拾陸之漆
靖国神社の拝殿で参拝を終えた旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、参集殿で御朱印をいただくと、その奥にある遊就館へと向かう。
「この遊就館では、靖国神社が所蔵している品々を公開してるんですよ。英霊たちの遺徳に触れて、学ぶという理念や考え方に基づいて展示しているみたいですね。」
羅針が遊就館の建物へ向かいながら、平櫻に言う。
「そうなんですね。それは是非拝見したいですね。」
平櫻が応える。
「ちなみに、遊就館という名前は、中国の荀子、勧学篇の『君子は居るに必ず郷を擇び、遊ぶに必ず士に就く』という一説から付けたみたいですね。」
羅針が平櫻に説明する。
「荀子って中国の思想家ですよね。どんな意味なんですか。」
平櫻が聞く。
「そうですね。この言葉の意味は、簡単に言うと君子たるもの住む場所を選び、交際する相手には志の高い人物を選べ、というような意味ですね。つまり、住む環境も付き合う人も、君子たるものきちんと選ばなければならないという、荀子の思想そのものを表していますね。」
羅針が答える。
「君子なら何事も選択が大事ってことですか。」
そう言って、平櫻は確認するように聞く。
「そうですね、簡単に言うと、そういうことです。」そう言って羅針は頷き、話を続ける。「ちなみに、荀子は中国戦国時代末、紀元前四世紀末に趙の国に生まれた儒学者で、性悪説を唱えた人物としても知られていて、まさに、この言葉は性悪説に基づいて説かれた言葉なんですよね。
人間というのは元々悪い心を持つものであるから、放っておいたら悪に染まる。だから、環境を整え、悪に走らないようにする必要があるのだと説いているわけです。
そう、それと荀子と言えば、〔青は之を藍より取りて、藍よりも青し〕と言う言葉が有名で、〔青は藍より出て藍より青し〕という成語の元になる言葉を唱えた人でもあるんですよ。」
羅針が、荀子について更に熟々と補足説明を続けた。
「へえ。そうなんですね。」
平櫻は、羅針の流れるような説明に、流石にあっけにとられたが、羅針の知識の深さ、特に中国に関する知識の深さに対し改めて感心した。
その後ろで駅夫がまた始まったかと言うような目で、微笑ましくその後も熟々と説明し続けている羅針を見ていた。
三人が遊就館の入り口を入ると、目の前には日本国旗を掲げたC56形31号機関車がエスカレーター脇に鎮座していた。そしてふと左に目をやると、零式艦上戦闘機五二型や、その奥には89式15糎加農砲、96式15糎榴弾砲などが展示されていた。
「このC56の31はタイとビルマを結んでいた列車で、戦後はタイの国有鉄道で使われていたみたいですね。」
羅針が説明板を見て言う。
「これが、タイとビルマを結んでいたんですね。なんか、誇らしいですね。」
平櫻が当時の様子に思いを馳せ、目を輝かせた。鉄道好きの平櫻としては、日本の機関車が海外の野山を爆走していたことに、言い知れぬ誇りを感じていた。
「この機関車はC56とありますけど、Cの意味は知ってますよね。」
羅針が平櫻に聞く。
「ええ、もちろん分かります。Cは動輪軸が3本あるという意味ですね。ちなみにDは4本で、D51、デゴイチなんかがそうですよね。」
平櫻が得意げに答える。
「流石ですね。よくご存知ですね。
それじゃ、零式戦闘機、ゼロ戦はどうしてゼロという数字が付いているか知ってますか。」
羅針が更に畳みかけるように平櫻に聞く。
「いや、流石にそれは分かりません。機関車については多少なりとも分かりますが、飛行機の、ましてや戦闘機についてはちょっと門外漢です。……当てずっぽうですが、一番最初に開発されたから、ゼロ番ということでしょうか。」
平櫻が降参したように言う。
「お前は知ってるよな。」
羅針はやはり知らないかという表情で、今度は駅夫に聞く。
「ああ、もちろん。以前お前に聞いたからな。皇紀二千六百年に正式採用されたからだろ。」
駅夫が当然だという風に、どや顔で答える。
「ちゃんと覚えてたか。そう、皇紀二千六百年ちょうどなのでゼロなんですよ。」
羅針はそう言って、平櫻に答えを伝える。
「こうきってなんですか。」
平櫻が聞く。
「皇紀というのは、初代天皇である神武天皇が即位した年を元年として数える日本の紀年法で、天皇の皇に糸偏に己と書く紀で皇紀ですね。二千六百年というのはちょうど昭和十五年、ゼロ戦が開発されて正式採用された年に当たるんですよ。」
羅針が説明する。
「そうなんですね。皇紀ですか。そういえば神社なんかで見かけたような気がしますが、全然気にもしてませんでした。」
平櫻が少し照れたように言う。
「まあ、今は神社で見かける以外はほぼ使ってないですからね。
それに、神武天皇が即位したと言われる紀元前六百六十年というのが、そもそも、魏志倭人伝に記された卑弥呼の時代より、十世紀近くも前の話になるんです。だから、時代が合わないんですよね。
邪馬台国が大和朝廷だったのではないか、という話もありますが、そのあたりの謎が解明されていないので、時代考証が必要な紀年法ではあるんですよ。
ただ、現在正式に使われている訳ではないですし、神武天皇のことを調査するとなると、宮内庁が管理する遺跡なんかを発掘調査しなければならないですが、まず、許可が下りないでしょうから、真偽の程は分からずじまいと言うことになりますね。」
羅針が補足で説明する。
「そうなんですね。それはなかなか難しいですね。古代日本って謎が多いですけど、そういうことが一因にあるのかもしれませんね。」
平櫻が少し残念そうに言った。
「そうですね。歴史的には邪馬台国から大和朝廷へと時代が移り変わっていったとされていますからね。もし、この神武天皇即位が紀元前六百六十年というのが正しかった場合、日本の古代史は大きくひっくり返りますからね。まさに上を下への大騒ぎになるでしょうね。」
羅針が言う。
「是非、明らかにして欲しいですよね。」
平櫻もそうは言ったものの、明らかにならなそうで、そんな未来を憂えた。
三人はチケット売り場でチケットを購入し、エスカレーターで二階へと上がり、吹き抜けの廊下を抜けて奥の入り口から展示室へと向かった。
最初の展示室は〔武人のこころ〕として元師刀や和歌などが展示されていた。元帥刀とは元帥に下賜された刀のことで、栄誉称号である元帥を賜った人物が佩刀を許されたものである。日本で元帥の称号を賜ったのは、17名の陸軍元帥と13名の海軍元帥で、帝国陸海軍七十年の歴史の中で30名がその栄誉を賜った。
次の展示室は日本の武の歴史として、鎧や甲冑などの武具が展示されていた。どのように鎧兜が歴史とともに変化してきたかが一目で分かるようになっていた。日本の戦の歴史である。
そして、明治維新、西南戦争、靖国神社の創祀と、この靖国神社が創建された歴史的背景を見て廻った。
「まさに、激動の時代だったんですね。」
平櫻が靖国神社の創祀の展示室に展示されている本殿の大屋根部材の前で、溜息をつくように呟いた。
「そうだね。日本が侍統治の時代から、天皇統治の時代へと転換し、民間人が政務を行う近代国家へと大転換した時代だからね。血で血を洗う生臭い歴史であることは否めないよね。」
駅夫が平櫻に言う。
「そうですね。歴史の教科書で習ってはいても、こういう血の通った人々の歴史だったということをすっかり失念していました。」
そう言って平櫻が額に浮き上がった汗をハンカチで拭った。
「確かに、こういう資料には当時の様子がよく分かる一面がありますが、歴史というのは多面性のあるものだと考えた方が良いですよ。」
羅針が平櫻に釘を刺すような言い方をする。
「そうですね。語られる歴史もあれば、語られない歴史もあるし、嘘で塗り固められた歴史もあるということですよね。」
平櫻が核心を突いたことを言う。
「まあ、そういうことなんですが……。」羅針は平櫻の言葉に少し戸惑いながらも、続けて「私が言いたいのは、歴史というものが、人間の歴史であると言うことを忘れてはならないということです。つまり、年月日と出来事の羅列ではないということです。そこには人の営みがあって、その結果が歴史として記録されていくということなんです。」
羅針は持論を言う。
「つまり、どんな歴史であっても、それは人間が営んできた結果であるということですか。」
平櫻が羅針の言葉を受けて噛み砕いたようにして確認する。
「そうです。平櫻さんが言うとおり、語られる歴史、語られない歴史、嘘で塗り固められた歴史、同じ出来事でもいろんな見方が出てくるのは当然で、それが人間の営みだからです。
立場が違えば見え方も違う。それはどんなものでも言えますよね。たとえば、学校の先生と生徒、会社の上司と部下、女性と男性でも当然異なります。
見え方だけではありません、そこには思惑、思想、信念、感情など人間が持つ様々な思考が絡み合うわけです。そういう有象無象の、人間の欲とも言えるものを形にし、刻んできたのが人間の歴史という訳です。
たとえば、平櫻さんが一つの国家としましょう。そして誕生から今まで平櫻さんが経験してきたことが平櫻国の歴史であるわけです。では、平櫻さん自信がその歴史を語れば正史になるわけですが、ご両親や、ご姉妹、ご友人、そして私たちのようについ最近知り合った人たちが語る平櫻さんは、どうなりますか。」
羅針は突然話を切り、平櫻に問う。
「それは、正史ではなく、野史です。」
平櫻は即答する。
「そうですね。野史です。でも、本当にそれが野史だと言えますか。たとえばご両親が語るあなたの幼少時代、まだあなた自身は何も理解できなかった時代、国で言えば先史時代に当たる時分です。それは紛れもなくあなたの正史ではないですか。初めて言葉をしゃべった、初めて立ち上がった、いついつあんなことをした、こんなことをしたと、ご両親が語るあなたの成長の歴史は、正史ではないですか。」
「確かにそうです。仰るとおりです。」
平櫻は羅針の言葉に頷くしかなかった。
「たった数十年の、自分のことでさえ、自分できちんと語れないんです。それが数千年という人類のこととなればどうですか。それが歴史というものなんですよ。
ですから、国家の歴史、人類の歴史というものは、客観的な資料をどれだけ集め、分析するかによって正史にもなり、野史にもなり得るわけです。」
羅針がそこで一呼吸置く。
「では、私たちが習ってきた歴史というものが正しくないというのでしょうか。」
平櫻が間髪を入れず羅針に問う。
「いいえ、正しい正しくないという問題ではないのです。たとえば、今見てきた明治維新の激動の時代、明治政府樹立は1868年で、これは動かない事実です。ではその事実が動くのは何か、それはそこへ至る過程に対する評価です。
たとえば、明治維新で起こった戊辰戦争や西南戦争では多くの犠牲者が出ました。その数1万とも3万とも言われています。
では、その多くの犠牲者は当時の人口の何パーセントに当たるかというと、約0.1%程なんです。では、他国ではどうだったか、たとえばフランス革命では20から40万の犠牲者があったと言われています。当時のフランスの人口比は約1%前後になります。アメリカの南北戦争に至っては約62万人の犠牲があり、その人口比は約2%に及びます。
そう考えたら、明治維新が、全国的に行われた内戦にもかかわらず、如何に犠牲が少なかったかが分かります。
では、それを聞いて、平櫻さん、あなたはどう思いますか。」
羅針が提示した話を聞いて、平櫻は考え倦ねた。
「確かに、凄く少なく感じますし、それだけで済んで良かったとさえ考えてしまいそうです。」
平櫻は正直にそう答え、そういう考えになってしまう自分を振り払うかのように、頭を横に振った。
「そうなんです、今の今まで犠牲者に対して、血で血を洗う戦いをした多くの犠牲者に対して、禁じ得なかった同情の気持ちが、どこか遠くへ追いやられ、それだけで済んで良かったという、死者への冒涜ともとれるような感覚が湧き上がってくるんです。
これは、平櫻さんが冷徹だからとか、そういう話ではなく、単に歴史を客観視したに過ぎないんです。これが歴史を知ると言うことなんですよ。」
羅針はそう言って、真剣な目を向けて羅針の話に耳を傾けている平櫻に向かって話を続けた。
「これは、データによる歴史の見方です。歴史を客観視しようとすることで、こういう感覚になるわけです。
では、もう一つ別の見方を提示しましょうか。
今私たちが習う歴史というのは、ほとんどが明治政府側から見た歴史です。では幕府側から見た歴史はどうでしょう。想像できますか。」
再び羅針は平櫻に聞く。
「幕府側から見た歴史ですか。……反乱軍やテロリストに政権運営を奪われた、いわば明治政府は犯罪集団ということになりますね。」
平櫻が考え倦ねながらも答える。
「まあ、そうですね。もし、明治政府が立ち上がらず、今も幕府が政権を握っていたなら、正史として明治政府を樹立しようと国家転覆を謀った犯罪集団として、私たちは学ぶことになったでしょう。」
「それが歴史ということですか。」
羅針の言葉を聞いて、平櫻が確認するように言う。
「そうです。勝てば官軍負ければ賊軍って言葉がありますが、要はそういうことです。」
羅針が言う。
「では、私たちは何を信じて学べば良いんでしょう。データを見て客観視して、様々な立場の人に寄り添って学べば良いのでしょうか。」
平櫻がよく分からないという風に問うと、後ろから駅夫が口を挟む。
「俺たちは、何も学ばなくて良いんだよ。学ぶんじゃないんだ、知るんだよ。信じる必要はないんだよ、ただ、事実を事実として知れば良いんだよ。そして、その事実について、平櫻さんあなたが正しいか正しくないかを決めれば良いんだよ。こいつの受け売りだけどね。」
そう言って駅夫は平櫻にウインクする。
「そうです。こいつの言うとおり、平櫻さん自信でそれを判断すれば良いんです。私たちは既に過去の歴史については当事者ではないのですから、立場的には客観視できるはずです。あなたが正しいと思うものが、あなたにとっての歴史であり、正史である訳です。」
羅針が補足するように言う。
「分かりました。要は自分を信じろと言うことですね。そして正誤を見分ける知識と見聞を身に付ければ自ずと歴史を知ることができると、こういうことですね。」
平櫻が自分の中で二人の言葉を消化しようと、自分なりに考えを整理する。
「そうです。そのとおりです。ここに展示されているものは、靖国神社の立場として、その見解を元に展示されている訳です。こういう歴史的立場、こういう歴史的見解があるのだということを知ることで、共感できるもの、共感できないものを自分なりに選り分けていくことが、歴史を知り、歴史を学ぶということに繋がると思いますよ。」
羅針が纏めるように言う。
「そうですね。よく分かりました。なんとなく、こういう資料を見る目が変わった気がします。」
平櫻はそう言って、周囲に並ぶ展示物に目を遣り、何かを決意したように大きく頷くのだった。