拾陸之拾漆
星路羅針と平櫻佳音の二人は、アイランドセンター駅へと向かって、渡り廊下のような屋根付きの跨道橋を歩いていた。旅寝駅夫は一人先に行ってしまい、二人は置いて行かれたのだ。
「旅寝さん、本当に大丈夫でしょうか。目に涙を浮かべてましたが。」
平櫻は、駅夫が先に行こうと足早に遠ざかる際、目に光るものを認めていた。
「まあ、大丈夫だとは思いますが、もうあれから20年は経ってるのに、いまだに忘れられないみたいだから、今更どうしようもないんでしょうね。私たちに出来ることは、見守るぐらいでしかないんですよ。」
羅針はそう応えるが、内心は心配が絶えなかった。これまで、アドバイスもしたし、忘れさせようと遊びにも連れて行ったりもしたが、そんなのは一時凌ぎでしかなかった。
「辛い思い出なんて、悲しいですね。良い思い出に昇華すると良いんでしょうけど、難しいんでしょうね。」
平櫻は駅夫に同情してそう言うが、自分の手には負えないことだと思い、辛く、悲しく、駅夫の心情を慮ることしか出来なかった。
「まあ、あいつが空元気を続けているうちは、私たちもそれに合わせて、楽しくしましょ。本当に辛かったら、SOSを出すと思うんで。」
羅針が平櫻に言う。
「分かりました。でも、心の底から元気になって欲しいですね。」
平櫻が応える。
「そうですね。私もそう願います。」
羅針もそう言って頷く。
旅寝駅夫はアイランドセンター駅の改札口を抜けたところで、羅針と平櫻の二人を待っていたが、二人の姿を認めると右手を挙げて手を振ってきた。
二人も手を上げて振り返す。
合流した三人はホームへと上がり、次の列車を待つと、列車はすぐに来た。
3000型が到着すると、三人は乗り込む。駅夫は早速一番前のかぶりつきへと向かう。
「次で降りるからな。」
羅針が声を掛けると、駅夫は後ろ手に片手を挙げた。
列車はすぐに走り出し、すぐに止まった。駅間0.4㎞、所要時間1分である。
扉が開くと、三人は列車を降りた。駅夫はもう着いたのかと言わんばかりの表情をしていた。
「まずは、小磯記念美術館な。」
羅針が駅夫に言う。
「了解。」
駅夫はそう言って敬礼した。無理に戯けているようにも見えたが、羅針はそれに対して何も言わなかった。
三人は、駅名をバックに記念撮影をすると、階段を降りて美術館へと向かった。
改札を出て表に出ると美術館は右側にあると案内があった。三人は傘を差して、案内通りに駅を出て右へ向かう。雨の中を歩道橋を渡ると、木々の先に灰色のモダンな建物が見えてきた。階段を少し下ると、両側に蔵のような建物が建ち、その中央でガラス張りのファサードが、弧を描くような緩やかなカーブで、見る者に対しそこが特別な空間であるような印象を与えていた。
ファサードの中央に設けられた自動ドアを潜り、館内に入ると、ガラス窓の向こうに片側だけ少し長い切妻屋根が架かった二階建ての木造住宅が、雨に濡れて建っていた。
説明書きには、小磯画伯のアトリエを一部移築し再現したものだとあった。
手入れが行き届いた庭の中央に佇む姿は、当時の様子を彷彿とさせるが、小磯氏の為人を良く知らない三人にとっては、ただの建物でしかなかった。
三人は入り口で入館料を払うと、建物反対側にあるコインロッカーに手荷物を預けて欲しいと言われた。
三人は場所を確認し、今歩いてきたガラス張りのファサードを逆戻りし、コインロッカーに手荷物を預けると、再び受付に戻り、許可を貰って、漸く、展示室へと足を踏み入れた。
この美術館は、小磯良平氏が亡くなった1988年の翌年、遺族から神戸市に寄贈された作品を展示する目的で、1992年に開館したものである。
小磯良平氏は、昭和期に活躍した洋画家で、肖像画、特に女性や群像を手掛けたことでも知られる。
戦中は戦争画を描いていたが、戦後は東京藝術大学教授などを務め、定年退官後は迎賓館大広間の壁画を制作するなど、長きに亘り日本の洋画界に大きく貢献した。
1992年に創設された〔小磯良平大賞展〕は国内最高賞金の公募展としても知られている。
羅針が入り口で貰ったパンフレットを読み上げながら、駅夫と平櫻に説明する。
「すげぇ人なんだな。俺は今回始めて知ったよ。」
駅夫が感心するように言う。
「韓国の博物館で幻の作品が見つかったって、ニュースになってたからな、その時に名前だけは記憶したけど、こうして経歴を見ると、なかなか壮絶な人生を歩んできた人なんだなって分かるな。」
羅針が応える。
「まあ、戦前、戦中を生き抜いてきた人は、大なり小なりその人生は壮絶だよ。俺の人生なんて、比べるまでもないさ。」
駅夫がそう言って、頻りに自分に言い聞かせるかのように頷いていた。
「そうそう。先人たちの苦労に比べたら、俺たちの苦労なんて蚊に刺された痒み程度の苦労だからな。」
羅針が言う。
「前にもそんなこと言ってたな。」
駅夫が苦笑いする。それは以前にも羅針が言っていたことである。
「私たちの苦労が蚊に刺された痒み程度ですか。」
平櫻は何か理不尽なことを言われたような気がして、思わず聞き返した。
「ああ、突然そんなこと言われたら、びっくりするよね。あれいつだったっけ。」
駅夫がそう言って、羅針に確認する。
「確か、長崎の大浦天主堂に行った時じゃなかったかな。平櫻さん、誤解しないで欲しいんだけど、私たちの苦労が蚊に刺された痒み程度だって言うのは、あくまでも、先人たちの苦労に比べたらって話です。
あの時は、殉教したキリシタンたちの艱難辛苦を知って、思わず言ったことで、彼らの大変な苦労に比べたら、自分たちの苦労なんて高が知れてるなって思ったんですよ。」
羅針が平櫻にことの経緯と言葉の真意を説明した。
「そういうことなんですね。確かに自分は苦労らしい苦労なんてしてこなかったので、偉そうなことは言えませんけど、それでも、それなりに苦労してきたつもりだったので、えっと思ってしまいました。
それは、キリシタンの苦労に比べたら、私の苦労なんて吹いて飛ぶようなもんですよね。なんか恥ずかしいな……。」
そう言って、平櫻は照れくさそうにはにかんだ。
そんな話をしながら、三人は、最初の展示室へと足を踏み入れた。
この小磯記念美術館は年に何回かテーマに沿った特別展を開催しているようだが、今日は特別展はなく、通常の展示のようで、小磯良平氏の軌跡が分かるような展示だった。
第一展示室は、小磯良平氏が若かりし頃に手掛けた、初期の作品が並んでいた。
「これが、小磯良平さんの作品ですか。なんか素敵ですね。」
平櫻が作品を見て開口一番感心したように言う。
女性を描いた絵ばかりが並んでいたが、その表情、仕草、着ているものまでが、静謐さの中に気品が滲み出ていた。特にデッサン力は素人目にも素晴らしいことが良く分かる。
「確かに凄い。これ、若い時の作品だろ。マジでこれを若い時に描けるって相当凄いぞ。」
駅夫は感嘆頻りである。
「そうだな。学生時代に帝展で特選に選ばれたらしいから、その画力は折り紙付きで、東京美術学校、今の芸大を主席で出たらしいから、その実力は裏付けもある。これだけの絵が描けて当然だけど、この絵を前にすると、そんなことどうでも良くなるな。」
羅針がそう言って、一つ一つじっくりと作品を鑑賞していった。
次の展示室は、戦争画ばかりが並んでいた。
小磯氏は1938年から一年間、陸軍省嘱託の従軍画家として中国に渡り、帰国後戦争画の制作をおこなったという。しかし、戦後はそのことを悔い、画集に入れなかったらしい。それが、ここに展示されている戦争画である。
「先程の絵とはまるで雰囲気が違いますね。描いているものが違うということはありますが、なんて言うか、タッチが違うというか、画質が違うというか、先程よりも洗練されていてるのは分かるんですが、どう説明したら良いか、その奥から滲み出てくるものが違うような気がします。」
平櫻が、言葉にならない自分の感じたことを言葉にしようとしていた。
「分かる。なんかさ、本人が意図したものじゃない、なにか自分の心と解離したものを描いているような、そんな感じがするんだよね。それに画力がズバ抜けているから、きちんと表現されていて、その心の奥底にあるものまでが絵に滲み出ている気がするんだよね。」
駅夫も平櫻に同意しつつ、自分の感じたままを言葉にする。
「そうです。そんな感じです。」
平櫻が駅夫の言葉に嬉しそうに同意する。
「なるほどね。確かに、こういう戦争画って戦意高揚のために描くから、見たままを描いている訳ではないでしょうけど、さっき見たような、静謐で気品に溢れた絵とは対照的で、どこか粗忽で、荒々しくて、粗野で、乱暴な感じを受けるのは、二人の言うとおり、滲み出てくるものがあるのかも。
でも、それにもかかわらず、芯の部分は変わってないというか、偉そうなことを言うようだけど、その芯の部分が大きく成長しているし、デッサン力は確実に上達してるよね。作品には荒々しさがありながらも品格があるというか、表現力が格段に上がったように感じる。
特にこの絵、女性が並んでるだけなんだけど、さっきの展示室にあった作品とは明らかに違うんだよね。表情、仕草、構図、筆のタッチ、色使いが、すべて計算され尽くされている様な気がする。」
羅針はそう私見を交えて分析する。
「確かにそうですね。私もそんな気がします。何かが違うと思ったんですけど、計算され尽くされているって感じ、良く分かります。さっきまでの絵は、筆の赴くまま、心の赴くままに筆を動かしたって感じでしたけど、ここのはまさにそれですね。」
平櫻が羅針の言葉に同意する。
「計算され尽くされているか。なるほどね。俺には、心の叫びのような気がしたんだけどな。何というか、心の奥底に仕舞った、嫌戦感というか、厭戦感みたいなもの、あの当時非国民と言われかねないような、そんな感情を押し殺して描き上げた、そういう心の奥底に仕舞い込んだものの叫びみたいなものが聞こえてきそうな気がするんだよな。」
駅夫が羅針に同意しつつも、自分の考えを言う。
「なるほどね。心の叫びか。確かに、晩年になって戦争画を描いたことを後悔しているって言う発言はしているから、厭戦感の様なものは当時からあったのかも知れないな。だけど、描かざるを得なかったのか、描かされたのか、それとも嬉々として描いたのかは分からないけど、そういう感情がどこかにあって、それが現れているって言うのは、当たらずとも遠からずかも知れないな。
なんか言われてみれば、心の叫びみたいなのは、確かに聞こえてくる気がする。」
羅針も駅夫の考えに同意する。
「でも、それって、私たちが平和な時代に生きているからじゃないでしょうか。そう言う私たちの価値観を通した目で見るから、そんな風な叫び声が聞こえる様な気がするんじゃないかなって思うんですよね。」
平櫻が疑問を呈する。
「そうかもね。ある意味僕らは平和ボケしてるからね。こういうものを見ると、そう言う色眼鏡を通してしまうことはあるかもね。」
駅夫は平櫻の言葉に頷く。
「そうですね。平櫻さんの言うとおりかも知れませんね。でも、良いんじゃないですか、私たちは平和の中で育ってきた戦争を知らない世代です。どうしたって、私たちの価値観が彼の価値観と異なるのは避けられない事実です。だから色眼鏡で見るしかないんですよ。でも、それで良いんじゃないですかね。」
羅針が言う。
「そうですよね。私たちがどう思うかですもんね。歴史と同じですね。」
平櫻がそう言って納得したように頷いた。




