拾伍之玖
翌朝6時。
星路羅針はいつものように目が覚めた。ふかふかの高級ベッドの寝心地は最高で、このままずっとここにいたいと思ったが、そういう訳にもいかない。閉じようとする瞼を無理矢理こじ開けて、ベッドから降りて洗面所へと向かう。
洗面をすませた羅針は、昨日滞った作業を進める。まずは、旅費の精算である。駅夫と平櫻へ二日分の請求書を作り上げて、それぞれ送信する。昨日滞らせてしまったのだから仕方がない。
その後は、写真の整理だ。カメラからハードディスクにデータを移動する。昨日撮影しなかった分、たいした量ではない。そして、旅程の記録だ。二日分の記憶を掘り起こして、記録していく。
6時30分、旅寝駅夫を揺り起こす時間である。
「ん~お~は~よ~。」
この声も毎朝の第一声だ。
「おはよ。顔洗ってこい。」
羅針は駅夫にそう言って、再び作業に戻る。
洗面所から戻ってきた駅夫も、パソコンを起動して作業に取りかかった。ブログの更新とメールの返信だ。
「今日も天気悪いのか。」
駅夫はパソコンを弄りながら羅針に聞く。
「そうだな。雨は降らないみたいだけど、曇りの予報だし、梅雨らしく湿度は80%に届くらしいぞ。」
羅針が答える。
「そうか、もう梅雨に入ったんだもんな。」
駅夫が言う。
「まあな。最近は梅雨入りも梅雨明けも曖昧でさ、梅雨時って実感が湧かないけど、今年はちゃんと梅雨入りが発表されたからな。」
羅針がそう言うが、
「雨らしい雨には降られてないけどな。」
それを駅夫が腐す。
「確かに。」
羅針はそう言って笑い、駅夫も笑った。
7時、二人は4階の朝食会場へと向かう。
「おはようございます。」
平櫻は相変わらず先にいた。
「おはよう。」
「おはようございます。」
駅夫と羅針も挨拶を返す。
「どう、よく寝られた?」
駅夫が平櫻に聞く。
「はい、ぐっすりと寝られました。」
平櫻が嬉しそうに答える。
「それは良かった。俺なんか高級すぎて身体がビックリしちゃってさ。」
駅夫が冗談半分で言う。
「何言ってんだ大鼾掻いて寝てたくせに。」
羅針がからかって笑う。
「おい、バラすなよ。少しは庶民らしいことをだな……。」
駅夫が反論しようとすると、
「庶民らしいこと?お前は根っからの庶民だよ。高級だろうが低級だろうが、地べたでもぐっすり寝られるな。」
羅針がそう言って畳みかける。
「へえ、旅寝さんって地べたでもぐっすり寝られんですね。本当に庶民派ですね。」
駅夫がぐうの音も出ないところへ、平櫻が横槍を入れる。
「お前らな。俺を何だと思ってるんだよ。」
「庶民。」
「庶民です。」
羅針と平櫻が声を揃えて言う。
「あのなぁ。ホントお前ら良いコンビだよ。」
駅夫は呆れたように言う。
長い廊下を抜け、入り口で受付をすませた三人は、朝食会場へと入る。
この会場は東京駅丸の内駅舎の最上階に位置する屋根裏空間に当たるためか、白を基調とした天井は二階建ての家が入りそうな高さで、部屋の広さはバスケットボールのコート位はあるだろうか。天窓から自然光が差し込み、開放感溢れるその広大な空間は、天井から下がるシャンデリアを始めとした調度品は、やはり上品で高級なものが揃えられていた。
座席はテーブル席からソファ席まで色々と取り揃えられていて、好みや用途に合わせて選べるラウンジ形式になっていた。
朝食はブッフェ形式で、三人はブッフェ台に近い席を選んだ。
ブッフェと言っても、良く有る大鍋が並べられているのではなく、すべてが小分けにされていて、そのままプレートに小鉢を乗せていくだけで、誰でも上品な朝食を作ることが出来る。盛り過ぎて料理が混ざることもなく、まさに見た目にも美しいのだ。
料理は100種類以上、和洋中が揃えられ、デザートも充実している。ミニ鰻重や、ミニドリア、ミニパスタなどに加え、それを凌駕する朝食とは思えないおかずの品揃えも嬉しい。エビチリ、鰺の香草焼き、牛肉のビール煮、蟹と帆立の摘入、鮪の天麩羅などなど、挙げていったら切りがない。
三人はひとまず、皿に載るだけのものをいくつか選んで、第一便とした。
いただきますをして、食べ始めた三人はこの豪勢な朝食に暫し舌鼓を打った。
三人は、第何便までブッフェ台と往復しただろうか、平櫻はほぼ全品制覇する勢いで、駅夫と羅針も負けず劣らず、一通り目に付いたものはいただいた。
食事を楽しんだ三人は、それで満足と言った感じではあったが、デザートに関しては別腹である。
三人はフルーツの盛り合わせとヨーグルトを選び、それに加えて駅夫はチーズケーキとガトーショコラ、羅針は桃のショートケーキにガトーショコラ、平櫻は草団子にチーズケーキ、ガトーショコラ、そして抹茶のムースと盛りだくさんだ。
デザートに移ったところで、羅針が口を開く。
「次の目的地を決めてないよな。」
「ああ、まだだな。決めようか。」
駅夫がそう言って、スマホを取りだしルーレットアプリを起動する。
「それじゃ回すぞ。……ドゥルドゥルドゥルドゥル……ジャン。みなみさかなざき?なんぎょざき?いや、みなみうおざき?……これ、何て読むんだ。」
そう言って羅針に見せる。
「南魚崎駅だな。確か神戸の六甲アイランド線の駅だったかな。また随分珍しい駅を引いたな。」
羅針が答える。
「神戸か。いよいよ関西初上陸か。」
駅夫が言う。
「オイオイ、関西初じゃないぞ、最初に行った近江今津駅は滋賀県。歴とした関西だからな。」
羅針が指摘する。
「あっ、そうか。関西って言ったら大阪、京都、奈良、兵庫って思ってたからな。確かに滋賀も関西か。」
駅夫がそう言って自分の頭を小突いている。
「それと和歌山も関西だからな。忘れるなよ。」
「あっ、和歌山もそうか。あれ、三重は?」
「三重は関西圏に入れることもあるけど、基本は中部、東海だな。」
「そうか。なるほどね。」
そう言って駅夫は口を一文字にして頷いている。
「大体最初に行った場所を忘れるなんて。」
羅針はそう言って駅夫を詰る。
「いや、滋賀が関西ってイメージがなかったからさ、近江今津だろ、もちろん覚えてるよ。琵琶湖をクルーズして、何だけなんとか島に行っただろ。」
駅夫が曖昧で適当なことを言う。
「ほらな、やっぱり忘れてる。まあ良いけど。……竹生島な。」
羅針が言う。
「そうそう、それそれ。忘れてないぞ。もちろん桜は見に行くからな。」
竹生島頂上にある三重塔と桜の写真を見て感動した駅夫は、ずっと春に再訪したいと言っているのだ。
「あれは、写真で見るから綺麗なんだけどな。」
羅針は呆れて言う。
「良いんだよ、綺麗かどうかじゃないんだよ。現地で見るというのが良いんじゃねぇか。」
駅夫はそう言って譲らない。
「分かった、分かった。春まで覚えてられたらな。」
羅針はそう言って笑う。
「ゼッテイ忘れないからな。」
駅夫はそう言って決意の籠もった表情をする。
「で、この南魚崎駅ってどんなところなんだ。」
駅夫が話題を変える。
「さっきも言ったけど、六甲アイランド線の駅で、住吉から数えて二つ目の駅だな。何があるかって言われても、……あの辺りに確か大きな酒造会社があった気がするけど、ちょっと待って……ああ、ほら酒造会社の記念館があるな。
あと谷崎潤一郎の旧宅で倚松庵がある。ただ、ここは土日祝日しか開放されてないから、いくなら丁度良い感じだね。他にもいくつか見所はあるみたいだから、選択肢は困らないな。」
羅針がスマホで検索して、見所をピックアップする。
「そうか。じゃ後でじっくりと選ぶか。平櫻さんはどこか行きたいところある?」
駅夫が自分のスマホで南魚崎駅の周辺を検索しているのを見て尋ねる。
「ちょっと離れていますが、この小磯記念美術館は行ってみたいかも。」
平櫻が自分のスマホを二人に示して言う。
「小磯さんって有名な人?」
駅夫が聞く。
「私も良くは知らないんですけど、神戸を中心に活躍された画家さんみたいです。」
平櫻はそう言って羅針を見る。
「小磯良平さんですよね。私もあまり良く知らないですよ。いくつかの戦争画がGHQに没収されたけど、その後無期限貸与という形で返還されたとか、幻の作品が朝鮮王朝の李王家が購入していて、韓国国立中央博物館で見付かったとか、ニュースになった話題は知ってるけど、流石に作品や為人までは知らないですね。」
羅針が言う。
「いや、そこまで知ってれば充分だから。」
駅夫がツッコミを入れる。
「本当に良くご存知ですよね。どうしてそこまでご存知なんですか。」
平櫻も感心して尋ねる。
「子供の頃から付けてる妄想旅行ノートのお陰かな。どこかに行けば、そこには有名な人が必ずいるでしょ。経歴を調べれば嫌でも覚えますよ。」
羅針が何事もないように言う。
「昨晩の話に出てきたノートですね。まだ付けてらっしゃるんですか。三番は欠番になったって仰ってましたけど。」
平櫻が聞く。
「ええ、付けてますよ。今は173冊目です。」
羅針が答える。
「173冊ですか!凄いですね。」
「173冊にもなるのか!」
平櫻と駅夫が声を揃えて驚いた。
「ああ、1年に4冊位付けてれば、それ位になるよ。」
羅針が平気な顔して言う。
「いや、そんな簡単な話じゃないから。尚更ナンバー3の欠番は痛いな。」
駅夫がそう言って悔しがる。
「まあね。でも、ナンバー4は実質ナンバー3の作り直しだからね。今となっては惜しくないよ。ナンバー2からはきちんと繋がってるから。」
羅針が言う。
「とは言ってもな。無いことに変わりはないんだろ。やっぱりもったいないよな。」
駅夫は自分のもののように悔しがる。
「ところで、そのノートではどんな旅行をされてきたんですか。ただ単に行きたいところへ行くっていうと、同じところばかりになりそうな気がするんですが。」
平櫻が質問する。
「最初はね、本当に行きたいところばかり書きましたよ。北海道、九州、四国は何度も行きました。そのうち有名所の観光地はすべて行ききって、内容が同じような旅程になってくることが多くなったんですよ。
そこで、各駅停車の旅って言って、一駅一駅降りて、どこか寄ってから次に行くみたいなことを始めたら、全部の駅に行きたくなってね。結局日本一周するのに20年程で100冊位掛かったかな。一駅一駅じっくり調べたからね。」
羅針がこともなげに言う。
「一周で20年ですか。それを100冊に亘って調べられたんですね。凄いですね。」
平櫻は感心頻りだ。
「大したことないですよ毎日2、3駅ずつ調べてれば、それ位掛かっちゃいますから。」
相変わらず羅針はこともなげだ。
「それにしても、続けることが凄いですよ。これが、星路さんの知識量を支えているんですね。凄いなぁ。……他にはどんな旅をされたんですか……。」
平櫻は何を言っても感嘆しか出てこない。
「平櫻さん、興味が尽きないのは良いんだけど、そろそろ、今日の予定を決めないか。もちろん、終わりまでいても良いんだけど。」
話を続けようとしている平櫻に、駅夫が時計を見て言う。時刻は既に8時半を回っていた。ここの朝食ブッフェは11時までだが、チェックアウトの時間もあるので、食事を続けるにしても、観光に出掛けるにしても、そろそろどうするか決めておきたいと、駅夫は思ったのだ。
「すみません。お話に夢中になってしまって。お二人はこの後どうされる予定なんですか。私はそれに付いて行きますけど。」
平櫻は頭を下げて、申し訳なさそうに言う。
「いや、良いんだけど、どうするかなって思ってさ。羅針はどうする。」
駅夫は優しく平櫻に言うと、羅針にも聞く。
「一応、ルーレット旅のルールだから、日本橋駅に行って写真は撮らないとな。後は日本橋を見ておきたいかな。上の首都高がなくなる前にね。他はどこでも良いよ。写真を撮って歩ければ。で、お前はどうしたいんだよ。」
羅針は、駅夫に聞き返す。
「俺は、特にないよ。今更日本橋界隈を見て歩いてもな。何か新しい発見でもあればと思うから、コレドなんとかっていうのは行ってみたいかなとは思うけど。
平櫻さんは行きたいところないの。」
駅夫は、再び平櫻に確認する。
「ええ、昨日日本橋駅で写真も撮りましたし、日本橋も行きました。他も見たいところは一通り見てきましたので、後はお二人にお任せします。」
平櫻はあくまでも二人に任せるという。
「それじゃ、こうしましょう。今日泊まる予定のホテルに荷物を預けに行って、その後日本橋駅に行く。それから日本橋を見て、そのあとコレド室町に行って買い物をする。その後は気の向くままにと言うことで。」
羅針が言う。
「俺はそれで良いよ。」
「私もそれで構いません。」
駅夫も平櫻も同意する。
三人はこの後の予定が決まったところで、残りのデザートを食べて、朝食を終えた。時刻は9時になろうとしていた。