拾伍之廿肆
浅草寺の境内は夜だというのに、明るく照らし出され、観光客が其処此処で写真を撮って、夜の浅草寺を満喫していた。
宝蔵門を潜った旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、そのまま真っ直ぐ本堂へと向かう。
三人が歩く参道の左手には五重塔が見える。
「あの五重塔は、仏舎利が奉安されているんですよ。スリランカのイスルムニヤ寺院から奉戴したそうです。」
羅針が光に照らし出された五重塔を指して言う。
「仏舎利って、お釈迦様の遺骨ですよね。」
平櫻が言う。
「そうですね。舎利というのはシャリーラという言葉の音写で、遺骨とか遺体と言う意味の言葉なんですよ。つまり仏舎利とは仏陀の遺骨という、そのままの意味の言葉ですね。」
羅針が説明する。
「そうなんですね。じゃ、私の遺骨なら平櫻舎利ってことになる訳ですね。」
平櫻が冗談めかして言う。
「まあ、そうですし、間違いではないですけど。インドではどうか知りませんが、日本では一般の人には使わないでしょうね。」
羅針はそう言って苦笑する。
「そうですよね。烏滸がましいですよね。」
平櫻もそう言って笑う。
「実は、この五重塔、昔は三重塔だったんですよ。それと、浅草寺の境内には、もう一塔五重塔が東側にもあって、今も基礎の部分が遺っているんですよ。」
羅針が言う。
「えっ、そうなんですか。」
平櫻が驚く。
「元々五重塔と三重塔があったんですが、江戸時代に焼けてしまって、1648年に再建された時に、三重塔は五重塔として再建されて、元々あった五重塔は再建されなかったんですよ。今建っている五重塔は1973年に再建されたもので、当時のものではないんですけどね。」
羅針が説明を加える。
「そうなんですね。本当に驚くことばかりです。」
平櫻が羅針の説明に一つ一つ感心頻りだった。
「ちなみに、こんなエピソードもあるんですよ。
明治19年、1886年に塔の修繕を行った際、工事のために組まれた足場を利用して、塔の屋根に参拝者を上がらせて、修繕費用を捻出したらしいんです。当時はそんな高い建物はまったくない時代ですからね、挙って上がったらしいんですよ。」
平櫻の反応に気をよくした羅針が話を付け加える。
「へえ、そんなことをしたんですか。なんか楽しそうですね。」
平櫻が、その様子を想像しているのだろう、笑顔が広がる。
「そうですね。私たちが東京スカイツリーに登ったような感覚と同じだったんじゃないですかね。」
「確かにこの高さでも、当時の人にとっては高層ビルみたいなものでしょうからね。お寺も良い商売を思い付きましたね。」
五重塔を見上げて、平櫻はそう言って微笑む。
「ですね。」
羅針は頷く。
「だけど、そうやって集めて修繕した塔も、今はないけどな。」
隣で聞いていた駅夫が、皮肉を込めて口を挟む。
「確かに、そうですね。そう考えたら、ちょっともったいない話ですね。」
平櫻はその容赦のない時の流れに、少し感傷的になった。
「まさに諸行無常ですね。」
羅針が言う。
更に参道を進み、本堂の前で立ち止まった三人は、その巨大な和様三手先入母屋造りの建物を見上げた。
重厚な瓦葺きの大屋根が覆う本堂は、威風堂々としており、ライトアップされたその姿は昼間見るのと違って、闇夜に浮かぶ幻想の城に見えた。
どこか夢現で、現実味がなかった。
「美しいですね。」
平櫻が本堂に見とれている。
「ああ。確かに。」
良く浅草寺に訪れている駅夫も、夜の本堂を見るのは初めてなのだろう、そう言って溜め息を漏らす。
「このまま、どこかへ飛んで行ってしまいそうな、まるで宇宙船のような感じがします。」
平櫻は、その美しさが地球のものとは思えなかったのだ。
「宇宙船か。そう言われてみれば、そんな気がしなくもないな。地球のものとは思えないっていうのは、俺も分かる。」
駅夫が平櫻に同調する。
「宇宙からの使者か。」
羅針が二人の会話を聞いて、ポツリと呟く。
「なんか、御利益がありそうだろ。」
羅針の言葉を聞いて駅夫が言う。
「確かに、御利益ありそうだけど、宇宙人が、って言われるとさ、脳にマイクロチップかなんかを埋め込まれて、洗脳されてしまいそうなイメージがあるんだけど。」
羅針が言う。
「お前、それ、映画の見過ぎ。宇宙人が俺たちを洗脳するために浅草寺を建てたってか。」
呆れて駅夫が笑う。
「確かにそうかもな。……さあ、宇宙人様にお参りしようか。」
羅針はそう言って笑いながら本堂の階段を上がる。
巨大な扉が行く手を阻み、三人は本堂の中に入ることは出来なかったが、浅草寺で最大の提灯を見ることはできた。
「この提灯は、東京新橋組合が寄進したもので、高さ4.5m、幅3.5m、重さ約600㎏あるんですよ。この浅草寺で最大の提灯ですね。」
羅針が平櫻に説明する。
「大きいですね。」平櫻は提灯を下から見上げるようにして、「ところで新橋というのは、あの新橋ですか。」と聞く。
「そうですね。鉄道発祥の地、サラリーマンの聖地である新橋ですね。東京新橋組合というのは、いわゆる花柳界の組合で、東銀座から築地の一帯にある料亭、茶屋、芸者置屋で構成された組合で、1958年の本堂が再建された年から奉納が始まり、今は9代目の提灯になります。」
羅針が説明する。
「へえ、花柳界からも寄進されたんですね。下世話な話、この提灯っておいくらぐらいするものなんですか。」
平櫻が聞く。
「時代や、物価によっても多少の上下はありますが、大体高級自動車一台分だそうです。それを5年から10年毎に交換するんですから、大変な負担だと思いますよ。」
羅針が答える。
「そんなにするんですね。浄財とは言っても、右から左に出せる金額じゃないですよね。そう考えたら、松下幸之助さんや大谷米太郎さんは個人でその金額を出したんですよね、更に山門の費用も足して。本当に凄いですね。」
その費用を想像して、平櫻は改めて驚愕し、感心した。
「俺も凄いと思うよ。ウチの会社で、もしこれだけのものを寄進するとなったら、稟議書を通すのが大変だし、まず通らないだろうね。俺個人じゃ、絶対負担出来ないし。たとえ宣伝効果があるとしても、費用回収が見込めないし、一回で終わる訳じゃないからね。その後も半永久的に費用負担していかなくちゃならなくなるから、とてもじゃないけど、ウチでは無理だね。」
駅夫もそう言って、平櫻の言葉に頷く。
「旅寝さんの会社でも無理なんですね。いったいどれほどの負担なのか、想像出来ないですね。」
平櫻は名の通った駅夫の会社でも大変なのだと聞いて、改めて驚いた。
「私たちが出来るのは、これぐらいですよ。身の丈に合った浄財をすれば良いんですよ。」
そう言って羅針は平櫻に小銭を見せて、賽銭箱へと放り投げた。
「確かにそうですね。」
平櫻も自分の財布から小銭を取り出し、賽銭箱へと投げ入れた。
「俺もこんなもんしか出来ないけど。」
そう言って、駅夫も小銭を取り出し、賽銭箱へと放った。
「この浅草寺の御本尊は聖観音菩薩だから、御真言は『オン・アロリキャ・ソワカ』だから。」
羅針は二人が手を合わせる前に言った。
駅夫は羅針が何を言ってるのか分かっているので、脱帽し手を合わせて真言を唱える。
一方平櫻は何のことかわからないので、「それって何ですか。」と聞いた。
「御真言というのは、サンスクリット語のマントラの訳語で、真実の言葉、秘密の言葉といった意味で、この言葉には宇宙の真理が詰まっているとされるんですよ。参拝する時に唱えることで精神的な変化や加護が得られるとされるものです。」
羅針が説明する。
「その御真言というのは、念仏みたいなものなんですか。」
平櫻が更に聞く。
「そうですね。正確には念仏と異なるものですが、念仏のように唱えるものですね。」
羅針が答える。
「もう一度教えて貰えますか、おん……なんて言いましたっけ。」
平櫻が聞く。
「オン・アロリキャ・ソワカ、ですね。」
羅針はゆっくりと発音してあげる。
「オン・アロリキャ・ソワカ、で良いですか。」
平櫻はスマホを取りだして、メモしている。
「はい。大丈夫ですよ。それを三回程繰り返してください。」
羅針が言う。
「オン・アロリキャ・ソワカ、オン・アロリキャ・ソワカ、オン・アロリキャ・ソワカ。」
平櫻が脱帽し手を合わせて、三回唱えてから、静かに参拝した。
羅針も、それを見てから、同じように脱帽し手を合わせて御真言を唱え参拝した。
そうして、本堂に向かって手を合わせる。静かな祈りの時が流れた。
周囲の喧噪は三人の耳には届いていない。静寂だけが包み込んでいた。
やがて、駅夫から順に顔を上げると、それぞれ深々とお辞儀をする。
「これで良し。」
お辞儀をすませた駅夫はそう言った。その顔はどこか満足げだ。
「ああ。」
羅針も駅夫の言葉に頷く。
「これが本当の参拝の仕方なんですね。」
新たな境地に到ったような表情で、平櫻が改めて羅針に聞いた。
「いや、これは正式な参拝方法ではないんですよ。本来はもっと複雑で、仏教に対する心構えの文言から始まって、様々な言葉を唱えてから、御真言を唱えて、罪障や魔忿を取り除く文言を唱えて、最後に自分が積んだ功徳を他者や故人に分け与える文言を唱えて終わるんです。
要は、長々と呪文を唱えるんですよ。」
羅針はそう言って笑った。
「なるほど、これはあくまでも初心者向けの遣り方ってことですね。」
平櫻が納得する。
「そういうことです。まずは、本尊毎にある御真言を覚えて、御本尊に合わせて唱えるようにすれば、御利益があると思いますよ。」
羅針が言う。
「でも、努力しない人には御利益がないんですよね。」
昼間、羅針から聞いた駅夫の母親が言った言葉を、平櫻は引用した。
「そうですね。努力してこその功徳ですからね。
ちなみに、先程の御真言、オン・アロリキャ・ソワカは、あらゆる苦難、厄災を取り除くという功徳を願う言葉なので、ぜひ、努力して苦難や厄災を取り除いた上で、功徳を積んでくださいね。」
羅針はそう言って微笑んだ。
「分かりました。頑張ります。」
平櫻はそう言って、両腕でガッツポーズをした。
本堂を後にした三人は、再び参道を宝蔵門の方へ向けて歩き出す。
「そうそう、さっき宝蔵門で紹介し忘れましたけど、裏手に大きな草鞋が飾られているんですよ。ぜひ、それも見て言ってください。」
羅針が平櫻に言う。
「大きな草鞋ですか。」
平櫻が、キョトンとしている。
「ほら、あれです。」
羅針が宝蔵門の裏手に掲げられた巨大な草鞋を指し示す。
「確かに、あれは巨大ですね。」
平櫻が驚く。
「高さ4.5m、幅1.5m、重さ500kgもあるんですよ。1941年に、山形県の村山市から奉納されているんです。」
羅針が説明する。
「山形県からですか。随分遠くから奉納されたんですね。」
平櫻が更に吃驚している。
「そうですね。この大草鞋と山形県の関係は、松岡俊三さんという一人の衆議院議員から始まるんですよ。この人物は山形の出身で東北の雪害対策に尽力した人物なんですよ。
浅草寺を信仰していた彼が、雪害問題解決の記念として、大草鞋を自分の地元から奉納したのが始まりなんですよ。
その後も、宝蔵門が再建された際、村山市出身の仏師が作った仏像が安置されたことを記念して奉納したり、浅草寺開創1350年祭を記念して奉納したり、10年に一回のペースで奉納を続けているんです。今あるのは八代目ですね。」
羅針が説明を加える。
「そういう歴史と、縁があるんですね。そういう話を聞くと、この大草鞋がただのオブジェには見えなくなりますね。」
平櫻が感心したように言う。
「もう一つ、この大草鞋は仁王様が履くもので、これほど巨大な草鞋を履く者がこの寺を守っているんだぞと示す狙いもあるんだそうですよ。」
羅針が言う。
「確かにこんな巨大な草鞋を履く者がいたら、悪さをしようとは思いませんよね。」
平櫻がにこやかに納得する。
「ですよね。」
羅針も応える。
「ほら、そろそろ21時。あんまり遅くならないうちに、ホテルへ戻ろうぜ。明日も早いんだろ。」
駅夫が言う。
「そうだな。浅草観光はまた別の機会にと言うことで、帰りましょうか。」
羅針は、駅夫の言葉を受けて、平櫻に言う。
「そうですね。名残惜しいですが、またゆっくり来ます。また案内してくださいね。」
平櫻が頷いて言った。
三人は宝蔵門を潜る前に、本堂の方を振り返り、夜の浅草寺を目に焼き付け、動画や写真に収め、最後に感謝を込めて手を合わせてから、宝蔵門を潜り抜けた。