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日本全国鐵輪巡礼 ~駅夫と羅針の珍道中~  作者: 劉白雨
第拾参話 関内駅 (神奈川県)
130/182

拾参之拾参


 夕刻の山下公園は、まだまだ活気に溢れていた。氷川丸の見学を終えた旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、散策に興じていた。


 傾き始めた陽射しが西の空を染め始め、海面には金色の光が揺らめいていた。

 観光客たちは海を眺めながら、思い思いにカメラを向け、その美しい景色を切り取っていたし、岸壁でジャグリングの大道芸を披露するパフォーマーに集まっている人々は、その熱気溢れるショーを楽しんでいて、子供たちは歓声を上げていた。また、ベンチに座っている人は、過ぎ行く時の流れを堪能しているようだった。


 海風が心地よく吹き抜け、公園内には幸せそうな笑い声が響き渡っていた。

 駅夫は大道芸のパフォーマンスに見とれ、羅針は芸術的な景色を写真に収め、平櫻は人々が行き交うその賑わいを動画に収めていた。


 この山下公園は、幅100m、長さ750mに亘って横浜港に面して設けられた風致公園で、関東大震災で発生した瓦礫の捨て場だった場所を埋め立てて、1930年に開園した。奇しくも氷川丸の竣工と同じ年である。

 観光客はもちろんのこと、地元の人たちが集い、憩える場所として機能していた。


「山下公園てこんな感じだったっけ。」

 駅夫が首を傾げながら呟く。

「ああ、なんかいつもと雰囲気が違う気がする。」

 いつも来る羅針も、周囲を見渡しながら、居心地の悪さのような、しっくりと来ない違和感を覚えていたようだ。

「やっぱりそう思うよな。」

 駅夫が羅針の一言に縋る。

「ああ。見えてる景色がいつもと違うわけじゃないんだけど、何か違うんだよ。」

 羅針も何かを感じているが、その要因が分からないようだ。

「多分、私たちの見方が変わったからじゃないでしょうか。」

 平櫻がそう言ったものの、初めて訪れる彼女自身も、妙な違和感を覚えていたのだから、何がどう変わったのか、はっきりとは言えなかった。


 そんな違和感を覚えながら、暫く三人は無言で歩き続けた。そして、氷川丸を背にして公園の奥へ進んだところで、駅夫がぽつりと呟いた。

「何か……軽いんだよ。」

 そう言って駅夫が足を止めた。

「軽い?」

「どういうことですか?」

 羅針と平櫻も足を止めて、駅夫に聞く。

「なんて言うかな、……さっきまでいた氷川丸ではさ、凄く重たい空気感だったような気がするんだよ。」駅夫は辺りを見渡して、少し考えてから、話を続ける。「……凄く豪華で、優雅な場所だったけど、それはすべて過去のものじゃん。過去を瞬間パックしたような感じって言うのかな、時がそのまま止まった感じだったじゃん。それが凄く重いって言うか、空気感に重量を感じた気がするんだよな。

 でも、今はさ、時が動いてるんだよ。当たり前だけど、人々が今を生きているって言うかさ、上手く言えないけど、とにかく空気感に重量を感じないんだよな。ふわふわした感じって言うのかな。」

 駅夫が、言葉を選びながら自分の考えを言う。

「確かに氷川丸の中は異質だったからな。お前が過去をそのままパックしたって言うのは分かる。実際、歴史の重みみたいなものは感じたしな。なにせ100年近い激動の歴史が詰まっていたわけだからな。

 でも、ここは違う。確かにこの公園にも歴史が詰まっているし、氷川丸と同じ時代を経てきたわけだけど、でも、人々が行き交い、笑い声が聞こえてくるのは、時が確かに動いているっていう感じがするよな。その違いなんじゃないかな。」

 羅針がそんな分析をする。

「確かに、そうかも知れないな。……100年の重みか。そう考えたら氷川丸ってすげぇ船だったんだな。」

 駅夫が羅針の言葉に、腕を組んで考え込んだ。


「そうですよね。氷川丸は本当に凄い船ですよね。でも、あの船は余生を生きるおばあちゃんで、古いことは教えてくれるけど、新しいことは何も知らないって感じじゃないですか。でも、この公園は、アクティブなおじいちゃんって感じで、一生懸命若者に付いて行こうとしている、そんな気がします。」

 平櫻はそう言って自分の考えを話す。

「なるほどね。アクティブなおじいちゃんか。……なんか無理しちゃって、あちこち痛めながらも、若者に付いて行こうとするって、そんな感じかな。……言えてるかも。」

 駅夫が平櫻の言うことに納得する。

「縁側でロッキングチェアに座って、ゆらゆらと時を過ごすおばあちゃんと、庭で自家菜園したり、DIYしたり、遊びに来る孫と遊んだりするおじいちゃんか。確かにそんな風景が思い浮かぶな。」

 羅針が駅夫の想像を膨らます。

「今まで、そんな見方をしたことがなかったもんな。だから、違和感を覚えていたのかも知れないな。」

 駅夫はそう結論づけて自分の中で納得した。

「確かにそうだな。空気間の違いって、そこなのかもな。」

 羅針もそう言って結論づけるが、あまり納得はしていないようだ。

「それが歴史の重みの違いに通じているのかも知れませんね。」

 平櫻もそう言って自分の中で飲み込んで無理矢理消化した。


 三人は、そう言って再び、夕暮れの山下公園の散策を続けた。

 人々は、三人が抱える違和感とは関係なく、夕焼けに包まれながら、公園内を自由に歩き回り、この特別な瞬間を楽しんでいた。気品ある歴史と現代の活気が融合する、山下公園の夕刻の風景は、訪れる者すべてに深い感動と楽しみを与えているようだった。


 奇妙な感覚に包まれながらも、山下公園で写真や動画を撮影した三人は、公園の出入り口まで戻ってきていた。

「こうやって見て廻ると、俺たちも旅をしながら歴史の重みと現代の軽さを行き来してるのかもな。」

 駅夫が改めて、そんなことを言う。

「確かにそうかもな。結局旅行ってさ、これまで人類が残してきた軌跡を辿ることでもあるからな。重みの違いを感じるのも当然かも知れないな。」

 羅針がそう言って振り返って山下公園を見渡す。そこには夕暮れが迫りつつある山下公園を行き交う人々が、思い思いの時間を過ごし、今という時を楽しんでいた。

「さて、俺たちはそろそろ現実に戻ろうか。で、この後の夕飯は?」

 駅夫が、腹減ったのか、物思いに耽っている羅針に対し、そんなことを言い出した。


「夕飯か。ちょっと早いけど、そうするか。平櫻さんはどこか他に行きたいところはありますか。」

 羅針が平櫻にも確認する。

「大丈夫です。夕飯にしましょう。」

 平櫻もそう言って頷いた。

「駅夫は何か食べたいものはあるのか。」

 羅針は平櫻の言葉を聞いて、今度は駅夫に確認する。

「俺は何でも構わないけど。……あっ、中華は昨日堪能したからパスな。」

 駅夫は、昨日食べ放題をした中華以外を希望した。

「私はお二人にお任せします。中華でも構いませんよ。」

 平櫻は本当に何でも良いようだ。

「それじゃ、ルーレットで決めるか。」

 羅針がスマホを取りだし、ルーレットアプリを起動する。

「出たな、ルーレット。」

 駅夫が言う。

「なんですかそれ。」

 平櫻が興味津々で聞く。

「これは、ただのルーレットアプリですよ。出目を自由に設定出来て、スタート、ストップをタッチして決められるんですよ。」

 羅針がそう言いながら、アプリを動かしてみせる。

「前に、博多駅でラーメン屋を決める時に使ったんだよ。博多駅周辺のラーメン屋をリストアップしてね。……でも、あのラーメン屋は美味かったな。紅生姜は欲しかったけど、高菜が良い味出してたし、あれはあれで美味かったよな。」

 駅夫がそう言って平櫻に説明しようとして、博多ラーメンの思い出に浸り始める。

「ああ、美味かったな。で、出目はどうする。」

 羅針はそう言って、駅夫を現実に引き戻す。

「ああ、そうだな。……近い方から番号付けて、それで出た場所で良いんじゃね。」

 駅夫が言う。

「じゃ、お前リストアップしといて。」

 羅針が駅夫にリストアップさせる。

「了解。山下公園、夕食、距離順。……これでいいか。ちょっと中華が多いのが気になるけど。まあ良いか。リストアップされたのは27軒だな。」

 駅夫が自分のスマホで検索を掛けて、リストアップした。中華が多いのが少し不満のようだ。

「OK、27軒ね。……平櫻さんもこれでいいですよね。」

 羅針は一応何でも良いと言った平櫻にも確認する。

「はい。構いませんよ。なんか、ドキドキしますね。」

 平櫻はワクワクした表情を浮かべていた。


「じゃ、回すぞ。恨みっこなしだからな。」羅針はそう言って、ルーレットを回す。「……6だ。」羅針は出目の数を27に設定し、ルーレットを回し、出た目を読む。

「1、2、3、4、5、6、ここか。沖縄料理の店だな。居酒屋みたいだ。横浜で沖縄料理、良いんじゃないか。」

 駅夫がリストを数えて、出た目に該当する店を言う。中華じゃなくてホッとしているようだ。

「沖縄料理ですか。良いですね。美味しいの多いんですよね。」

 そう言う平櫻も満足げだ。


「この店か?」

 羅針が自分のスマホで、該当の店を検索して、駅夫に確認する。

「そう、それ。」

 駅夫が確認する。

「よし、じゃ、行こうか。平櫻さんも行きましょうか。」

 店までのルートを確認した羅針は、駅夫と平櫻に準備が出来たことを言う。


 こうして、夕食の場所を決めた三人は、山下公園を後にした。

 店の場所は、中華街を抜けた向こう、元町の方になる。

 三人は中華街を抜けて、首都高の高架に沿って、店へと向かう。暗くなるにはまだ早いが、既にヘッドライトを点けて走っている車もチラホラ出てきた。


 元町の路地に入り、雑居ビルの一階にその店はあった。入り口は喫茶店かバーのような見た目で、居酒屋とも沖縄とも程遠い雰囲気である。

 羅針は山下公園を出る時に、すぐ電話を掛けて予約をしておいたので、スムーズに席へ案内して貰えた。もちろん動画の撮影許可も貰っている。

 店内も沖縄的な雰囲気はなく、カウンターにテーブル席、小上がりもあった。店内は珍しく喫煙が可能なようであるが、三人はそれも承知で来たので、取り敢えず案内されたテーブル席に座った。


 メニューはコース料理を始め、様々な沖縄料理が並んでいた。

 三人は取り敢えず沖縄と言えばこれ、オリオンビールを頼む。料理もまずはコースで頼む。8品のお任せで、何が出てくるかは分からない。


 まずは、出てきたビールで乾杯し、一品目の刺身盛り合わせを摘まむ。

 オリオンビールはあっさりしていて、苦みが少なく、飲みやすい。突き出しはゴーヤのわたを使った天麩羅である。店員に聞かないと分からなかったが、玉葱のような甘さを感じつつも、確かにほんのりゴーヤの苦みもある、食べたことのない味と食感である。

 次に出てきた刺身も、よく見る鮪やサーモンだけでなく、グルクンやイラブチャー、ミーバイなど聞いたこともない魚も並んでいた。

 続けて、ミミガーの味噌和え、石垣牛のコロッケ、角煮のラフティー、ジーマミー豆腐、もずくの天麩羅、そして定番のゴーヤチャンプルが次々と出てきた。


「美味いな。これが沖縄料理か。」

 駅夫は一つ一つ摘まみながら呟く。

「ああ。どれも随分懐かしい味だな。」

 羅針は、そう言って、一つ一つ食レポをしていく。

 ミミガーの味噌和えは、豚の耳のコリコリとした食感が良く、味噌の濃厚な風味と良く合う。石垣牛コロッケはサクサクの衣に肉の旨味とジャガイモの甘味が絶妙にマッチしている。ラフティーは箸で切れるほど柔らかく、甘辛いタレが良く染みていた。ジーマミー豆腐はピーナツの風味が鼻を抜け、もっちりとした食感とほんのり感じる甘さが、生姜醤油に良く合う。もずくの天麩羅は、サクサクの衣とネバネバのもずくの食感が独特で、奇妙な違和感を覚えつつも、口に広がる磯の香りがクセになる。そしてゴーヤチャンプルは、定番でありながらも、少し塩気が利いた味が、汗を掻いてきた身体に染み渡る。

 どれも、羅針にとっては食べたことのある料理でありながら、その味わいは数十年前現地で食べたものと全然異なるが、やはり懐かしく、どう表現したら良いか、とにかく、沖縄らしい味わい、南国の風を感じるのだ。


 羅針は、ツアー会社に勤めていた頃に仕事で一度沖縄に行ったことがある。その時はまだペーペーであり、ツアー客の引率が主な仕事で、ガイドは現地スタッフが担当した。バスの運転手と時間調整をしたり、ガイドと廻るコースを調整したりと、忙しく動き回ったので、観光を楽しむことは出来なかった。

 まだ独り立ちして間もない頃だったので、東京本社にいる上司に何度か連絡を取って、確認したりもした。当時は携帯なんて無かったから、公衆電話で十円玉積み上げて電話したのは懐かしい思い出だ。


「沖縄料理って独特で美味しいですよね。」そう言う平櫻は、二度ほど行ったことがあるようだ。「学生の頃フェリーを乗り継いで一度、それから動画配信を始めてから一度行ったんですよ。もちろん、観光も目的だったんですけど、ゆいレールに乗りたかったんですよね。」

 そう平櫻が言う。当時開業したばかりのゆいレールに乗りたくて、平櫻は友達を説得して、高校の夏休みにフェリーで沖縄へ渡った。東京に行くよりも安上がりで、バイトして貯めた小遣いをはたいて行ったのだ。

 鹿児島から那覇の航路は、当時から地獄の航路と呼ばれ、特に海が良く荒れるため、船酔いと格闘しなければならず、平櫻も青い顔をしながら、丸24時間以上かけて那覇まで行ったのだ。

 沖縄では、有名所である国祭通りや、首里城しゅりじょう美ら海(ちゅらうみ)水族館、そして、ひめゆりの塔も廻った。そして、目的だったゆいレールにも乗った。開業してまだ数年しか経っていなくて、車両もまだ新しく、鹿児島にはない、その最新の乗り物に心が躍った。

 平櫻は、そんなことを、料理を摘まみながら思い出していた。


「良いですね。あのモノレール乗ったことあるんですね。私が行った時は、影も形も無かったですからね。まあ、仕事で行ったんで、そもそも乗る暇なんてなかったんですけどね。」

 羅針が残念そうに、そして羨ましそうに言う。

「お前、乗ったことないのか。珍しい。そう言う珍しいのは真っ先に乗りに行ってると思ったのに。」

 駅夫が驚いたように言う。そう言う駅夫は、沖縄には一度も足を踏み入れたことはない。行ったことがある二人を羨ましいとは思わないが、自分も一度は行きたいなとは思っていた。

「ああ、なかなか機会がなくてな。」

 羅針はがっかりしたように応える。

「そうか。じゃ、ルーレットで当てたら乗りまくろうな。」

 駅夫が慰めるように言うが、その実、自分も乗りたいのだ。

「ああ、楽しみにしてるよ。」

 そんな駅夫の心を知ってか知らずか、羅針がそう言ってにこりと笑う。


 そんな話をしながら、三人は沖縄料理に舌鼓を打つ。

 次々に料理を頼み、ビールが空くと、泡盛を注文した。泡盛はいくつか種類があり、店主のお勧めをいただくことにした。

 泡盛は平均25度とかなり強いことで有名だが、酒に弱い駅夫はともかく、羅針と平櫻にとってはどうと言うことはないようだ。

 三人はまず、ロックでいただいた。やはり高い度数ためか、口の中が焼けるような刺激が広がるが、芳醇な香りと深いコクを味わうことが出来る。次に、水割りで、今度はさっぱりした味わいを楽しむ。その後はソーダ割りやミルク割り、コーヒーやお茶で割るなんていうのもあった。

 駅夫は三杯で白旗を揚げ、その三杯目をチビリチビリとやっていたが、羅針と平櫻はグイグイとグラスを空けていた。とにかく、沖縄料理と一緒に飲むと、これがまた美味いのだ。結局三人で一本空けてしまった。実質二人でだが……。


 二時間程飲み食いを楽しんだだろうか、沖縄料理を堪能し、泡盛で出来上がった三人は、昨日約束したとおりバーへとハシゴをすることにした。

 会計を済ませ、店主に礼を言って店を出ると、再び首都高の高架を潜り抜け、水町通りに向かった。


 夜の海風が酔った身体に心地よく、火照った身体を適度に冷ましてくれた。

 駅夫は一番飲んでいないのにも関わらず足取りが怪しかったが、それでも飲兵衛の羅針と平櫻の二人にどうにか付いて行った。

 羅針が選んだ店は、昔から何度か来たことがあるお店だ。馴染みというわけでもないし、マスターと親しいとか、そんなことはないが、仕事の付き合いで入ったバーで、羅針は気に入って、何度か足を運んだことがある、この界隈では人気のある老舗なのだ。


 ドアを開けると、中には日曜日ということもあってか、観光客らしき人々が大半を占めていた。低いが、それでも通る声で「いらっしゃいませ」とカウンターに立つバーテンダーから声が掛かる。近づいてきたウエイターに羅針が人数を告げると、奥のテーブル席を案内された。


「どうですか。こういう場所ならハードルは高くないでしょ。」

 案内された席に着くと、羅針が微笑みながら平櫻に尋ねる。

「はい。少し緊張してましたけど、こういう場所なら私も気楽に来られそうです。……それにしても、素敵なお店ですね。」

 平櫻はそう言って店内をぐるりと見渡す。

 薄暗い店内は、カウンター席とテーブル席があり、カウンターの向こうにはバーテンダーがシェイカーを振ってカクテルを作っていた。

 室内の設えは重厚な感じで、壁には港町らしい絵が飾ってあった。ソファは柔らかすぎず固すぎず、だが肌触りは、年季が入っているのか、少しごわついていた。


 羅針はウエイターからおしぼりを貰うと、銘柄を指定してウイスキーのシングルを頼んだ。駅夫と平櫻もまずは同じものにする。

「流石ですね。慣れてらっしゃる。」

 平櫻が感心したように言う。

「そんなことないですよ。常連ならもっとスマートに出来るんでしょうが、流石にそこまでは出来ませんから。でも、別に慣れてなくても良いんですよ。分からないことがあったら、お店の人に聞けば良いんです。結構なんでも教えてくれますからね。まあ、嫌な客でなければの話ですが。」

 そう言って羅針は声を殺して笑う。

「もう、それが不安なんじゃないですか。」

 平櫻はそう言って、メニューを開く。そこには高級なウイスキーやワインなどが並ぶ中、かなりリーズナブルなものもいくつかラインナップされていた。カクテルもピンキリで、簡単に味の説明がされていた。


「ちなみに、ウイスキーから頼んだのは、ゆっくり飲めるからなんですよ。氷が溶けきるようではダメですが、カクテルなんかは、ゆっくり飲んでると、混ざりが悪くなって味が変わってしまいますからね。ウイスキーなら、多少氷が溶けてもそこまで酷い味にはなりませんから。その間に、ゆっくりと次に飲むお酒を考えるんですよ。駆けつけビールみたいなものですかね。まあ、私の持論なんで、もし平櫻さんが通うようなら、自分のスタイルを考えてみるのも楽しいかも知れませんね。」

 羅針がそんなことを説明する。

「なるほど。勉強になります。」

 平櫻が感心したように羅針の話を聞いていた。

「平櫻さん、こいつの言うことは、その通りなんだけど、何も気負うことはないからね。」

 駅夫がそう言う。

「はい。分かりました。」

 平櫻は素直に頷く。


「バーはね、お酒を楽しむところだから、お酒は最高の状態で出されるんだ。その最高のお酒を、最高の状態で飲む。それが出来れば良いんだ。難しく考えることはないんだよ。」

 駅夫が優しく言う。

「そうですね。難しいことは何もないんですよ。最高の状態でお酒を楽しむ。だから、店内は落ち着いた雰囲気だし、会話も控え目にする。つまり、マナーのすべてが最高のお酒を楽しむことに繋がってるんですよ。

 平櫻さんは、お酒がお好きなんだから、どうすれば良いかなんて、すぐに分かるようになります。気負わず、楽しみましょう。」

 羅針もそう言って大きく頷く。

「ありがとうございます。」

 平櫻が頭を下げる。


 そんな話をしているうちに、頼んでいたウイスキーとおつまみが届いた。

「乾杯。」

 羅針の音頭で、三人は杯を掲げた。

「美味しい。ウイスキーってこんなに美味しかったんですね。」

 平櫻は、グラスを目の前に掲げて、まじまじと見た。

「飲み方によって、味が変わるのがこのウイスキーなんですよ。氷の入れ方一つ、ウイスキーの注ぎ方一つ、グラスに依っても味が変わるって言います。それが分かるようになったら凄いんですけどね。普通は『うん美味しい』で終わりです。私もその口なんですけどね。」

 羅針はそう言って微笑む。

「そんな微妙に異なるものなんですね。」

 平櫻が感心したように言う。

「そうだよ。最高の状態で酒を出すのがバーだろ、で、その味はバーテンダーの腕に左右されるって訳だ。腕の良いバーテンダーの出す酒は同じ酒でも全然違うっていうこと。ここは、羅針のお墨付きだから、間違いないと思うよ。俺は、羅針みたいに酒の味は分からないからね、何とも言えないけど。」

 そう言って、駅夫は声を出さずに笑う。

「そうなんですね。作る人によって違うなんて、全然知りませんでした。いつも両親の晩酌に付き合う時は、適当に作ってましたからね。」

 平櫻もそう言って笑った。どうやら少し緊張が解けてきたようだ。


 ウイスキーを飲み終わると、羅針は平櫻にカクテルを勧める。もちろん、カクテルは人それぞれ好みが分かれるし、時間を掛けて飲むものではないため、ゆっくり楽しみたい時には向かない。だが、バーテンダーが一番腕を振るえるのがカクテルでもある。そのカクテルの味で、バーテンダーの腕が分かるとも言えるのだと、羅針が蘊蓄を語る。


「カクテルですか。居酒屋では飲んだことありますけど、あまり好きにはなれなかったんですよね。口に合わないって言うか、お酒と言うよりもジュースみたいな感じで。」

 平櫻はそう言って躊躇している。

「良い機会ですから、平櫻さん自分好みのカクテルを探してみては如何ですか。」

 羅針がそう言って提案する。

「ええ。それは構いませんけど。」

 平櫻は少し戸惑いながら頷く。


 羅針はウエイターを呼んで、平櫻に合うカクテルを作って欲しいとお願いする。

 ウエイターは普段どんなお酒を飲んでいるのか、味の好み、好きな食べ物などをいくつか質問した。平櫻は聞かれるままに、正直に答えていった。

「お口に合うものをお出し出来るかは分かりませんが、少々お待ちください。」

 ウエイターはそう言って、バーテンダーへ注文を通した。バーテンダーは少し考えを巡らせると、すぐに取りかかった。


 暫くしてウエイターが持ってきてくれたのは、シンプルで洗練された印象のカクテルだった。見た目は無色透明だが、中に濁りがあり、それがキラキラと照明に照らされて光り輝いている。上にはレモンスライスが飾られ、何か粒々が散らされていた。

「フォギーレモン、霧の檸檬になります。辛口の焼酎をベースにトニックウォーターを入れ、レモンスライスとジュニパーベリーを散らしています。」

 そうウエイターが説明した。

「綺麗。……ありがとうございます。」

 平櫻はそう言って目を輝かせ、ウエイターに礼を言った。

 暫く眺めていた平櫻は、羅針に促され、一口飲んでみた。

「美味しい。これがカクテルですか?全然甘くないし、私の好みにピッタリです。レモンの酸っぱさも良いアクセントですし、このほろ苦さとキリッとした味わいが良くマッチしていて、……へえ、カクテルのイメージが変わりました。」

 平櫻はそう言って嬉しそうに、味わうように飲んでいた。

「それは良かった。こういうカクテルは一期一会ですから。良く味わっておくと良いですよ。他では絶対に味わえないですからね。」

 羅針はそう言う。

「他では味わえないって、どういう、……ああ、そう言うことですね。これはこのお店のオリジナルで、私の好みに合わせてアレンジされたものだからってことですよね。」

 平櫻がどういうことか分からなかったが、すぐに合点がいったようだ。

「そう言うことです。」羅針がそう言って頷く。「ただ、先程ウエイターさんは焼酎にトニックウォーターを使って、レモンとジュニパーベリーを散らしたって言ってましたよね。」と羅針は話を続けた。

「ええ。」

 平櫻が頷く。

「であれば、自分で再現することは多分可能ですよ。完璧に同じものは無理かも知れませんが、近いものは出来るでしょうし、自分の好みにアレンジすることも出来るかも知れません。」

 羅針がそう言って、平櫻に希望を与える。

「オイオイ、羅針あんまり平櫻さんをけしかけるなよ。彼女がカクテル作りに嵌まっても知らないぞ。」

 駅夫が横槍を入れる。

「別に嗾けてねえよ。探究心を満たしてあげただけだよ。」

 羅針がしれっと言う。

「あのな。お前のその一言のせいで、俺が探究心を満たすために、どれだけ血反吐を吐いたと思ってるんだよ。」

 駅夫が羅針を詰る。


「どういうことですか。何かあったんですか。」

 平櫻が不安になって、二人の顔を見比べる。

「実はね。俺も、昔こいつに今日みたくバーに連れてこられたんだよ。知っての通り俺はそんなに酒に強い方じゃないから、俺に合うカクテルを頼んでくれたんだよ。」駅夫の話に、平櫻は頷いて聞いている。「まあ、そこまでは良かったんだ。ところが、その酒が無茶苦茶美味くてさ。忘れもしない、エブリデイ・ツイスト。」

 駅夫がカクテルの名前を口にして、話を止めた。何かを思い出して悔しそうなのだ。

「それが、カクテルの名前ですか。」

 平櫻が話を促す。

「そう。エブリデイ・ツイスト。毎日ひねる、まあ踊り出すってことだろうな。同時の俺は30代半ばでさ、色々行き詰まってたんだよ。新しい自分を見付けたくてね。そんな希望をバーテンダーに伝えたら、そんな名前のカクテルが出てきたんだ。背中を押された気がしたんだよね。

 それからだよ。そのカクテルを作りたくて、最初に教わった材料を揃えて、何度も挑戦したんだよ。その店にも何度か通って、味を覚え直したりしてね。夢中になってね、四六時中そのカクテルのことを考えていたんだ。」

「それは凄いですね。で、完成したんですか。」

 平櫻が目を輝かせて聞く。

「いや。なんせこちとら酒の素人。プロが出す味なんて出せるわけがない。レシピは簡単なんだよ、度数が低めのウォッカにジンジャエールとライム果汁を混ぜるんだ。そこに一枚生姜のスライスを浮かべるだけ。

 だけど、このカクテルの作り方がステアなんだ。」

「ステアってなんですか。」

 平櫻が話を遮って質問する。

「ステアっていうのは簡単に言うと冷やしながら混ぜるんだ。」駅夫がすぐに答えて説明する。「平櫻さんが飲んでるそのカクテルはシェイク。一般的に良く映画やドラマでカクテルを作るシーンでやる、あのシャカシャカとシェイカーを振って作るヤツね。他にもビルドとブレンドって方法が一般的にあるんだけど、その中で一番難しいとされるのが、このステアらしいんだ。

 そんなの当然俺なんかが作れるはずもなくてさ。試行錯誤を重ねたあげく、自分で作ったマズいカクテルを飲み続ける羽目に陥ったんだよ。

 平櫻さん悪いことは言わない。絶対に自分で作ろうなんて考えちゃダメだよ。俺みたいに地獄の苦しみを味わうことになるからね。」

 駅夫は真剣な眼差しで平櫻の目を見て、そう言った。

「は、はい。」

 平櫻は、駅夫がいつになく早口で捲し立てるその圧力に、言葉もなく頷き、羅針を見る。


「こいつの言うとおりですよ。初めて連れて行ってから、一年、いや二年位だったかな、ずっと作り続けていたらしくてね、どうしても出来ないって、泣きついてきたんだよな。」

 羅針は懐かしそうに言う。

「泣きつきもするさ。二年間来る日も来る日もカクテルを作り続けたんだからな。」

 駅夫がそう言って怒りをぶつけてくる。

「だから、作り方を教えて貰いに行ったじゃねぇか。……仕方ないんで、こいつをその店に連れて行ったんですよ。それで、頭を下げて、作り方を教わったんです。」

 羅針がそう平櫻に言う。

「で、教えて貰えたんですか。」

 平櫻が聞く。

「教えて貰えたよ。なんてことはない、隠し味があったんだ。たったひとつまみの塩。それも最高級の塩だよ。早速、その塩を取り寄せて作ってみたら、バッチリ。俺の二年間は何だったんだって思ったね。」

 駅夫が悔しそうに言う。

「では、今は作れるようになったんですね。」

 平櫻が羨ましそうに言う。

「まあね。でも、俺が作るのはエブリデイ・ツイストじゃなくて、エブリデイ・ヘルって改称したけどね。」

 そう言って駅夫は力なく笑った。

「毎日地獄ですか。さぞ大変な思いをなさったんですね。」

 平櫻が同情する。

「だから、平櫻さん。自分で作ろうなんて決して考えちゃダメだからね。いいね。」

 駅夫は、何度も念を押した。

「カクテルって、恐ろしい飲み物なんですね。」

 平櫻は今手にしているこの美味しいカクテルを味わいつつも、決して踏み込んではいけない深淵の縁に立っているような、そんな気分になった。


「駅夫、あんまり平櫻さんを脅すなよ。完全に怯えちゃってるじゃないか。お前がさっさとお店で頭を下げれば、そこまで苦労することはなかったんだからよ。」

 羅針が言う。

「そんなこと聞けるかよ。お前あの時なんて言ったか覚えてるか。」

 駅夫が言う。

「なんて言ったんだ。」

「カクテルのレシピはその店のオリジナル、いわば企業秘密の塊なんだ、ってそう言ったんだぞ。そんな事言われて、すみません企業秘密教えて貰えますかって言えるか?」

 駅夫がそう言って悔しそうにしている。

「そうだっけ。」

 羅針はそんなことすっかり忘れているようだ。

「あんな風に、頭を下げたら教えて貰えるんなら、何度でも下げたよ。」

 駅夫は古い記憶を呼び覚ましたせいか、再び怒りと虚しさと色んな勘定が綯い交ぜになって込み上げてきたようだ。

「わるかったって。そう怒るなって。今日は平櫻さんのバーデビューなんだから、楽しく飲まなきゃ。……ねぇ平櫻さん。」

 羅針は形勢不利と見て、平櫻に振る。

「えっ、ええ。ありがとうございます。」

 平櫻は突然自分に振られたので、戸惑い、上手く返事が出来なかった。

「こいつは、こんな風に言ってますけど、そこまで深刻に考えることないですからね。お酒は楽しく飲めば良いんですよ。自分で律すれば良いんですからね。」

 羅針はそう平櫻に言って、駅夫のようにならないよう優しく忠告する。


 三人は、そんな話をしながら、酒を楽しんだ。駅夫に脅され、カクテルの怖さを知った平櫻も、羅針の勧めで、何杯かおかわりをし、他にも色々なカクテルを楽しむうちに、最初のカクテルに固執することもなくなり、心から楽しんだようだった。


 小一時間も楽しんだだろうか、すっかり酔いが回った三人は、会計を済ませ、バーテンダーにも礼を言って店を後にした。

「平櫻さん。初めてのバーはいかがでした。」

 羅針がホテルに戻る途次聞いた。

「ええ、とても良い経験でした。お酒もおつまみも本当に美味しかったです。カクテルの印象も変わりましたし、あの生牡蠣にウイスキー掛けたのは、初めての味で、牡蠣の旨味にウイスキーのスモーキーさが加わって、大人の味って感じでした。」

 キラキラと目を輝かせて語る平櫻にとって、どうやら、食の満足がすべてだったようだ。

「それは良かったです。」

 羅針は満足して貰ったようで、ホッとした。

「また行きましょうね。」

 平櫻はどうやら味を占めたようだ。


「平櫻さん、カクテルは追求しないの?」

 そんな平櫻に、駅夫が恐る恐る聞く。

「ええ。カクテルは一期一会、今日出会ったカクテルたちは、今日の私の思い出です。次に出会うカクテルは、きっと、その時最高の出会いが待ってるはずです。だから、追い求めません。偶然の出会いを大切にしたいですから。ねえ、星路さん。カクテルってそう言うものなんですよね。」

 平櫻は駅夫に答え、羅針に教わった本質のようなものを語った。

「そうですね。平櫻さんにとって、最高の出会いが待ってることを願ってますよ。」

 羅針はそう言って、にこりと微笑む。

「なんだよ、なんだよ。俺の時とは随分扱いが違うな。二年も苦しんだ俺にはそんな優しい言葉掛けてくれなかったのに。」

 駅夫が拗ねる。

「なに、拗ねてんだよ。子供か。」

 羅針は呆れたように言い、背中をポンポンと叩く。


 そんな三人を海からの夜風が包み込み、酔いで火照った身体を冷ましてくれた。



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