拾陸之拾捌
小磯記念美術館を見学している旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、三つ目の展示室へと移動していた。
そこには、これまで描かれてきた油彩画だけでなく、銅版画や挿絵、薬用植物画も展示されていて、戦後、その才能を多方面に渡って開花させたことが分かる展示になっていた。
「なんかさ、これまでの作風と違う気がしないか。」
駅夫が一つ一つ見ながら、そんなことを呟く。
「そうですね。どこか穏やかというか、落ち着いたというか、これまでも静謐で気品に溢れていた女性像が多かったような気がしますが、それが更に洗練された感じがしますよね。」
平櫻が応える。
「時代もあるんじゃないですか。戦後日本が平和になって、モデルの女性たちにも心情の変化が現れて、それを描き出してるから、穏やかで落ち着いた雰囲気を醸し出しているのかも知れませんね。」
羅針が平櫻の言葉に自分なりの考えを言う。
「なるほどね。でもさ、平和になったってだけでここまで変わるかな。俺は、平和になったってことは大前提としても、戦争の傷跡を癒やすための憂いとか、そういうものも含まれているような気もするけどな。」
駅夫が羅針に同意しつつも、自分なりの意見を言う。
「そうだな。あの戦争を生き抜いてきたんだもんな。多かれ少なかれ、心の傷は受けてるもんな。そう考えたら、彼女たちの表情が愁いを帯びているように感じるな。」
そう言って羅針が駅夫の視点に納得する。
「私は、漸く平和になったこれからの人生に希望を持って生きようとしている、したたかな強さみたいなものを感じます。心の傷があるからこその、直向きさというか、前向きさというか、力強さのような、生きる決意を感じます。」
平櫻も、駅夫と羅針の意見に頷きつつも、更に自分が感じたままを言う。
「でもさ、考えても見ろよ、どんな風に俺たちが感じたとしても、彼女たちの内面まで感じるってことだろ。それって、凄くねぇか。俺たちがそれを感じるってことは、内面まで描き出してるってことだろ。なかなか出来ることじゃないぜ。」
駅夫が二人の感想を聞いて、そんなことに思い至る。
「そうだな。俺もなんとなくそんな風に思ったけど、考えてみたら内面を描き出すって凄ぇことだもんな。」
羅針も駅夫の言葉に頷く。
「言われてみればそうですね。内面を描き出せるその画力が素晴らしいですよね。もしかしたら、ご本人は何も考えず、心の赴くまま、筆の赴くままに描いた結果であって、別段何も意識していなかったのかも知れませんけど、もしそうだとしても、この画力は、構図にしても、色使いにしても、明らかに前の絵とは全然違いますもんね。内面を描き出す画力があってもおかしくないですよね。」
平櫻が言う。
「ホントそう。内面を描き出してるかどうかは別にしてもさ、この絵の素晴らしさは、ホント格別だよ。確かに若い時や戦争画の絵も凄かったけど、やっぱり戦後の画力は格段に上がっているもんな。荒削りな部分がほぼないのが何よりの証拠だよ。素人目にだって分かる位だから、専門家が見たら、もっとその違いが分かるんじゃないかな。」
駅夫が平櫻の言葉に頷きながら言う。
「そうだな。だから、絵から受ける印象が繊細で、精緻で、見ている者の心に余計なことを考えさせない、絵の中へと没入出来る感じがするよな。確かに素人目にも良く分かる。」
羅針が駅夫の言葉に応える。
「それ分かります。なんだかんだ言っても、絵の中に引き込まれる感覚はあるんですよね。あたかも目の前にモデルさんが実際にいるようなそんな錯覚になるんですよ。」
羅針の言葉に、平櫻が反応する。
「だよね。でもさ、俺はその世界の中にいるって言うより、その世界を外から見ているような気がするんだよな。なんかモデルと対峙して絵を描いている人を後ろから見ているような、そんな感覚なんだよ。実際俺が描いたってこんな上手くは描けないから、絵を描いている小磯良平氏の肩越しに見てるような、そんな感覚かな。」
平櫻に同意しつつも、駅夫は笑いながらそう言う。
「いずれにしたって、引き込まれる感じはあるよな。でもさ、そう考えると、それだけの画力が備わっているからこその感覚と言えるかも知れないな。」
羅針はそう言って、何かを考え込むように、作品を見ていった。
三人は思い思いの感想を言い合いながら、作品をすべて堪能し尽くした。
最後に、中庭に移設されたというアトリエを三人は見学した。先程入り口のファサードから見た入母屋造の建物の中である。
アトリエには、イーゼルやキャンバス、そして筆や絵の具、そして家具たちが雑然と置かれていたが、今は主のいないその部屋を見守るかのように、ひっそりと佇んでいるだけだった。
「これが、天才のアトリエか。」
駅夫が感心したように言う。
「凄いですね。なんか鬼気迫るものを感じますが、でも、どこか空虚さもありますね。やはり部屋の主人がいないと、ものも気が抜けてしまうんですかね。」
平櫻は、そこに置かれたものたちから受ける印象に気圧されながらも、どこか物足りなさを感じていた。
「確かに凄いですね。ここで、彼は絵に命を吹き込んでいたんですよね。」
そう言って羅針は、平櫻の言葉に頷く。
「命を吹き込むか。……確かに、ある意味儀式が行われているような、そんな神秘的な雰囲気も感じられるな。」
駅夫が羅針の言葉に応える。
「だよな。彼が生前ここで、どれだけ心血を注いで絵を描いていたか、どれだけ血の滲むような努力をして才能を開花させていったのか、その軌跡の一端が見えるような気がするよ。」
羅針がそう言って、マジマジとそのアトリエを矯めつ眇めつ眺めた。
駅夫と平櫻も、羅針の言葉に大きく頷き、心ゆくまでその神秘的な雰囲気を感じるアトリエを眺めていた。
三人は見学を終えて、売店の前まで来ると、何かマラソンでもしてきたかのような疲労感を覚えた。それだけ、真剣に彼の作品を鑑賞し、引き込まれ、感情を揺さぶられたのかも知れない。
「凄かったな。こんな画家が日本に存在したんだな。」
駅夫がそう言って大きく溜息をついた。
「本当ですね。私も今回初めて知りました。歴史の中に埋もれてしまった人を発掘したような、そんな気分です。」
平櫻が少し照れくさそうに言う。
「そうですね。名前だけが歴史の1ページに刻まれている人でも、こうして掘り下げてみると、その人の生きた証みたいなものを辿ることが出来て、色んなことを思い知らされますよね。」
羅針が平櫻に応える。
「はい。今朝靖国で仰った、歴史を知るってことの意味が、また一つ理解出来たような気がします。」
平櫻が嬉しそうに言う。
「それは何よりだ。なんせ、こいつの話は小難しいからさ、自分から学んでいかないと、話について行けないんだよ。」
駅夫が冗談半分で平櫻に言う。
「それは、お前が勉強不足なだけだよ。」
羅針がそう言ってバッサリと駅夫を切る。
「それは、否定しない。」
駅夫が素直に言う。
「何だよ、反論しないのかよ。」
羅針が拍子抜けする。
「ああ、ここで反論すると、倍返しどころか百倍返しを喰らいそうな気がするからな。」
駅夫が言うと、羅針は「そうだな」と言って笑った。
「ほらな。危うく罠に掛かるところだったぜ。」
そう言って、駅夫が額の汗を拭う振りをした。
「危なかったですね。」
平櫻が駅夫に気遣う優しさを見せ、微笑んだ。
「こう見えても危機管理はお手の物なんだ。」
そう言って駅夫は得意気な顔をする。
「まあ、俺から口撃を受けるレベルから抜け出せてない時点で、その危機管理能力の程度が知れるってものだけどな。」
羅針が間髪を入れずに駅夫を腐す。
「こいつ。」
駅夫はぐうの音も出せなかった。
でも、羅針は知っている、駅夫が自分の会社を大きくするのにどれだけの心血を注いできたか。知識では羅針の方に軍配は上がるだろうが、成功者としては駅夫の方に軍配が上がるだろう。
それが分かっているからこそ、羅針は駅夫に軽口を叩いて遣り込めても、勝ち誇ったような気にはなれないのだ。
嫉妬とか、そんな単純な感情ではない。
駅夫に対する、これまで半世紀に亘って培ってきた様々な感情が綯い交ぜになった結果の感情である。
駅夫は、これまでも羅針に遣り込められ、いつかギャフンと言わせようと虎視眈々と狙ってきたが、いつも返り討ちに遭うのだ。悔しくはあるものの、それで羅針を恨むとか、そんな感情は湧き起こらない。
知識では羅針に敵わなくても、色んな面で羅針の面倒を見てきたという自負が、お兄ちゃんとしての自尊心のようなものが、駅夫の心を穏やかにしているのだ。
ある意味、羅針は頭の良い自慢の弟ぐらいに感じているとも言えた。
そんな二人の心情を互いが知ってか知らずが、二人して笑っているのを見ていた平櫻は、いつもの茶番かと呆れたように、そして微笑ましそうにしていた。
三人は売店を見て廻り、平櫻は絵葉書を購入し、駅夫は画集に興味を持っていたが、流石に持って歩くのは難しいと、諦めかけていたが、羅針が実家に送れば良いのではと提案すると、破顔して購入していた。
羅針も何か買おうかと思ったが、特にめぼしいものはなく、買うのを止めようかと思ったが、駅夫が画集を実家に送ると言ったので、また母親に小言を言われるのを嫌い、羅針も同じ画集を購入して実家へ送る手続きをした。
小磯記念美術館の見学を終えた三人は、再び雨の中をアイランド北口駅へと戻り、いよいよ今回の目的地である南魚崎駅へと向かうことにした。




