拾伍之肆
新幹線ホームに上がってきた、旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、予約をした2号車の乗車目標位置に並んだ。三人の前にはスーツを着た出張中らしきビジネスパーソンが一人並んでいるだけだった。
三人は言葉もなく、重苦しい空気が流れていた。前に並ぶビジネスパーソンだけが、その空気の外にいた。
暫くして、列車入線のアナウンスと共に、鈍い光を放つ緑色のロングノーズ、E5系新幹線のはやぶさがゆっくりと現れた。
いつもは美しく、煌びやかで、安心と癒やしを感じるこの車体の色も、今日はどこか無機質で、冷たく感じた。
扉が開くと、ビジネスパーソンに続き、三人は次々と乗り込み、予約席である9列目に向かった。駅夫と平櫻は意図的に羅針を真ん中に座らせ、窓際に平櫻が、通路側に駅夫が座った。
駅夫と平櫻の二人で、何かを企んでいるのかも知れないが、今の羅針にそんなことを推測する気持ちの余裕は無く、羅針は戸惑いながらも渋々真ん中に座った。
列車が東京へ向けて走り出し、暫くすると、駅夫は会社からの連絡だと言って、席を立ってデッキへ向かった。
「星路さん、紅茶とお菓子をありがとうございます。早速いただきますね。」
平櫻はそう言うと、羅針が頷いたのを見て、貰ったペットボトルの紅茶を開けて、一口飲んだ。
「美味しい。」
そう言って、どこにでも売っている普通の紅茶を、平櫻は殊更美味しそうに飲んだ。
それを見て、羅針は軽く頷いただけだった。
平櫻が笑顔を見せても、やはりどこか空気は重苦しかった。
羅針の心の中は、ただ感情が渦巻いているだけで、平櫻の声が心に届いてはいなかった。耳に届く言葉が、心の中でざわめく感情に押し流され意味を成してこないのだ。
羅針は為す術もなく、ただ平櫻の手元を眺め、軽く頷いて、思考の海へと潜っていった。
こんなことは、もちろん初めてではない。
半世紀余りの人生、ずっとこの感情の渦に翻弄され、まるで渦潮に飲み込まれる小舟のように、感情の渦の中でグルグルと回っているようだった。
羅針がうんと小さい時はそんなこともなかったはずである。前途洋々の人生に両親の期待を一身に受け、輝かしい未来へ向けて、一歩一歩着実に成長していた。まるでハイハイからヨチヨチ、テクテク、トコトコ、そしてスタスタと歩行能力を上げるように、人生の荒波を漕ぎ抜く力を着実に身につけていったはずだった。
だが、その航海は、この感情の渦潮によって、櫂を折られることになる。
最初は人間不信という渦だった。
その渦をやり過ごすために、羅針はビジネスライクなしゃべり方を獲得した。
中国にいた時は、本音でぶつかり合えたためか、それとも中国語を使っていたためかは分からないが、精神的に辛いことは殆どなかった。だから、全然気にもしていなかったが、旅行会社を辞めて日本に戻ってきて、仕事を探している時に、再び人間不信に陥った。
日本人特有の本音と建前に、羅針の精神は耐えきれなかったのだ。
もちろん、羅針も日本人だ。本音と建前ぐらい、DNAレベルで身に付いているはずである。だがしかし、それに対する精神耐性が外国人レベル、いや、それ以下のレベルになっていたのだ。
羅針は、正社員として雇って貰えず、仕方なくアルバイトに出るが、それも人間関係で長くは続かず、仕方なく、軌道に乗ってきていた駅夫の会社の配当金や、これまでコツコツと貯めてきた多少の蓄えを切り崩したり、知り合いの中国人に翻訳の仕事を貰ったりしながら、なんとか命をつないでいた。
配当金が年々増えていき、翻訳の仕事も食うに困らなくなる程のレベルになると、人と関わることが殆どなくなり、羅針は精神的にも落ち着きを取り戻していった。根本的な解決をした訳ではなかったが、生きていく上ではそれで充分だった。
そんな折に始まったこのルーレット旅である。駅夫の誘いに乗って始めたこの旅は、駅夫と羅針、二人だけの気楽な旅になっている筈だった。それが、なぜか平櫻が加わり、男二人の気楽な旅ではなくなった。
邪魔をされた?
いや、そんなことはない。むしろ平櫻が加わったことで、二人きりの旅に華が出来た。そしてややもすればマンネリ化し、行き当たりばったりでだらだらした旅に、規律が生まれ、予定をきっちり立て、旅自体を楽しむことが出来る程に変化をした。
予定の組み方で駅夫と一悶着もあったが、概ね上手くいっていた。不思議なことに、平櫻とのトラブルは、最初の出会いを除いて皆無だった。……これまでは。
だが、そんな旅も今朝完全に壊れた。壊したのは羅針だ。他でもない羅針自信である。どう言い繕っても、どう言い訳しても、そのこと自体に変わりはない。
羅針の心に自己嫌悪という渦が加わった。
なんであんな態度に出てしまったのか、どうしてこんなことになっているのか、そんなことは自明の理だ。自分の過去にこの歳まで引き摺られているからだ。自分が過去と決別できず、いまだに過去のトラウマに捕らわれ続け、自分の殻に閉じこもっているからである。ただそれだけである。
殻を破れ、外に出ろ、一歩踏み出すだけだ。
そんなことを言うのは簡単である。実際羅針も自分の殻を破るべく、色んなことをしてきた。中国語を学ぶことで自分の殻を破ろうとしたり、旅行会社に勤めることで対人関係を築こうとしたり、様々なアルバイトを熟すことで人間不信を払拭しようとした。
しかし、どれも失敗に終わった。心に深く楔のように打ち込まれたトラウマは簡単には抜けなかった。
いまだに人と関係を築こうとすると「疑え、信用するな、騙されてるぞ」という声が頭の中で響き渡り、羅針の心を苛むのだ。
今もそうだ。羅針の心には色んな感情が渦巻いている。
これまでの人生で翻弄されてきた人間不信に加え、今まさに加わった自己嫌悪、そして、それ以外にも、どうしようも出来ないという虚無感や、平櫻に対する罪悪感、平櫻と関係を築くことへの不安感や恐怖感、更に不甲斐ない自分に対する怒りからくる焦燥感、それらが、大きな渦潮となって、羅針を冷たくて暗い感情という名の海の底へと引き摺り込もうとしていた
羅針を苦しめている、平櫻に対して抱いてしまうこの感情とはなんなのか。その感情の発露、いや、羅針を感情の奥底へと引き摺り込もうとする渦潮の発生源、つまりは根源ともいうべき要因、そして、その渦潮とは何なのか。
そもそも、心の中に渦潮を抱えるまでに到った経緯は何なのか。羅針には良く分かっている。それは、中学時代のトラウマであり、忘れたくても忘れられないあの日々なのである。
不意に、羅針の視界に、真新しい詰め襟を着たかつての自分が現れた。
自分の姿を確認する為に立った鏡の前で感じていた、期待と不安が綯い交ぜになった高揚感が、鮮やかに蘇った。
市内の小学校から集められた子供たちと、一緒に学ぶことになるその新しい環境は、羅針にとってもの凄く新鮮だったし、小学校からの友人知人だけでなく、新たな人間関係を作り、知識の共有、趣味の共有、そして仲間意識の共有が出来ることを、心の底から楽しみにしていた。
だが、そんな夢多き中学生活が、最初の中間テストで脆くも崩れた。
羅針はショックだった。これまで満点は当たり前、少なくとも90点以上は確実に取れていたテストで、始めて70点台を取ってしまったのだ。それも、得意な社会や国語を含むすべての教科でだ。
しかし、羅針でも苦戦したこのテストを、ほぼ満点に近い90点台を叩き出した男がいた。同じクラスの高橋浩介、父親は市会議員も勤め、地元の老舗企業を経営する、いわゆるボンボンである。
廊下に張り出された試験結果を前に、取り巻きたちは口々に高橋を称賛し、絶賛し、賛美していた。
それに対し、高橋は「こんなの父さんが雇った東大出の一流家庭教師に全部習ったからね。テストなんて簡単なコツなんだよ。たいしたことじゃないさ。」などと言って、自分が金持ちであることを暗に自慢していた。その成績は当然の如く学年一位だった。
クラスが違う駅夫は、自身が40点台や50点台しか取れていなかったので、70点台を取った羅針を褒めてくれたが、当の羅針は悔しくて仕方なかった。
元々負けず嫌いの性格、高橋がどうとか関係なく、成績が落ち込んだことに、苛立ちを覚えた。
羅針はそれから、死に物狂いで勉強した。夜中まで起きていることも屡々、まるで受験生のような生活を送った。
しかし、その努力も虚しく一学期の期末テストは80点台に終わったのだ。もちろん例の高橋は今回もすべての教科で90点台をマークし、学年一位だった。
悔しかった。
所詮子供の工夫では、付け焼き刃にしかならず、成績が劇的に変わる訳ではない。いくら学校の授業を真面目に聴き、ノートをしっかり取ったところで、テストでは何の役にも立たなかった。小学校のテストとは違い知識の量が結果に繋がる訳ではないのだ。
羅針は夏休みも勉強に明け暮れた。
まずは教科書に一通り目を通し直し、今まで通り知識の蓄えを確実なものにした。その上で、中間テストと期末テストの出題傾向を羅針なりに分析し、教科書の内容がどのように試験として出されるのか、徹底的に分析した。
子供の頃から得意にしていた羅針の分析力は、この時真価を発揮し、二学期の中間テストでは、何と満点に近い90点台を叩き出すことが出来た。そして、なんと高橋を抜いて学年トップを獲ることが出来たのだ。
羅針は心の底から喜んだし、駅夫も自分のことのように喜び、羅針を褒め称えてくれた。それが羅針には嬉しかった。
あの時、駅夫が「お前、すげぇな!」と笑ったその瞬間は、心の底から歓喜に満ち溢れていた。
しかし、その喜びも数日の内に砕け散ることになる。
最初は、幼稚な悪戯だった。自身の勘違いだったかも知れないし、単なるポカミスだったかも知れない。だが、しょっちゅう物がなくなり、ノートや教科書に悪戯がされていると、これは自分のせいではない、明らかに他人の仕業である。
そのうち、悪戯が悪戯ですまない領域、嫌がらせが嫌がらせですまない領域へと発展していった。教科書が墨汁につけらて読めなくなっていたり、擦れ違いざまにバカだのアホだのと罵っていた言葉が脅迫へと変わったり、あの手この手の陰湿な嫌がらせがあった。
誰が糸を引いているのかはすぐに分かった。高橋とその取り巻きたちの、羅針を見る目が明らかに変わったからだ。今まで貧乏人など歯牙にも掛けなかったのが、中間テスト以降、睨み付けるような視線になり、それがいつの間にか、ニタついて下卑た笑いに変わったし、人の顔を見る度に、ヒソヒソと内緒話をしているのだ。
明らかに彼らの仕業であるが、その証拠はない。
今の時代なら、教室に防犯カメラとかがあって、犯罪が明らかにされるだろうが、当時そんなシステムは当然無かったし、先生たちも保身に一生懸命だったので、学校での不祥事は極力なかったことにしていたし、ましてや、その元凶が市会議員の息子であれば、なおさら知らぬ存ぜぬである。
いじめは更にエスカレートし、更に陰湿さが増した。机の中に給食の残飯が放り込まれていたり、剥き出しの画鋲が入れられていたり、人に見えないところで、羅針に危害を加えようと、とどまることを知らなかった。
あの頃はいじめなんて日常茶飯事で、どの学校、どのクラスでも、大小は違えど普通にあった。普通のいじめは学校中で噂になり、誰もが知るところとなるが、羅針に対するいじめは、誰にも知られることなくおこなわれた。
それもそのはず、高橋の父親は市会議員であり、息子が何かをすれば父親に害が及ぶ。いじめの事実を人に知られる訳にはいかないのだ。取り巻きももちろんそのことは良く分かっているため、もしバレれば、自分がトカゲの尻尾切りに会うことは分かっている。だから、学校では決して目立つ行動を取らず、羅針を裏で潰しにかかっていたのだ。
羅針も敢えて表沙汰にすることなく、バカなガキどもの嫉妬など、気にしなければ耐えきれると思っていたし、自分の持ち物の管理は鍵を掛けるなどして、徹底した。
むしろ負けず嫌いの羅針がそんな嫌がらせぐらいで、勉強の手を緩めることなどしなかったし、いじめが苛烈になろうとも、所詮、父親の威を借る小物である。表沙汰になることを恐れたいじめなど、羅針にとっては高が知れていた。
当然だが、羅針は結局その後、定期考査だけは中学卒業まで学年トップを守り抜き、高橋がトップに返り咲くことはなかったし、羅針の分析力が東大出の家庭教師に完全勝利を収めたのだ。だがそれはまた別の話である。
羅針は、もちろんいじめのことを先生たちにも相談した。しかし、先生たちは誰も取り合ってはくれなかった。「お前が悪いんだろ」とか「勘違いだろ」とか決めつけられ、一笑に付された時には、こいつらには今後何も相談しないし、授業を真面目に聴いてやる義理はないと、心に誓ったのだ。
だが、そんな羅針を嘲笑うかのような出来事が起こった。
それは、担任による抜き打ち持ち物検査である。
今の時代は体罰などと同様、教師が生徒に対しておこなうことが憚られるが、当時は普通にどこでもおこなわれていたし、教師が没収した生徒の私物が戻ってくることなど無かった。教師が自分のものにしたり、校内の焼却炉で処分されたりなんてことが、普通に横行していたのだ。
羅針の私物と言えば、そう、時刻表と妄想旅行ノートである。小学校3年の時に小遣いを貯めて買った大型時刻表は、羅針の宝物だ。当然、その後も小さなものから大きなものまで全国でダイヤ改正がなされ、羅針の時刻表が現実で役に立つことはなくなったが、妄想の世界なら、そんなことは関係ない。
羅針は、その時刻表を使って、全国津々浦々、行きたいところへ行き、好きな列車に乗り放題だった。それを、大学ノートにびっしりと書き込み、細かな旅程を作り込んでいった。
そこには、乗る列車の時刻だけではなく、立ち寄った場所の名産、特産、郷土料理など、多くを書き込んでいった。もちろん物だけではない、体験できることもある。神社仏閣の参拝、観光地の散策、川下りや観光遊覧の乗船、そして温泉宿での宿泊など、羅針が考える最高の旅がびっしりと書き込まれていた。
小学校三年から書き溜めてきたそのノートは、四年間で既に三冊目に突入し、日本全国を少なくとも十周はしていた。巡る度に新たな発見があり、何度もその土地のことを調べ、市の図書館にも通い詰めて作り上げてきたノートである。命の次、いや命よりも大事なノートであった。
「今日は、持ち物検査をおこなう。」
担任がそう言って始めた抜き打ちの持ち物検査では、出てくる、出てくる、色んなものが。教室の隅では慌てたように、アイドル雑誌の切り抜きを隠そうとする男子生徒や、キャラクターグッズをスカートの中に隠す女子生徒とかもいたが、泥縄式の対処では悪の権化と化した担任の魔の手からは逃れることなど出来ない。
アイドルやキャラクターものであっても文房具ならば辛うじて没収を免れたが、ブロマイドや文房具ではないグッズ、写真集や漫画、アイドル雑誌やその切り抜きのスクラップなど、生徒が隠し持っていたものが、鞄や机の中から次から次へと大量に出てきた。
当然身体検査も男女関係なくおこなわれた。下着の中に隠されていようがそんなことは関係ない。当然の如くすべて担任の手によって暴かれていった。
ゲームウォッチを没収された生徒は泣き崩れていたが、担任が容赦することは無く、それらのすべてを鍵の掛かる没収箱にドンドン放り込んでいった。二度と帰ってくることのない悪魔の箱の中へ。
羅針の時刻表と妄想旅行ノートも当然狙われた。帆布地の肩掛け鞄の奥に厚紙を装って隠していたが、なぜか担任にバレた。まるでそこにあることを知っているかのように、ピンポイントで探り当て、容赦なく没収箱に放り込まれた。
なぜバレたのかは分からない。鞄に夜鍋して作りあげた隠しポケットは、知らなければそこに辿り着くことは絶対に出来ない筈である。なぜなら、駅夫で検証済みだからだ。それがバレたのだ。羅針は考えを巡らせるが、子供の頭で考えたところで、答えは出ない。
いずれにせよ、その日、羅針が小学校三年から愛用していた時刻表と、妄想旅行ノートナンバー3は、担任の手によって〔亡き物〕にされ、ナンバー3は永久欠番となった。
羅針は担任を心の底から恨み、憎んだ。末代まで祟ってやるとまで心に誓う程に。
しかし、その数日後、ある事実を知ることになる。それは、小学生時代には仲の良かった鉄オタ仲間の久保篤恒が、羅針のことを担任に売ったというのだ。
給食中、どこからかこれ見よがしに聞こえてきた「久保が職員室で星路のことをチクったらしいぜ」というヒソヒソ話しに、羅針は凍りついた。
久保は鉄オタ仲間として小学校の時から情報交換をしあい、中学になったら間もなく開通すると噂の、不動産会社が経営する案内軌条を有した新交通システムに乗りに行く約束までしていた仲だった。
羅針が最初その噂話を耳にした時には、何の話かまったく分からなかった。それは、意味は分かるが理解できないという類いの話だったからだ。
しかし、よくよく聞いてみると、久保がチクったのは、羅針が時刻表を学校に持ち込んでいることで、そのチクリが今回の抜き打ちの持ち物検査に繋がり、そのせいで多くの生徒が犠牲になったというのだ。
久保が羅針を売るなんて信じられなかったが、それをデマだと糾弾出来るだけの情報もなく、当の久保が羅針に余所余所しくなっていたことから、久保のことを信じることは出来ず、その話を信じたのだ。
後々の話だが、卒業式の日に、久保が久しぶりに羅針に声を掛けてきて、
「あの時は、俺がチクったんじゃない。チクったのは高橋だった。だが、いつの間にか俺のせいにされ、それを星路君に言い出せなかった。本当にすまなかった。」と頭を下げられた。
しかし、そんな話を卒業式の日に聞かされたところで、羅針にとってはもう過去の話である。久保のことはそれっきりとなった。
羅針は、そんなこともあって、担任を恨み、友人を恨み、クラスの連中を恨んだ中学時代を過ごした。
もちろんそんな噂話を信じたクラスの連中は羅針をハブった。
三年間孤立した羅針だが、いくら恨みを募らせたところで、どうこうなる訳ではない。いじめられっ子が漫画やアニメのように、異能を身につけたり、天才的な立ち回りをしたりして、復讐を遂げるなんてことは、現実では有り得ない訳で、クラスの中で完全に孤立し、存在を消されたことに、羅針は嫌気が差し、日に日に心が疲弊していった。
担任も、知ってか知らずか、完全に羅針のことはほったらかしにし、完全にいないものとされたのだ。
羅針は、完全にやる気をなくした。
そもそも信用できない教師たち、クラスの連中は羅針を目の敵にしている、羅針の居場所は学校にはなかった。今思えば良く登校拒否にならなかったと思う。思えば負けず嫌いの性格が、登校拒否することを拒んだのかも知れない。
いや正確に言えば、学校というものに何かを期待することを止め、勉強は自分でやるもの、誰かに教わるものではないと達観したからこそ、やる気をなくしてもなお無気力にならず、学校に通うという修行にも似た苦行に身を置けたのかも知れない。
勉強は完全に独学となった。親に頼んで、もう一揃え教科書を買って貰った。もしかしたら親はいじめられていることを悟っていたかも知れないが、何も言わず二つ返事で教科書を買ってくれた。この教科書は自宅で使う用であり、これを学校に持って行くことはない。その代わり持って行くのはダミーである。わら半紙で作った、中身のないものであるため、これなら、墨に付けられようが、破かれようが、焼かれようが、どんな悪戯をされても痛くも痒くもないのである。
授業中の態度も変わった。いないものとして扱われていた羅針が指されることはほぼなかったが、時折当てられても、答えてやる義理はないと「分かりません」と応えたし、何かを頼まれたり、押し付けられたりしても、やってやることはしなかった。おそらく内申点は最悪だっただろう。
それでも、何を言われようが、何をされようが、反応してやることすら馬鹿らしく、逆に周りに誰もいないものとして過ごしたのだった。
そんなこともあり、羅針にとってみれば、人とコミュニケーションをとること自体が面倒くさくなった。そもそも、信頼を築いたところで裏切られるのが常なのだから、人を信用することなど、出来る訳がないのだ。
当時、駅夫に何度か心配されたこともあった。
ある日の放課後、駅夫が「最近元気ないな?」と聞いてきたことがあったが、羅針は「勉強に疲れただけ」と笑って返した。
その実、羅針は胸が締め付けられ、大きな溜め息をついた。だが、それでも真実を駅夫に伝えることはせず、あくまでも誤魔化した。
自分一人で対処できると思っていたし、駅夫にまでヤツらの矛先が向けられることを懸念したからだった。
羅針は、精神の平衡を保とうとして、心を閉ざしていったが、その副作用はすぐに現れた。事ある毎に、もう一人の自分が「疑え、信用するな、騙されてるぞ」という言葉を投げ掛けてくるようになった。
羅針が人間不信の渦潮と遭遇した瞬間である。
それは、スーパーに行った時もしかり、図書館に行った時もしかり、病院に行った時もしかり、どこに行っても聞こえてくるのだ。
この声と半世紀近く対峙し、今もなおその渦潮に翻弄されているのだ。
平櫻と出会った時にも聞こえてきたこの声は、羅針に再び人間不信と対峙する日々を強要した。
それでも、平櫻は人間不信に凝り固まった羅針の心を解し、羅針も平櫻を信用しようと努力を重ねた。そのためか、この一週間で、徐々にこの声は小さくなっていった。
しかし、今朝、その努力がすべて無に帰したのである。
再び「疑え、信用するな、騙されてるぞ」という声が脳内に響き渡り、羅針の心を苛んだ。
平櫻を信用できるかどうかは頭の中で響く声が決めるのではない、羅針自身が見極めるのだと、この一週間、こうして心を強く持とうとしていた。そんな矢先に起こった、駅夫が社長であるという、駅夫自身によるリーク。
もちろんそれを咎めるつもりはない。駅夫自身がリークしたのだから、とやかく言う権利は羅針にない。それに、それを聞いた平櫻も、変貌することなく、今までと変わりなく接してくれている。羅針とも会話を続けようとしてくれているし。駅夫に媚びを売っているようにも見えない。あの有象無象の女どもとは明らかに違う、心の底からの優しさと誠実さ、そして純粋な旅好き仲間としての意識のようなものが感じられた。
しかし、「疑え、信用するな、騙されてるぞ」という声は今朝から声高に羅針の脳内で響き渡っているのだ。羅針は油断していただけに、一挙に精神がやられた。駅夫に泣きついてもみたが、そんなことをしたところで、声が聞こえなくなる訳でもなく、二人から少し距離を取って、声が落ち着くのを待つしかなかった。
ところが、距離を取りたくても、隣に座る平櫻はずっと何かを喋ってくる。だが、感情の渦潮のせいで、その声は羅針には届かない。断片的に届く言葉から想像して返事をするしかなかった。頼みの駅夫は列車が発車してすぐにどこかへ行ってしまったので、平櫻の相手を替わって貰う訳にもいかない。
ずっと何かを喋っている平櫻に対し、羅針は申し訳なさが募っていた。