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日本全国鐵輪巡礼 ~駅夫と羅針の珍道中~  作者: 劉白雨
第拾肆話 館腰駅 (宮城県)
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拾肆之参


 平櫻佳音は、旅寝駅夫と星路羅針が地域の基礎情報を話し合っている間、少し離れた場所で動画の撮影をしていた。カメラに向かって、なにやらずっと一人で喋っていた。時折、海の方を指して、悲しそうな顔をしていたので、震災や津波のことにも言及しているのだろう。


 駅夫と羅針が話を終えると、平櫻も撮影を終えて、二人の許へ戻ってきた。

「この後は、お昼にしますか、それとも予定通り館腰神社へ向かいますか。」

 平櫻が二人に聞いた。

「どうする。」

 羅針が駅夫に聞く。

「腹はまだ空いてないから、先に神社に行くか。」

 駅夫がそう言う。

「どうです。お昼は後回しにしても大丈夫ですか。」

 羅針は、駅夫の言葉を受けて、平櫻に確認する。

「ええ。大丈夫ですよ。それじゃ先に神社へ行きましょう。」

 平櫻は同意する。


 三人は、跨線橋を通って反対側のホームへと渡り、西口から外へ出る。

 館腰駅に改札口はなく、簡易型自動改札機があるだけである。三人はスマホをスキャンさせて、外に出る。

 駅前にはロータリーがあり、タクシー乗り場が設置されていた。ロータリーの中央部には有料駐車場もあり、無人駅の駅前にしては、きちんとした造りになっている。

 空港へは東口からなので、東口側のロータリーがきちんと整備されているのは分かるが、西口側まで整備されているのは、それだけ市民がこの駅を重要視し、請願した証とも言える。

 三人は駅前でも記念撮影をし、平櫻は動画に収めていた。


 駅前から西へ延びる通りを、立体駐輪場の建物を横目に、三人は館腰神社へと向かって歩き始めた。

「なあ、羅針、やっぱりこの辺も被害は甚大だったんだろ。」

 駅夫が辺りを見渡しながら、羅針に聞く。

「ああ、そうだな。この辺りは津波の浸水は免れたかも知れないけど、おそらく大なり小なり建物の倒壊や破損はあっただろうな。」

 羅針も辺りを見渡して答える。

「でも、見た感じ建て直したって雰囲気はあまりしないけど、修繕したのかな。」

 駅夫は、周囲の建物が、新しく建てられたような感じもするが、築年数を感じるためか、修繕ですませたのかもと邪推する。


「どうなんだろうな。結構あの時は損害保険について色々報道されてて、建て替えるには補償が不十分だとか、全壊扱いにならず、半壊扱いになったら補助金も大幅に減額されるとか、色々問題になってたからな。もしかしたら、取り敢えず住めるように修繕しただけかも知れないし、震災から13年、建て替えたとしても、すでに10年は経っているだろうからな。それなりに築年数が経ってるように見えるのかも知れないな。」

 羅針が、そう言って色々と推測する。


「そうだよな。でも、なんだかんだ言って、見た目だけはここまで復興したんだな。あの時の映像を見たら、絶望感しかなくてさ、こんなところに人が住めるのかとかさ、復興なんて本当に出来るのかとかさ、色んなことが怪しかったけど、人間って凄いな。」

 駅夫がそう言って、住民たちがここまで復興してきたその苦労と、気概に思いを馳せた。

「確かにな。十年一昔なんて言うけどさ、昔じゃないんだよ。この間のことなんだよ。住むところだけでも、こうしてきちんと直ってさ。

 人の心の復旧、復興は難しいかも知れないけど、こうして、表向きは修繕されているのは、見ててなんかさ……、感動して、泣けてくるな。」

 羅針はそう言って、目頭を押さえた。


 二人の会話を後ろで聞いていた平櫻も、2011年3月11日のことを思い出していた。

 当時、大学を順当に進級してきたものの、大学に入ってから続けてきた動画配信が、思いのほか好調で、どうにか生活出来るだけのものを得ていたので、改めてどこかに就職するなんてことは頭になく、ただフラフラと日本全国を旅して廻っていたのだ。

 父親からは安定した職業に就けとまで言われたが、そんなことに耳を貸す位なら、最初からきちんと就活をしているというものだと、大学の卒業式を控えたその時も、卒業旅行と称して、旅動画を撮りに東北へ遠征に行き、大好きな三陸鉄道を乗り通すという動画を撮りに来ていた。

 あの日の翌日は九州新幹線が全線開通だったため、帰省を兼ねて乗るつもりでいたので、最後の行程になっていた。


 あの日の前日、3月10日は、仙台駅から朝一番で仙石線に乗って石巻いしのまき駅へと向かった。石巻からは、石巻線、気仙沼けせんぬま線、そして大船渡おおふなと線を乗り継いで、さかり駅に着くと、漸く目的である三陸鉄道の南リアス線に辿り着いた。

 当時は、本当に海岸線ギリギリを走る列車で、ここまでの風景ももちろん良かったが、念願の三陸鉄道乗車ということもあって、興奮は抑えきれなかった。

 途中何度か下車もしながら、三陸鉄道を満喫していった。

 南リアス線の終着駅である釜石かまいし駅からは、当時まだJRの管轄だった山田やまだ線を乗り継ぎ、宮古みやこ駅へと向かった。

 そして、今度は北リアス線を踏破していく。もちろん何カ所か途中下車もした。


 結局、終点の久慈くじ駅に着いた時には、すっかり陽が落ち、真っ暗になってしまった。景色を楽しめなかったので、久慈駅近くの宿で一泊した翌日は、リベンジとして、久慈湾の日の出を楽しんでから、久慈駅を出発した。

 前日もそうだったが、仙台からずっと、素晴らしい三陸海岸の景色を動画に収め、鉄道旅を心から満喫したし、この日も朝から感動の連続だった。

 日の出と共に始まった復路は、前日見られなかった風景を動画に収めつつ、途中下車も楽しみながら、北リアス線の終点である宮古駅を目指した。

 満喫しすぎて、いつの間にかお昼を過ぎてしまい、堀内ほりない駅の近くにある、有名な安家川あっかがわ橋梁が見えるレストランで遅い昼食を摂った後、絶景を満喫した。


 そして、その時は訪れた。

 堀内駅から乗った列車は、丁度白井海岸(しらいかいがん)駅から普代ふだい駅へと向かう途中だった。

 突然列車が変な揺れ方をし、その後大きく揺れ始め、巨大地震に襲われたと思った時には、列車がまるで神の手にでも弄ばれたかのような揺れを感じ、椅子にすら座っていられなかった。

 随分長かった揺れが漸く収まると、全員無事であることを確認した運転士から、津波への懸念はあるが、停車している位置は高台になる上、外は寒いので、このまま車内で待機するという指示がでた。


 山間部で、列車から見える景色は山の木々ばかりで、丁度トンネルとトンネルの間に停止ししていたのだ。乗客の中には女性自衛官もいて、自ら志願してキビキビと動き、平櫻はその女性に色々と助けられた。

 時折強い風が吹きつける中、新聞や中吊り広告、シートなどで車内を断熱し、土産のお菓子などを皆で分け合って空腹を凌ぎ、救助が来るまでの間、時折襲い来る余震に怯えながら、じっと耐え忍んで待ち続けた。

 気動車のエンジンもとっくに止まり、寒さに震え、辺りが完全に暗くなった19時を過ぎた頃、普代ふだい消防署の方たちが救助に来てくれて、近隣の普代村の避難所まで送って貰った。


 太平洋沿岸を襲った巨大津波のことはその時始めて知った。消防署員に聞いた話では、太平洋沿岸は壊滅的な打撃を受けたと言い、一歩間違えれば自分たちがその波に巻き込まれていたのかも知れないと思うと、身の毛がよだつ思いがした。

 運転士が避難をせずに、留まるという判断を下してくれたことに、改めて感謝をした。


 避難所では横になるスペースを確保するのも難しかったが、地元の人に場所を譲り、平櫻は隅の方で毛布に包まって眠った。こんな時、子供の頃から桜島の噴火に備えて避難訓練を繰り返し、対処法を学んできたことが少しは役に立ったような気がした。


 停電し、暖房もない中、寒さに震えながら一晩を過ごし、翌朝、変わり果てた村が広がっていると思っていたが、普代村は防潮堤が守ったためか、地震の被害はあったものの、津波による被害はほぼないようだった。

 まさか、他の地域があんなことになっているとは露程も思わず、救助に来てくれた消防署の人たちは大袈裟な事を言ってと、その時は思ってしまっていた。


 朝食として配られたのは、お菓子が入った小袋が一つ、飲み物も缶ジュース一本で、物資が完全に足りていないことを物語っていた。

 それでも、これから、地元の人たちが長期間この少ない食料で、飢えを凌いでいかなければならないのかと思うと、余所者の自分が、小袋一つでも貰うのが躊躇われた。この時程大飯喰らいの自分を呪ったことはなかった。

 しかし、配給を担当していた女性は、少ないことを謝りながらも、余所者の平櫻にも優しく接してくれたことに、心の底から感謝した。


 12日は、結局何も出来なかった。実家に連絡しようとするが、携帯の電波はなく、三陸鉄道は壊滅的で、久慈に戻るにも、宮古に行くにも動くことは出来ず、盛岡に行こうにも、車を持たない平櫻は動きようがなかった。何せ普代から盛岡までは山を挟んで100㎞以上あるのだから。

 報道のヘリなのか、爆音を立てて上空を飛び去る度に、あれに乗せてくれたら良いのに、なんて叶いもしないことを毒づいたりもしたが、移動出来ないのなら、若い自分がしっかりしないとと思い、一緒に避難してきた女性自衛官を見習って、積極的に避難所での手伝いをした。

 もちろん、余所者を快く受け入れてくれている人たちへの、感謝の気持ちから出た行動でもあった。


 その後は、自衛隊の支援が届き、食料も水も限りがある中で出来ることを出来るだけやり、帰宅の目処が立つまでの数日間を、余震が来る度に恐怖に苛まれながらも、地元のボランティアさんを手伝いながら、人々と協力して、日々を過ごした。


 避難所での生活にも漸く慣れ、少しずつ支援物資が届くようになり、帰宅出来る目処が立ったのは、一週間も経ってからだった。震災の翌日には帰宅出来るだろうと高を括っていたのが、大きく当てが外れ、気付けば一週間程、避難所に滞在していた。


 三陸鉄道は16日に久慈駅から陸中野田りくちゅうのだ駅の間が無料運行を始めたらしいが、普代駅が再開する目処も見込みもまったくなく、無為な時間を過ごしていると感じていた矢先、盛岡まで送ってくれるという人が現れたのだ。

 平櫻の他にも何人か観光客が避難していて、同じように帰宅の足がなくて困っている人がいたのは、その時になって始めて知ったことだった。


 盛岡に用事があるという人に、ミニバンで盛岡駅まで送って貰うことになった。

 お世話になった普代村は、港湾施設など沿岸部が壊滅的な打撃を受けたようだが、巨大な防潮堤と水門が村を守り、民家や村の重要な施設などは津波の被害が殆どなく、乗り越えてきた波によって一部破壊された程度ですんでいたので、避難所にいる時は、津波の被害については気にも留めず、凄い地震だったと、揺れのことにばかり気が行っていた。


 ところが、いざ帰宅出来るとなって、普代村を離れると、そこは一面の瓦礫の山で、津波に押し流された建物や車が其処此処に積み上げられていたのだ。

 自分が如何に幸運だったのか、消防署員の話が大袈裟ではなかったのか、その時自分の置かれた境遇を知って、平櫻は涙したのを覚えている。


 盛岡駅に着いても、福島の原発事故の影響もあり、交通機関は完全に麻痺をしていて、新幹線はもとより、東北本線も、常磐線も、まともに運行していなかったし、秋田経由の帰宅も考えたが、無事に秋田に着ける補償もないと言われ、更に、高速バスも燃料不足や、高速道路自体が使えないということもあり、再開の目処が立っていなくて、完全に手詰まりで、途方に暮れてしまった。

 それでも、盛岡駅まで送ってくださった方に感謝し、ガソリン代と称して財布の中からささやかな心付けを渡し、一週間お世話になったことを、心の底から感謝した。

 

 その日、漸く家族とも連絡が取れ、無事だったことを伝えると、電話口で母親は涙ながらに感極まっていた。12日には九州新幹線で帰省すると約束していたのだ。心配しないはずもなく、色々と問い質されたが、災害用の特別に設置された公衆電話で、後ろに多くの人が並んでいたため、用件だけを伝えて電話を切った。しかし、母親の涙声を聞いて、改めて自分が生きていたことに感謝し、無事だったことに安堵した。


 その後は、自治体や自衛隊が用意していたバスなどを乗り継いで、東京まで戻り、そこから間引き運転や低速運転を続けていた新幹線を乗り継ぎ、全線開業して間もない九州新幹線で新鳥栖駅まで帰ってくると、諫早のアパートへ向けて長崎本線を乗り継いで漸く帰宅出来た。既に、震災から10日が経っていた。

 どうにか大学の卒業式には間に合ったものの、平櫻の心は卒業で浮かれる気分ではなかった。ましてや旅行動画作成を生業にでもしようかと思っていた矢先の、未曾有の大災害である。日本中が意気消沈し、原発事故もあってか不要不急の旅行などは、炎上の火種にしかならなかった。

 平櫻は、三陸で撮ってきた動画をすべて封印し、暫くは動画を撮りに行くことも出来なかった。その時になって始めて、安定した職に就けと言った、父親の言葉が胸に響いた。


「平櫻さん、大丈夫ですか。」

 羅針が声を掛けてきた。駅夫も心配そうに平櫻の顔を覗き込んでいる。

「えっ、ああ、大丈夫ですよ。」

 平櫻は、慌てて笑顔を作り、二人を安心させるように言った。

「いや、大丈夫じゃないでしょ。突然涙を流して。何かあった?気に入らないことでもあった?言いたいことがあったら言って良いんだからね。」

 駅夫は、心配そうに言う。


 どうやら、平櫻は知らず知らずのうちに涙を流していたようだ。

「言いたいことなんてありませんよ。ちょっと震災のことを思い出してしまって。……涙が出てたんですね。やだな、恥ずかしい。」

 そう言って平櫻は慌てて手の甲で涙を拭った。

「そうか。あの時、何か辛い思いをしたんだね。もし観光をするのが辛いなら、次の目的地で合流しても良いし、2週間の休憩の後で合流し直しても良いし、……なあ。」

 駅夫がそう言って羅針にも同意を求める。

「いいえ、大丈夫です。本当に。ちょっと感傷に浸っただけですから。」

 平櫻が慌てたように言う。


「本当に大丈夫なんですか。駅夫の言うとおり、中断しても良いんですよ。この後も震災に関する遺構なんかも見て廻ることになりますし、辛い思いをされてまで、見なくても良いと思いますよ。

 僕らのルーレット旅は、歴史を学ぶ、地域を学ぶってことがコンセプトみたいなもので、震災のことを学ぶのも当然だと思ってます。でも、平櫻さんには辛い思いをしてまで、僕らの旅についてくる必要はないんですよ。」

 羅針はそう言って、平櫻に中断を勧める。

「お気遣いありがとうございます。でも、本当に大丈夫なんです。実は……」

 平櫻はそう言って、当時三陸鉄道で被災した経緯を二人に語った。


「そうだったんですね。それは大変な思いをしましたね。涙が溢れてくるのももっともですね。」

 羅針は、平櫻の話を聞いて、何度も頷いていた。

「ホント、大変だったね。俺らちょっと無神経だったかも。ごめんね。」

 駅夫も、申し訳なさそうに、これまでの発言を謝罪する。

「全然、気になさらないでください。幸い津波にも巻き込まれず、津波の被害がほとんどなかった普代村でお世話になったことは、本当に不幸中の幸いでしたし、当時は確かになんでこんなことにって、恨みもし、悩みもしましたが、今となっては貴重な体験をしたと思っていますし、地元の人たちの暖かさに触れたことは良い思い出ですし、五体満足で自宅に戻ることが出来たのですから、辛い思いなんて何一つ無いんですよ。

 涙が出たのは、ただ感傷に浸っただけですから。

 お二人が気にされることは何もないんですよ。ですから、これからも二人の旅に同行させてください。お願いします。」

 平櫻は、改めてそう言って、頭を深々と下げた。


「平櫻さん頭を上げてください。僕らは別に君を追い出そうとしてるわけではなくて、ただ、辛いならと思って、言ったことですから、平櫻さんがそう言うのでしたら、僕らに否やはないので、こちらこそ、これからもよろしくお願いします。」

 羅針はそう言って、頭を下げた。

「そうそう、羅針の言うとおりだよ。辛くなったらいつでも中断すれば良いし、再度参加するのも自由、平櫻さんを追い出すなんてことはないし、もう俺たち仲間だろ。旅仲間。なぁ。」

 駅夫が羅針に同調して平櫻にそう言うと、羅針に同意を促す。

「星路さんこそ、頭を下げないでください。お二人とも本当にありがとうございます。」

 平櫻はそう言って、また感極まったのか、目に涙を浮かべていた。


「ほら、涙を拭いて。旅を楽しむのが俺たちのコンセプトなんだから。そんなに泣いてると、涙禁止にしちゃうよ。」

 駅夫はそう言っておちゃらけたように言う。

「それは、困ります。駅夫さんにいじめられても泣けないじゃないですか。」

 平櫻は、半分涙声でそう言い返して、慌てて涙を拭いて、笑顔を見せる。

「平櫻さん、こいつにいじめられたら、すぐに言ってくださいね。百叩きの刑でも、市中引き回しでもすぐやりますから。」

 羅針が、そう言って乗る。

「オイオイ、勘弁してよ。いじめないよ。多分……、きっと……、そうしないと良いなあ……。」

 駅夫のトーンがだんだん自信なげになっていくと、

「それっていじめる気満々じゃねぇかよ。」

 羅針が突っ込むと、三人は声を出して笑った。

 通りかかった人が、不思議そうな目で三人を一瞥して通り過ぎて行った。




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