拾陸之拾陸
翌朝6時。
いつものとおり、星路羅針はアラームの前に起き出して、スマホのアラームを解除する。
一頻り伸びをしてから、いつものルーティンを始めた。洗顔をしてから、パソコンを起ち上げ作業に取りかかる。カメラのデータを移したり、精算したり、昨日の行程を纏めたり、パパッと作業を済ませた。
6時半、旅寝駅夫を起こす。
「ん~お~は~よ~。」と言って駅夫がごそごそ起き出した。
駅夫をバスルームに追い遣ると、羅針は作業の続きをする。
そして、7時。朝の支度を終えた二人は、朝食会場へと向かった。
「おはようございます。」
平櫻はいつものように先に来て会場前で二人を待っていた。
「おはよう。」
「おはようございます。」
駅夫と羅針は挨拶を返す。
「昨日の夜景も良かったですけど、こうして雨に煙る朝の港町も良いもんですね。」
平櫻が会場に足を踏み入れると、窓の外に広がる景色を見て、開口一番に言う。
「あ~あ、やっぱり今日も雨か。」
駅夫はそれを見て、がっかりしたように言う。
「まあ、良いじゃねぇか。雨の神戸を楽しむってのも悪くないだろ。」
羅針が駅夫を宥めるように言う。
「とは言ってもなぁ。」
駅夫はどうしても雨は嫌なようだ。
羅針は少し変だと考えていた。これまでの付き合いで、駅夫がここまで雨嫌いだと思ったことはなかったし、こんなに雨を嫌がるそぶりを見せたこともなかったように思う。
だが、昨日から駅夫は雨を異様に思う程嫌っているのだ。
この旅でも何度か雨に降られたし、特に静和では一日雨の中を山に登ったり、町中を散策したりしたのだが、その時はそんな感じをあまり受けなかった。確かに嫌そうな顔はしていたが、あの時は観光の仕方で揉めていたのもあって、気がつかなかっただけかもしれないが、雨を毛嫌いするような感じではなかったと思う。
しかし、当然のことだが、雨を止めることは出来ないので、駅夫には我慢して貰うしかない。
「旅寝さん、雨は人生にも潤いを与えてくれるんですよ。雨を楽しめないなんて、人生半分損したようなもんですよ。」
羅針がどうしたものかと考えているその脇で、平櫻に駅夫は懇々と諭されていた。
「だからさぁ、それは分かるんだけどさぁ。」
駅夫がそれでも煮え切らずに、何かを言いたそうにしていた。
「取り敢えず、食事にしようぜ。腹が減ってはなんとやらだろ。平櫻さんもどうぞ。」
羅針は駅夫と平櫻を促し、席を確保してから、バイキング台へと向かう。
今朝のラインナップは朝食モードではあるが、昨日の夜に出ていた兵庫県の郷土料理もいくつか並んでいた。
平櫻は抱えきれない程の皿を持ち、駅夫と羅針は片手に一皿ずつ持って、席へと戻ってくる。
いただきますをして、三人は早速食べ始めた。
駅夫の前には和定食が完成していた。ご飯に味噌汁、生卵、焼き鮭、味海苔を中心におかずが少量ずつプレートに載っていた。納豆も欲しかったが、今日は酒蔵に行く予定なので、「見学コースばかりだから気を遣う必要はないだろうが、万が一止められても詰まらないから、一応止めといた方が良いぞ」と羅針に言われて、食べるのを止めたのだ。
その羅針は、中華粥と中華揚げパンの油条をメインに、春巻きや餃子、焼売などの中華料理を中心に並べていた。
平櫻の前には和洋中が満遍なく並んでいた。プレート毎にそれぞれ分かれ、他にもいくつかの料理が所狭しと並んでいた。もちろんその量は二人の三倍近くはあると思われる。
朝食を食べ進め、三人がおかわりをして戻ってきたところで、羅針が切り出した。
「駅夫、雨が嫌なのは分かるけどさ、そこまで嫌がるってのは、なんかあったのか。話したくないなら別に良いけど。」
羅針は、駅夫の気持ちを考慮して、慎重に尋ねる。
「ああ、別に大したことじゃねぇよ。嫌なものは嫌なだけだから。」
駅夫はそう言って、黙り込む。
結局三人が食事を終え、最後にヨーグルトとコーヒーに手を着ける頃まで、羅針と平櫻が今後の予定や雑談をする脇で、駅夫は押し黙ったまま、黙々と食事を続けていた。
しかし、駅夫はコーヒーを一口飲み干したところで、突然意を決したように、ポツリポツリと語り出した。
「俺が雨を好きになれないのは、あの子のことを思い出すからだよ。」
「あの子って、あの子か。」
羅針は、駅夫の言う〔あの子〕が、離婚した元妻と浮気相手の間の子供で、自分の子供だと騙されて育てていた子供であることを悟った。確か名前は瑞樹と言ったか。人懐っこい子で、羅針にも良く懐いていたので、戸惑いながらも遊んであげたこともあった。今はもう良い歳になっているだろうが、当時はまだ幼く、駅夫の会社の保育施設に通っていたこともあり、羅針が駅夫の会社に行くと、「おじちゃん」と言って慕ってくれていた。
「ああ、そうだよ。」
駅夫がぽつりと頷く。
「……平櫻さんにも説明してかまわないか。」
羅針は、駅夫が続きをなかなか話し出さなかったので、事情を知らず、キョトンとしたような表情で二人を見ていた平櫻に説明して良いか確認した。
駅夫がゆっくりと頷いたのを見て、駅夫が離婚した経緯を平櫻に説明した。
駅夫の元妻は、元々付き合っていた男との間に子供が出来、それをさも駅夫との子供のように装い駅夫と結婚したこと。ある日元妻の浮気がばれて、売り言葉に買い言葉で、瑞樹が駅夫の子供ではなかったことが発覚したこと。離婚調停に持ち込んだ時、事実瑞樹と駅夫に血縁関係はないことが遺伝子検査で判明したこと。民事と刑事、両方で裁判を行ったが、微々たる慰謝料を貰っただけで、駅夫には何も残らなかったこと。刑事裁判は執行猶予が付いて、今でものうのうと塀の外にいることなどを時系列を追って平櫻に説明した。
「そんなことがあったんですね。」
普段の陽気な駅夫からは想像出来ない、壮絶な過去に、平櫻はそれ以上何も言えなかった。
「あの子は、うちの会社の保育施設に通ってたんだよ。……満員電車に揺られるのをキャッキャ喜びながら連れて行ったもんだよ。
……特に雨の日は大喜びでさ。……お気に入りのピンクの雨合羽と長靴を履かせて、傘を持たせてやると、もう喜んで雨の中を走り回ってたんだよな……。
雨が降ると、その姿が目に浮かんでさ……。」
駅夫は懐かしそうに、薄らと涙を浮かべながら、ポツリポツリと語った。
目に入れても痛くない程、娘として可愛がっていたのだ。今でも忘れられないでいることは羅針も知っていた。何度か忘れるようにアドバイスしたこともあったが、やはり心に刻まれた傷は、いまだに癒えていないようだった。
「ごめんなさい。そんな事情があるとは全然知らずに、私酷いことばかり言ってしまって。本当にすみません。」
平櫻は、駅夫の言葉を聞いて、そう声を掛けるのが精一杯で、深々と頭を下げた。
「いや、良いんだって、そんな気にしないで。平櫻さんの言うことはもっともだし、雨を楽しむ気持ちは大事だし、それはあの子にも教わったことだから。
吹っ切れない自分が悪いんだ。だから、平櫻さんが謝ることなんて何もないんだよ。むしろ、気を遣わせてしまって悪かったね。ごめんね。」
そう言う駅夫の表情は作ったような笑顔が浮かんでいたが、目には涙が溜まっていた。
「ほら、今日も観光するんだろ。今日はどこ行くんだ。」
そう言って駅夫は、誤魔化すように目の前のヨーグルトを掻き込み、コーヒーを飲み干した。無理をしているは分かったが、羅針も平櫻もそれには何も言わず、今日の予定について確認し合った。
朝食を終えた三人は、一旦部屋に戻り、出かける準備を始めた。
「大丈夫か。」
羅針が駅夫に聞く。
「ああ、悪かったな。大丈夫だよ。ちょっとおセンチってヤツだ。」
駅夫は戯けたようにそう言って、照れ笑いを浮かべていた。
「そんなら良いけど。辛かったらいつでも言えよ。無理する必要はないんだからな。」
羅針が心配そうに言う。先日は羅針が駅夫に心配を掛けたばかりである。今度は羅針が気遣う番である。
「分かったよ。ありがとな。」
そう言う駅夫の表情に辛そうな影は今のところ見えなかったが、無理をしているのは一目瞭然だった。
準備を終えた二人は、平櫻との待ち合わせたロビーへと降りる。
「おまたせ。」
「お待たせしました。」
先に来ていた平櫻に駅夫と羅針が声を掛ける。
「旅寝さん、大丈夫ですか。」
平櫻は二人の顔を見るなり開口一番聞いた。
「ああ、大丈夫だよ。心配掛けてごめんね。ほら、雨の神戸を楽しまなくちゃ。だろ。」
そう言って、駅夫は平櫻にウインクすると、先頭を切って歩き出した。
「本当に大丈夫なんですか。」
平櫻が羅針に小声で聞く。
「顔色を見る限りは今のところね。まあ、少し無理しているとは思いますけど。」
羅針も小声で応える。
「ほら、二人とも遅いぞ。俺に先行かせるってことは、迷子になりたいのか。」
そう言って駅夫は振り向いて、離れたところから周りも気にせず大きな声で二人に声を掛けてきた。
「迷子になんかならないから、そのまま駅の方に向かってって良いぞ。」
羅針はそう言って応える。
駅夫はそれを聞いて、サムズアップをして、スタスタと先へ行ってしまった。
羅針と平櫻は、互いに顔を見合わせて肩を竦め、クスリと苦笑いをした。
駅夫は、二人と距離を取りながら駅へと向かった。
ややもすれば涙が零れてきそうになる目頭を押さえているところを、二人に見られたくないというのが正直なところだった。空元気を見せてはいたが、駅夫の周りではしゃいでいた瑞樹の姿は、今も頭から離れないのだ。
自分の子供ではないと頭では分かっていても、5年間手塩に掛けて育てたのだ。どんなに忙しくても、瑞樹のためなら手間暇を惜しむことはしなかった。一年間の育児休暇も当時男性としては珍しかったし、色んな批判も受けたが、そんなことを気にするような駅夫ではなかった。お前たちの子供じゃない、俺の子供なんだとばかり、しっかりと一年間育児に専念した。
それぐらい目を掛けて育てた娘が、突然奪われたのだ。もちろん自分と血の繋がりもなく、間男の子供だと分かっても、5年という時間は何物にも代えがたい、駅夫の宝物だった。
離婚が成立した時は、悔しくて悔しくて、瑞樹だけでも引き取ろうとも考えたが、弁護士が裁判で不利になるからと言って、首を縦に振らなかった。
結局微々たる慰謝料と引き換えに、瑞樹を手放すこととなったのだ。今思えば、そんな端金のために瑞樹との縁を切る必要はなかったと、後悔ばかりが駅夫を蝕み続けているのである。
駅夫は後ろを歩く羅針には感謝していた。
しばらく精神的にダメになっていた駅夫を救ってくれたのは、他でもない羅針であり、そして秘書の糸原であった。
弁護士との調整から始まり、裁判の手続きやら、離婚調停に至るまで、すべての手続きを羅針は一手に引き受けてくれた。駅夫は、言われるがままに身一つで出向いて、淡々と熟すだけで済んだのだ。
その羅針のサポートをしていたのが秘書の糸原で、二人が尽力してくれお陰で、裁判は上手くいき、本当なら何も獲れなかったものが、微々たるものとはいえ慰謝料を獲得し、彼らを有罪判決にまで持ち込んだのだ。二年もの月日が掛かったものの、弁護士からはこれほどの成果を得られたのは、奇跡だとまで言われる程だったのだ。
だが、得られたものよりも、失ったものの方が大きかった。
その後は、吹っ切るかのように、我武者羅になって働いたが、ふとした切っ掛けで、思い出してしまい、駅夫を過去へと引き摺り戻そうとするのだ。
羅針にもよく言われた。
「失ったものを数えるよりも、得たものを数えろ。お前にはまだ、会社があり、家族があり、友人がいて、俺がいるだろ。」
羅針の言葉は、駅夫の心に染み渡った。駅夫はその言葉を胸に、毎日自分が得たものを数えてきた。その数はもうとっくに五桁を超えた。
それでも、いまだに忘れられないのだから手に終えない。この傷は墓場まで持って行かなければならないのかと、駅夫は半ば諦めてはいるが、こうして時折精神がやられてしまうと、やりきれなくはなるのだ。
駅夫は溢れてくる涙を拭い、駅の改札口を抜け、二人が追いつくのを待った。
一所懸命作り笑いを浮かべながら。




