拾陸之弐
旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、平櫻の提案によって皇居周辺の散策コースへと向かった。
日本の政治と経済の中心地であり、日本の歴史、文化を造り上げてきたその中心地である東京、および江戸の一端を学ぶということもあるが、何よりも朝のこの時間はラッシュ時間であり、新幹線は混み合っている可能性もあり、羅針が平櫻に水を向けたのだ。
それならと、平桜が提案したのが皇居周辺の散策である。
一周、周り方にも依るが、およそ6㎞強で2時間程の散策コースになる。〔皇居ラン〕として人気のコースで、健康のために走るランナーが多く見られる場所でもある。
ホテルでチェックアウトをした後、そのまま荷物を一旦預け、ホテルを後にした三人は、東京駅の自由通路を抜けて、丸の内口側へと移動する。
丁度始業時間前のラッシュ時間、それぞれのオフィスへ急ぐ会社員たちが足早に三人を追い抜いていく。
今日は朝からドンヨリとした雨模様で、今にも雨が降り出しそうな湿気が身体に纏わり付く。梅雨の真っ只中といった天気に季節を感じつつ、三人は皇居へと続く通称行幸通りと呼ばれる都道404号皇居前東京停車場線を歩く。
中央に公園のような分離帯があり、良くウエディング撮影などがおこなわれたりしているが、大抵が無許可で良くトラブルになっていたりする。
今日は生憎の天気で撮影隊はいなかったが、東京駅を写そうとカメラを構えた観光客が幾人かいた。
「ここですね。ウエディング写真とかで良く見る場所は。」
平櫻が後ろを振り返りながら呟く。
「そうですね。撮影スポットとしては絶好の場所ですからね。」
羅針が応える。
「でも、良くトラブルになってるぜ。撮影の邪魔だとか言って、通行人を強制的に迂回させたり、観光客が撮影を楽しんでいるのを無理矢理どかしたりして、暴力沙汰にもなってて、良く警察が来てるよ。」
駅夫が呆れたように言う。
「都道だからな。本来なら東京都と警視庁の許可さえ取ってれば別段通行止めにしたりすることは問題ないけど、こういうのって大抵がゲリラ撮影だから、当局に見付からないうちにって、撮影スケジュールがタイトなケースが多いんだよ。
だから、撮影隊もピリ付いてるし、カメラマンに余裕が無いから、通行人が捌けるのを待つ余裕も無いし、待つことが出来ない。
当然トラブルにもなるよ。自分たちが使わせて貰ってるっていう謙虚さが微塵も無いからね。
そういうのがいるから、カメラを使う人間は悪の権化みたいな目で見られるんだよ。
撮り鉄といい、迷惑な奴らが多すぎる。カメラを趣味にしてるのが恥ずかしくなるぐらいだよ。」
羅針がそう吐き捨てるように言う。
「そうだよな。ニュースにもなるぐらいだから、よっぽどだよな。
それにしたって、撮影隊にも撮影隊の理由があるにせよ、そんないい加減な業者じゃ、撮って貰う新婚夫婦にとっても迷惑な話だな。」
駅夫が言う。
「そうですね。折角記念の為と撮影に挑んだのに、そんなトラブルに巻き込まれるなんて、新たな門出が汚されるようじゃないですか。」
平櫻も同意する。
「確かにそうですね。でも、そういった悪徳業者って後を絶たないから、依頼者側も引っかかってしまうんですよね。口コミや評判だけでは見抜けない部分でもありますから。」
羅針が言う。
「そうなんですね。でも、何かしら選択する上で注意するべきことってないのかしら。」
平櫻が頭を捻る。
「なに、なに、平櫻さんもウエディングフォトお願いするつもりなの。」
駅夫がからかう。
「そうじゃないですよ。もう。どうせ、私は結婚する当てもないですよ。……ただ、そう言う悪徳業者ってどんな業界にもいるじゃないですか。何かの参考にでもなるかなと思って。」
駅夫の言葉に口を尖らかせながらも、羅針に参考意見を聞く。
「参考になるかどうかは分かりませんけど、契約は口頭ではなく書面で結ぶことですね。それから、こういった撮影依頼について言えば、関係各署にきちんと許可取りをしているかどうかも確認すべき点でしょうね。関係各署に直接確認するのも手ですね。時間があるなら、撮影現場に同行して、見せて貰うのも手かも知れません。仕事の遣り方って、どんなに繕っても、ボロは出ますからね。」
羅針が考えられる点を言う。
「なるほど。でも、有名なカメラマンだったり、名の通った業者だったら大丈夫だったりしませんか。」
平櫻が確認するように言う。
「それはないですね。有名なカメラマンの中には、そう言う手続きを面倒くさがる人もいるし、業者が経費節減とかなんとか言って、そう言った手続きを省いているケースもあるので、更に注意が必要だと思いますよ。有名ってことは、そう言うトラブルを回避する手法を駆使して、上手く立ち回っていることも考えられますから。」
羅針が答える。
「つまり、人は信用ならないってことだよ。」
駅夫が平櫻に言う。それは羅針の思想的、思考的根幹でもある。
「あっ、そういうことですね。納得しました。」
羅針にとっては平櫻が何を納得したのかは分からないが、駅夫の一言で理解はしたようだ。
「そういうことです。自分で確認した上で、業者を選択するのが悪徳業者に引っかからない唯一の手段だと思いますよ。」
羅針が二人の遣り取りに首を傾げながらも、そう締め括る。
「分かりました。ありがとうございます。」
羅針の心情を理解しながらも、平櫻がお礼を言う。
「さあ、先進もうぜ。いつ雨降るかわからないし。」
駅夫が空を見上げて言う。
「そうだな。」
ドンヨリした雨模様の空は、今にも雨粒を落としそうな程重苦しくなっていた。
「ほら、お二人とも、雨は雨で楽しみましょ、雨の東京も乙なんでしょ。」
そう言って平櫻はにこやかに二人を促す。
「そうだな。あのなんとかって臭いさえなければ、良いもんだぞ。あれなんて言ったっけ、アスファルトの臭い。」
駅夫が思い出しそうで思い出せないと言う。
「ペトリコールな。」
羅針が答える。
「そう、そのペトリ……。」
駅夫が詰まる。
「ペトリコール。」
羅針がもう一度言う。
「そう、そのペトリコール。あれだけはいただけないからな。」
駅夫がその後も繰り返し口の中で唱えて、漸く覚えたようだ。
「ペトリコールですか。確かに嫌な臭いに感じることが多いですよね。でも、ほら、景色は楽しめるでしょ。雨音も良いものですし。」
平櫻が食い下がる。
「そうだね。」
駅夫が渋々頷く。
「じゃ、本当に雨が降ってこないうちに行こうか。」
羅針が二人を促す。
二人は頷いて羅針の後に付いて歩き出した。
三人が突き当たりを横切る都道301号線を超えると、そこは大きな広場になっていた。皇居外苑と呼ばれる皇居前広場で、ロータリーにもなっている。
右に行けば桔梗門と呼ばれる内桜田門があり、正面には坂下門、そして左手には正門と、歌にも出てくる二重橋がある。
更にその奥には井伊直弼が暗殺された桜田門もある。
三人は、ロータリーの入口で立ち止まった。
「ここは一月二日になると一般参賀で訪れる人々でごった返す場所だね。ちょうどあの堀の向こうに長和殿があって、天皇陛下御一家が御挨拶される場所があるんですよ。」
羅針が早速説明を始める。
「へえ、こんな場所にあのテレビで見る場所があるんですね。お二人はいかれたことあるんですか。」
平櫻が聞く。
「俺はないね。」と駅夫。
「私もないですね。」と羅針。
「そうですか。一度は行ってみたいですね。どうですか、来年行きませんか?」
平櫻が提案する。
「ものの試しに行ってみるか。」
駅夫が言う。
「まあ、日本国民なら天皇陛下の御尊顔は拝むべきだとは思うけど、もの凄い人らしいですよ。」
羅針が少し躊躇する。
「ですよね。なら、朝早くから並びましょ。ねっ。」
平櫻が食い下がる。
「そうですね。多分6時とか7時位から並べば、それなりに良い場所に辿り着けるかも知れないですし。行ってみますか。」
羅針もそう言って参入することに同意する。
「ところで、今はここを皇居と呼んでますが、元々は何だったか知ってますよね。」
羅針は皇居の方に歩き出しながら、平櫻に聞く。
「ええ、もちろん江戸城ですよね。」
平櫻が当然のように答える。
「では、築城されたのはいつか分かりますか。」
羅針が続けて質問する。
「えっ、太田道灌が築城したというのは知ってますが、年代までは。1603年が江戸幕府開府だから、その前ということは分かりますけど、当てずっぽうですが、1590年位ですかね。」
平櫻が頭を捻りながら答える。
「俺知ってるぞ。」横から駅夫が手を挙げで「1457年だろ。」と答える。
「そんな前なんですか。」
平櫻が駅夫の答えに驚いている。
「そうですね。1457年です。って、お前は、俺が何度も教えたからな。」
羅針はそう言って、駅夫に呆れつつも、少し嬉しそうだ。
「実は、江戸城は徳川家康がこの地に幕府を開くために建てた城ではないんですよ。元々太田道灌が房総に勢力を拡大していた千葉氏への牽制として、また、元々この辺りを勢力圏にしていた江戸氏の残存勢力を牽制するために築城したとも言われていて、太田道灌がこの地を足掛かりに勢力を拡大する拠点としたことに始まるんです。」
羅針が説明する。
「千葉氏は知ってますが、江戸氏っていたんですね。初めて聞きました。」
平櫻が驚いたように言う。
「ええ。元々この辺りは江戸と呼ばれてましたから、その地名を受け継いだとも言えます。鎌倉幕府の御家人で、秩父氏の流れを汲む一派がここの辺りを領地にしていたようですね。」
羅針が言う。
「へえ、そんな氏族がいたんですね。」
平櫻が言う。
「はい。ただ、鎌倉幕府が倒れ、室町幕府になると江戸氏は衰退の一途を辿り、やがて江戸から去ったようです。その後にやってきたのが太田道灌ですが、その彼も様々な誹謗中傷に晒されて、1486年、55の歳で暗殺されたと伝えられています。ちょうど自分たち位の歳ですね。」
羅針が少し残念そうな表情で言う。
「太田道灌って、知識も統率力もあって、素晴らしい武将だったって聞きますけど、やはり嫉妬か何かですか。」
平櫻が聞く。
「そう伝えられていますね。主君にも冷遇されていたらしく、書簡が残っていたりするので、働きの割には待遇は良くない上、嫉妬に晒されていたようですね。」
羅針が答える。
「なんか、見苦しいですね。でも、そういう時代だったんですよね。」
平櫻がそう言って納得しようとする。
「時代は関係ないって、男の嫉妬程恐ろしいものはないからね。今の時代だって、妬み嫉み、誹謗中傷、ネットなんか見てるとそんなので溢れかえってるじゃん。命だって狙われるのは、いまだに変わってないよ。」
駅夫が横から口を挟む。
「確かにそうかも知れませんね。昨日は大正から日本って変わってないって話でしたけど、今度は室町時代から変わってないって話ですか。日本っていったい何が変わったんでしょうね。」
平櫻が、少し皮肉めいて言う。
「科学技術と生活様式だけじゃないですかね。人間の根本なんてそんな簡単に変われるものじゃないですし、いくら社会的価値観が変わったって言っても、個々の価値観は欲求によって決まるものですし、その欲求は人間の三大欲求に基づくものですから、変わり様がないのかも知れませんね。」
羅針が自分なりに分析する。
「なるほど。確かにそうかも知れませんね。」
平櫻も羅針の言葉に頷いた。
三人は、丁度お堀の目の前まで歩いてきた。
「太田道灌が築城したこの江戸城が、回り回って徳川家康の居城になってから、大改造が始まったんですよ。
当時江戸はその名の通り、川や入り江ばかりの湿地帯で、とても大都市になれるような場所ではなくて、日比谷入り江が日本橋の目と鼻の先にまで入り込む海辺の片田舎だったんです。京都から見れば辺境の地ですよね。」
そう言って羅針が目の前のお堀を見渡す。
「そんな、辺境の地にどうして、家康は幕府を開いたんですか。歴史では豊臣秀吉に命じられたからと習ったと思うんですが。」
平櫻が聞く。
「確かに、そんな場所に幕府を開く、まあ当初は居城にするだけでしたけど、考えられないですよね。家康は既に駿府に拠点がありましたから、わざわざ引っ越しする意味がないですよね。
家康の江戸入りは、北条氏の後釜として関八州、つまり、武蔵国、伊豆国、相模国、上野国、上総国、下総国、下野国、常陸国を封じよと命じられたことで実施されるんですが、すでに拓けている小田原や鎌倉でも良かった訳です。
ところが、家康はそうしなかった。
理由は色々とあると思いますが、先見の明があったと言ったところでしょうか。
確かに江戸という地は、地理的に見ても、関八州に睨みを利かせるには最適な場所でもありますし、何よりも何もない訳ですから、家康の好きにできる利点もあったと思います。
既に拓けている街だと、いくら武士の命とはいっても、町人たちを右から左へ移動させたりするのは簡単ではなかったでしょうし、城下町から無用の反発を買う必要もないわけですからね。」
羅針が自分の私見も交えて、立て板に水のように蕩々と説明する。
「なるほど。確かにそうですね。自分の好きなように出来る地がそこにあれば、そっちを選ぶのは当然ですね。ましてや、地理的にも最適となれば、俄然魅力的に見えてくるでしょうね。」
羅針の話を真剣に聞いていた平櫻が納得したように言う。
「そうですね。それを証拠にというか、家康が入城してから、すぐに江戸城の大改造が始まって、現在とほぼ同じ規模の江戸城に仕立て上げるんです。
更に城下町の整備も進められ、特に1603年家康が征夷大将軍になってからは、江戸の重要性は当然鰻登りで、江戸の整備は国家事業として、多くの武将に普請が命じられて、全国各地から江戸の整備のために人々が集められたんですよ。」
「それが、前にも仰ってた、江戸に独身男性が多い理由ですよね。」
平櫻がそう言ってにこりと笑う。
「そうですね。ちなみに、歌でも有名な神田川ですが、あの川も実は人工川で、元々平川という川を、飲料水確保のために流れを変えて、神田上水にしたり、木製の水道管を江戸中に張り巡らせたのも、この頃からですからね。」
羅針が付け加えるように言う。
「そうでなければ、当時100万人都市なんて実現出来ないですよね。」
平櫻が言う。
「そうですね。江戸末期には世界一の巨大都市だったというのは、この家康がおこなった基礎工事がなければ実現出来なかったでしょうね。そういう意味でも家康には相当な先見の明があったのかも知れませんね。200年以上先、300年、400年先の未来を見据えていたのかもしれませんね。」
羅針がそう言って、平櫻に置いていた視線を、再び目の前に広がるお堀へと移し、当時に思いを馳せるような遠い目をした。
「そろそろ先へ行かないか。ここで江戸時代265年すべてを語ってたら、日が暮れるぞ。」
駅夫がしびれを切らしたように言う。
「そうだな。ここで語っていたら、いつまでたっても動けないから、歩きながら話をしましょうか。」
駅夫の言葉を受けて、羅針が平櫻にそう言って移動を始めた。
「はい。」
「おう。」
平櫻と駅夫が応えて、羅針について歩き出した。