拾伍之廿壱
浅草駅を出てきた旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、そのまま柳川鍋のお店へ向かった。浅草寺にも寄りたかったが、20時がラストオーダーなので、あまり遅くならないうちに行こうとなったのだ。
店は国道6号線沿いにある泥鰌専門店で、江戸時代末期に創業し、200年以上の歴史を持つ老舗中の老舗である。
大通りの交差点の片隅に、一本の柳の木と共に、まるで時代に取り残されたかのような一棟の日本家屋が佇んでいた。板張りの壁に、長く垂れた屋根瓦は、風雨に晒され続けてきた年月を刻みつけたかのように、黒々とくすんでいた。
この平入切妻造の二階建て建物は、二階に窓のない典型的な江戸時代の商家造りで、店の前には、辻行灯が設置され、赤い提灯が並んだ棚に、看板商品の名が書かれた行灯が入り口脇に掲げられていた。
そして〔とぜう〕と書かれた暖簾の向こうには、まるでタイムマシンに乗り込む扉のように、障子木戸の引き戸が客の来訪を待っていた。
三人は、江戸の空気を伝える、この時が止まったような老舗の建物に到着すると、始めて来訪した平櫻のために記念撮影をした。
「素敵なお店ですね。」
平櫻が撮影後改めて店の外観を見て言う。
「だよね。」
駅夫も頷く。
「創業が江戸時代末の1801年ですからね。とは言っても、この建物自体は空襲で焼けたのを戦後に建て直してますけどね。」
羅針が言う。
「えっ、そうなんですね。それにしては、歴史の風合いを感じますよね。」
平櫻が驚いて言う。
「建て直してから、既に半世紀が経ってますからね。風合いも出るというものだと思いますよ。」
羅針が言う。
「そうなんですね。それでも、創業200年以上の重みというか、風格を感じます。」
平櫻がそう言って、改めてカメラにこの歴史的な建物を収めていった。
間もなく日没となる時間帯で、行灯や提灯にも灯が灯り、障子木戸から漏れ出る灯りがぼんやりと歩道を照らしている、その雰囲気はまさに時間旅行へ向かう出発ロビーのようである。
「二階に窓がないのはどうしてなんですか。」
平櫻が店の外観をまじまじと見ながら、羅針に尋ねる。
「ああ、あれは、典型的な江戸時代の商家造りで、特にここは大通りに面しているため、大名行列を見下ろすことがないようにっていう配慮ですね。」
羅針が答える。
「なるほど。大名行列ってただ頭を下げれば良いだけじゃなかったんですね。建物の造りにまで影響していたとは、知りませんでした。」
平櫻が感心したように言う。
「羅針、この行灯の文字って何て書いてあるんだ。この脇に書いてあるのが〔どぜう汁〕っていうは読めるけど、この正面の下二文字が読めないんだよな。」
今度は、駅夫が店頭に掲げられた行灯の文字を指して言う。
「これは、〔どぜうなべ〕、なべはいわゆる変体仮名だね。」
羅針が答える。
「へんたいがなって変わった身体の仮名っ書く、昔の平仮名か。」
駅夫が言う。
「そう。決して態度が変わった仮名じゃないからな。」
羅針がそう言って笑う。
「そんな、仮名は願い下げだな。」
駅夫も笑う。
二人の会話を聞いて、平櫻がきょとんとしていたが、頭の中で文字を浮かべると、漸く合点がいったようで、納得した顔をして遅れて笑った。
「ちなみに、なんで〔どぜう〕って書いてあるか知ってる?」
羅針が聞く。
「そりゃ、昔の書き方じゃないの。歴史的仮名遣いとかなんとかいうヤツ。」
駅夫が答える。
「ブー。残念。違うよ。泥鰌の歴史的仮名遣いは、ちに点々の〔どぢやう〕か、しに点々の〔どじやう〕と書くのが正しい書き方だよ。平櫻さんは分かりますか。」
羅針がそう言って、平櫻にも聞く。
「歴史的仮名遣いじゃないとしたら、私には分かりませんね。ただ、他のお店と差別化するために、ウチのは〔どぢやう〕や〔どじやう〕じゃなくて、〔どぜう〕なんだよって売り出したとか、そんなところでしょうか。」
平櫻が頭を捻って答えを出す。
「そんな側面もあったかも知れませんが、残念ですが、それも違いますね。答えは、縁起担ぎですね。
創業から間もない頃、江戸の大火によって店が類焼した際に、〔どぢやう〕の四文字では縁起が悪いっていうことで、当時の店主が〔どぜう〕の三文字に改めて看板書きをして貰ったようで、それが大当たりしたって話らしいですよ。他の店もそれを真似たようで、今では泥鰌のお店にはどぜうと書くことが習慣になったみたいですね。」
羅針が説明する。
「どぜうはこの店から始まったのか。」
駅夫が言う。
「そうなんですね、それは始めて知りました。三文字で縁起担ぎとかやっぱり江戸時代の人は粋ですね。」
平櫻もそう言って感心頻りである。
三人が、見た目とは違って軽い引き戸を開き中へ入ると、入れ込み座敷が広がっていた。
入れ込み座敷とは文字通り多くの人を区別なく入れ込む座敷で、この店では、大きな一枚板がテーブル代わりに板間の上へ直に置いてあった。お客は、その上で炭火鉢に掛けられた鍋を突いていた。
江戸風情そのままの食事風景に、外国人も何人かいて、異国情緒溢れる現代の服装をした人々が鍋を突いている様子は、一種不思議な雰囲気で、この部屋ごとタイムスリップしてしまったような、そんな錯覚に陥った。
店内には椅子席もあるようだが、三人は江戸風情を堪能すべく、目の前の入れ込み座敷に通して貰った。
下足の番号札を貰い、座敷に上がると、一番奥の神棚の傍に通された。
立派な神棚には牛蒡締めの注連縄と真っ白な紙垂が垂れていた。
その神棚に向かって右手には厨房が、左手には中庭が広がっていて、部屋の大きさは、見た感じ大広間といった感じで、ざっと数えたところ三十人強の席が用意されていた。
其処此処から漂ってくる、炭が燃える匂いと、出汁が煮える匂い、そして僅かにアルコールの匂いが混じり合って作り出された独特の匂いが三人の鼻をくすぐり、食欲を否が応でも高めていく。
席に着いた平櫻は、その目の前に置かれた一枚板を、興味津々に矯めつ眇めつ眺めていた。
「この板は、〔かな板〕と言って、昔はこの倍近くの厚みがあって、周りを銅板で覆っていたので、今でもかな板と呼んでるんだそうですよ。」
羅針が説明する。
「そうなんですね。今、こんな一枚板を探すのも大変でしょうから、凄く貴重でしょうね。」
平櫻はそう言って、その大きなテーブルを撫でて、木の感触を確かめていた。
「ほら注文どうする。」
駅夫が店員に渡されたメニューを見せる。
「柳川をそれぞれ頼むとして、泥鰌鍋も一つ頼もうか。それと、この鯨鍋はどうする。」
羅針がひとまず頼むものを列挙する。
「折角なら、鯨鍋も食べたいな。平櫻さんはどう。」
駅夫がそう言って、平櫻にも聞く。
「はい。是非。」
平櫻はそう言って頷く。
「足りなければ追加するってことで。あとお酒もいくだろ。」
羅針が言う。
「もちろん。」
「そうですね。お願いします。」
駅夫と平櫻も同意する。
羅針は店員を呼んで、柳川鍋を三つ、泥鰌鍋と鯨鍋を一つずつ、それと伝統的と書かれた焼酎をボトルで頼んだ。
「平櫻さんは鯨って食べたことあるの。」
駅夫が聞く。
「はい。函館へ行った時に、少しいただきました。とっても美味しかったのを覚えてます。」
平櫻が答える。
「そうか。俺たちは給食なんかでも出たぐらい、よく食べてたからな。なんか懐かしいって感じが先に立つよな。」
駅夫がそう言って、羅針に同意を求める。
「そうだな。この辺だと、千葉の和田浦に捕鯨基地があるから、房総に行くときは時々寄って、鯨定食を食べたりするかな。だから、俺はそんなに久しぶりって感じではないな。」
羅針が言う。
「なんだよ、それ。行くなら俺も誘えよ。」
駅夫が羅針を詰る。
「何度か誘ったよ、お前都合が付かなかったんじゃん。」
「そうだっけ。次は俺も行くから、行く時は誘えよ。」
「分かった、分かった。」
羅針はそう言って約束した。
「でも、まだ捕鯨ってしてるんだな。」
駅夫が言う。
「ああ、商業捕鯨は、2018年に日本がIWCを脱退してから、翌年復活したみたいな感じだからな。」
羅針が言う。
「大体、反捕鯨なんて、日本人差別の象徴なんだろ、資源を大切にしろっていうのは分かるし、絶滅させちゃったらまずいのは分かるけど、絶滅する懸念のない鯨の捕獲まで反対してるって言うじゃないか。大体西洋人の方が野蛮じゃねえのかよ。捕鯨船に攻撃したりしてさ、あんなのテロリストと何にも変わらないじゃん。」
駅夫が憤るように言う。
「まあ、確かにあれはいただけないよな。
捕鯨に関しては歴史的にも文化的にも色々あるから、一概に良いとか悪いとか決められる話でもないけど。捕鯨団体も、反捕鯨団体も、どっちの言うことも一理あるし、まったく無茶苦茶な話もしている。
真偽の掴めない話ばかりで、何が正しくて、何が正しくないのか、俺たちには一切分からない。
調査したとされるデータだって、地球上の海を一頭残らず調べ尽くした訳ではないからね。本当に絶滅しかかっているのか、それとも頭数が多すぎて食物連鎖のバランスを崩しているのか、そんなことは神のみぞ知るって話だ。」
羅針が言う。
「あのさ、お前の言うことも分かるけど、捕鯨は日本の文化だろ。文化を守るのは当然の権利だと思うけど。」
駅夫が食い下がる。
「確かに、今や鯨肉食は日本の文化になった。それは否定しない。でも、そうなったのは明治以降、特に冷蔵技術が発達してからの話であって、それまでは、鯨肉食は一部地域を除いて、忌み嫌われる禁忌の所業だったんだよ。特に漁港では鯨の解体による環境破壊、特に他の水産物に対する被害が甚大で、公に禁止する地域もあったらしくて、ごくごく限られた地域でしか鯨肉食はおこなわれていなかったらしいんだ。
貴重なタンパク源ではあったから、鯨肉を食べる風習のある地域ではありがたい存在だったかも知れないが、そういう地域は他にもタンパク源である水産物はある訳で、無理に鯨肉を獲る必要はなかったということもある。
日本が全国的に鯨肉食を推奨したのは戦時中の食糧難解消と、戦後のGHQの政策に依るところが大きいんだ。
捕鯨は確かに日本が古からおこなってきた文化だ。だけど鯨肉食を文化と言うには少し歴史が浅いんじゃないかな。とはいえ、戦後80年が経とうとしていることを考えたら、文化と呼んでも充分ではあるけどね。」
羅針が言う。
「じゃ、お前はどっちなんだよ賛成派か、反対派か。」
駅夫が羅針に詰め寄る。
「俺は、部分的賛成派かな。」
羅針が答える。
「なんだそれ。どういうことだよ。」
駅夫が聞く。
「要は、絶滅しかかっている種は獲るな、絶滅しかかっていないなら獲っても構わないだろ。感情論や人種差別の道具として利用しているなら、糞食らえってことだ。」
羅針がそう言ってニヤリと片方の口角を上げる
「でたよ。羅針の正当パンチ。飄々《ひょうひょう》と中立でいるかと思ったら、気に入らないものにはガツンと言う。」
駅夫は、羅針が反捕鯨ではなかったことに安堵しながらも、その言葉には呆れた。
「そうか、だってそうだろ、人種差別がどうのこうのと言って、差別撤廃に尽力している一方で、国を挙げて日本を差別する。そんな二枚舌政策があるか?当然、そんな国は信用できるわけないし、話を聞いてやる気にもならない、ってことだよ。」
羅針は言う。
「お前、それこそ感情論じゃねぇのかよ。」
「確かにな。でも、感情論で来るなら、こっちも感情的になるよね。だって、論理的に説得したところで、理解しないだろうし、納得なんか出来る訳がない。そんな頭があれば既に理性的に話し合ってるって。」
「まあな。そりゃそうだ。」
羅針の激アツな言葉に、駅夫は少したじろいだ。
「星路さんて、クールで知的な反面、感情的になるとここまで熱い人なんですね。」
平櫻が思わず呟く。
「だろ。こういうところあるんだよ。色んなこと知ってるからこそ、理不尽で、理論的な話が通じない相手には、マグマが吹き出るように噴火するんだよ。
いつものビジネスライクな言葉遣いから繰り出される、口撃は受けるとダメージでかいからね。」
そう言って駅夫は笑う。
「こうげきって口の攻撃ですか。」
平櫻が聞く
「そう。」
駅夫が頷く。
「確かに、星路さん口達者ですからね。私も口撃されないよう気を付けないと。」
平櫻はそう言って駅夫と一緒に笑った。
「お前らな。人を爆撃機みたいに言って。」
羅針はそう良いながらも、当たっているだけに笑顔であった。