拾伍之拾捌
三人は塔の周りをぐるりと螺旋状に上がる回廊のスロープをゆっくりと歩く。
曇っているせいか、見えている景色の範囲は先程の展望デッキと然程変わらない。しかし、展望デッキから100m近く上がってくると、見え方は格段に違う。玩具感はなくなり、まるでジオラマやシミュレーションゲームの都市を俯瞰しているような感覚になってくる。
「蟻みたいですね。」
ありきたりのようなことを、平櫻が下を歩く人を見て言う。
「下に蠢いてるのは確かに人か。車は分かるけど、人は塊にしか見えないな。」
駅夫が目を擦りながら言う。
「老眼だからな。俺も識別は出来ない。」
羅針が言う。
「お二人とも老眼なんですね。でも、老眼って遠くのものははっきり見えるんじゃないんですか。」
平櫻は二人ともそういう歳なんだと改めて気付かされた気がした。いつもは歳を感じさせず、健脚で、健康そのものなので、老眼と言われて、どことなくチグハグ感を覚えたのだ。
「そうですね。老眼と言えば近くのものがぼやけるから、遠くに離して見るのが常ですが、遠すぎるものも年々ぼやけてくるんですよ。」
羅針が答える。
「そう。寄る年波には勝てないんだよ。俺ら二人とも視力は良かったんだけどね。なあ。」
駅夫が羅針に同意を求める。
「そうだね。昔は二人とも2.0の視力を自慢してたもんな。」
羅針が頷いて言う。
「そうそう、保健の先生にもっと上はないんですか、ってイチャモン付けたりしてな。」
駅夫が笑う。
「そうなんですね。私も目は良いんですけど、気を付けないといけませんね。」
平櫻はそう言って少し肩を落とす。
「まあ、40過ぎた辺りから気を付けた方が良いですね。私はその頃から自覚症状が出てきましたから。」
羅針が言う。
「そうなんですね。後5年後ですか。ホント気を付けますね。」
平櫻が言う。
「気を付けようがないけどね。ある日突然悪魔が肩を叩くんだから。」
駅夫がそう言って笑う。
「もう、脅かさないでくださいよ。」
平櫻がそう言って苦笑いする。
三人は回廊をゆっくりと歩きながら、景色を眺め、動画や写真に収めていく。
そうして450mのフロアまで上がってきた三人は、最高到達点の451.2mと表示された場所に到着した。
「ここが一番高いところか。」
駅夫が言う。
「ああ、そうだな。まあ、今更数メートル変わったところで、たいした違いは無いけどな。」
羅針が言う。
「でも、一番高いというのは何かテンション上がりませんか。」
平櫻が言う。
「だよね。上がるよね。」
駅夫が言う。
「そうか。まあ気持ちは分かるけどね。」
羅針が言う。
「何クールを決め込んでるんだよ。」
駅夫は、ここに来るまで、ずっと羅針がここから落ちていきそうな気分になりそうなのを必死に堪えているのが分かっていて、わざとからかうように言う。
「別に決め込んでる訳じゃねぇよ。」
羅針が見透かされたかのような気持ちになるが、なんとか恍ける。
「ここから、バンジーとかしたら最高だと思わないか。」
駅夫が核心を突いたようなことを言う。
「お前、分かってて言ってるだろ。」
「バレた。」
駅夫が舌を出して、羅針が振り上げた拳から逃げる。
「星路さん、本当に苦手なんですね。」
平櫻が心配そうに言う。
「そっ。こいつ高いところは平気なのに、落ちると思うと途端に……。」
駅夫が最後まで言わないうちに、羅針が睨んできていることに気付いて、口を閉ざす。
どうやら、これは禁句のようだと平櫻は心の中にメモをとった。
「ほら、先行くぞ。」
駅夫の言葉を遮るようにそう言った羅針は、スタスタと歩き始めた。
駅夫と平櫻は顔を見合わせて、慌てて付いていく。
三人は下へ降りるエレベーターの前まで来た。
「もう充分ですか。」
羅針が最終確認のように、平櫻に聞く。
「はい。もう充分です。腹八分目ぐらいが丁度良いんですよ。また来たいってなりますから。」
平櫻が応える。
「そうだね。今は充分だね。今度はもっと晴れた日に来たいね。でも、平櫻さんの腹八分目は、俺たちにとってはお腹いっぱいになるけどね。」
駅夫がまたからかうように言う。
「あっ、またそんな事言って。旅寝さんだけ腹がはち切れる程食べさせちゃいますからね。」
そう言って平櫻も言い返す。
「マジ、それは勘弁して。」
駅夫はそう言って平櫻に手を合わせている。
「今度も、お前の負けだな。」
羅針が隣で声を上げて笑う。
「どうやら、俺に勝ち目はなさそうだ。」
駅夫はシュラッグのポーズに加え、今度は敗北宣言をした。
平櫻は、駅夫が手加減してからかっているのが分かっていたが、今度は腰に手を当ててドヤ顔をして見せた。
「それじゃ、平櫻さんの勝利も確定したことだし、下に降りますか。」
羅針の言葉で、三人はエレベーターに乗り込み、展望デッキへと向かう。
駅夫と平櫻は、羅針の宣言に一頻り笑い、丁度到着したエレベーターに乗り込んだ。
三人が乗ったエレベーターはもちろん上がった時に乗ったものと同じなので、天井と扉がガラス張りである。
「やっぱり、降りる時はちょっと怖さが増すな。」
駅夫が言う。
「そうですね。大丈夫だとは思っていても、身体が身構えちゃいます。」
平櫻が言う。
羅針は少し青くなった表情を誤魔化すかのように壁の一点を見つめていた。
駅夫はその様子を見て何か言いたそうだが、そこは長年の付き合い、超えてはいけない一線は心得ている。だが、からかいたい衝動は抑えきれないのか、にやつきは止まらなかった。
平櫻は、「駄目ですよ。」と小声で駅夫を窘めている。少し心配になるぐらい羅針の表情が青かったからだ。
三人が降りてきたのは展望デッキのフロア345で、天望回廊へ向かった時の階よりも一つ下だ。エレベーターの扉が開くと目の前には、土産物屋が広がっていた。
「商売が上手いな。」
駅夫が開口一番ボソリと言う。
「確かに降りてきて目の前に土産物広げるって、客の購買意欲をくすぐるよな。」
羅針も頷く。
「ちょっと覗いていきませんか。」
平櫻が言う。
「ほら、思惑に乗ったのがここに。」
駅夫が笑う。
「もう、はいカモですよ。私がカモならお二人はネギですからね。」
平櫻がそう言い返して笑う。
「またもやられたな。」
羅針が駅夫に言う。
「ああ。敵わないな。」
駅夫は三度シュラッグのポーズをとった。
三人はそんなことを言い合って、ショップを覗く。
店内には、東京スカイツリーのキャラクターグッズや、お菓子など定番の商品が並べられていた。
結局、平櫻はキャラクターの付いたものとスカイツリーの形をしたキーホルダーを二つ、それにキャラクターが刺繍されたハンドタオルをいくつか購入していた。
「今はペナントとか木刀は売ってないんだな。」
駅夫が冗談めかして言う。
「いつの時代の話をしてるんだよ。」
羅針がそう言って笑う。
「ペナントって何ですか。」
平櫻が聞く。
「えっ、ペナント知らないの。」
駅夫が驚く。
「ペナントっていうのはですね。旗の一種ですね。
よく野球でペナントレース何て言うのを聞いたりしませんか。」
羅針が言う。
「それは聞いたことあります。野球はあまり詳しくないので良く分かりませんが。その言葉は聞いたことあります。」
平櫻が答える。
「そのペナントレースというのは、優勝旗としてペナントを用いたことに依るからなんです。で、肝心のペナントなんですが、基本的に二等辺三角形をした旗で、主に船舶などで船の船籍を示したり、国際信号で使用したりするんですよ。」
羅針が説明する。
「そうなんですね。ちなみに、ペナントってどういう意味があるんですか。」
平櫻が更に質問する。
「ペナントっていう言葉は造語で、knight bachelorと呼ばれる下級ナイトが槍に付けた長三角旗のペノンと、軍艦が掲げる長三角旗のペンダントを合わせて作った言葉なんだ。敢えて意味を与えるとしたら長三角旗ってことですね。」
羅針が答える。
「そうなんですね。ありがとうございます。」
平櫻は満足したようにお礼を言った。
「ところでさ、なんでペナントなんて流行ったんだろうな。」
駅夫が言う。
「ご多分に漏れず諸説あるから、一概には言えないけど、東京タワーのお土産として売り出したのが人気を博したとか、山岳登山の土産物として流行りだしたとか、そのあたりが有力な説かな。
いずれにしても高度経済成長期の話で、皆挙って旅行に出掛けた時代、土産物の種類も今みたいに豊富だった訳じゃないからね。定番の商品として記念にもなるからって言うのが一番の理由じゃないかな。」
羅針が分析するように答える。
「そうかもな。地名も入ってるし、観光地のイラストも入ってるから、確かに土産物としては最適解になるか。」
駅夫が言う。
「平櫻さん、これが当時流行ったペナントですよ。」
羅針がスマホで検索した画像を平櫻に見せる。
「ああ、これ見たことあります。東京タワーのお土産物屋さんにありました。あれ、ペナントって言ったんですね。知りませんでした。今思えば買って置けば良かったかも。こうしてみると、何かお洒落ですよね。」
平櫻はそう言って少し残念そうだ。
「そうかな、お洒落かな。」
駅夫が首を傾げる。
「時代は回るからな。感性が一回りしてもおかしくはないぞ。俺たちだってお洒落だと思って買ってたんだから。」
羅針が言う。
「そうだけどさ。でもよ、京都に修学旅行行った時に俺も買って、部屋の壁に張ったけど、どっか浮いてるんだよな。記念にはなったけど、それ以下でも以上でもないって感じ。木刀と一緒に実家の部屋で埃被ってるよ。」
駅夫がお洒落とは程遠かったことを、懐かしそうに言う。
「確かに部屋で浮いてたな。見れば行ったなあって気になるけどね。木刀も買ったな。なんであんなのが欲しかったのか、今思うともの凄く謎だけどな。」
羅針もそう言って目を細める。
「お二人ともドンピシャの世代だったんですね。」
平櫻が言う。
「そう。ドンピシャだった。今は両方とも見かけなくなったよな。」
駅夫が応える。
「そうだな。土産物も多様化の時代なんだよ。そして古い物は淘汰される。」
羅針が言う。
「俺たちも淘汰されないようにしなきゃな。」
駅夫がそう言って笑う。
土産物屋を後にした三人は、名残惜しげに窓の外の景色を見ながら、一回りぐるりと廻った。途中ミニラボと称して、このスカイツリーの高さを活かした研究が紹介されていた。
現在、様々な研究機関が、雲や雷、温室効果ガスなどの観測を行っていて、それらのデータが最先端の研究に役立てられているという。
面白いと思ったのは、重力差による時刻の歪み観測である。東京大学がおこなった観測で、重力の強さによって時間の進み方が異なるというアインシュタインの一般相対性理論を実証する観測である。
地上と450mの展望台にそれぞれ光格子時計という超高性能時計を設置し、測定したそうだ。その結果、展望台では地上と比べて1日当たり4ナノ秒だけ時間が早く進んでいることが分かったそうだ。
まさに理論が実証された瞬間である。
「すげえことやってるんだな。」
駅夫が驚く。
「確かにな。これは胸熱だな。」
羅針も少し興奮気味に言う。
「そんなに凄いことなんですか。」
平櫻はピンときていないようだ。
「そりゃそうだよ。アインシュタインってじいさんが口先ばっかりで言ってたことが、事実だったって分かったんだからね。彼にとっても世界にとっても大きな発見だと思うよ。」
駅夫が言う。
「そういうことなんですね。それはアインシュタインにとっては嬉しい発見でしょうね。」
平櫻が二人の興奮度合いに少し気圧されながらも、その理由に納得した。
「それにしても4ナノ秒の差を測れるってすげぇな。」
駅夫が言う。
「そうだな。どうやってその差を測ったのか、その方法は気になるな。」
スマホで検索を掛けながら、羅針が言う。
「そういうのって、論文とか読まないと分からないだろ。」
なかなか見付かりそうにない羅針の手元を見て、駅夫が焦れたように言う。
「そうだな。細かい手順とか、実験方法は論文にしか載ってないだろうな。」
羅針はそう言いながらも、まだあれこれ検索を掛けている。
「まあ、頭の良い人たちのやることはすげぇってことで良いんじゃね。」
駅夫がそう言って笑う。
「だな。機会があれば知ることもあるからな。」
羅針もそう言って、スマホで検索するのを諦めた。
同じフロアにはレストランもあったが、お昼には遅く、夕食にはまだ少し早い時間だったので、天空からの眺めを楽しみながら食事をすると言う状況に惹かれはしたものの、結局やめることにした。
メニューを見ると、なかなか豪華で上品なラインナップになっていて、美味しそうではあったが、またの機会にということとした。
エスカレーターで更に下の階へと降りると、目の前に、今度はカフェが現れる。
「畳みかけるように来るな。」
駅夫が言う。
「ああ、向こうも商売だからな。少しでも金を落として貰いたいだろ。当然だよ。」
羅針が言う。
「お二人とも、もう少し良いように考えましょうよ。休みたいって需要があるから、ここにカフェがあるんですよ。きっと。」
平櫻が擁護するように言う。
「まあ、そうとも言うな。」
駅夫がそう言って笑う。
「ああ。そうですね。そういうことにしておきましょう。」
羅針もそう言って笑う。
「まったくお二人とも。」
平櫻は呆れたように笑う。
この階で最後だと思うと、本当に名残惜しいが、三人は窓の外の景色を目に焼き付けながら、出口へと向かった。
途中トイレの前で、突然駅夫が立ち止まった。
「そう言えばさ、この高さに水を汲み上げるのはポンプを使えば良いっていうのは分かるんだけどさ、汚い話で悪いけど、排泄物はどうしてるんだ。まさかこの高さから自由落下させる訳はないよな。」
駅夫が素朴な疑問として羅針に聞く。
「ああ、聞いた話だと、タワーマンションなんかの技術を応用しているらしいぞ。要はパイプ内に突起物を設けたり、適度に曲げたりして、落下速度を調節しているそうだ。
なんせ、この高さから自由落下させたら、時速300㎞には達するだろうからね。」
羅針が説明する。
「いやだな。時速300㎞で叩きつけられる便。」
駅夫がそう言って頭を振る。
「変なこと想像するなよ。ったく。」
羅針は呆れる。
「そんなところにも工夫がされているんですね。お手洗いがあるのが当たり前だと思ってましたけど、そういう工夫や技術があるからこそなんですね。ありがたいですね。」
バカなことを言い合っている二人を尻目に、平櫻はそう言って改めてお手洗いを見ている。
「そうですね。日本の技術の粋を凝らした塔ですからね。色んな技術や工夫が施されていますよね。」
羅針もそう言って頷く。
最後の最後、下へ降りるエレベーターに乗る手前、床がガラス張りになった箇所があった。
「おっ、ここから真下が見えるぞ。」
駅夫が嬉しそうにガラスの上に乗って、下を眺めた。
「真下が見えるというのはちょっと怖いですね。」
平櫻はそう良いながらも、平気でガラスの上に乗った。
羅針はというと、爪先で、安全を確かめるように、慎重に上に乗るが、終始無言だ。
他の客も嬉々として乗る人もいれば、乗らないと拒絶する人まで千差万別で、ガラス床の周りは一種異様な雰囲気があった。
こうして、三人の東京スカイツリー初登塔はこれで終了した。
三人は下りのエレベーターに乗り、余韻を噛みしめていた。下りに乗ったエレベーターは秋の籠で〔祭の空〕と名付けられていた。
上りで乗った隅田川の花火とはまた違った落ち着いた雰囲気の籠で、鳳凰を描いているのか、鳥のような見た目の動物が、神輿などで使われる装飾である〔飾金物で作られていた。
扉の上の案内画面は、上りとは逆に高さがカウントダウンされていき、その後ろでは笑顔の人々が入れ替わり立ち替わり映し出されていた。最後は世界各国の言葉で「また会いましょう」が表示され、男女二人が深々とお辞儀をしたところで、エレベーターは出口の5階に到着した。