拾陸之壱
朝6時。
星路羅針にとってはいつもの朝だ。ここ一ヶ月ホテル暮らしが続いたためか、既にこの暮らしにも慣れた。
これまで、平櫻佳音のように旅烏のような生活をしてきた訳ではなかったが、枕を変えても平気で寝られるので、この生活に適応するのにも、然程時間は掛からなかった。
いや、むしろ水を得た魚のように、活き活きとしていたかも知れない。
羅針はいつものようにスマホがアラームを鳴らす前に解除した。
昨日は日本橋界隈だけでなく、東京スカイツリーに初登塔を果たし、夜は泥鰌を堪能し、浅草寺を参拝した後は、電気ブランを味わった。
あの痺れる喉越しは何度味わっても良いものである。白酒の刺激的で焼けるような喉越しも良いが、これはこれで病み付きになる。まあ、数年に一度、浅草に足を運んだ時にだけ味わうから格別なのかも知れないが。
酒の話では平櫻とも盛り上がった。
帰りの車内でも、羅針は中国各地で呑んだ変わり種の酒について、講釈を垂れてしまった。
内モンゴルで呑んだ、馬の乳を発酵させた、ヨーグルトのような味わいの馬奶酒《ma nai jiu》、チベットで呑んだ、青稞と呼ばれるいわゆる裸麦を発酵させた、素朴な味わいの青稞酒《qing ke jiu》、雲南で呑んだ、竹筒の中で発酵させて作る竹筒酒《zhu tong jiu》、などは羅針の中でもトップスリーに入る変わり種の銘酒であり、日本ではなかなか味わえない、現地の風土が生み出す酒として、印象に残っていた。
そんな話を、平櫻は飽きもせず熱心に聞いてくれた。時折興味を持ったように質問してくれたりするから、羅針の講釈は自然と熱を帯びていった。
羅針にとって平櫻は、旅仲間であると同時に、呑み仲間になりつつあった。
ただ、駅夫以外にここまで熱心に羅針の話に耳を傾けてくれる人物は、正直言って詐欺で近づいてきた人間以外では皆無であったため、羅針の平櫻に対する警戒心は爆上がりしていたはずだったのだ。
ところが、そんな平櫻に対し、羅針は精神的に病んでしまったとは言え、迷惑を掛けてしまったことで、逆に信頼するまでに到ったのだ。雨降って地固まるとはまさにこのことかも知れない。
平櫻に迷惑を掛け、突き放し、追い払おうとしたにもかかわらず、それでも自分と旅を続けたいと申し出てくれているのだ。
財産が目当てとか、何か目的があってとか、詐欺を働こうとか、そんなことが裏にあったとしても、平櫻の誠意だけでそんな疑念は霞んでしまった。
一昨日の自分がしでかしたことを、今思い返しても羅針は顔から火を噴きそうだった。
それでも、平櫻はそんな羅針に嫌気が差すことなく、昨日は今までどおり旅に同行し、三人で共に楽しむことが出来た。
平櫻の楽しそうな笑顔を見て、羅針はそう感じて、少し気持ちが楽になったのだ。
そんな嬉しさもあってか、昨日は最後に少し羽目を外してしまった。あの店の前を通って素通りは出来ないだろし、する気もなかったのだが。
羅針は、隣で鼾を掻いて寝ている旅寝駅夫に向かって、そう独り言ちた。
まあ、そのせいで、負けず嫌いの旅寝駅夫に火が着いて、酔い潰れてしまったその巨体を抱えて、タクシーでホテルまで戻ってくる羽目に陥ったのは、想定外だったが。
「……いや、自業自得か。」
羅針はそう独り言ちた。
そんな当の本人は、今そこで大鼾を掻いて寝ている。
「後、30分だけの猶予だぞ。」
羅針はそう言って、笑いながらベッドから抜け出し、洗面所へ向かって、洗面をすませた。
今回のホテルは前回の超高級ホテルからの引き落としが酷いと予想していたが、なかなかどうして、設備もきちんとしており、内装はシンプルかつお洒落で、とてもビジネス用のホテルとは思えない趣である。
ベッドは流石に高級ホテル並みとはいかないまでも、寝心地は悪くなく、酔った身体に心地よい眠りを与えてくれた。
とても高級ホテルの七分の一の料金とは思えなかった。
流石東京の一等地で営業するだけある。安かろう悪かろうはなしってことだ。超高級ホテルと比べる方が酷というものか。
羅針はそんな風に感心し、ルーティン作業を始めた。
集中して作業をしていた羅針は、危うく6時半を過ぎるところだったが、然程超えることなく、駅夫を起こしに掛かった。
「ん~お~は~よ~。」
いつもの駅夫の第一声である。
「大丈夫か。」
羅針が聞く。
「な~にがぁ。……っていってぇ。」
どうやらまだ寝惚けてるようだったが、突然痛みに襲われたのか、頭を押さえてベッドの上で蹲った。
「なにがって、その二日酔いだよ。ほら、これ飲め。」
そう言って羅針は冷蔵庫で冷やしておいた、ペットボトルの水と頭痛薬を手渡す。
「あんがと。」
そう言って、駅夫は薬を放り込み、ゴクゴクと水を半分程飲み干す。
「シャワーでも浴びてくればすっきりするぞ。」
羅針はそう言って駅夫に浴室へ行くよう促す。
「分かったぁ。」
駅夫はそう良いながら、まだ半分寝惚け眼で、二日酔いでズキズキする頭を小突きながら、着替えを持って浴室へと向かった。
羅針がルーティンの続きをしていると、シャワーを浴びてすっきりした顔で駅夫が浴室から出てきた。
「薬ありがとな。」
駅夫が改めて言う。
「どういためしまして。」
羅針が巫山戯る。
「おっ、出たイタメシ。」
駅夫がそう言って笑う。
「そろそろ朝食の時間だから、準備しとけよ。待たせると平櫻さんにドヤされるからな。」
駅夫の反応をスルーして、羅針がそう言う。
「確かに。食い物の恨みは恐ろしいからな。」
駅夫は、笑いながらそう言って、汚れ物をリュックに詰め込み、身の回りを整理して、朝食へいく準備を整える。
「ところで、昨日あれからどうやって帰ってきたんだ。」
駅夫が、真剣な顔をして聞いている。どうやら、記憶が飛んでいるようだ。
「ああ、昨日は平櫻さんと二人でお前を担いで歩いて帰ってきた。」
羅針が巫山戯る。
「そうか、それは重かっただろ。ってそんな訳あるか。タクシーか何かか?」
「そう。タクシーだよ。お前から貰ってるタクチケをしっかり使わせて貰いました。」
嫌みのようにそう言って羅針が笑う。
「そうか、それなら良いんだけど。もし、実費がかかったんなら払おうと思ったからさ。」
駅夫は何かの時に使ってくれと、以前からタクシーチケットを羅針に手渡していたので、経費で落ちることになる。それを羅針が使ったと言うので、一安心したようだ。
「ご心配なく。その辺は抜かりないよ。ただ、平櫻さんにも一言謝っときな。すっごく心配してたから。」
「分かった。それはもちろん。」
駅夫はそう言って頷く。
「そろそろ時間だから行こうか。」
羅針が時計を見て言う。
「ああ。」
駅夫も頷いて、後に続く。
部屋を出て朝食会場に現れた二人は、平櫻と合流する。既にきちんと身嗜みを整えて、二人を入口で待っていた。とても昨日遅くまで呑んで歩いたとは思えない身形だった。
「おはようございます。」と平櫻。
「おはようございます。」と羅針。
「おはよう。昨日は、ありがとうね。随分迷惑掛けちゃって。」と駅夫が平櫻に頭を下げる。
「いいえ、お気になさらず。それよりもお身体大丈夫ですか。」
平櫻が心配そうに聞く。
「ああ、このとおりピンピンしてる。少しまだ頭が痛いけど。薬も飲んだし、概ね大丈夫だよ。ホントにありがとうね。」
駅夫がガッツポーズをして、再び頭を下げる。
三人は声を掛け合うと、朝食会場へと進んだ。
朝食会場の内装もやはりお洒落だ。シンプルながらも洗練された感がある。
床のタイル、壁紙、そして柱に施された石の模様。どれも華美になりすぎず、落ち着いた雰囲気を演出している。
三人は席に着くと、早速ビュッフェ形式で並べられた料理を取りに向かう。
メニューは洋食中心で、ソーセージやスクランブルエッグ、ポテトなんかの定番料理が揃っていた。目新しい料理はないが、一通りテーブルに並べると結構華やいだ食卓になった。
三人は手を合わせていただきますをすると、早速、パンから手を付ける。
厨房で焼いているのか、口に頬張ると焼きたての良い香りが鼻を抜けていく。
「これ美味いな。」
駅夫が美味そうにパンを囓ってる。
「二日酔いでそれだけ食べられれば大丈夫だな。」
羅針が駅夫の様子を見て笑う。
「本当に一時はどうなるかと思ったんですから。」
平櫻もそう言って笑う。
「ごめんって。」
駅夫がそう言って頭を掻く。
「まったく、酔っ払いを腐しといて、まさか見事にフラグを回収するとはな。」
羅針は笑いながら言う。
「そう言えば、そんな事仰ってましたね。ああはならないようにしようとかなんとか。」
平櫻も羅針に乗ってからかう。
「お前ら、勘弁してくれよ。悪かったって。ほら、このパン食べて良いからさ。」
そう言って自分が持ってきたパンを二人に差し出す。
「それ、俺もあるし。」
「私も持ってます。」
羅針と平櫻がそう言って、袖にする。
三人は、一呼吸置いて、声を上げて笑った。
「まったく、笑かすなよ。」
「もう、本当におかしいんだから。」
羅針と平櫻が駅夫を詰る。
「まったく、お前ら俺で遊んでるだろ。ったく。」
駅夫はそう良いながらも、照れ臭そうに笑っていた。
朝食を終えた三人は、チェックアウトを済ませてホテルから出た後、このまま次の目的地である南魚崎駅へと向かっても良かったのだが、日本の歴史、そして政治と経済の中心地である東京にいるのだからと、もう一箇所、是非見ておきたいと平櫻がリクエストした。
「マジで。それマジで言ってる。」
新幹線の中で二度寝をするつもりだった駅夫は当てが外れて驚いている。
「日本の歴史を作った場所なんだから、見ておかなくちゃ。ですよね。」
羅針はそう言って平櫻に振る。
「ええ。そうですよ。昨日、歴史に関心を持つべきだって仰ったじゃないですか。」
平櫻はわざと、昨日原首相遭難現場で今の日本社会を腐していた駅夫の言葉を、そっくり返す。
「それとこれとはべ……。」
「別じゃないよ。」
駅夫の言葉を遮って、羅針が言う。
「分かった。分かったよ。じゃぁ、タクシーで……。」
「いや、徒歩だな。」
これまた駅夫の言葉を喰い気味で遮って、羅針が言う。
「そうですね。じっくり見たいですもんね。」
平櫻も同調する。
「お前ら、絶対俺をからかって楽しんでるだろ。」
駅夫が核心を突く。
「そんなことないですよね。」
「ああ、そんなことないぞ。」
平櫻と羅針は二人して恍ける。
「はい、はい。すべて俺が悪いよ。分かったよ。歩くよ。」
そう言って、悲痛な面持ちで決死の覚悟を決めた駅夫が散策コースに参加することを同意する。
「それじゃ、酔っ払いの同意も得たことですし、行きましょうか。」
羅針が平櫻に言う。
「そうですね。酔い醒ましには良い運動になると思いますし。」
平櫻もそう言って頷く。
「やっぱり、お前ら……。」
駅夫が悔しそうにしているのを見て、羅針と平櫻は声を上げて笑った。
そうして、三人は皇居周辺の散策コースへと足を向けることにしたのだった。