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日本全国鐵輪巡礼 ~駅夫と羅針の珍道中~  作者: 劉白雨
第拾陸話 南魚崎駅 (兵庫県)
192/198

拾陸之廿壱


 春の花の名を冠した酒蔵を後にした旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、秋の花の名を冠した酒蔵へと、シトシト降る雨の中を歩んでいた。


「そういえば、神戸は日本酒だけでなく、ワインも有名なのは知ってたか。」

 羅針が駅夫に言う。

「知ってるよ、神戸ワインだろ。それなら、うちでも扱ってるし、結構人気なんだぜ。神戸ビーフと合わせると美味いんだよな。」

 旅寝が自分の会社、ヒューマンパスでも販売していることを自慢げに言う。

「私も何度かパスセレクションで注文しましたけど、とても美味しかったですよ。」

 平櫻はそう口を挟んでしまってから、あっと思って羅針の顔色を見た。

 平櫻が必要以上に旅寝の会社に興味を持ち、あわよくば何か旅寝から搾取しようとしていると誤解を与えてしまった、先日の失態に思い至り、また羅針の気を悪くしていないか、気になったのだ。

 しかし、羅針はそんな平櫻の心配をよそに、話を続けた。

「そう、こいつの会社、品揃えだけは一端いっぱしですからね。商品だけは間違いないと思いますよ。」

 羅針はそう言って笑う。


 その表情を見て、平櫻はホッとする。どうやら羅針は平櫻のことを受け入れてくれたようだ。だからといって、甘える訳ではない。まだ、気の置けない仲ではないのだ。気を遣い過ぎな位が丁度良いのだから。


「おいおい、商品だけはってどういう意味だよ。」

 駅夫が羅針を詰る。

「文字通りの意味さ。」

 羅針がそう言って更に声を上げて笑う。

「こいつ。」

 駅夫はそう言って拳を振り上げているが、羅針は「暴力反対」とか言って笑いながら逃げ回っていた。

 平櫻はそんな二人を見て、子供だなと微笑ましく思いながらも、警戒心を見せなかった羅針に対し心の中で感謝した。


 三人がそんなことをしながら歩いていると、住吉川を再び渡った先に、その酒蔵を見付けた。


「ここだな。」

 羅針がその酒蔵の敷地奥に建つ看板の名前を見て確定する。

「ここも、立派な門構えだな。」

 駅夫も感心したように言う。

 確かに、この酒蔵も立派な長屋門を構え、杉玉が下がっていた。

「たしかに素敵ですね。あっ、ほら見てください。水車がありますよ。」

 平櫻が門を潜った先、中庭の向こうにある水車小屋を見付け、早速カメラを向けている。

 駅夫と羅針は、水車の回る音の邪魔にならないように、声を出さないようにして、静かに見守った。雨の音に混じって、ギィギィという水車の音が響き渡っていた。


「あっ、お待たせしました。」

 二人が待ってくれているのに気付いた平櫻は、お礼を言った。

「いいよ。ゆっくり撮影して。」

 駅夫が応える。

「良い水車ですよね。なんか水車って癒やされますよね。多分、昔は精米の動力として使っていたんでしょうね。」

 羅針がそう言って、今度は自分の一眼で写真を撮った。雨音と水車の音だけが響く敷地にカメラのシャッター音が加わった。


「ふーん精米でね。……ところでさ、それミラーレスだよな。いつも思うんだけど、今日は一段と良い音してるな。」

 駅夫がシャッター音について言及する。

「そうだな。無音にも出来るけど、やっぱりシャッター音がないと撮った気しないからな。これ電子音だから、良い音も何もないんだけどな。」

 羅針はそう言って微笑む。

「そうなんだ。でも、良い音だと思うよ。」

「そうか。ありがと。多分閉鎖された敷地内だから、余計に響くのかも知れないな。」

「私も良い音だと思いますよ。電子音でこんなに良い音なんて、相当拘って作られたカメラなんだなって思います。」

 平櫻もそう言って頷いた。

「そうですね。ちょっと型落ちですが、それなりに良いカメラですから。音も拘ってるかも知れませんね。今まで気にしたこともなかったですけど。」

 羅針はそう言って平櫻にも微笑む。


「さあ、中に入ろうぜ。」

 駅夫が二人を促した。

「はい。」

「そうだな。」

 平櫻と羅針が応じた。


 秋の花の名を冠したこの酒蔵は創醸1659年。春の花の酒蔵から遅れること34年後に、二大老舗のもう一角が誕生したのだ。

 この老舗にももちろん正宗という名が付けられ、人々に親しまれている。

 この記念館は、1995年の阪神淡路大震災で損壊したが、今は完全に復旧し、広く一般に公開しているという。


「そういえば、神戸も震災で壊滅的な打撃を受けたんですよね。」

 傘を閉じながら玄関口で平櫻がふと思い出したように言う。

「そうですね。1995年の阪神淡路大震災は、中国にいたので、海の向こうの出来事として見てたんで、私はあんまり印象に残ってないんですよね。人民日報には一面にちょこっと載ってただけだし、中央テレビでも詳しい話はなかったんですよね。」

 羅針が応える。

「そうか、お前向こうにいたんだもんな。あの時は本当に凄かったんだぜ。連日震災の話で持ちきりでさ、丁度東日本大震災と同じよ。あれ位の熱量で報道があったんだよ。ねっ。」

 駅夫はそう言って、平櫻に振る。

「そうですね。私はまだ子供で、丁度小学校に上がる年だったんで、詳しいことはあまり覚えてはいませんが、家族で毎日話題にしていたのは覚えてます。それでも瓦礫から煙が上がっている映像は、今でも鮮明に覚えています。」

 平櫻は遠い目をして、悲しい表情になった。東日本大震災を現地で経験したことが、余計にそういう表情にさせているのだろう。


「でも、あの後、東京では地下鉄サリン事件があったからな。それ以降の報道はほとんどそっちへ移ってしまって、地震のことは徐々に語られなくなったな。」

 駅夫がそう言葉を続けた。

「そうか、震災にサリン、確かにそんな報道があったな。そういえば、心配でお前に電話掛けたんだよな。そしたら、お前、何も知らなくてさ。中国にいた俺の方が情報早いってどういうことだなんて言ってな。まあ、皆無事だったから、笑い話にもなるんだけどよ。

 ホントあの時は生きた心地しなかったぜ。なんせ、東京にサリンが撒かれたって感じの報道でよ、てっきり上空からヘリかなんかで散布されたんかなとか思ったんだよ。マジで焦ったんだからな。」

 羅針が言う。

「そんなこともあったな。突然お前から電話がかかってくるから、何事かと思ってビビったんだよな。俺の方がお前になんかあったのかと思ったくらいでよ。でも、サリンのことなんて全然知らなくて、話が噛み合わなくてな。」

 駅夫は懐かしそうに言う。

「そういえば、サリンも同じ年だったんですよね。それも良く覚えてますよ。学校では良く男の子たちが真似事をしてて、先生に怒られてましたからね。」

 平櫻もどこか懐かしく、しかし、事の重大さを知らなかった当時の自分に呆れているのか、少し複雑な表情をしていた。


「サリンかぁ。あの後も色々あったんだよな、街からゴミ箱が消えたし、缶やペットボトル、ゴミ袋が落ちてるだけで大騒ぎになってさ。まさに集団ヒステリーよ。電車の中にペットボトル持ち込もうもんなら、遠巻きにされるんだぜ。営業で歩き回ってたからさ、ペットボトルは欠かせないのにさ、結構きつかったな。」

 駅夫が続ける。

「東京はそんなことになっていたんですね。全然知りませんでした。」

 平櫻は駅夫の言葉に驚いていた。

「あれからもうすぐ30年が経つのかぁ。なんか、あっという間に過ぎた気がするな……。」

 羅針はそう言って雨が落ちてくる空を見上げた。そして大きく息を吸って、静かに吐き出すと、

「さあ、取り敢えず中に入ろう。ここで立ち話をしててもしょうがないし。」

 羅針がそう言って二人を促した。

 二人は羅針の言葉に頷き、記念館の建物へと入っていった。


 大きな樽と、積み上げられた菰樽に迎えられて一歩中へと足を踏み入れると、会社名が彫られた一枚板の看板が目に入ってくる。かなり古いものらしく、長い年月を経たような色合いをしていて、風格があった。


 エントランスを見渡すと、古いポスターがあったり、日本酒の製造過程が描かれたパネルが掲示されていたり、灘五郷の説明があったり、昔の蔵の模型が置いてあったりした。説明によると、ここは六甲颪ろっこうおろしの冷たい風が酒を低温で貯蔵しておくのに適していたのだという。


 三人は奥の展示室へと進んでいった。

 かなり充実していて、これまで使用されてきた道具などが展示されていた。

 最初に目に入ったのは注意書きだ。〔お願い 重要文化財です お煙草はご遠慮下さい〕とあった。今のご時世、こんなところでタバコを吸う人間はいないだろうが、重要文化財が展示されていることと、タバコという言葉に、三人は違和感を覚えた。


 最初の展示は会所場かいしょば、いわゆる従業員たちの休憩所で、食事や休憩などをここで取るのだそうだ。畳敷きに囲炉裏のような場所があり、茶碗やおひつ薬缶やかん、灰皿などが展示されていた。


 次は洗場あらいばで、様々な桶が展示されていた。ここは精米した酒造米からぬかを取ったり、水分を含ませたりする場所なのだそうだ。量が多いためか、たらいの中に入って足で踏んで洗っていたようだ。


「まるでワイン造りみたいだな。」

 駅夫が掲示されている絵を見て言う。

「だな。ブドウ踏みみたいだ。」

 羅針が応える。

「でも、ワインは女性が踏んでるような印象がありますけど、こちらは男性なんですね。力強くてかっこいいです。」

 平櫻はそう言って、褌姿で米を踏む男たちの絵を見ていた。

「でも、華やかさはないよな。」

 駅夫がそう言うと、

「お前は酒造りに何を求めているんだ。」

 羅針が呆れたように言う。

 羅針の言葉に駅夫は「別に」と恍けていたが、その隣で平櫻も自分の目線に気付いて、顔を赤くした。


 この洗米の作業から早くも匠の技が必要で、水につける温度や時間が蒸し上がりに影響し、延いては酒の出来にも影響するため、杜氏の経験と勘だけが頼りの、確かな技術がないと出来ない作業だったようだ。

 

 その後、米を蒸すための釜場かまばこうじを育てる麹室こうじむろ、酵母を大量に培養するための酛場もとばと続き、酵母に麹、蒸し米、水を加えてもろみを作り発酵させる造蔵ぞうぞう、酒を絞る槽場ふなば、そして最後に酒を寝かせておく囲場かこいばで見学コースは終わった。


「ずいぶん見応えあったな。」

 駅夫がぼそりと言う。

「ああ。どれだけ酒造りが大変なのか、良く分かったよ。より一層感謝していただかないとだな。」

 羅針が神妙な面持ちで言う。

「ホントそうですね。繊細な手間暇が掛けられているのが良く分かりました。あの微妙な味わいの違いは、こうして生み出されているんだなって。」

 平櫻も感心したように言う。

「ですよね。一つ一つの作業に意味があって、ちょっとでも狂うと、全体が狂ってしまう。旅行にたとえるのは違うかも知れないけど、一本列車に乗り遅れると後の行程が全部台無しになってしまう。そんなイメージですよね。」

 羅針が平櫻に言う。

「はい。確かにそんなイメージです。旅行でたとえると分かりやすいですね。」

 平櫻は大きく頷いている。

「俺にとっちゃ、旅行だろうが酒造りだろうが、どっちもイメージしにくいよ。」

 駅夫はそう言って二人を詰る。

「そうだな、お前は門外漢だもんな。お前が分かりやすいたとえは、……ないな。」

 羅針がそう言って笑う。

「こいつ、俺を馬鹿にしやがって。」

 駅夫はそう言って拳を振り上げると、

「だから、暴力反対って。」

 羅針は笑いながら逃げた。


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