拾陸之廿参
喫茶店で腹を満たした旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、鳥の名を冠した酒蔵メーカーの工場へと向かって歩いていた。
雨は止んでいたが、海からだろうか、少し潮の香りが混ざった風が三人の頬を撫でていた。
「良い風だな。」
羅針が言う。
「そうだな。潮の香りが良い感じだな。」
駅夫が応える。
「確かに潮の香りは良いですが、油の匂いが混じったような臭いがしませんか。」
平櫻が指摘する。
「鼻良いですね。言われてみれば、確かに油の臭いが混じってますね。」
羅針が同意する。
「油の臭いって、良く分かるな。確かにちょっと変な臭いが混じってる気がするけど。」
駅夫が言う。
「多分、船の重油の臭いじゃないかな。港が近いし。」
羅針が推測で言う。
「そうかも知れませんね。嫌いじゃないですが、あまり良い匂いとは言えないなと思って。」
平櫻が二人の意見を否定したことに恐縮する。
「いや、良い匂いなのは潮の香りであって、油の臭いじゃないからね。」
駅夫が平櫻の態度に、済まなそうに良い訳をする。
「東京湾だともっと酷い臭いがするからね。このぐらいの油の臭いは許容範囲というか、むしろ私たちにとっては、マシな方に感じるのかもしれませんね。」
羅針は自分なりの分析をして、取りなす。
「東京湾ってそんなに酷い臭いがするんですか。」
平櫻は二人の言葉にビックリして聞いた。
「まあね。今は大分良くなったけど、俺たち子供の頃は酷かったもんな。」
駅夫が気を良くして、調子に乗る。
「確かに、昔は光化学スモッグとかあったし、公害による喘息なんかも蔓延してたから、あの頃に比べたら大分良くなったけど、いまだに光化学スモッグの警報は時折聞くからね。酷い臭いと言えば、酷い臭いかも知れませんね。」
羅針がフォローする。
「そうなんですね。あまり感じたことはなかったけど、東京の独特な匂いって、そんな臭いも混じってたんですね。」
別に二人を否定するつもりがなかった平櫻だったが、一生懸命言い訳する二人の言葉に納得させられてしまった。
そんな話をしていたら、門衛が立つ立派な工場の入り口に到着した。
「ここだね。」
羅針が敷地の奥にある、鳥の名を冠した酒蔵メーカーの看板を見て確認する。
「資料館のご見学ですか。」
門衛が出てきて、三人に尋ねた。
「はい。見学出来ますか。」
羅針が確認する。
「はい。大丈夫ですよ。……そのまま正面にお進みいただくと、左側に入り口がございますので。……ちなみに、お車を運転される方はいらっしゃらないですよね。」
門衛が尋ねた。
「はい。今日は誰も運転はしません。」
羅針が即答する。
「それなら、結構です。ごゆっくりお楽しみください。」
門衛はそう言って三人を快く迎え入れてくれた。
「ありがとうございます。」
三人は門衛にお礼を言って、奥へと進んでいった。
まさに工場の正門と言った感じのゲートを通り抜けると、広い敷地の中に、近代的な建物が林立し、これまでの春と秋の酒蔵が和風然としていたのとは真逆の造りと、そのスケール感の違いに、三人とも目を見開いて圧倒されていた。
羅針が促すと、漸く三人は資料館の入り口へと向かって歩き出した。
入り口には、鹿威しがあり、小さな和風庭園が設えられ、菰樽が積み上げられていて、扉の上には注連縄が下げられ、ここだけちょっと異質な和の空間が広がっていた。
建物の中に一歩足を踏み入れると、そこには大きな樽が三人を迎えてくれた。
説明書きには〔大桶〕とあり、33石、一升瓶で3300本分の酒を貯蔵したり製造したりするのに使用されたそうだ。桶の材質や品質は、酒の風味にも直結するそうで、杉や檜が用いられるのだそうだ。
「道具の善し悪しが、酒の善し悪しか。何でもそうなんだな。」
駅夫が感心したように言う。
「そうだな。」
羅針が頷く。
ここの資料館は、蒸米の展示から始まった。先程秋の酒蔵で見てきたので、日本酒製造の工程は三人とも学習済み、今度は復習の時間である。酒蔵毎に違う呼び名や、工程があり、この酒蔵の拘りを学ぶ。
その上、ここの展示はスケールが異なり、かなり大きく造られていて、実際に作業しているかのように人形も合わせて展示されていた。
「ここまで作り込まれてると、分かりやすくて良いですね。」
人形が大桶に小さな桶を使って何かを入れている様を動画に撮りながら平櫻が言う。
「そうですね。良く出来てますよね。」
羅針はそう言って頷く。
酒造りに使用されるお米は、酒蔵好適米と言って、タンパク質の含量が低いお米を使用するらしい。そうすると、雑味の少ない、良い風味の酒が出来るのだそうだ。
「お米にも拘りがあるんだな。」
駅夫が感心している。
「そうだな。ただ米を蒸して絞りゃ良いってもんじゃないからな。道具も材料も何もかも拘るからこそ、美味い日本酒が出来上がるってもんだよ。」
羅針が当たり前のことを言う。
「だよな。」
駅夫も頷く。
更に奥へ進むと、映像シアターがあり、大迫力のパノラマスクリーンにプロジェクションマッピングで、美しい日本の四季が映し出されていた。映像に合わせて心地よい音楽が流れ、旅の疲れを癒やすひとときを与えてくれた。
「なんか、ここでゴロゴロしていたいな。」
駅夫が冗談半分で言う。
「冷房も効いてるし、快適だもんな。ぼぉーっと過ごすには良い場所だよな。」
羅針は呆れながらも、駅夫と同じ気持ちになっていた。
その後ろで平櫻は「綺麗」を連発して映像に見入っていた。
三人が心地よく椅子に座って映像に見入っていると、突然映像が切り替わり、酒造りの様子が始まった。
当然である。これだけの映像シアターを用意して、四季の映像だけを流している訳はない。映像を交えながら、酒造りの工程を丁寧に解説してくれていた。
「分かりやすかったな。」
映像を見終わった駅夫が、呟いた。
「そうだな。」
再び四季の映像が流れ始めたスクリーンを見て、羅針も頷く。
「ホント勉強になりますね。」
平櫻も頻りに頷いていた。
映像シアターを出ると、順路は二階へと続いていた。
「二階もあるのか。ずいぶん充実してるな。」
駅夫が感心したように言う。
「だな。」
木の階段を上りながら、羅針が応える。
「でも、ここが最後で良かったですよ。ここが最初だったら前の二箇所は物足りなく感じていたかも知れませんから。」
平櫻が言う。
「そうだね。確かにそうかも。この順番はある意味正解だったかもね。」
駅夫がそう言って、羅針にサムズアップする。
「お気に召していただいて、光栄の至りです。」
羅針が慇懃無礼に左手をお腹の前に持ってきて、まるで出来る執事のようにバウ・アンド・スクレイプをする。
それを見た駅夫と平櫻は声を出して笑った。
二階に上がると、放冷場と麹室の展示から始まった。
放冷場は、蒸したお米を最適な温度まで下げる場所で、日本酒はお米の種類や使う水、発酵温度、期間などによって大きく味が異なるため、この冷やす作業一つとっても、重要な工程になるのだそうだ。
「今は、温度計を使って、一定の温度を管理出来るけど、温度計がない時代は、職人の勘頼りだったからな。品質管理は大変だっただろうな。」
羅針が解説を読みながら、感心したように言う。
「確かに、温度管理が味に直結するのに、温度計がないというのは、羅針盤も持たずに大海原に漕ぎ出すようなものですよね。」
平櫻が羅針の言葉を聞いて、言う。
「ですね。絶対に遭難してしまいますよね。」
羅針がそう応えて微笑む。
次は酛仕込みの展示へと移っていく。
「これは、さっきの酒蔵で学んだぞ。あれだろ、酵母を大量に培養するって作業だ。」
駅夫が得意気に言う。
「そうだな。もろみを造るために大事な工程の一つだな。」
羅針が応える。
「ここでお米と水、麹、酵母を全部混ぜて、もろみを造って発酵させるんですよね。」
平櫻も確認するように言う。
「そうですね。物凄く繊細なのに、大量におこなうからかなり大変な作業ですよね。」
羅針が応える。
「ですよね。本当にこれを人の力でやってたんですもんね。人間って凄いですよね。」
平櫻が感心したように言う。
「そうだよな。昔は人の手でこの作業をやってたんだもんな。さっきの麹室だって、無茶苦茶暑そうだったもんな、人形なのに水分補給心配しちゃったしよ。」
駅夫はそう言って笑う。
「確かに、心配になるぐらい暑そうにしてたもんな。あの人形たち。」
羅針も釣られて笑う。
「そうですね。」
平櫻もそう言って笑った。




