぶきもんの前で、羅針は立ち止まり解説を始めた。

「谷崎潤一郎氏は、1886年に生まれて1965年に没した、昭和を代表する小説家で、ノーベル文学賞にノミネートされたこともあるんだよ。代表作は〔細雪ささめゆき〕〔陰翳礼賛いんえいらいさん〕〔刺青いれずみ〕〔春琴抄しゅんきんしょう〕などがあって、特に〔細雪〕はこの倚松庵に住んでいた時に書かれたみたいで、一緒に語られることが多いんだよね。

 ほらそこの石碑にも書いてあるだろ、この庵には妻松子さんの妹二人も寄寓していて、戦争の暗雲が立ちこめる中、この庵を舞台に〔細雪〕が生み出されたって。」


「へえ、ここがねぇ。」

 駅夫が冠木門から中を覗き込み、感心したように言う。


 冠木門を潜り一歩中へ入った三人を、植木が覆い茂る幽暗な庭と、玄関へと続く石畳、そして腰付き障子戸の開き扉が出迎えてくれる。

 植木は朝からの雨でしっとりと濡れ、雨が止んではいるが、色鮮やかな緑の葉から時折水滴を落としていた。


 玄関を抜けると受付があり、入館者名簿に記名した。館内の写真撮影も一部を除いて良いようで、平櫻は早速動画を回していた。

「素敵ですね。」

 平櫻がうっとりとした声を上げている。


 この倚松庵は谷崎潤一郎氏自信が建てたものではなく、元々神戸領事館で働いていた外国人が建てたものらしく、純和風ではなく、所々和洋折衷的な造りになっていて、それが魅力となっているようである。


「谷崎潤一郎氏は作品を作るのに、環境に拘っていて、後に細雪となる作品の舞台に廊下のある家がイメージとしてあったようで、この家が選ばれたみたいですね。」

 羅針が板張りの素敵な廊下を見て言う。


「そうなんですね。和洋折衷な感じが、確かに細雪の冒頭に出てくる廊下とイメージがぴったりかも知れませんね。」

 平櫻が廊下の隅々を矯めつ眇めつ眺めながら言う。

 そんな平櫻の様子を、羅針は後ろから一眼で撮影する。少し逆光気味の写真は、まるで細雪に出てくる女性たちの一人のようだった。


「素敵ですね、後でいただけますか。」

 平櫻は羅針がモニターで見せてくれた写真を強請ねだった。

「もちろんいいですよ。後で送りますね。」

 羅針も快く応じた。


「なあ、羅針、その細雪ってどんな話なんだ。俺読んだことないからさ……。」

 駅夫が二人の会話について行けず、痺れを切らして羅針に尋ねた。

「ああ、……舞台設定は大阪の旧家で、まさにこの建物を舞台にした話だよ。内容はこの家に住む四姉妹の明暗を綴った作品で、丁度、第二次世界大戦前の、阪神間モダニズム時代の生活を、船場言葉で描いていて、儚い崩壊の美を内包したような、上流階級の絢爛さを描いた作品って言ったところかな。」

 羅針が捲し立てるように答える。

「なるほど、良く分からん。」

 駅夫が首を傾げる。


「ごめん、ごめん。要は四姉妹の一人、確か三女だったかな、のお見合いを中心に話が進んでいくんだ。全編に亘って大阪船場の関西弁が使われてるから、ちょっと上品な感じがこの作品の魅力になってるって事だよ。」

 羅針が簡単に補足する。

「なるほど、そういうことね。」

 駅夫が今度は納得したようだ。


「映画にもなってるし、ドラマにもなってるし、興味があるなら観てみると良いよ。一番は原作を読むことだけどな。」

 羅針がそう言って勧める。

「当然、お前は原作を読んだんだろ。」

「まあね。最初は有名な作品だから読んでおくかって気持ちで読み始めたけど、結構ストーリーも文体も引き込まれる感じで、あっという間に最後まで読み切ったかな。女性同士、四姉妹のヒエラルキーみたいなのが巧みに描かれていて、男性が書いたとは思えない、女性の細かな心情なんかが描かれているのも、この作品に引き込まれた要因かな。」

 羅針が目を細めて感想を言う。


「そうなんですよ。うちも四姉妹だからまさにあるあるが詰まっていて、もう共感しまくりなんですよ。」

 平櫻がそう言って口を挟んできた。

「この作品に出てくる一番下の末っ子の妙子たえこが、うちの四女の美音みおんと似たところがあって、昔は〔こいさん〕って呼んだこともあったんですよね。まだ小学生だった彼女は、意味も分からず、変な呼び方されるから、良く怒ってましたけどね。」

 平櫻はそう言って笑う。


「こいさんって?」

 駅夫が聞く。

「あっ、こいさんっていうのは、船場言葉で小娘さんって意味で、細雪では末っ子の妙子を指す渾名あだなみたいなものとして使われていましたね。」

 平櫻が説明する。

「なるほど、こいさんね……。」

 駅夫は覚えるように、何度か繰り返していた。


「ところで、その美音さんっていうのは、あの一緒に記念撮影した子かな。」

 駅夫が平櫻に聞く。

「そうですね。フルーツバス停で一緒に記念撮影して貰った子です。」

 平櫻が答える。

「あの子、平櫻さんに輪を掛けたように元気だったもんな。」

 駅夫はそう言って微笑む。

「すいません、なんかご迷惑を掛けて。」

 平櫻が謝る。

「だから、それは良いんだって、迷惑なんて思ってないし。な。」

 そう言って羅針に同意を促す。

「ああ、そうだな。全然何とも思ってないですよ。ただ、圧倒されちゃいましたけど。」

 羅針もそう言って微笑んだ。

「今度、ドッキリするんでしょ。それでチャラってことで。」

 駅夫がいたずらっ子のように、不敵な笑みを浮かべる。

「ええ、まあ、ただビックリさせるだけですからね。あんまりいじめないで下さいね。」

 平櫻が、駅夫の表情を見て心配になり、釘を刺す。

「大丈夫だよ。そんな酷いことはしないから。」

 駅夫の表情がさらに不気味な笑みになる。

「冗談はそこまでにしとけ、平櫻さんを怯えさせてどうするんだよ。」

 羅針が駅夫を窘める。

「冗談だよ、冗談。平櫻さん、ホント大丈夫だから、心配しないで、ねっ。」

 駅夫がそう言って平櫻に謝る。

「心配なんてしてないですよ。茶番なの分かってますし。」

 怯えた表情をしていた平櫻が、コロッと普通の表情に戻った。どうやら演技だったようだ。

「なんだよ、やられたよ。」

 駅夫はそう言って苦笑する。


「冗談は置いといて、ほら駅夫これ見て見ろ。」

 羅針が壁に掛かる案内板を指差す。

「ん?」

 駅夫が訝しげにその板を見る。

 そこには応接間についての解説があり、細雪のどんな場面で描かれていたのかが書かれていた。

「これが細雪の一節で、隣の食堂と共に、四姉妹が普段から過ごしていた場所が、まさにこの場所だって事なんだよね。」

 羅針が言う。

「今風に言うと、まさに聖地ですね。ここが舞台だったんですから。」

 平櫻も羅針に同調する。

「ふーん。なるほどねぇ。」

 窓から入る薄暗い光が室内をぼんやりと照らし出し、革張りのソファが鈍く光り、天井まである本棚がその存在感を主張していた。

 そんな室内を見回した駅夫は、二人のテンションとは明らかに違い、感心はしているが、思い入れはないようだ。


 部屋の奥には、細雪の紹介ビデオが流されていたので、三人は暫くそれを見ていた。



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