拾伍之壱
檜枕の良い匂いが、星路羅針の鼻腔をくすぐる。
朝6時、いつものようにスマホのアラームよりも早く起きた羅針は、最初の作業であるアラーム解除をおこなう。
ベッドから降りた羅針は、眠い目を擦りながら洗面台へと向かう。
いつもなら、洗面をすませた羅針は、すっきりした顔で、パソコンを起動し作業に取りかかる。前日の精算と、一日の纏め、それからカメラの写真データをハードディスクに移して整理するはずだった。
だが、今朝は、温泉目覚ましが作動するため、その朝のルーティンが出来ない。
「ん~お~は~よ~。」
旅寝駅夫のいつもの第一声だ。やはり、温泉目覚ましは作動したようだ。羅針が起こす前に、駅夫は自ら起きだした。
「おはよ。今日も起きられたか。」
羅針が駅夫に声を掛ける。
「ん~。ふ~ろ~。」
駅夫は寝惚けているのか、会話にならない。
「ほら、早く降りてこい。風呂行くなら、早く行くぞ。」
二段ベッドの上で眠っていた駅夫を促す。
昨晩はラウンジでウェルカムドリンクと寿司をいただきながら、平櫻佳音による駅夫の会社、ヒューマンパスへの愛を延々と聞かされた。
ヒューマンパスがそこまで人気があったことにも驚きだが、羅針が驚いたのは、平櫻の熱の入れようである。クールとは言えないまでも、それなりに落ち着いて、思慮分別のある女性だと思っていた平櫻に、まるで狂信者のような一面があったことに驚いたのだ。
羅針は冗談で、洗脳かなんかをしてるんじゃないのかと駅夫に言ったが、まさに、洗脳されているかのように熱く語る姿は、どこか狂気すら感じた。
当のヒューマンパス社長である駅夫がどう思ったかは知らないが、羅針は、平櫻を気が狂ったとはせずに、ただ、自分の好きなことを熱く語るオタクの所業と見ることにした。自分もそんなところがあるから、同じものを平櫻の中に見出したのかも知れなかったし、これまでの信頼が、彼女への不信を上回ったのかも知れない。
羅針はそう思いたかったし、そう思うことにした。
ゴソゴソ起きだした駅夫は、天井に頭をぶつけそうになりながらも、どうにかこうにか降りてきた。
「ほら、洗面用具持って。風呂行くんだろ。」
羅針が言う。
「ああ。」
そう良いながら、駅夫は重そうな瞼を無理矢理開きながら、自分の荷物から洗面用具を取り出した。
「じゃ、いくぞ。」
羅針は準備が出来た駅夫の背中を押して、大浴場、佳人の湯、もとい美男の湯へと向かった。
浴場には先客が二人程いたが、二人が入ると軽く会釈を交わして入れ違いで出ていった。
羅針と駅夫は、さっと寝汗を洗い流すと、湯船に浸かった。
湯船に肩まで浸かると、大きく溜め息を漏らした二人の間に、暫し沈黙が流れた。
湯面には天井の明かりが揺れて映り、その光が二人の顔を柔らかく照らしていた。湯気に包まれた空間に、湯口から流れ出る掛け流しの湯の音だけが響いていた。
少し開いた窓からは、朝の空気が流れ込み、二人の顔を撫でていく。
羅針は湯を手で軽く掻き回しながら、駅夫の表情を窺った。目の下に薄く残る寝惚けの影と、口元に見える大好きな温泉に浸かる喜びが表れた表情に、羅針はわざとらしく肩を竦めながら口を開いた。
「昨日の平櫻さんは、凄かったな。まるでお前をアイドルかなんかと崇めていたぞ。」
羅針が、駅夫をからかうように言う。
「ああ。ウチの会員が皆ああだとは思わないけど、ちょっとビビったな。」
駅夫が辟易しながらも少し嬉しそうに言う。
「まあ、でも良かったじゃねぇか。アイドルみたいになりたかったんだろ。」
昨日の昼、駅夫が呟いたことをからかって、羅針は言った。
「そう言ったけどさぁ。これじゃない感。」
駅夫は困ったような顔をしていた。それを誤魔化すように、タオルで顔を覆うと小さく溜め息を吐いた。湯けむりの向こうで、その声は少しくぐもっていた。
他人にほんのちょっと注目されるぐらいで良いのが、がっつりとアイドル扱いされたのだ。その理想と現実のズレが、駅夫の心を困惑させていた。
「まあ、ファンは大切にしろよ。」
羅針は冗談とも本気とも取れる口調で、投げ槍に言う。
「あのなぁ。……ありがたいことだけど、今日どんな顔して会えば良いんだよ。」
駅夫は頭を抱えていた。
「良いじゃん、普通にしてれば。それとも『ハーイ。僕のスイートハニー、いつもウチの商品買ってくれてありがとう。』ってな感じで、投げキッスでもするか?」
羅針がからかうように言う。
「どあほ。そんなこと出来るか!」
駅夫が拳を振り上げている。
「冗談だよ。落ち着け、落ち着けって。……ともかく、成り行きとはいえ、お前が社長だってことはバレたんだから、気を付けろよ。」
羅針が警告する。
「彼女に限って、そんな変なことはしないだろ。……って分かった。警戒は怠らないよ。まったく心配性なんだから。」
駅夫は、羅針が真剣な表情をしているのを見て、頷く。
羅針は、これまで駅夫の資産目当てで近寄ってきた女たちのことを言っているのだ。その脳裏には、これまで駅夫に言い寄ってきた有象無象の女たちの顔が浮かんでいた。名前も顔の輪郭も羅針の記憶からは消えかかっているが、どんな所業をした女たちだったかははっきりと覚えている。
特に、間男との子供を駅夫との子供だと偽って結婚まで漕ぎ着け、のうのうと妻の座を占有していた女。法律的な制裁は軽く、慰謝料も微々たるもので、今でものうのうと生きていると思うと、羅針にとっては身の毛がよだつ思いだが、当の駅夫にとっては、忘れたくても忘れられない過去なのだろう。特に、駅夫のことをパパと呼んで懐いていたあの子の顔は、事ある毎に脳裏に蘇ってしまうようなのだ。
そんな、駅夫を心配して、言い寄る女を片っ端から検閲し、品定めをしてきた羅針だが、平櫻は、そんなことはしないだろうと思っていた。これまでは。
確かに、羅針の目にも平櫻はそんなことをするような女性には見えない。それなりに自分で稼いでいるし、思慮分別のある女性のようなので、そんなことはしないだろう。しかし、女とは金に目が眩むものだと羅針は考えていたので、平櫻に対する警戒を再び上げることになったのだ。
信頼を裏切るようなことはしてくれるなよ、と羅針は内心、平櫻に祈るような気持ちで願った。
「ところで、昨日見た、平櫻さんの動画、どう思った。」
駅夫は雲行きが怪しくなってきたので、話題を変える。
「ん?ああ、あれね。良いんじゃないかな。俺たちの個人情報は出てないし、特に問題はないと思うよ。」
駅夫と羅針は、昨日飲んだ後、大浴場でひとっ風呂浴びてから、平櫻の動画の続きを二人で見たのだ。
露天風呂のシーンからの続きは、刈和野の大綱引きに関する紹介を中心に、三人で刈和野の街を散策しているシーンを織り交ぜながら、スポット映像を挟み込んでいく。もちろん刈和野出身のタレントのことも忘れてはいないし、次の訪問地である静和もルーレットシーンを入れて、少し紹介していた。
そして、最後に、『見てくれてありがとね〜。チャンネル登録と、よか評価もしてくいやんせ〜。ほいじゃっ、また次の動画で会おかい。じゃっど〜!』と鹿児島弁で締め括っていた。
「お前はどうなんだよ。」
羅針が聞く。
「俺も問題ないと思うぞ。あの風呂のシーン以外は。……分かってるよ。文句は言わないよ。」駅夫はまだ言っているが、羅針の表情を見て、文句は飲み込んで、「……でも、これを毎回作り上げるんだろ。凄いよな。」と誤魔化すように駅夫は感心するように言った。
「確かにな。だからこそ、俺たちも真剣に向き合わなきゃ。おざなりなチェックは彼女の仕事に対して失礼だからな。」
「お前、それ昨日も言ってたな。……分かってるよ。俺だって社長の端くれ。人の仕事に対しておざなりになんかしないよ。」
「それなら良いけど。……とにかく、彼女の今回の動画は合格と言うことで、平櫻さんに戻すぞ。良いな。」
「ああ。良いよ。」
駅夫は大きく頷くと、湯船の縁に頭を乗せて、天井を見上げた。
天井には無数の水滴が今にも落ちそうな程膨らんで、並んでいた。まるで、その一つ一つが言葉にならなかった想いのようだった。
これまで、二人で過ごしてきた日々、紆余曲折の人生、更に、この一週間を共にした平櫻との関係、そして、なによりもこの東北を襲った震災に対する人々の想いのようなものを、二人は感じていた。
駅夫も、羅針も、言葉を発することなく、去来する想いと共に、暫く天井を見上げていたのだった。
二人は、風呂を上がると、そのまま食堂へと向かった。
「おはようございます。」と平櫻。
「お、おはよう。」と駅夫。
「おはようございます。」と羅針。
いつものように先に来ていた平櫻に、駅夫と羅針が挨拶をする。
駅夫は昨日のことがあってちょっと気まずそうだ。まともに彼女の顔を見ることができない。あれだけ持ち上げられたのだから、恥ずかしさが先に立つのも道理である。
そして、羅針はといえば、どこか素っ気ない。羅針には駅夫に言い寄った過去の女たちと、目の前にいる平櫻が重ね合わさって見えていた。さっきまで駅夫に軽口を叩いていた羅針だったが、平櫻の顔を見た途端、苦痛に苛まれた。顔を歪め、途端に口を開くのも困難な状態へと陥った。それが、素っ気ない態度へと表れたのだ。
「お二人とも、昨晩はすみませんでした。ちょっと飲み過ぎました。」
平櫻は、今朝、酒盛りの様子を撮影していた動画を見返して、自分が二人を相手に熱く語っているのを目の当たりにして、気まずいやら、申し訳ないやら、恥ずかしいやら、色々と思うところはあったようで、深々と頭を下げて、平謝りをしている。
「良いよ、良いよ。ウチの会社への熱い想いは充分伝わったし、心の底から嬉しかったから。こんなに熱い想いでウチの会社を応援してくれている人がいるんだって思うと、これからも頑張ろうって思うし。こちらこそ、ありがとうね。」
そんな平櫻の態度を見て、駅夫は恥ずかしいのを我慢して、どうにか優しい顔を作って、平櫻に頭を上げるように言う。
「そんな風に言って貰えるなんて、本当にありがとうございます。」
平櫻はホッとしたような表情で、また頭を下げている。
駅夫は、こんな娘が俺に悪意を持って接する訳ないだろ、といわんばかりの表情で羅針を見る。その羅針は、平櫻の態度に不信感を禁じ得ないといった表情で、彼女の本心を暴いてやろうとするかのような、冷ややかな視線を送っているように、駅夫には見えた。
この一週間で、漸く心を許した羅針が、平櫻と気さくに話を出来るようになってきた矢先に、駅夫の不用意な発言で素性を明かしてしまったのだ。羅針にそんな表情をさせてしまったことに、ここに来て事の重大さに改めて気付かされ、やらかしてしまったと駅夫は後悔してもしきれなかった。
もちろん、会社のホームページには、会社概要は公開してるし、自分の名前も、顔も掲載しているのだ。バレるのも時間の問題だっただろうし、平櫻のことだから、もしかしたらホームページの隅から隅まで読んでいて、既に知っていたかも知れない。
だから、駅夫自身がバラさなくても遅かれ早かれ平櫻の知ることとはなっただろう。しかし、なによりも、羅針にそういう表情をさせたことが駅夫には辛かった。
だが、そうは言っても駅夫にも疑問は残る。なぜ、平櫻は駅夫がバラすまで、ヒューマンパスのことを話題にも出さなかったのか。知っていたのなら、匂わせ程度にでも探りを入れてくることがあってもしかるべきである。
だけれども、昨日のその時まで、ただの一言も平櫻の口からは出てこなかった。本当に、最初から気付かなかったのか、いや、気付いたからこそ頑なに黙っていたのか。羅針の言うとおり、資産目当てで近寄ってきたため、わざとおくびにも出さなかったのか。もしかしたら、羅針のタブレットを壊したのも、偶然ではなくて、意図的にしたことだったのか。疑いだしたら、すべてが疑いたくなる。
しかしながら、駅夫は平櫻を信じることにした。疑いだしたら切りがないのなら、疑わずに静観するに限る。なぜなら、まだ平櫻自身は何もしていないのだから。
一方、羅針にしてみれば、風呂場で「平櫻に警戒しろ」と駅夫に言ったものの、その言葉の重みに苛まれていた。別に平櫻を敵対視したい訳でも、排除したい訳でもなかった。ただ単に、信用しすぎるなよって、お金には気を付けろよって、女はいつ本性を現すか分からないからなって、そう軽く忠告したつもりだった。
しかし、よくよく考えたら、その言葉には思った以上の重みがあったのだ。
この一週間で築き上げてきた平櫻との信頼関係を、壊してしまいかねない程の重さだったのだ。
それに気付いた時には、既に遅かった。
羅針の中では、平櫻を今までどおり見ることは出来なくなっていた。彼女の顔を一目見てその懸念は確証へと変わった。彼女の一挙手一投足がすべて疑わしいのだ。
疑い出したら切りがないことは分かっている。だが、疑わずにはいられないのだ。頭の中で「疑え、信用するな、騙されてるぞ」という言葉が響き渡っているのだ。頭が痛くなるぐらい、大きな音で響いているのだ。
羅針はもう、これ以上駅夫に悲しい顔をさせたくなかった。だが、平櫻との関係も壊したくはなかった。だが、その声に逆らうことは出来なかった。胸が張り裂けそうな痛みを羅針は感じていた。傍から見たら苦痛に歪んでいたかも知れないと羅針は思ったが、そんなことに頓着する余裕などなかった。
佳音は、食堂に来た旅寝と星路の様子が、少し変だと感じた。
二人ともほんの少しだが、余所余所しい感じになったような気がする。もちろん、自分が悪いのだ。昨晩、興に乗って、熱く語ってしまった。まさか、自分の大好きなパスセレクションを運営しているヒューマンパスの社長が、目の前にいる旅寝だったのだ。興奮するなと言う方が無理である。
確かに、今考えれば、会社概要に社長の名前は旅寝駅夫とあったし顔写真も掲載されていたので、当然知っていた。
写真の中の旅寝がスーツ姿で髪を整髪料で整えた姿であったとはいえ、早々に気付くべきだったが、まったく気付かなかった。思いもよらなかったと言うのが正直なところか。
だから、今朝起きて、昨晩の酒会を撮影していた動画を見返した時は、顔から火が出るかと思った。酔っていたのもあるが、良い気分になって、饒舌になっていたからだ。いや、饒舌になっていたどころではなく、なりすぎだった。ある意味絡み酒のようなものだ。危害を加えなかっただけ良しとするべきだが、問題はそんなことではない。羽目を外しすぎたことが問題なのだ。佳音は頭を抱えた。
だから、二人の顔を見てすぐに謝罪した。平謝りである。快く自分みたいな小娘を二人だけで楽しんでいた旅行に同行させてくれた上に、旅仲間だとまで言ってくれた二人に、自分は何をしでかしたんだと、心が締め付けられるような思いだった。
とても二人の顔をまともに見られなかった。特に羅針は雰囲気からして心底怒っているように見えた。
佳音は、二人と交わした契約書を思い返していた。その中に個人情報に関する項目があった。今思えば、あの個人情報の項目は、お忍びで旅を楽しんでいた二人の最終砦だったのだろう。佳音が言いふらしたりすれば、大きな騒ぎになるからだ。ましてや、自分のような小娘を連れて歩いているなんて知られたら、大きなスキャンダルである。
だからこそ、星路があそこまで頑なに契約書を交わすことに拘り、必要以上に警戒されていたのだ。
この一週間、節度を持って接してきたからこそ、二人の信頼を得て、信用されたのだ。それが、二人の信頼を大きく損ねるようなことをしでかしたのだ。
佳音は、自分がやらかしてしまったことの重大さに頭を抱えた。
二人の優しさに甘えていたのかも知れない。だからといって、やってしまったことをなかったことには、もちろん出来ない。
出来ることは、ひたすら謝ることだけである。自分には他意がないこと、これからも旅に同行させて欲しいこと、二人と共に純粋に旅を楽しみたいこと、二人の素性は絶対に他言しないことを、誠心誠意伝えるしかないと思った。
言葉を尽くして、謝罪した佳音を、旅寝は許してくれたようだった。しかし、星路は分からない。言葉もなく、難しい顔をしている。まるで、初めて会った時のような、警戒心全開の表情だった。その表情を見て佳音は、完全にやってしまったと後悔した。
星路を怒らせたと思った。そして彼が心を閉ざしてしまったと思ったのだ。旅寝から、星路はコミュ障だから頼むと言われた。だからこそ、細心の注意を払って星路とは会話を続け、心を開いて貰えるように気を遣ってきた。それが昨晩はこの一週間の努力を無に帰すよな所業をしてしまったのだ。後悔しても仕切れない。
だが、佳音は諦めなかった。ここからが正念場、ここを乗り越えれば、本当の意味で星路に受け入れて貰える。一度なくした信用は簡単には戻らない。だが、戻せない訳ではない。そう考えたのだ。
「星路さん、早く行きましょ。」
佳音が星路の目の前ギリギリに掌を翳してユラユラと揺らした。
怒られるかも知れない、でも、一か八かの賭けだった。これまでどおり、軽口を叩き、冗談を言って欲しかったのだ。
「あっ、ああ。はい。分かりました。」
言葉もなく佳音を見ていた星路の目は、警戒心を宿していたが、佳音のあどけない行動に、顔を引きつらせただけだった。
佳音の思惑は完全に外れた。いや、予想どおりだったと言った方が確かだろう。完全に信用をなくしていたのだ。
佳音は自分がやってしまった事の重大さに、胸を掻き毟りたい衝動に駆られ、心の底から後悔し、自己嫌悪に陥った。
食堂の空いている席に、荷物を置いた三人は、ビュッフェ用に並ぶ料理をトレイに取っていった。昨朝と同様、駅夫と羅針はパンを中心に洋食を、平櫻は和食も洋食も両方揃えた。ただし、平櫻のトレイは心なしか量が少なかった。流石に精神的に来ているのか、食欲が湧いていないようだった。
朝食は、会話もなく進んだ。誰も何も発することが出来なかった。
美味いパンも、美味いカレーも、美味い牛タンシチューも何もかも三人にとっては味気ないものに感じていた。
平櫻はそれでも、朝食のシーンを撮るために動画を回していたが、言葉もなく黙々と食べていた。
「あの、平櫻さん、これ、ありがとうございます。」
食事を終えた後、重い空気を切り裂くかのように、羅針が口を開いた。その手には、平櫻が動画の確認のために羅針に預けたSDカードが入ったケースがあった。
「あっ、ありがとうございます。如何でしたか。」
平櫻は恐る恐る聞いた。これで、動画の内容に不備があれば、信用を取り戻すなんてことはおそらく天地がひっくり返っても無理と言うことになる。平櫻の心臓は早鐘を打つように、心拍数が上がっていった。
「はい、問題ありませんでした。このまま投降して頂いて結構です。」
その口調はどこか堅苦しく事務的だったが、羅針はそう言って、再び口を閉ざしてしまった。
「とっても良かったよ。凄く見応えあったし、楽しかった。ちょっと目のやり場に困っちゃったけどね。」
その重苦しい空気を払拭しようと、駅夫がそう言って笑う。だが、その笑いは乾いていた。
「お恥ずかしい限りです。お目汚ししてしまいましたね。すみません。もう良い歳なんだから、止めれば良いんですけど、お約束みたいなもので、コメント欄が盛り上がると、少しぐらいは良いかなって、気持ちが大きくなっちゃうんですよね。お見せするようなものでもないんですけどね。」
平櫻も動揺を隠して、場を和ませようと、気恥ずかしいながらも、そんなことを言う。
「いや、とても綺麗だったよ。思わずドキマギしちゃったからさ。それよりも、編集大変でしょ。全部自分でやっているんでしょ。凄いね。」
駅夫が無理矢理話題を繋ぐ。
「あ、はい。企業案件とか、テレビ局さんとのコラボだと、お任せすることもあるんですが、基本は私自身で全部やってます。時々一番下の妹が手伝ってくれることはありますけど。今回の動画は私一人でやりました。」
平櫻が答える。
「そうなんだ。それにしたって凄いよ。まるでテレビ番組を見ているようだったし、裏側を知っているから、あれが、こういう風に編集されるのかって、凄く新鮮で、目から鱗だった。」
駅夫は感心したように言う。
「ありがとうございます。ここまでの形にするのに色々と紆余曲折があったのですが、今はこんなテンプレートで落ち着いてます。また、どこかで大きく変えるかも知れませんけど。」
平櫻は、どうにか早鐘を打つ心臓を鎮めようと、そう言って深呼吸をした。
「なるほどね。テンプレートがあるんだね。」
「はい。オープニングとエンディングの台詞、入れる音楽、編集の方法は、もうずっとこのスタイルでやってます。中の本編だけは色々工夫してますね。お約束を入れたり、マンネリ化しないようにしたり、色々と考えて編集しないといけないので、そこは腕の見せ所ですね。」
そう言って平櫻は両腕で力こぶを作ってみせる。ただ、その細腕にこぶは現れなかった。
「その細腕で頑張ってるんだね。次回も楽しみにしてるよ。」
そう言って駅夫は、にっこりと笑った。
「はい。」
そう言って平櫻は恥ずかしそうに大きく頷いた。
駅夫と平櫻の会話はどこか余所余所しく、ぎこちなかった。笑っているのに、笑っていなかった。それでも、三人の関係を繋いでいる細い糸が断ち切れないよう、掛かるテンションを一生懸命下げようと試みていた。
二人が重苦しい空気を払拭しようと話を続けている間、羅針はずっと難しい顔をしていた。
「ほら、羅針、今日の予定は?」
駅夫が見かねて、声を掛ける。
「あっ、ああ。一応、仙台から新幹線で一本だから、いつ出ても良いんだけど。」
羅針が言う。
「いつ出ても良いって。新幹線ははやぶさに乗るんだろ。はやぶさだったら全席指定じゃないのか。」
駅夫が尋ねる。
「あっ、そうだった。わりい。」考え事でもしていたのか、羅針は珍しく間違えた。スマホを取りだして予定を確認して、読み上げる。「……えっと、予約したのは、はやぶさ108号の2号車9列目だよ。仙台発が10時22分だから、館腰駅を9時46分発の列車に乗れば間に合う。もし仙台駅で土産物を買うとか、何か用事があるなら、早めに出ても良いけど。どうする。」
羅針がそう言って、駅夫に確認する。
「前回仙台に寄った時、土産物は買ったしな。その時間ならお昼は東京に着いてからだろ。駅弁を買う必要もないし、急ぐことはないけど。平櫻さんはどうする?どこか寄りたいところがあれば。」
駅夫がそう言って、平櫻にも尋ねる。
「私も、別に寄りたいところはないので大丈夫ですよ。」
平櫻はそう言って微笑む。努めて明るくしようとするが、やはり空気は重い。
「そうですか。分かりました。では、9時46分に館腰駅を出るということで、9時30分にはホテルを出ます。それで良いですか。」
相変わらず事務的な口調で羅針はそう言って、平櫻に確認する。
「はい。それで大丈夫です。」
平櫻が頷く。
「それでは、出発までにチェックアウトの手続きをすませておいてください。お願いします。」
「分かりました。」
事務的な口調の羅針に、少し寂しく思いながらも、平櫻は頷いた。自分が撒いた種なのだから、仕方がない。
その後、三人はそれぞれの思いを胸に、一旦部屋に戻り出発の準備をするのだった。