拾肆之陸
芹鍋をたっぷり堪能した旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、腹ごなしに夜の仙台を散策することにした。
エスカレーターで地下一階のレストラン街から、一気に二階まで上がると、駅ビルから西側に広がるペデストリアンデッキに出てきた。
途中ずんだシェイクを購入して、飲みながら歩いてきた三人は、すっかり夜の帳が降りた仙台駅前のペデストリアンデッキを眺めていた。
「駅夫、この歩道をなんて言うか知ってるか?」
羅針が駅夫に聞く。
「この前、お前に聞いたよ。なんて言ったっけ、エイリアンみたいな名前、……そう、ペデストリアンデッキだ。」
駅夫がどうにか思い出したようだ。
「じゃ、そのペデストリアンデッキの意味は?」
羅針が更に聞く。
「意味?意味は……、教えて貰ったっけ?……あっ、歩行者広場だろ。」
駅夫は頭を捻りながらも勘で答える。
「おっ、正解。ペデストリアンは英語で歩行者、デッキは屋根とか甲板、高架の床なんていう意味もあるから、広場と訳しても間違いではないたろうね。正確を期すなら、歩行者専用高架式広場、もしくは歩行者用高架式通行帯だろうな。簡単に言えば歩道橋とか遊歩道とかな。」
羅針が言う。
「なんだよ、ちゃんとした訳がないのか。」
駅夫が言う。
「そうなんだよな、ピッタリした言葉がないんだよな。良く明治の人が西洋の言葉を日本語に訳したとか言うじゃん、哲学とか、経済みたいなやつ、あれ、ホント凄いからな。訳しただけじゃなくて、日本中に広めたんだからな。」
羅針が明治時代の翻訳家や言葉を作ってきた文豪たちに思いを馳せて言う。
「じゃ、ペデストリアンデッキをお前ならどう訳す。」
駅夫が無茶振りをする。
「ペデストリアンデッキをか、……なんだろうな。……歩道橋だと、広場感が出ないしな、……高歩場とか、天歩道なんてどうだ。」
羅針が暫く頭を捻らせて、絞り出した。
「高歩場って高いに、歩くに、場所か、天歩道は、天国に、歩くに、道か。……それなら、俺は天歩道が良いな。遊歩道みたいで、なんかお洒落じゃん。ねえ、平櫻さん。」
駅夫は、傍で微笑ましそうに二人の会話を聞いていた平櫻に突然振った。
「えっ、私ですか。……私も天歩道の方が良いですね。高歩場は広場感があって、言葉としては良いと思いますけど、言葉の響きが天歩道の方がしっくりきますし、私は好きですね。」
平櫻が答える。
「天歩道か……。我ながら良い訳が出来たな。」
羅針は、二人に受け入れられて少し嬉しそうだ。
「これで、お前も明治人だな。」
駅夫がからかうように言う。
「だろ、……って、おれは歴とした昭和人だよ。」
羅針が、突っ込みを入れる。
「明治の文豪たちには遠く及ばないってことだな。」
駅夫がそう言って笑う。
「そりゃそうだけど。お前、昭和生まれを全員敵に回したな。」
羅針が言い返す。
二人はそう言って笑っている。平櫻はそれを見て、またやってると微笑ましそうに見ていた。
「なあ、羅針、さっきからどこへ向かってるんだ。」
駅夫がスタスタ歩く羅針を問い質す。
「秘密。……まあ、良いとこだよ。」
羅針が振り返りながら言う。
「多分、綺麗なものが見られますよ。ねぇ。」
平櫻がそう言って、羅針に同意を求める。どうやら平櫻は予想が付いているようだ。
「ええ、そうですね。……100万ドルには及ばないけど、きっと綺麗だぞ。」
羅針は平櫻に頷き、駅夫に向かって言う。
「100万ドル?なんだ、それ。……あっ、夜景か。夜景だろ。」
「そう、ここだよ。」
駅夫が答えに辿り着くと同時に、どうやら目的地に着いたようだ。
駅夫が羅針の言葉を聞いて、目の前のビルを見上げた。そこには、最頂部172m、地上31階のオフィスビルが聳え建っていた。
「ここ?」
駅夫が聞く。
「そう、ここ。とにかく中へ入ろう。」
羅針が駅夫に促す。
ビルの中に入り、ロビーを抜けると、〔Sky Shuttle〕と頭上に表示されたエレベーターが二基あり、羅針が上のボタンを押すと、一基の扉が開いた。
三人が乗り込むと、羅針が最上階を押して扉を閉める。すると、エレベーターは一挙に上昇を始めた。後ろの壁はガラス張りになっていて、仙台の夜景が下へと流れていく。目の前を走る車が見る見る小さくなっていった。
1分程で最上階に着くと、白を基調とした、まるでどこかの宮殿を思わせるかのようなロビーが広がっていた。光を反射した白い床には、への字型に並べられたタイルが進行方向を示していた。その表示に従って歩みを進めると、右手に展望ラウンジが現れた。照明が若干落とされた薄暗いそのラウンジは、淡く青白い光に包まれていた。
ラウンジには休憩用の椅子がいくつか用意されていたが、そこに座る人はなく、その奥に見える壁一面のガラス窓の向こうに広がる地上の星の海を、人々は眺めていた。
地上30階の展望室は妙に静かで、時折溜め息のような感嘆の声が、どこからともなく漏れ聞こえてくるぐらいであった。
三人も、人々に習って、窓ガラスにへばり付いた。文字通りへばり付くように仙台の夜景を眺めた。
方角的にはビルの南側で、仙台の繁華街とは丁度真逆、中心部ほどの賑やかさはないが、三人が泊まる名取市の方面が見渡せた。
正面に横たわる灯りのない黒い帯は、おそらく広瀬川で、ご当地ソングとしても知られる、青葉城を舞台にした失恋ソングの出だしに出てくる川の名前としても、駅夫と羅針の世代には耳馴染みのある川である。その広瀬川を渡るように国道286号線が光の筋を作っていた。
左奥には、真っ黒な太平洋が広がり、昼間であれば美しい海岸線をはっきりと見渡すことが出来ただろう。時折、仙台空港を行き交う飛行機が、航空灯を明滅させながら飛んでいた。
「綺麗。」
平櫻が静かに呟く。
「ああ。綺麗だ。」
駅夫も釣られて呟いた。
「この灯りがいつまでも灯り続けて欲しいな。」
羅針が、ふと震災のことを頭に思い浮かべ、そんなことを言う。左に見えるあの穏やかな海が、あの日あの時、牙を剥いたのだ。
「そうだな。あの日この灯りが消えたんだもんな。信じられないな。」
駅夫も羅針が何を言いたいのか察したのだろう、そう言って応える。
「あの日のこと、今でも鮮明に覚えてます。この仙台の変わり様には心底驚きました。」
平櫻も当時のことを思い出していた。
三陸鉄道で被災した平櫻は、震災の前々日に仙台で一泊した。
始めて訪れた仙台は、東北最大の街らしい賑わいで、実家のある鹿児島や自宅のある諫早との違いに心底驚いたものだ。
それが、たった一週間。彼女が三陸鉄道で被災し、避難していた普代村から盛岡を経由して、漸く戻ってくると、その賑やかだった仙台は、まるで時が止まったかのように、見るも無惨な状態であった。確かに海岸線にあった町々からしたら、倒壊した建物も、積み上げられた瓦礫もなかったが、その時の変わり様は、平櫻にとって、ショック以外の何物でもなかった。
綺麗だったペデストリアンデッキは見るも無惨に亀裂が走り、街の至る所に地震の爪痕が残っていたのだ。街の人々は後片付けに追われ、身動きの取れない旅行客は帰宅の方法を探して右往左往していた。
そんな光景を、平櫻は目の前の景色に重ね合わせていた。
「そうか、そうだよな。平櫻さんは三陸にいたんだもんな。」
駅夫がそう言って、平櫻の気持ちを慮る。
「そう思うと、この灯りが精霊流しの灯りのようにも見えるな。」
羅針がぼそりと言う。
「湿っぽくなるのは止めましょ。折角これだけの美しい景色なんですから。仙台の人たちが頑張って、ここまで街を復興させたんですから。美しいものとして、素敵なものとして、仙台の皆さんが努力したその結晶として讃えましょ。」
そういう平櫻の目には薄らと涙が浮かび、その脳裏にはあの日の恐ろしい体験がまざまざと蘇っていた。
「そうだね。」
「そうですね。」
駅夫と羅針は、平櫻の目に光るものを認めたが、気付かない振りをして、大きく頷いた。
三人は暫く仙台の街の灯りを眺めていた。行き交う車の灯り、ビルの灯り、街灯の明かり、飛行機の灯り、そのすべての灯りが、三人の心に様々な感情の灯を灯していった。
平櫻は動画に、羅針は一眼で、駅夫はスマホでこの美しい景色を撮影し、この美しい景色を見せてくれている仙台の街に感謝した。
21時。閉館時間となり、三人は後ろ髪を引かれる思いではあったが、展望室を後にした。
「この後はどうする。商店街の方に行っても良いし、ホテルに戻っても良いし。」
下に降りるエレベーターの中で、羅針が駅夫に確認する。
「もう21時だろ、そろそろホテルに帰ろう。」
駅夫が言う。その顔には少し疲れが見える。
「平櫻さんは?」
羅針が聞く。
「ええ、お二人が良ければ、戻りましょう。」
平櫻の顔にも、やや疲れが見えた。
「じゃ、戻りますか。」
羅針がそう言うと、丁度エレベーターは一階に到着し、三人は仙台駅へと向けて歩き出した。
夜の仙台にとって21時はまだ宵の口、行き交う人々も、まだ夜の仙台を楽しんでいるようだった。
羅針の言う天歩道、つまりペデストリアンデッキでは、通路の真ん中で、観光客らしい高齢者の集団が、酔っ払っているのか、何か大声で叫んでいた。暴れているわけではないが、人々はその集団を避けるように、遠巻きに行き交っていた。
「これだから、老害って言われるんだよ。」
駅夫がぼそりと呟く。
「人の振り見て我が振り直せだな。俺たちは、ああならないようにしないとな。」
羅針も同調する。
「でも、年齢なんて関係ないですよ。若害だっていますから。むしろ若い方がエネルギーが有り余っている分、迷惑度が段違いじゃないですかね。」
平櫻が何か思い当たる節でもあるのか、それとも嫌な思いをしたことがあるのか、いつになく吐き捨てるように言った。
「いくつになっても、付ける薬がないのは、治らないってことだね。」
駅夫が言う。
「そういうことだな。」
羅針が頷く。
「不治の病ですね。」
平櫻はそう言って苦笑いをする。
駅夫と羅針も「そういうこと。」と言って笑った。
仙台駅に戻ってきた三人は、改札を抜け、東北本線の5番ホームへと向かった。
ホームで待っている間、駅夫がこんなことを聞く。
「なあ、羅針、さっき思ったんだけど、ここの在来線ホームって8番ホームまでしかなかったよな。で、新幹線は確か11番ホームからだったと思うんだけど、9番と10番は欠番なのか。」
「いや、9番と10番は欠番じゃないよ。仙石線のホームが地下にあるんだよ。丁度この仙台駅とクロスする形で潜り込んでいるんだよ。」
羅針がそう答えて、地面を指差す。
「なるほどね。地下ホームがあるのか。そう言えばなんか書いてあったな。俺はてっきり地下鉄の案内だと思ってた。あれがそうか。」
「多分な。」
羅針が答える。
二人の話を傍で聞いていた平櫻は、あの日の前日、この仙台駅から三陸へ向けてワクワクした思いを携えて仙石線の列車に乗ったことを思い出した。
仙石線は今でも動いているが、途中の気仙沼線と大船渡線はバスが運行するBRTになり、山田線は三陸鉄道になり、線路も一部高台へと移された。
あれから一度だけ、三陸鉄道が全線復旧した後に訪れたことがあった。その時は、当時と同じように、この仙台から仙石線に乗って向かったのだが、あまりの変わりように、ずっと涙が止まらなかった。
あの美しい海辺の景色や人々の営みは消えてなくなり、あの時の記憶を遺す墓標だけが立っているようだった。
東北本線の6番ホームに着いた三人が、話をしながら待っていると、折り返しの列車が入線してきた。やはりE721系0番台、本日三度目の乗車である。乗り込んだ車内は人もまばらで、三人はクロスシートに陣取った。
発車まではまだ時間があるが、駅夫は椅子に座ると、すぐに目を瞑って、やがて寝息を立て始めた。余程疲れていたのだろう。
それを見た羅針と平櫻は顔を見合わせ、微笑んだ。
列車は時間になると、滑り出すように仙台駅を出発した。
駅夫の寝顔を見ながら、羅針も平櫻も会話をすることなく、窓の向こうに見える、暗闇の中を流れていく街の灯りを眺めていた。
展望室から見たあの灯りとはまた違う、どこか生き生きとした、人々の生活の営みとしての灯りであるような気が、二人にはしていた。
平櫻は、あの日から、何度かこの仙台を訪れた。最初はトラウマのようにフラッシュバックする記憶に、仙台へ来ることが怖かった。もし、またあの時のような地震が来たらと思うと、足の竦む思いがした。しかし、それでも動画撮影のためにと思い、勇気を振り絞って訪れた。
その後も来る度に見る見る復興していく仙台の街に勇気を貰い、平櫻もあの日の辛い記憶と向き合うことが出来たのだ。
だからこそ、三陸鉄道が復旧し、山田線を吸収して新たなスタートを切った時には、乗りに来ることが出来たのだ。それでも、辛い思いには変わらなかったが。
そんな平櫻の思いを知る由もない羅針ではあるが、昼間、彼女から聞いた体験談を再び思い出し、そして当時の記憶を思い出していた。
あの日、羅針は自宅にいた。簡単に作った遅い昼食を摂り、翻訳の仕事を片付けようとパソコンの電源を入れて、続きをやっていたところだった。
当時はまだ液晶画面ではなくCRT、いわゆるブラウン管モニターで、巨大なテレビが机の上に載っている状態だった。
そして突然その時は来た。
カタカタ、カタカタと床が揺れ始めたので、地震だなと羅針は思った。しかし、小さな揺れがあまりに長いので、不審に思い、これはもしかしたらと思ったら、巨大な揺れが襲いかかってきたのだ。咄嗟に、目の前のCRTを両手で抱えていた。
後で知ったことだか、彼が住んでいた場所は震度5弱だった。
羅針は、地震対策をきちんとしていたので、部屋の棚が倒れたり、物が落ちたりということはなかった。ただ、押さえていなかったブラウン管テレビがすっ飛び、本棚の本はずれ落ちてしまった。
当時40数年生きてきて、初めて体験した5弱の地震は、羅針にとって、脅威の体験だった。それまではどんなに大きな地震でも震度4で、阪神淡路大震災の時は中国にいたので、なおさら地震とは縁遠かったのだ。
それが、突如として、想像以上の揺れが襲いかかってきたのだ。それでも驚いた羅針が、慌てず、騒がず、冷静でいられたのは、子供の頃から度重ねてきた避難訓練と地震に関する教育を受けたお陰であろう。
揺れが収まり、抱えていたCRTを置いて、吹っ飛んだテレビを元に戻して電源を入れると、とんでもないことが起こったんだと実感した。
テレビ画面には各地の震度を示す日本地図が表示され、仙台の辺りには大きく7の数字が、その他も軒並み6という数字が並んでいた。アナウンサーは混乱しているようで、地震が起きたこと、津波の危険があるため海岸には近づくな、ただそれだけを繰り返していた。
東京都心でも震度5を記録したのだから、テレビ局が混乱するのも道理である。
羅針は、パソコンでSNSを起ち上げ、人々のコメントを読み漁った。地震が起きたことは分かるのだが、それ以外、皆混乱していて、まさにパニック状態だった。情報が錯綜し、嘘、デマ、罵り合いと、見るに堪える状態ではなかった。
結局、SNSからの情報では何も得るものはなく、羅針は再びテレビの方に目をやった。すると、大津波警報が発令された旨が繰り返しアナウンスされ、画面は海辺を映していた。とにかくどこのチャンネルを見ても、情報がないのか、地震があったことと津波が来ることが、繰り返し、繰り返し、何度も何度も伝えられていた。
あの後、羅針は、テレビ画面で上空から映された、襲い来る津波の映像を見た。とにかく高台へ、高台へと叫ぶアナウンサーの声をずっと聞いていた。
幸い羅針が住むこの場所は、海抜40m程の場所にあり、津波の心配はないため、どこか他人事のようにテレビ画面を見ていたが、それでも襲い来る津波の映像には恐怖を感じていたことを、車窓を流れる灯りを見ながら思い出していた。
「駅夫、起きろ。」
もうすぐ館腰駅に着く旨の車内放送が流れたので、羅針は記憶の彼方から舞い戻り、駅夫を揺り起こした。
「ん~、もう着いたのか。」
駅夫が、寝惚けたように言い、眠そうな顔で伸びをして、大きな欠伸をした。
「そうだよ。忘れ物ないようにな。」
羅針はそう言って、駅夫が帽子を被り直し、抱えていたリュックをきちんと持ったことを確認した。そして席を立った後も、いつものように指差し確認をして、出口へと向かう。
館腰駅に着くと、三人はスマホに入っている交通系ICのアプリを、簡易型自動改札機に翳して、駅を出てきた。
賑やかだった仙台とは異なり、館腰駅前に街灯はあるものの、行き交う人は殆どなく、国道4号線を走る車の音が僅かに聞こえてくるだけだった。
この静けさの奥には、まだ言葉にならない何かが、震災の日々の記憶とともに、今もひっそりと溶け込み、息を潜めているような気がした。
三人は、街灯の明かりを頼りに、足元を確かめるようにホテルへ向けて歩き出したのだった。