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日本全国鐵輪巡礼 ~駅夫と羅針の珍道中~  作者: 劉白雨
第拾伍話 日本橋駅 (東京都)
151/181

拾伍之漆


 オムレツライスととんかつ定食で腹を満たした平櫻佳音は、髙島屋を後にすると、その足で日本橋へと向かう。

 中央通りを北上し、日本橋交差点を超えると、遠くに首都高の高架が見え、その箱桁はこげたに掲げられた〔日本橋〕と書かれた銘板が目に入る。

 この銘板は、首都高ができた時に、元々日本橋の橋柱にあった江戸幕府第十五代将軍徳川慶喜(よしのぶ)揮毫きごうを複製して掲げられたもので、今、日本橋と言えばこの光景が当たり前となっているが、昔の写真や絵を見ると、上に何もない風景が当たり前で、佳音はその絵や写真を見る度に逆に違和感を覚えていた。


 この日本橋は、徳川家康が江戸に幕府を開いた当初、慶長けいちょう8年3月3日、1603年4月14日に始めて架橋されたと記録が残っている。日本橋という名前は、日本中から人が集まって架けたからとか、無名の橋を人知れず日本橋と呼ぶようになったとか、色々と言われているが、定かではない。ただ、江戸の中期には既に日本橋という名前が定着していたようだ。

 幕府はこの日本橋を起点として、全国支配のための五街道を整備した。この時から日本橋は街道の起点として位置づけられ、名実共に日本の中心となった。


 最初に架けられた太鼓橋は1618年に最初の架け替えがなされた。その後は1657年に発生した明暦めいれきの大火など、度重なる大火による焼失や老朽化によって、架け替えが繰り返された。

 幕末までに計18回の掛け替えが実施され、明治に入り、最後の木造による改架がおこなわれた後、1911年に20代目となる石造二連アーチ橋が架けられた。これが、現存する日本橋である。

 現在この橋は20代目というのが通説であるが、江戸当時の橋は木造である上、構造も脆弱であったため、火災や地震、洪水などの災害に弱く、老朽化も早かったことから、掛け替えのペースは速く、記録に残っていない仮設橋なども含めれば代数が増える可能性はある。

 

 直上に通る首都高は1963年に、翌年開幕の東京オリンピックへ向けて整備された高速道路網の一つとして建設された。ものの本に依れば、当時は反対する声もあまりなく、お上のやることに異議申し立てをするなんてことは、無粋だと考えられていたようだ。

 しかし、半世紀が経ち、景観を考える人々が増え、様々な議論がなされた結果、首都高の地下化が決定され、江戸橋JCTから神田橋JCTの間を地下化することとなった。現在その工事が進められている。2035年地下工事が完了し、2040年に高架橋の撤去完了を予定していて、後16年で日本橋の上に空が戻ってくることになる。


 2040年には佳音も52歳、今の旅寝や星路より少し若いぐらいの世代となる。彼らのように有意義な人生を歩むことが出来るのか不安ではあるが、いずれそんな歳が自分に訪れるのかという不思議な感覚を覚えると同時に、その頃にはこの首都高が消え、日本橋の上に空が戻ってくる日が来ることが不思議だった。


「後16年で、この日本橋に空が戻ってきます。その頃には私もウン十歳になりますね。この見慣れた首都高が消えてなくなるというのが信じられませんが、非常に楽しみです。」

 佳音は日本橋へ向かって歩きながら動画にそんなことを吹き込んでいたが、そんなことを熟々と考えていた彼女の気持ちが滲み出ていた。


 日本橋に到着した佳音は、最初に道路元標のレプリカを見に行った。本物は道路のど真ん中にあるため、見に行くことはできない。しかし、〔元標の広場〕と名付けられた橋のたもとに設けられた広場に、複製が展示されているので、観光客はそこで見ることができるようになっている。

 この広場は小さな緑地が施され、都会の中に設けられた小さなオアシスとなっている。その中央には黒く鈍い光を放つ〔東京市道路元標〕と浮彫された鉄柱が建つ。この鉄柱は、かつて日本橋を通っていた東京都電の本通線ほんどおりせんで使用されていた架線柱で、この架線柱の下に本物の道路元標が設置されていたということになる。

 この架線柱、道路元標の標識を兼ねているからなのかは分からないが、装飾も豪華で、今の路面電車で良く見るようなシンプルな架線柱とは大違いである。

 現在は、この架線柱の下にレプリカの道路元標が設置され、その両脇に日本各地までの距離が表示された、里程標が設置されていた。

 佳音の実家がある鹿児島市までは〔一、四六九粁〕とあった。

「私の実家までは、およそ1500㎞の彼方ですね。いつもこんな距離を平気で移動していますが、こうして数字で見ると、凄い距離ですよね。江戸の当時はこれを徒歩で移動していたのですから、昔の人は大変だったなと思うと共に、今は鉄道や自動車、飛行機などであっという間に移動出来るのですから、その便利さに感謝しかないですね。」

 佳音は里程標を動画に撮りながら、そんな感想を漏らした。


 現在架かるこの橋梁の設計および工事監督には、東京市橋梁課長の樺島正義かばしままさよし氏の指導の下で、東京市技師の米本晋一よねもとしんいち氏が主任技師として、また装飾意匠設計は妻木頼黄つまきよりなか氏が担当した。

 1911年に架橋された、長さ49m、幅27.3mの石造二連アーチ橋の日本橋は、その構造、装飾、意匠に到るまで、洋風建築に和風建築の考えを取り入れた和洋折衷の様式美が、今も人々の目を惹きつけている。


 佳音は、動画の撮影だけでなく、自撮りで記念撮影もした。その後も欄干の意匠や、麒麟や獅子の青銅像、徳川慶喜の揮毫といわれる橋柱の銘板も動画や写真に収め、関東大震災や東京大空襲などの震災、戦災を潜り抜けてきた、国の重要文化財でもあるこの美しい橋を堪能した。


 日本橋を隅から隅まで見て廻った佳音は、この後日本銀行の方へと足を運ぶ。中の見学は叶わなかったが、外からでも一目見ようと思ったからだ。

 日本橋北詰(きたづめ)交差点から西に向かい、都道405号線の外堀通りを右折すると、すぐに日本銀行旧館が見えてくる。上から見ると〔円〕の字に見えるあの建物だ。

 この建物も東京駅の丸の内駅舎同様、辰野金吾氏が設計し、1896年に竣工している。石積み煉瓦造の建物で、西洋建築を現地で学んできた辰野金吾氏が手掛けただけあり、敷地の外からでは、全貌はあまり良く見えないが、それでも当時の西洋建築様式が随所に見られ、秩序と威厳が感じられる外観を観察することが出来た。


「この日本銀行は内部見学が可能なのですが、一ヶ月以上前までに予約が必要で、今回は突然の来訪だったので、内部見学は叶いませんでした。

 次回は予定を組んで、見学できるようにしたいですね。

 ちなみに、皆さんはご存知だと思いますが、この建物を上空から見ると〔円〕という字になっているんです。ただ、この形は通貨単位の円とはまったく関係なくて、あくまでも偶然だったそうです。なぜなら、建設当時の日本の通貨は国構えに人員の員と書く、旧字体の〔圓〕が使用されていたからですね。設計者の辰野金吾さんに真相を確認した訳ではありませんが、どうやら偶然のようですね。」

 佳音はそんな話をしながらも、今はこんな知識しか披露できない自分がもどかしく、見学が実現する時までには、星路のように様々な知識を吸収しておいて、純粋に見学だけを楽しめるようにし、解説ももっと詳しく出来るようにしておきたいと思った。


 佳音は、日本銀行を外から見て廻った後、髙島屋に続き、もう一つの老舗百貨店の名前が付いた駅に向かうことにした。

 日本銀行の前を通る街路樹が覆い被さった江戸桜通りを歩く。この街路樹は通りの名前にあるとおり桜の木で、春になると満開の桜が通りを彩るようだが、今は緑の葉が茂っているだけだった。きっと通りを覆い被すような桜のトンネルが出来上がるのだろうと思うと、日本銀行の見学もしたいが、それと同じように、この桜も見てみたいと佳音は思った。


 通りを更に進むと、両脇に建ち並ぶ建物はどれも歴史的な建築で、どこを見ても明治から大正、昭和初期に建てられたような、無骨で、重厚で、荘厳で、威風堂々とした佇まいをしていて、どの建物も歴史的価値がありそうだ。

 その先に、佳音が目指していた老舗百貨店の三越があった。


 三越、言わずと知れた三井から独立した呉服店で、後に百貨店から巨大企業へと発展していく名前である。この名前が、駅に冠されたのは、東京地下鉄道、現在の東京メトロ銀座線が開通した時で、三越と三井グループが駅の建設費用を負担したことによるものである。日本初の企業名を冠した駅として、また始めて駅構内にエスカレーターが設置された駅としても知られている。

 この駅、名を冠した三越とは地下の売り場と直結しているが、これは何も三越前駅に限ったことではない。銀座線沿線だけでも、様々な百貨店、デパートが名を連ね、駅のそばに店舗を構えているし、先程佳音が見た髙島屋も然りである。

 しかし、日本橋駅は髙島屋前駅とはならず、日本橋駅の副駅名として髙島屋前と案内が入るだけである。

 では、なぜ三越だけが駅名を三越前としたのか、あるいは出来たのか、その真相は分からないが、一説には駅建設費用を全額負担したからとも言われており、いずれにせよ、三越の社長は社名を駅名にしたのだから、先見の明があったということだろう。


 佳音は、まず、三越百貨店を見学した。

 最初に見るのはもちろんの有名なライオン像である。このライオン像は守り神として、ロンドンのトラファルガー広場にある像をモデルに造られたといわれ、威風堂々と来客たちを見守っている。

 ネオルネッサンス様式といわれるこの建物は、1914年に鉄骨鉄筋コンクリートの建物として、横河民輔よこかわたみすけ氏の設計により建設された。

 先程見て来た髙島屋の建物も素晴らしかったが、こちらの建物もその素晴らしさにおいては引けを取らず、2016年に国の重要文化財として指定された程である。

 ライオン口横には、頭上に〔三越地階賣場 地下鐵入口〕の文字が描かれたステンドグラスの案内板が嵌められた地下への入り口があり、当時の雰囲気を残している。当時の人々はこんな装飾一つを取ってもモダンで、時代の最先端を感じたことだろう。


 建物の中に一歩入ると、拘り抜かれた細部の意匠一つ一つに時代や歴史を感じるが、大正時代の和モダンが取り入れられているためか、古くささはなく、今見てもなお、上品なお洒落さを感じさせる。

 しかし、店内に入ってまず目を惹くのは、吹き抜け四階にも達する巨大な彫像〔天女像まごころ〕である。説明に依ると高さ11m、総重量6.8tの木彫り彫刻で、佐藤玄々《さとうげんげん》氏の作品である。

 聞くところに依ると1960年の設置当初は人々に受け入れられず、嫌悪されたこともあったそうだが、今は若い人を中心にその魅力に取り憑かれる人が増え、SNSに投稿されるなど、多くの人々に受け入れられているそうだ。


「半世紀以上も時が経つと、人々の感性も大きく変わるものですね。」

 そう感想を言う佳音も、正面から見たその迫力に、たじろぎ、おどろおどろしさを感じた。しかし、じっくりと見ていると、その荘厳な美しさ、精緻な装飾、その醸し出す雰囲気と、圧迫感がありながらも、どこか優しさを感じるその巨大な彫像に心を奪われていった。


 この彫像がある中央ホールの吹き抜けは、大理石の柱や壁に施された精緻な装飾が織りなす壮麗な空間となっていて、天井の天窓から差し込む自然光が幻想的な雰囲気を演出している。

 内装はルネサンス様式を基調としながらも、アールデコ様式も取り入れられ、そこに和の様式も融合し、独特な雰囲気に彩りを添えている。


 その中央ホール二階にはパイプオルガンが設置され、定期演奏もされているようで、丁度この日は演奏日で演奏時間が15時からだったが、残念ながら佳音は間に合わなかった。知っていたら、先にこっちへ来るべきだったと後悔したが、後の祭りである。

 佳音は、また一つこの日本橋に来る理由が増えたと、前向きに考えることにした。


 佳音は一階一階一つ一つ丁寧に見て廻り、豪華な建物の中でウィンドウショッピングを楽しんだ後、地下へと降りてきた。

 地下鉄への出入り口へと向かい、銀座線口から地下街へと出た。地下街は流石三越の名を冠しているだけあり雰囲気も豪華である。まず柱が大理石で出来ている点、そして、上部に施された意匠も精緻である。

「この柱一つ取っても豪華ですよね。当時〔今日は帝劇、明日は三越〕なんていうキャッチフレーズがあったそうで、こういう豪華な造りに庶民が憧れたんでしょうね。だってわたしもこれを見て素敵だなって思うんですから。」

 そう説明しながら、佳音は笑った。


 佳音は、そのまま銀座線の改札口へと向かい、乗車記念にと券売機で切符を買う。

 平櫻は乗車券を大事そうに券売機から取り出し、三越方面改札口から駅構内に入る。正面の階段を降りて、銀座線のホームに出ると、流石100年近く前に開業した地下鉄である、気になるほどではないが、やはり若干天井は低く感じる。

 三越を表す赤い三本線が引かれた壁も、三越の資金で造られた駅であることを感じるポイントである。


 佳音は三越の影響を受けて建設されたこの駅を、次々と動画に収めていった。

 低い天井に、レトロな雰囲気、線路は架線がない第三軌条方式であるのも珍しい。日本ではもちろん、アジア・オセアニア地域でも初めての地下鉄路線である。その歴史的価値は計り知れないし、今なお現役で使用されていることが驚きである。


「皆さんはご存知でしょうか。この地下鉄銀座線に一番始めに乗った人を。そう、鉄道ファンならその名前を聞いたことはあるのではないでしょうか。鉄道模型界ではその名を知らない人はいない、私も大尊敬する方で、後に原鉄道模型博物館の館長を務められた、原信太郎はらのぶたろうさんです。博物館には当時の新聞記事も展示されているので、是非訪れてみてください。」

 佳音はそんな説明を動画に入れる。


 佳音は鉄道模型を買うことはなく、模型の世界は門外漢だが、原信太郎氏の鉄道に対する造詣の深さは良く知っており、それ故に大尊敬をしている。

 彼が収蔵する模型には、自作や特注されたものも多く、その精緻で再現性の高さは他を寄せ付けない程であり、またその収集先は国内にとどまらず、世界中で撮りためた写真、収集した資料などを元に、世界中の鉄道を再現したというから驚きで、その知識量、その収集量、その情熱と鉄道愛に、佳音は感動を覚えるのである。


 佳音は、そんなことを考えながら、1面2線のホームで待っていると、暗闇の中からレモンイエローが特徴のレトロな雰囲気を醸し出す1000系が現れた。

 東京に来ることはあっても、JRで移動することが多く、なかなか地下鉄を利用する機会がない佳音にとって、久々に訪れた地下鉄乗車の機会は単純に嬉しかった。

 列車に乗り込むと、中は木目調の化粧板に緑色のシートモケット、真鍮色の手摺りやリコ風の吊革など、随所に開業当時の雰囲気を再現した内装になっている、特別仕様の39編成であった。

 この特別仕様の車両はもう一つの40編成と共に2編成しか導入されていないため、出会えたのは非常に幸運である。

 佳音は、星路がこの場にいたら、二人で盛り上がっただろうにと、少し残念な気分になった。


 たった一分程の乗車時間に物足りなさを感じたが、佳音は後ろ髪を引かれながら列車を降り、見送った。日本橋駅は変則相対式の2面2線ホームで、雰囲気はガラリと変わる。橋の街をコンセプトとしているのか、1番線は木調のタイルが、2番線は石調のタイルが使用されている。

 もちろん、日本橋駅も動画に収め、駅名標と一緒に記念撮影も忘れない。ルーレット旅のルールである。


 駅構内の撮影を終えた佳音は、改札口で切符の無効判を押して貰い、日本橋駅から日本橋交差点の出口へ上がってくる。

 街は、そろそろ夕方を迎える時間で、会社へと戻るためなのか、それともまだ取引先へと向かう仕事の最中なのかは分からないが、ビジネスバッグを持った人々が足早に行き交い、その中を観光客と思しき外国人たちがカメラを片手に闊歩していた。

 車道にふと目をやると、ゲームキャラクターに扮してゴーカートに乗った外国人の集団が、奇声を上げて通り過ぎていった。一時期かなり社会問題となったが、いまだに営業を続けているようだ。楽しいことは良いことだし、日本を満喫してくれるのは喜ばしいことではあるが、安全に、事故無く、迷惑を掛けずに楽しんで貰いたいと佳音は思った。


 そろそろ、夕飯の時間である。佳音は星路の体調も気になるため、永代通りをホテルへ向けて歩き始めた。日が暮れ始めた都会の街は、徐々に夜の街へと変わる準備を始めているようだった。




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