拾伍之廿陸
浅草のバーに転がり込んだ旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、電気ブランを呑みながら、酒談義を交わしていた。
駅夫は一人蚊帳の外で、一人チビリチビリと電気ブランと格闘していた。
「ところで、星路さんは中国に行かれてから、お酒に強くなったって仰ってましたけど、それまではそんなに呑まれなかったんですか。」
平櫻が羅針に聞く。
「そうですね。人付き合いもしなかったですし、大学でも職場でもあまり飲み会に参加するってことはなかったですからね。やはり本格的にお酒に目覚めたのは中国に行ってからですね。平櫻さんはどうなんですか。」
「私は、それこそ、大学デビューですね。サークルで年中飲み会を開いてましたから、そこで鍛えられましたね。実家に帰っても、両親が典型的な薩摩隼人、薩摩おごじょなんでよく飲むんですよ。その影響もあってか、私も自然と呑めるように……。」
平櫻は少し照れたように言葉を濁す。
「薩摩隼人に薩摩おごじょですか。薩摩と言えば焼酎のイメージですが、やはりご両親も焼酎を良くお飲みになるんですか。」
「そうですね。お酒は何でも好きみたいですけど、焼酎だけは欠かしたことはないですね。昔から晩酌は焼酎でしたし。子供の頃はあの匂いが嫌だったのに、いつの間にかあの匂いに引き寄せられてしまうんですから、血は争えませんね。」
平櫻はそう言って笑う。
「そう言えば、ウチの両親も酒飲みではあるかな。たいした量は呑めなくても、晩酌はほとんど欠かさないですからね。確かに血は争えませんね。」
羅針もそう言って笑う。
「ところで、星路さんはやはり中国酒が一番お好きなんですか。何でも飲まれるイメージなんですけど。」
平櫻が聞く。
「そうですね。確かに白酒は度数の強い酒として最高ですが、その中でも一番好きなのは二鍋頭《er guo tou》という、北京で作られるお酒ですね。」
「あーるごーとですか。」
「そうです。二つの鍋の頭って書くんですけど、白酒は基本的に蒸留酒なんですが、冷却水を加えて作るんですね。加熱しては加水し、加熱しては加水しを繰り返すんです。
加水一回目を〔酒頭《jiu tou》〕、酒の頭ですね、三回目を〔酒尾《jiu wei》〕酒の尾っぽと言うんですが、二回目のものが一番口当たりが良いので、それが二鍋頭として商品化されたようなんです。」
「つまり、一番口当たりが良い白酒と言う訳ですね。」
「そうです。日本ではなかなか手に入らないので、通販か中華街なんかで手に入れるしかないんですけどね。」
羅針はそう言って照れ笑いする。
「ちなみに、その二鍋頭って度数はどれくらいなんですか。」
「一般的に56度ですね。然程高くはないですよ。」
「いや、充分高いから!」
話を聞いていた駅夫が横から突然口を挟む。
「そうですね。これが40度ですから、それ以上ですもんね。」
平櫻は駅夫の発言にビクッとしながらも、自分の手の中にある電気ブランのグラスを翳す。
「確かに、56度は高いかもしれませんね。」
羅針は笑いながら言う。
「二人とも、さっきからずっと酒の話でよ。俺にはついて行けないよ。」
少し寂しそうに駅夫は言う。その手に持っている電気ブランのグラスは、チビリチビリと呑んでいたはずが、既に8割方空になっていた。目も大分トロンとしている。
「悪ぃ、悪ぃ。」
羅針が謝る。
「そう言えば、旅寝さんは星路さんのようにお酒強くならなかったんですね。何か理由とかあるんですか。体質なら仕方ないと思うんですけど。」
平櫻が素朴な疑問として、駅夫に聞く。
「俺が、酒に弱い理由ぅ?」
そういう駅夫は、少し呂律が回っていないが、意識ははっきりしているようだ。
「はい。何か理由があるんですか。」
平櫻が再度聞く。
「俺は、弱くないぞ。こんな酒だって、ほら。……どうだ。ざっとこんなもんだ。」
駅夫はそう言って、残っていた電気ブランを一気に呷った。
「わっ、……大丈夫ですか。」
平櫻が驚いて、心配になって聞く。
「だ、い、じょ~ぶ。」
駅夫は完全に出来上がっていた。
「こりゃ駄目だ。すみませんお水を頂けますか。」
羅針は、慌てて店員にお水を貰った。
「すみません。ありがとうございます。……ほら、これを飲め。」
羅針が水を持ってきてくれた店員にお礼を言って、駅夫にその水を飲ませる。
「ふぅ~。うまい。」
駅夫は人心地ついたようだ。
「こいつの言うように、酒に弱くはないですよ。」
羅針は、脱力してテーブルに肘をついて顎を乗せている駅夫を見て言う。
「そう。おれは~よわくぅ~ないぞぉ~。」
駅夫の呂律が完全におかしい。
「分かった。分かった。ほら、ちゃんと水飲みな。……こいつもね、ゆっくり呑めば全然問題ないんですよ。ただ、ほら、私とペースを合わせちゃうからね。どうしてもこうなっちゃうんですよ。」
羅針が駅夫をいなしながら、平櫻に説明する。
「そうなんですね。自分のペースで呑みましょうね、エッ君。」
平櫻は、以前聞いた旅寝の愛称で呼ぶ。
「はい。」
母親にでも叱られた気になったのか、駅夫は素直に返事をして、シャキッと姿勢を正している。
その様子を見て、声を上げて羅針が笑っている。
「弱い訳じゃないから、大丈夫だと思うけど、最終兵器を発動するか。……すみません。これお願いします。」
羅針は、もう一枚隠し持っていた食券を店員に提示した。
暫くして店員が持ってきたのは、ウーロン茶だ。
「ほら、これを飲め。」
店員に礼を言うと、羅針はウーロン茶を駅夫に飲ませた。
駅夫は一気に半分近くを飲み干すと、「ふぅ~」と大きく溜め息をついた。
「大丈夫か。」
「大丈夫だよぉ~。」
羅針の言葉に、まだ少し呂律が怪しかったが、どうやら少しは復活したようだ。
「本当に大丈夫なんですか。」
平櫻が心配そうに、駅夫の顔を覗き込む。赤ら顔で、呂律も少しおかしかったが、どうやら意識はしっかりしているようだ。
「俺が酒に弱い理由だっけぇ。」
駅夫が既に終わった話を蒸し返す。
「それなら、今星路さんが……。」
平櫻が何かを言おうとするが、それを遮るように駅夫が話し始めた。
「俺だって、ちゃんと呑めるんだよぉ。それをさも呑めないみたいに言いやがってぇ。
大学の飲み会で散々鍛えられたんだぜ、一気だって平気で散々やってきたんだ。まあ、どうせお前らにとっては赤子が呑むようなビールばっかりだったけどよぉ。」
そう言って、駅夫は悔しそうだ。完全に絡み酒である。
平櫻と羅針は目を屡叩かせて、顔を見合わせている。
「俺だって色んな部活から引っ張りだこだったから、助っ人として行くたんびに打ち上げに呼ばれて、体育会系の屈強な連中に混じって、何度も朝まで飲み明かしたことだってあったんだ。
それが、こいつと呑むと、自分が井の中の蛙だったって思い知らされるんだ。
俺たちが酒として呑んでいたビールを、こいつは水みたいに呑むし、度数が10度を切ると酒じゃないって言うし。負けたくないだろ、俺だってそのぐらい呑めるって言いたいだろ、でも、敵わないんだよ。まるで子供の草野球にプロが参戦したみたいな、レベルが違うんだよ。」
駅夫が一気呵成にぶちまける。
「お前酔ってるだろ。」
羅針が言う。
「酔ってねぇよ。こうなったら勝負だ。」
駅夫はそう言って、もう一杯駅夫のためにと注文しておいた、電気ブランの入ったグラスを翳す。
「おいおい、無理はするなって。」
羅針が制止する。
「ほら、お前も持て。」
駅夫が羅針にもグラスを持つように促す。
「いや、もう空だから。」
羅針は自分のグラスが二杯とも既に空になっていることを示す。
「ほら、旅寝さん、そんな勝負なんてしないで良いんですよ。」
平櫻がそう言って、駅夫が持っているグラスを降ろさせる。
「……よっぽど悔しかったんですね。」
テーブルに突っ伏してしまった駅夫を見て、平櫻が言う。
「そうですね。こいつも負けず嫌いだからね。」
羅針がそう言って、駅夫から取り上げたグラスを呷る。
「でも、旅寝さんも確かにお強くはないですけど、弱くもないですよね。」
平櫻が擁護するように言う。
「そうですね。私と張り合おうって言うのが土台間違えてるんですよ。それに、私に負け続けてるから、自分は弱いんだって自己暗示に掛かってるのかも知れませんし。」
羅針が言う。
「でも、お酒で張り合うなんて、身体壊すからやめた方が良いのに。」
平櫻が心配そうに言う。
「ですよね。まあ、負けず嫌いは昔からだから、いまさら本人もどうしようもないんじゃないですかね。」
羅針が諦めたように言う。
「そうかも知れませんけど。もうお若くはないんですし。」
平櫻が諫めるように言う。
「そうですね。歳を考えなきゃいけない歳になってしまってるんですよね。」
そう言って羅針は苦笑いをする。
「そうですよ。でも、大丈夫なんですかね。すっかり寝息立ててますけど。」
完全に突っ伏して寝息を立てている駅夫を見て、平櫻は更に心配する。
「そうですね。昨日から私に気を遣いっぱなしでしたからね、きっと疲れてたんですね。前に飲みに来た時は、二杯は呑めてましたからね。」
羅針が反省の念を込めて言う。
「旅寝さん色々気を回してくれてましたから。」
平櫻は多くを言わないが、羅針にもその辺が伝わると良いなと思った。
「そうですよね。それには感謝してます。もちろん、平櫻さんあなたにも。お陰で色んなことが吹っ切れましたし、あなたとこうして蟠りなく話が出来る。二人には感謝してもしきれないですよ。」
羅針は改めて礼を言う。
「そんな、私は別に何も……、それにお礼を言うのは私の方ですから。」
平櫻も改めて羅針に礼を言う。
「でも、本当に大丈夫なんですか。急性アルコール中毒とかじゃないですよね。」
平櫻は本気で心配になってきた。
「まあ、大丈夫ですよ、寝息を立てているなら。急性アルコール中毒で一番怖いのは呼吸困難に陥ることで、仰向けに寝かせるのが一番危険なんです。こうやってうつ伏せに寝て、呼吸している分には、身体がアルコールを分解しようとしているんで、痙攣とか起こしてなければ、取り敢えずは大丈夫です。
本人もそれは分かってると思いますよ。学生時代、アル中で何人も病院送りにしたって豪語してましたからね。あの頃は、それが武勇伝になるような時代だったんですから。」
羅針がそう言って苦笑する。
「それってまさにアルハラじゃないですか。」
巷で問題になっているアルコールハラスメントを凌駕する話に、平櫻が驚いたように言う。
「そうですね。確かにアルハラですね。でもね。当時はそれが当たり前。酒で負けることは人間関係で負けることになるんですよ。今でいうマウント取りですね。」
「マウント取りって。そんなの命がいくつあっても足らないですよ。」
「確かにそうですね。当時はアル中で病院送りなんて日常茶飯事。ニュースにもならなかったですよ。ウチの大学でも、運動部がやらかして、亡くなった人もいましたからね。」
「本当ですか。凄い時代だったんですね。私が大学時代は流石にアル中で運ばれる人は、いませんでした。いたら大きなニュースになっていたでしょうね。ましてや死亡したなんて言ったら、学内は蜂の巣を突いたような大騒ぎになっていたかも知れません。」
「20年違うと、そんなに変わるもんなんですね。
それでも、あの時代に酒を鍛えられたことは、自分としては良かったと思います。幸いこうして、アル中になることもなく、平気で呑めるようになりましたし、色んなお酒を楽しめるようになりましたからね。
でも、こいつみたく、鍛えても身体が付いてこないと、酒の席でハブられちゃうんですよ。それに、酒の楽しみが半減してしまう。本当は呑みたいのに、身体が付いていかないからセーブする。隣で楽しく呑んでるのに、自分は呑めない。そういうのって、この歳の男には結構キツいものがあるんじゃないですかね。」
「そんなもんですかね。呑めないなら、つまみとか、度数の低いお酒を楽しむとか、最近ではノンアルだってあるんですから、そういうのを楽しめば良いと思うんですけど。」
「そうはいかないのが、俺たちおじさん世代なんですよ。
まあ、今はね、アルハラっていうのがあるから、誰からも強要されないし、しようともしないし、酒席に誘うことすら駄目って時代ですからね。そういう昔みたいなマウント取りは見ないでしょうけど、若い時に身につけた習慣はそう簡単には抜けないですからね。
まあ、おじさんの変なプライドですよ。」
羅針はそう言って寂しそうに笑う。
「それはそうかも知れませんけど……。」
平櫻はそう言って、自分とあまりにも価値観の違う世界に疑問を持ちながらも、そんな世界を生き抜いてきた二人に、ある意味尊敬の念を覚えた。
「さあ、そろそろ、出ましょうか。」
煮込みも、電気ブランのグラスも、チェイサー用のビールもすべて空になっているのを見た羅針が促す。残っていた駅夫の分の電気ブランは結局羅針が飲み干した。
「はい。もう良い時間ですもんね。……旅寝さん、そろそろ出ますよ。起きてください。」
平櫻が隣で突っ伏している駅夫を揺り起こす。
「ん~お~は~よ~。」
駅夫が寝惚け眼で言う。
「ほら、駅夫、起きろ。置いてくぞ。」
羅針がテーブル越しに駅夫の頭を小突く。
「いってぇ~。やったなぁ~。」
そう言って駅夫は脳天を押さえている。
「ほら、バカやってないで、帰るぞ。忘れ物ないようにな。」
羅針が言う。
「ああ、わかったぁ~。」
まだ駅夫は寝惚けていたが、自分の荷物をしっかり背負い、自分の足でしっかり立ち上がった。
羅針は、両隣に座っていた相席客に、迷惑を掛けたことを謝罪し、忘れ物がないことを再度確認した上で、店員に礼を言って、駅夫と平櫻の後に付いて店を出る。
駅夫の足取りは怪しかったが、千鳥足と言う程ではなく、店の外までは順調に出てこられた。平櫻の身体では、駅夫の巨体は流石に支えきれない。それでも身体を鍛えているのかどうにか支えていた。
羅針は慌てて後から追いついて、反対側から駅夫を支える。
「平櫻さん、タクシー呼んであるんで、それに乗って戻りますから。」
「分かりました。……ほら、旅寝さんしっかり立ってください。」
羅針が配車アプリを使って呼んだタクシーは、5分もしないうちに、目の前に横付けされた。
「平櫻さんから乗ってください。」
「分かりました。」
「ほら、駅夫、タクシー乗るぞ。頭気を付けろ。」
羅針はそう言って駅夫を平櫻の後ろから車内へ押し込む。
最後に自分が乗り込んで、運転手に日本橋にあるホテルの名前を告げた。
運転手は、羅針の言葉を復唱し、場所を確認すると、夜の東京を日本橋へ向けて走り出したのだった。