拾肆之拾弐
仙台駅のホームに降りた、旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、夕食の店を決めていた。駅夫に提案したのは、羅針が車内で探し出し、平櫻が了承した店である。
「良いよ。そこで。」
駅夫は二つ返事だ。
「良いのか。じゃ、そうするな。」駅夫の返事を聞いた羅針は、すぐに店に電話を入れて予約を取る。「……無事予約完了。じゃ行こうか。」羅針は駅夫と平櫻に言う。
少し早い時間だが、三人はそのまま向かうことにした。
梅雨の雨が降る仙台駅は、少し冷え込んできた。三人はそれぞれ上着をリュックから取り出し羽織った。
夜の顔になりつつある仙台駅は、列車を降りた人と、これから乗ろうとする人が擦れ違う。三人はその人混みを縫うように駅ビルの三階へと向かった。
羅針が予約した店は、昨日、芹鍋を食べたお店の並び、同じフロアにある郷土料理を看板に掲げる和食店である。
店の前では、お行儀良く並んだ食品サンプルたちが出迎えてくれた。
御前や釜飯、刺身など、宮城県の農産物や水産物が郷土料理となって並んでいた。もちろんお目当ての北寄飯もある。赤と白のグラデーションが綺麗な北寄貝がいっぱいに敷き詰められたその丼は、作り物なのに美しかった。いや作り物だからこそ美しいのかも知れない。
入り口で予約した者だと伝えると、予約席のプレートが置かれたテーブル席に案内された。
もちろん注文するのは北寄飯であるが、平櫻がそれで済むはずもなく、追加で北寄貝の釜飯も注文する。
駅夫と羅針は、流石に釜飯までは食べ切れないので、宮城県白石市名物の温麺というものをそれぞれ注文した。
すると、平櫻は「私も」と言って温麺を追加した。
「羅針、温麺について教えてくれよ。」
注文が終わると、駅夫が温麺について聞いた。
「ああ、温麺は、白石市の郷土料理で、素麺の一種だな。〔うーめん〕とか〔ううめん〕とか呼ばれていて、昔は雲の麺と書いて〔うんめん〕とか呼ばれてたらしい。
麺の特徴は、素麺が表面の乾燥防止に油を塗るのに対して、温麺は打ち粉を使うらしい。麺が短いのも特徴で、熱いのも冷たいのもどちらでも食べられていて、素麺は夏限定みたいな感じだけど、温麺は一年中食べられているらしい。油を使ってないから伸びやすいけど、短いから料理としては扱いやすくて、老人食や離乳食なんかにも重宝するんだって。」
羅針が温麺について知ってることを披露した。
「よく知ってるな。」
駅夫が感心する。
「まあな。温麺は有名だしな。まさか、こんなところで食べられるとは思わなかったけど。」
羅針はそう言って微笑む。
そんな話をしていると、北寄飯と温麺が運ばれてきた。店員に釜飯は少し待って欲しいと言われた。
「今、田圃へ稲刈りに行ってるんだよ。」
駅夫が巫山戯る。
「アホ。それなら、この米はどこから持ってきたんだよ。」
羅針が北寄飯を指差して駅夫を詰る。
「それは……、きっと備蓄米だよ。」
駅夫が苦し紛れに言う。
「ふーん。……ってならないからな。ねぇ平櫻さん。」
羅針が更に詰り、平櫻に同意を求める。
「ええ。じゃ、収穫が終わるまで待たないといけませんね。」
平櫻がそう言って笑った。
「ほら、早く食べようぜ。いただきまぁす。」
分が悪くなったと悟ったのか、そう言って駅夫は何事もなかったかのように、しれっと北寄飯に箸を入れた。
「お前が変なこと言い出したんだろ。ったく。」
羅針はそう言って、平櫻と目を合わせる。
平櫻は苦笑いをしていた。
「美味いぞ、これ。」
駅夫は北寄飯に載っている北寄貝をコリコリと食べている。
「北寄貝がコリコリしていて美味しいですね。少し甘めの炊き込み御飯も美味しいです。」
平櫻がにこやかに言う。
「この北寄飯って作り方がはらこ飯と同じなんだよね。上に載せる具材の煮汁、はらこ飯なら鮭、北寄飯なら北寄貝を煮た汁で炊き込むから、相性が良いし、余計美味く感じるんだよね。」
羅針もその美味さに舌を巻く。
旬を過ぎているのに頂けるのは、本当にありがたい。旬の時期でなければ、美味しさは半減するだろうが、それでも、折角来たのに食べられないという方が、興ざめで、不満が残る話だから、食べられるだけでもありがたいのだ。
「宮城県南部で発展した調理方法なのかもな。」
羅針がポツリと呟く。
「何が。」
駅夫が羅針の言いたいことが分からずに、聞く。
「北寄飯にしてもはらこ飯にしても、煮汁を使って御飯を炊くだろ、それは、はらこ飯の発祥地である亘理町にせよ、北寄飯の発祥地である山元町にせよ、どちらも同じ亘理郡に属するんだよ。だから、そんな風に思ったんだ。」
羅針はそう答える。
「なるほどね。それは一理あるな。」
駅夫は納得した。
「この温麺も美味しいですよ。つるっとした喉越しがクセになりそうです。」
平櫻が温麺にも手を伸ばしていた。
「確かに、これも美味い。素麺みたいなのに全然素麺じゃない、素麺風っていうのかな、喉越しとかは素麺なんだけど、短いからズルズルっていけないのがちょっと物足りないかな。でも、全然不味くはなくて、むしろこれはこれでありって感じだな。」
駅夫がいつになく、詳細な感想を言う。
「そうだな。付けづゆも素麺とは違ってごまだれって言うのもポイント高いな。胡麻の風味が麺の風味と相まって、口の中に広がるのが良いな。」
羅針も知ってはいたが、始めて食べる温麺に感動を覚えていた。
「でも、温かいのだけを想像してたけど、冷たいのでも出してくれるんだな。」
三人は温かいのを頼んだが、注文の時に温冷どちらかを選ぶことが出来た。冷たい方なら、もしかしたら素麺と大差なく感じたかも知れないが、温かい方は、素麺らしさがありながらも、別物であると感じた。
平櫻が北寄飯と温麺を平らげた頃、釜飯が届いた。
平櫻はもし良かったらと、少しずつ二人に取り分けてくれた。
ありがたくいただいた二人は、味わうように口に運ぶと、その美味さに目を見開いた。北寄飯とはまた違う、釜飯特有の風味が加わり、素朴でありながらも、口に広がる旨味と北寄貝のコリコリ感が相まって、得も言われぬ幸福感が湧き上がってきた。
一口食べただけで、それなのだから、次々に口へと運んでいる平櫻は、恍惚の表情を浮かべていた。
「本当に美味しいです。色んな釜飯をいただいてきましたけど、これはちょっと他の釜飯とは一線を画しますね。北寄貝の旨味もそうですし、その食感もそうですし、鼻に抜ける風味もそうですし、どれを取っても、味わい深くて、美味しいとしか言えないんですよ。」
平櫻はそう言って、一口一口味わうように食べ進めていった。
三人は、もちろん食事のお供として日本酒も忘れていない。この店には昨日飲んだ閖上のお酒はなかったが、宮城県の銘酒は揃っていて、三人はそれをいくつかいただいた。
塩竃の銘酒は、柔らかな口当たりと米の旨味が特徴的で、ほのかな香りとまろやかな味わいで、後味はすっきりしていた。
一ノ関の銘酒は、フルーティーな香りと軽快な旨味が特徴の淡麗辛口で、後味のキレが良く、北寄貝に良く合った。
大崎市の銘酒は、バナナやメロンを思わせる華やかな香りと、透明感のある甘みが特徴的で、酸味と旨味のバランスが良く、後味はキレがあった。
どれも米所東北の面目躍如といったところか、美味い米と美味い水が育んだ銘酒たちはどれも美味かった。
「この後どうする。昨日よりも時間早いけど。」
コップに残っている酒を飲みながら、スマホの時計を見た駅夫が言う。
「そうだな。もう一つ無料の展望台はあるけど、今日は雨が降ってるからな。後は、ここでハシゴするか……。」
羅針が言う。
「もう、食べるのはいいよ。飲むのは良いけど。」
駅夫が言う。
「飲むだけなら、ホテルに戻った方が良いかもな。ホテルならウェルカムドリンクがあるから、それにした方が安上がりだし。」
羅針が言う。
「平櫻さんはどうする?」
駅夫が聞く。
「私は、どちらでも大丈夫ですよ。」
平櫻が言う。
「じゃ、そうしますか。雨も降ってるし。」
羅針が言う。
「そうですね。街中を歩くよりは良いですかね。」
平櫻も頷く。
「じゃ、戻るか。」
駅夫の一言で、三人は改札口へ向かって歩き出した。
改札口を抜けて、電光掲示板を見ると、一番早い次の列車は、常磐線の原ノ町行きの18:40発で、6番ホームである。
三人が6番ホームに降りると、既に、折り返しの701系1000番台が四両編成で停車していた。
列車に乗り込んだ三人はクロスシートに座った。
駅夫も今回はかぶりつきには行かないようだ。日の入りまではまだ少し時間があるが、もう五回目だから良いのだろうと思いきや、座った途端寝息を立てていた。どうやら疲れていたようだ。
羅針と平櫻は顔を合わせて、クスリと笑う。
「平櫻さん、明日のホテルは本当にあそこで良かったんですか。」
羅針は、次の日本橋駅で宿泊するホテルを決める時に、平櫻がどうせならと言って提案したホテルに決めたのだ。かなりの高級ホテルで、二連泊するには金銭的にキツいので、明日の夜だけにしたが、どうにか予約が取れたので、泊まることになったのだ。
「はい。もちろん。ずっと泊まってみたかったので。流石にスイートは無理ですが、シングルなら私でも手が届きますので。」
そう言って平櫻はにっこりと微笑む。
「それなら良いんですけど。まあ、こいつには内緒で、明日驚かせましょうね。」
羅針は、肩により掛かってきている駅夫を指して静かに笑う。
「反応が楽しみですね。」
平櫻も楽しそうに微笑んだ。
徐々に暗くなっていく、雨が降る街を、列車は走って行く。
車内は多くの人が乗っていたが、誰もが声を発することなく、スマホの灯りだけを見つめ、雨に濡れる街の灯りや、追い抜いていく新幹線の灯りを見る者はいなかった。
やがて館腰駅到着の車内放送が入ると、眠っていた駅夫を揺り起こし、列車を降りた。三人は傘を差して、雨の館腰をホテルへと向かう。
ホテルに着いた三人は、ひとまず部屋に戻り、荷物を置いた後、貴重品だけ持って、ラウンジに集まった。
カウンターには、ウイスキーからウォッカ、ジン、梅酒、青林檎酒、柚子酒、日本酒、焼酎、サワー、そして赤と白のワインまで、見た目にカラフルなお酒が並んでいた。
「このホテル、こんなサービスがあったんだな。」
駅夫が並んでいる酒瓶の数々を見て言う。
「ああ、20時までだけどね。」
羅針が答える。
「寿司の販売もしてるんだな。」
駅夫が言う。
「摘まみにいくつか握って貰おうか。」
羅針が言う。
「そうだな。平櫻さんは?」
駅夫が聞く。
「ええ、お願いします。」
平櫻が答える。
「一人前は多いだろ。」
羅針が駅夫に聞く。
「ああ、一つ二つ摘まめれば良いよ。」
駅夫が答える。
三人は、出張で来ていたお寿司屋さんに、握りを二人前頼んで、更に、カウンターに並ぶウェルカムドリンクから、自分たちで好きな酒を注いで、早速酒盛りを始めた。
「乾杯!」
三人は、杯を掲げて乾杯をする。
「明日は、日本橋か。」
駅夫が口火を切る。
「そうだな。」
羅針が頷く。
「私は、凄く楽しみですよ。」
平櫻が、二人の気持ちを察してか、にこやかに言う。
「まあ、俺たち二人にとっては、見慣れた景色だからな。何か新たな発見でもあれば良いけどね。なあ、羅針。」
駅夫が投げやりに言い、羅針に同意を求める。
「まあな。あの辺はビジネス街だからな。一応、こんなコースを考えてる。」
羅針は、そう言って、スマホで日本橋駅周辺の地図を表示して、予定のコースを示していく。ほとんどただ歩いて散策するだけだ。
「後は、めぼしいところがあったら、寄るって感じですよね。」
平櫻が言う。
「そうですね。日本橋、日本銀行は見るとして、後は行き当たりばったりって感じですね。」
羅針が答える。
「そうなるよな。それなら、一日も観光の時間はいらないんじゃないの。次の日に出発しても良いんじゃね。」
駅夫が言う。
「いや、きっちり丸一日観光するよ。日本の起点である日本橋をおざなりにするのは、日本橋に対する冒涜だからな。」
羅針が何かを企むような表情をしていたが、駅夫はテーブルに肘をついて、顎を乗せていて、羅針の表情を見ていなかった。
「旅寝さん、そんな殺生なこと言わないでくださいよ。私は楽しみにしてるんですから。それに、旅寝さん仰ったじゃないですか。『何もないところを見て廻るのが俺たちの観光だ』って。」
平櫻が言う。
「それ、俺の台詞じゃなくて、羅針の台詞だよ。『何もない場所で、自分から見たいもの、体験したいことを主体的に考える方が楽しめる』とかなんとか。なあ、羅針。」
駅夫が言う。
「確かに、そんな事言ったな。」
羅針が頷く。
「そうでしたっけ。」平櫻は、どうやら勘違いしていたようだ。「……でも、ほら、静和では何もないところを散策しようって言ったのは旅寝さんですし、日本橋も同じようなものなんじゃないですか。」
平櫻は、自分の間違いを認めつつも、駅夫に対し追い打ちを掛ける。
「確かに、そうだけど。」今度は、駅夫が言い返せない。「……しょうがねぇな。丸一日散策するよ。でも、羅針、俺と平櫻さんが満足するプランを考えておけよ。」
「畏まりました。ご期待に添いましょう。」
羅針はそう言って、右手を胸の前に持ってきて、バトラーズボウをして笑う。
三人は、寿司を摘まみながら、酒を酌み交わす。
出張寿司とはいえ、本格的なにぎり寿司で、仙台湾、三陸沖で水揚げされた魚介類がネタケースに並んでいた。もちろん、赤貝や北寄貝も並び、三人はそれも、握って貰った。
味はもちろん悪くない。いや、むしろ、出張寿司でこのクォリティはなかなかない程、良かった。
三人は、酒はもちろん、寿司も楽しむことが出来た。
「お二人は、日本橋によく行かれるんですか。」
平櫻が、寿司を摘まみながら聞く。
「よく行くって言うか、あの辺で営業してたからね。」
駅夫も寿司を頬張りながら言う。
「旅寝さんって会社員してたんですか。」
平櫻が驚いたように言う。そんな風に見えなかったからだ。
「いや、会社員ってわけじゃなくて、あの頃は色んな企業に売り込み訪問してたんだよ。泥臭いことをしていた、ある意味、黒歴史だよ。」
駅夫はそう言って苦笑いをする。
「差し支えなければ、どんなことをされていたのか聞いても良いですか。」
平櫻が興味津々で聞く。
「まあ、あんまり面白い話じゃないけど、……。」
そう言って駅夫は、溜め息交じりに、当時の話を始めた。
時は駅夫が大学時代に遡る。
駅夫は運動ができ、人懐っこい人柄もあってか、結構助っ人として色んな運動部から引っ張りだこだった。
それが功を奏して、とある製薬会社で運動機能試験の被験者としてアルバイトを続けていた。給料も良く、当時の一般的な時給の倍は貰えていたが、まるでモルモットのようだと、羅針にはよく言われた。
それでも仕事は楽しく、真面目に熟していた駅夫は、製薬会社の社員にも受けが良く、卒業したら正社員として働くよう声も掛けられ、実際に内定も貰った。
しかし、駅夫には、他にやりたいことがあった。だからこそ大学は商学部商学科を選んだのだ。
その夢は、起業である。
子供の頃から商売人に憧れ、羅針相手にお店ごっこもやった。高校の文化祭では、駅夫が中心になって出した店が、有り得ない金額を売り上げたことも、駅夫の自信に繋がっていた。
ただ、この夢を追いかけるのに、支障が出た。
彼が大学四年になった時、父親が倒れたのだ、命に別状はなかったが、これからは家族を支えるような無理は出来ず、仕事をセーブしなければならなくなった。一家の収入は途端に苦しくなった。食うに困ると言うことはなかったものの、贅沢は出来ず、母親も働きに出たり、車を手放したりするなど、大黒柱が倒れたことは、旅寝家にとって大きな痛手となり、生活を切り詰めなければならなくなった。
だからこそ、駅夫は夢を諦め、アルバイト先の製薬会社に行くつもりになっていた。
そんな矢先である、話を聞きつけた当時まだ隣に住んでいた羅針が訪ねてきたのは。
その時の羅針は、既に旅行会社に内定していて、国内で修行した後、中国に派遣されることが決まっていた。羅針は羅針で相当努力したのだろう。
そんな、羅針に心配を掛けたことが恥ずかしかったが、駅夫の決意は変わらなかった。家計を助けるためにも、製薬会社の内定はありがたかったのだ。
だが、羅針はそんな駅夫に、懇々と説得を続けた。
羅針はいつもそうだ。自分が正しいと思ったら、それを曲げることはない。最近は大分丸くなり、人の意見も受け入れるようになったが、当時は言い合いになるほど、互いに意見をぶつけ合うような関係だった。
駅夫は製薬会社に入ると言い、羅針は夢を叶えろと言う。二人の意見は真っ向から対立した。羅針の言葉は駅夫を慮っての言葉だったので、無碍には出来なかったが、駅夫には駅夫の言い分があったので、聞く耳は持てなかった。
しかし、羅針は、時間を見付けては、駅夫のところに来て、何度も、何度も、駅夫を説得した。
それまでも、まったく動かなかった駅夫の心が動いたのは、羅針が最後の最後で放ったこの言葉だった。
「お前が夢を諦めて、やりたくもない仕事を続けるというなら、俺はお前との縁を切る。そんな、つまらない男と、友人であることは、俺にとって屈辱だからな。でも、お前が夢を諦めないというなら、俺は全力でサポートする。金が必要なら、俺がなんとか工面するし、俺の両親を巻き込んだって良い。」
この言葉が羅針の本心だったかどうかは分からない。本気でそう思っていたのか、それとも駅夫を鼓舞するための方便だのか、羅針はいまだに教えてくれないからだ。
ただ、この言葉のお陰で、駅夫は起業への準備に踏み切ることが出来たのだ。
製薬会社の内定は蹴ったが、アルバイトは続けた。アルバイトをする傍ら、起業の準備を始めたのだ。
大学で学んだ知識を活かし、会社設立から、業務内容の選定、資金繰りに到るまで、大学を卒業する頃には、方向性を決めるまでに到った。
大学を卒業後は、具体的なビジネスモデルの組み立て、商品リサーチ、仕入れ先開拓、そして、テスト販売という実地訓練を、何度も試行錯誤を繰り返しながら、一年という短期間で形にしたのだ。
最初の出資は、駅夫と羅針の家族で分け合った。資本金は150万、駅夫が50万を出し、自分の両親と、羅針と、羅針の両親にそれぞれ20万ずつの出資をお願いし、株式を発行した。
皆快く応じてくれ、どうにか起業に漕ぎ着けたのだ。
その時、商品の仕入れ先として廻ったのが、山手線沿線から下町に掛けて点在する、企業や問屋だったのだ。毎日のように訪問営業を掛け、頭を下げ、お願い行脚をした。
塩や水を撒かれたりすることは日常茶飯事で、心が折れかけたこともあったが、それでも歯を食いしばって、続けたのだ。
その営業行脚の場所に、日本橋界隈も含まれていた。駅夫が日本橋にあまり良い感情がないのは、その頃のトラウマからだろう。
「……そのお陰で今は、通販業界ではちょっとは名の通った会社にまで成長出来たし、自分が一から十まで見ていなくても、方向性だけ示しておけば、会社は動くようになってるんだよね。この旅も、実は新たな商品開拓って名目だし。」
そういって駅夫は笑う。
「旅寝さんって、社長さんだったんですか。」
平櫻が目を見開いて驚いている。
「そうだよ。ヒューマンパスって会社のね。まあ、知らないよね。」
駅夫が言う。
「知ってますよ。パスセレクションを展開している会社ですよね。
私、社会人になってから相当お世話になってますよ。カタログ会員なんですから。
商品選びが良いんですよ。私の好みにぴったりで、気が付いたら注文しちゃってるんです。ウチの家族も愛用してますし。私が広めたんですよ。」
平櫻が興奮して、自慢げに言う。
「それは、ご愛顧いただき、ありがとうございます。」
駅夫が商売人の顔で、深々と頭を下げた。
「もう、止めてくださいよ、そんな他人行儀な。旅寝さんらしくない。でも……、へぇ……、まさかね……。」
平櫻は言葉にならなかったが、顔は嬉しそうだ。まるで推しのアイドルにでも会ったかのようである。
「へぇ、あの会社、そんなに人気なんだ。」
羅針が脇で話を聞いていて、普段の平櫻からはまったく想像出来ない反応に、面食らっていた。
「そうですよ。パスセレクションと言えば、今や高級品から日用雑貨まですべてが揃う品揃えで、色んな専門誌も出ていて、高級路線になると、世界中の有名ブランドの商品が誌面に並んでいるんですよ。ネットでも注文出来るんですが、カタログ会員になると、年四回カタログが送られてくるんです。ネットでは注文出来ない商品も多く掲載されていて、そのカタログを見るだけでも楽しいんですよね。それに……。」
平櫻はまるで推しのアイドルのことでも話すような勢いで、熱く語っている。
「お前の会社って、こんな信者がいたのか。変な洗脳とか、壺を売りつけたりしてないよな。」
羅針が冗談半分で言う。駅夫は隣で苦笑いして、大きく首を横に振っている。
「洗脳なんて失礼な。でも、洗脳されてても良いですけどね。とにかく凄いんですから。」
平櫻は興奮し、完全に陶酔しているようで、言ってることが少しおかしい。
「それにしても、お前の部屋で始めたあの会社が、そんなことになってるとはな。配当金がとんでもない額になってて、お陰で良い生活出来てるけど、まさかここまでとはな。」
羅針は平櫻の様子を見て、呆れたように言う。
当初は駅夫が発行した1,500株の内、200株を羅針は20万円で譲り受けた。それが、株式分割だの、株式公開だのを経て、なんだかんだで、ヒューマンパスが東京二部に上場した時は、羅針の持ち株は100,000株になっていて、配当金だけで一千万を超えたのだ。
平櫻は、羅針の言葉を受けて、更にヒートアップして熱く語っていた。
配当金生活が羨ましいとかなんとか、自分もヒューマンパスの株式は持っているが、微々たるもので、配当金で生活なんて夢のまた夢だとかなんとか、ヒューマンパスの凄いところを一から十まで並び立て、あれが良いとかこれが良いとかなんとか、とにかく、話があっち行ったりこっち行ったりして、そのあまりの熱の入りように、羅針は呆れ、駅夫はバツが悪そうにしていた。
三人の酒盛りは、平櫻のヒューマンパスに対する愛を披露する独壇場となり、酔いも手伝ってか、いつまでも止まらなかった。