拾参之拾弐
ヨコハマエアキャビンで桜木町駅に着いた、旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、桜木町駅前で、暫く写真や動画を撮っていた。
流石に観光地の玄関口である。人出はもの凄く、三人は人の流れを気にしながら、邪魔にならないよう気を遣いながら撮影をした。
この桜木町駅は、元々横浜駅として開業し、日本初の鉄道終着駅であった。横浜港を抱えるこの街は、見る見る間に発展を遂げ、今や高層ビルが建ち並ぶ大都会へと変貌を遂げたが、その最たる功労者はおそらくこの元横浜駅である桜木町駅であろう。
旅客だけではない、大量の貨物をここから各地へ送り出し、また各地からここ横浜へ送り届けてきたのだから。
駅前広場はやはり港町らしい雰囲気が漂う、洗練されたデザインが施されていた。煉瓦が敷き詰められた広場には、人々が縦横無尽に行き交い、三人のような観光客が思い思いに写真や動画を撮り、カップルや家族連れ、友人同士のグループが談笑しながらそれぞれの目的地へと向かって行き交っていた。
もちろん、観光客だけではない。私服なので仕事かどうかは分からないが、書類鞄を抱えて足早に通り過ぎていく人もチラホラ見かけ、ビジネスの街としての側面も垣間見えた気がした。
桜木町の駅舎は白が基調であるためか、陽光を受けて煌びやかに光っていて、都会の眩しさと相まって、まるで三人が場違いなお上りさんであることを炙り出すかのように、照らし出していた。
もちろん、そんなことに頓着しない三人は、時計を確認した羅針の一言でバス乗り場へと向かう。
「横浜市営バスの026系統、横浜港シンボルタワー行きだからな。」
羅針が先行する駅夫に声を掛ける。
「了解。」
そう言って片手を後ろ手に挙げた駅夫はバス停を探し出し、最後尾に並ぶ。
「混んでるな。」
後から追いついてきた羅針に、駅夫が言う。
「日曜だからな。」
羅針も当たり前のことを応える。
「それにしては多くないか。昨日もそうだったけど、別に何かあるわけじゃないんだろ。」
羅針の答えに満足しないのか、更に駅夫は言う。
「まあ、いつも休日はこんなもんだよ。」
最近は足が遠のきつつあるとはいえ、時折足を運ぶ羅針にとっては、休日の桜木町は良く見る光景の一つなのだろう。別段驚いた様子もなく返事をする。
程なく到着したバスへ押し込むように人々が乗り込んでいく。
どうにか乗り込めた三人は、ギュウギュウの満員バスに揺られながら、目指すのは山下公園である。歩けない距離ではないが、この炎天下を歩くのは流石にキツいし、折角バスがあるのだから、利用しない手はない。
だが、歩いた方がマシなのではないかと思える程、車内は混み合い、身動きも取れない状態で、人々の汗の臭いが充満していた。
それでも、静かな車内には、淡々と放送する自動音声だけが響き渡り、乗客たちは見るともなしに窓の外を流れる横浜の街を眺めているだけだった。
三人が乗るこの横浜市営バスは横浜市交通局が運営するバスで、横浜市営地下鉄も運営している、横浜市の公営交通企業である。
元々横浜市内には市電が走っていたが、1923年の関東大震災で壊滅的な被害を受け、郊外へと移り住んだ人々の足として、市電に変わって運用が開始されたのがこのバスである。
開業当時は横浜市電気局が管理、運営をしてきたが、戦後、横浜市交通局に改称し、再出発を遂げると、膨らむ需要に、路線を増やしてきた。
しかし、そのすべてで採算が取れていたわけではなかった。市電やトローリーバスとの併用は、バス事業を圧迫していたし、需要の少ない場所も公共バスとしては当然運行せざるを得ず、赤字が続いていた。
その後、市電とトローリーバスを廃止し、バス路線への転換を図ると、横浜市内を縦横無尽に路線網を張り巡らすまでに発展し、現在は地下鉄と共に、日本一の人口を抱える横浜の市民や観光客の足として活躍している。
満員バスに揺られて横浜の街を走ること10分、我慢の限界に達するかと思われた頃、寿司詰めバスは山下公園前バス停に到着した。ドアが開くと、まるで心太を押し出すかのように、乗客が一挙に降りていった。皆目的地が同じだったのだろう。三人も降車客に続いて、バスを降りた。
漸く寿司詰めから解放された三人は、クーラーが効いていても淀んだ空気の車内より、照りつける陽射しがあるとはいえ、外の海風の方が余程良いと感じていた。
「ここも人ばかりだな。」
駅夫が山下公園に一歩足を踏み入れた第一声がこれだった。休日の山下公園も、多くの人で賑わっていたからだ。観光客はもちろん、散歩をしていると思われる地元の人も見受けられた。
特に正面にある噴水の周りには、涼を取るためか、多くの人々が集まっていた。噴水を囲う花壇には色とりどりの花が咲いていたが、人々は花よりも涼を取る方が大事なのか、見向きもしていないようだ。
三人が山下公園に来た目的は、国の重要文化財である日本郵船氷川丸である。
氷川丸は1930年に竣工した一万二千トン級の貨客船である。外見は黒い船体と、白い船橋のコントラストが目を惹く美しい船で、その特徴的な船体は、時代を経た現在でも横浜港にその存在感を示している。
「これが100年近く前に造られた船なのか。」
間近で見るのは初めてなのか、氷川丸を見上げながら、駅夫が溜め息をつくように呟く。
「ああ。すげえな。昔の船って気品があるよな。」
山下公園からは何度も眺めている羅針だが、ここまで近寄ったのは初めてだ。
「本当に美しいですね。ただただ美しいとしか言葉が出てきません。」
本物を初めて見る平櫻は、動画を撮影しながらも、出てくる言葉は美しいだけだった。
三人は、外からその美しい船体を撮影した後、タラップで船内に上がる。
船内に一歩踏み込むと、エントランスロビーでは、大画面映像と写真で氷川丸の歴史を学ぶことが出来るようになっていた。
「中も素敵ですね。」
平櫻が一歩船内に足を踏み入れると、思わず呟いた。
「なんか、これから船旅に出るような気分になるな。」
駅夫が船内を見渡しながら言う。
「レトロなこの雰囲気が旅情を掻き立てるな。」
羅針も辺りを見回しながら言う。
元々ここは屋根のないデッキで、貨物を出し入れするカーゴハッチと荷役機器のデリックが設置されていたらしい。
今は屋根が架けられ、白い天井で蓋がされ、フローリングの床に、お洒落な木の板と白い壁紙に取り囲まれたロビーになっているが、どこかレトロな雰囲気を醸し出していた。
入り口すぐのところに、受付カウンターがあり、三人はそこで入館料を支払い、平櫻は事前に館内の撮影許可を貰っていた旨を伝え、注意事項を確認した。
三人は受付をすませると、まずはロビーで椅子に座って、ビデオを見た。
この氷川丸は1930年に竣工すると、北米航路シアトル便として配船され、太平洋戦争まで延べ約一万人の人を運んだそうで、乗客の中には喜劇王チャーリー・チャップリンもいたという。
しかし太平洋戦争が勃発すると、造船時の約束通り、海軍に徴用され、特設病院船に改装された。両舷の中央に大きく十字が描かれ、船内も大きく改造されたという。
終戦までの3年半の間に、トラック、ラバウル、バリクパパン、ジャカルタ、サイパン、マニラなどへと赴き、計24回の航海で三万人にのぼる戦傷病兵を収容し内地へ輸送したそうだ。
戦後は復員船として、二万人の復員兵を輸送し、その後も一般邦人の引き揚げ輸送に従事した。病院船としての役目を終えると、再び貨物船に改装され、GHQ占領下時代は国内で貨物の輸送に携わり、その後はタイやビルマ(現ミャンマー)から米の輸送をおこなった。
1951年、再び大改装をおこない、貨客船として生まれ変わると、ニューヨーク航路、ヨーロッパ航路に配船され、その後、デビューしたシアトル航路に復帰することとなる。
多くの人や物を運んだ氷川丸も、1960年、船齢30年を迎え、老朽化により引退が決定し、その現役時代を終えた。今は余生と言ったところだろうか。
「現役時代って、たった30年だったんだな。」
ビデオを見終わった駅夫が驚いたように言う。
「ああ。まさに激動の30年だったんだな。」
羅針も駅夫の言葉に同調する。
「その間に三度も大改造されてるなんて、信じられないですよね。あ、この展示保存するために四度目があるのか。」
平櫻もその激動の歴史に思いを馳せた。
「いや、それを言うなら、正確には五度ですね。実は2008年にリニューアルオープンしてるんで。」
羅針が、改装回数を一回増やす。
「そうなんですね。それを考えたら、大病を患いながらも、大手術を経て長生きしているお年寄りのように見えますね。」
平櫻がそんな風に例えて言う。
「そう考えたら、これからも長生きして欲しいですね。」
羅針がそう言って、いつまでもこの場所で、この歴史的貴婦人が健在であることを望んだ。
ロビーで氷川丸の歴史を学んだ三人は、いよいよ順路に従って船内を見て廻る。
まずは、狭い廊下を奥へと向かう。其処此処に見られる設備や装飾は当時のものを手入れして保存しているためか、二十世紀前半の遺物であるにも関わらず、懐かしさは感じるものの、古めかしさは感じない。
しかし、天井には剥き出しの配管が通っていたり、消火栓が当時のものであったりするのを見ると、やはり古い船であることが窺える。
廊下を進むと現れたのは、一等児童室である。もちろん、子供が遊べるようになっている場所だが、一等船客専用である。
本を読んだりお絵かきをしたりするための机や、乗って遊ぶための木馬が置いてあった。説明書きによると、託児専門のスチュワーデスもいたそうで、至れり尽くせりである。
天井を見上げると、日本の子供をモチーフにした絵も飾られていた。
「今ならテレビゲームとか、ボードゲームとか、パソコンとか置いてあったりするんだろうけど、子供たちにとって長い船旅は、相当退屈だったろうね。」
駅夫が室内を見渡しながら言う。
「でも、専属の保母さんがいたみたいですから、本を読み聞かせをしたり、あやとりとかお手玉とか、双六なんかで遊んだりしたんじゃないでしょうか。」
平櫻も当時の子供たちがどうやって遊んだか想像する。
「そうかも知れませんね。人気の保母さんは、子供たちに色んなことをおねだりされて、引っ張りだこだったかも知れませんね。」
羅針も、話を膨らます。
「次はご本読んでとか、双六しよとか、順番をじゃんけんで決めたりして、……なんか想像するだけで微笑ましいですね。」
平櫻もまるで自分がそこにいたかのように、想像を膨らます。
「でも、絶対一人ぐらいいるぞ、我が儘なヤツ。俺がやりたいことをやれみたいなの。」
駅夫が水を差す。
「ああ、お前みたいなガキ大将な。」
羅針がそう言って笑う。
「俺はそんなことしねぇよ。……って、あっ平櫻さんまで。ひでぇな。」
駅夫は否定しようとしたが、隣でクスクス笑っている平櫻を見て、詰る。
「ごめんなさい。」
平櫻はそう口では言うが、込み上げる笑いを抑えることは出来なかった。
廊下の奥、突き当たりには一等食堂があった。
一等船客専用のダイニングサロンで、アール・デコの装飾や高い天井が、この豪華な空間を彩っていた。室内には大きな鏡も設えられていて、身嗜みの確認はもちろん、狭い室内を広く見せる効果もあっただろうと推察出来る。
説明書きによると、ドレスコードもあったようで、当時の紳士淑女がここで食事をし、談笑していた様子が目に浮かぶようである。
「皆さんドレスを着て毎日三食こちらでお食事されていたんですよね。なんか素敵ですよね。」
平櫻が目を輝かして室内を見ていた。
「そうですね。男性はスーツ一つで良いでしょうから、楽でしょうけど、女性は都度ドレスアップしなければならないのは大変だったでしょうね。特に朝寝坊なんかされた時は、慌てて着替えて来たんじゃないでしょうか。」
羅針がそんなことを言って、思わず笑う。
「確かに、それを考えたら大変ですよね。今なら、簡単に着られるから良いですけど、当時のドレスって時間掛かったって言いますもんね。朝寝坊したら、朝食は抜きですね。」
平櫻も想像して笑った。
「中には朝寝坊ばかりしてて、噂が立ったりしてね。『どこどこのお嬢さんは何日も朝食をお召し上がりにならないようですが、体調でも悪いのかしら。』なんて、嫌み言われてね。」
駅夫が、嫌みなことを言う女性の真似をする。
「わあ、そんな事言われてるの知ったら、泣きたくなりますね。私なら意地でも朝食は食べに来ますよ。そんな事言われたくないですもん。」
平櫻がまるで自分が言われたかのような反応をする。
「でも、平櫻さんはそんなことを言われることよりも、朝食を抜くってこと自体が嫌なんじゃないの。」
駅夫がそう言って平櫻をからかう。
「確かに、朝食抜くなんて絶対有り得ないですけど、私だってそんな嫌みなこと言われるのだって嫌ですよ。まあ、気にしないし、見返してやりますけどね。」
平櫻は鼻息も荒くそう言って、ドヤ顔をする。
「平櫻さんらしいや。」
駅夫はそう言って笑う。
食卓の上には、当時の食器などが並べられ、食品サンプルで再現された料理も展示されていた。今でこそ、冷蔵技術が発達し、船上でも新鮮な食材を扱うことが出来るが、当時は限られた食材で、ここまで豪華な料理を提供していたことを考えると、料理人たちの努力や苦労が窺える。
秩父宮両殿下が乗船されたときに出された特別ディナーも再現されていて、松茸などの普段使われないような特別な食材も持ち込まれたようだ。
「でも、美味しそうですよね。私も食べたいなぁ。」
平櫻がテーブルの上を見て、羨ましそうに言う。
「ホントブレないなぁ。」
駅夫はそう言って、まだ笑っていた。
「もう。」
そう言って、平櫻は口を尖らした。
食堂を出ると、豪華客船には欠かせない大階段を上がる。
上のデッキは、一等読書室、一等社交室、一等喫煙室、一等特別室が並ぶ、一等船客専用の施設があった。
中でも一等特別室は、各国の貴賓や著名人、それに、あのチャップリンも利用した、特別スイートである。設備、装飾、どこを取っても一流の職人が手掛けたものだと分かる豪勢な造りで、そこにいるだけで、自分が上流階級にでもなったかのような気分が味わえた。
元々一等船室があっただろう場所に設けられた展示室には、神戸、横浜からシアトルまでの船旅が紹介されていた。
横浜からシアトルまでは約13日間で、片道運賃は一等で約500円、1930年当時初任給は70円、千円あれば家が建つ時代、今の価値に換算したら、そう簡単に庶民が乗れる金額ではなかったことが分かる。
「500円か、今ならワンコインなんだけどな。」
駅夫が巫山戯て言う。
「だな。今の価値に換算したら数百万とか、一千万位の価値なんだろうな。」
羅針が言う。
「そんなになるんですね。」
平櫻が驚いている。
「単純計算ですが、その位にはなるんじゃないでしょうか。
この千円の家って言うのがどれぐらいの家を指していたのかは分かりませんが、現在の一般的な建売住宅の上物が一千万から二千万と考えると、五百万から一千万が、この500円に当たりますからね。もし、その想定を上回る豪邸を指しているのであれば、当然その価値は跳ね上がりますね。」
羅針が単純計算で求めた価値の内訳を言う。
「なるほど。確かにそう考えたら、その位の価値になりますね。」
平櫻は羅針の説明に納得したようだ。納得したとはいえ、その金額が高額であることに変わりはない。そんな高額でする船旅に想像を巡らしているようだ。
「ちなみにさ、ファーストクラスで成田からシアトルって幾ら位するんだ。」
駅夫が羅針に聞く。
「多分数百万はするぞ、正確には……300万オーバーだな。」
羅針が、さっとスマホで検索を掛けて答える。
「マジで300万もするのか。」
駅夫があまりの金額に素っ頓狂な声を出した。
「でも、13日間掛けてシアトルに渡っていたのが、今や10時間前後で行かれるんだから、まさに隔世の感だよな。」
羅針がそう言って、海外旅行が気軽に行けるようになったその歴史を感じた。
料金は、一律500円ではない。当然、船室は一等、二等、三等と別れており、等級によっても変わる。もちろん、部屋や食事のグレードが変わるし、船客の過ごし方もかなり違ったようである。
一等船客は毎日豪華な食事に、ダンス、カード、ビンゴゲームなど、様々なリクリエーションが用意されていたようだが、二等、三等ともなると、そんな贅沢な過ごし方はせず、二等船客ならではの遊び、三等船客ならではの過ごし方があったようだ。三等船客などは娯楽にお金を掛けられるはずもなく、毎日同じような遊びに興じていたか、何もせず、ひたすら大海原を眺め、時が過ぎるのを待つだけの日々だったかも知れない。
「中にはさ、楽器が出来るヤツとかいてさ、歌と音楽に興じていたかもな。」
駅夫が想像を巡らす。
「確かに、娯楽には飢えていただろうから、何でも楽しんだだろうな。タイタニックの映画でも、船内ではバンド演奏なんかもしてたから、そう言う楽しみ方があってもおかしくないしな。」
そう言って羅針も納得する。
「へえ、どんな歌を歌ってたんですかね。」
平櫻も想像するが、1930年代に流行った歌なんて、もちろん知っているはずもなく、駅夫と羅針からも一節も出てこなかった。
「菊池章子さんの〔東京ラプソディ〕、藤山一郎さんの〔影を慕いて〕、〔丘を越えて〕、〔酒は涙か溜め息か〕、春日八郎さんの〔赤城の子守唄〕とかが流行ったみたいですね。もしかしたら、そんなのが唄われたかも知れませんね。」
羅針がさっとスマホで検索を掛けた。
「それに、皆アメリカへ渡るんだから、アメリカの歌なんかも知っていたかも知れないですよね。」
平櫻が想像で言う。
「あ、もしかしたら、外国人も乗ってて、即席の英会話教室なんか開かれてたりしてな。」
駅夫が言う。
「それは有り得ますね。代わりに皆が日本語教えてあげるみたいな。」
平櫻が話を膨らます。
「でも、皆訛りが酷くて、その外国人は混乱したりして。」
羅針がそう言って笑う。
「有り得そうですね。」
「あり得る。」
平櫻と駅夫も頷いて笑った。
見学コースは外のデッキに出ることも出来た。今は横浜の港街が見渡せるが、航海中は何もない大海原をひたすら進んでいくだけであったことを思うと、さぞ大変な航海であっただろう。
今はシアトルまで飛行機だと10時間前後で行き来出来るが、それでも大変な移動であるのだから、13日間を海の上で過ごすのはどれほど大変だったか、想像に難くない。
オープンデッキから、舳先の方へ向かうと、船橋がある。
三人はまず、一番上に上がった。そこは船の針路を決める大事な場所、操舵室である。
テレビなどで見るコンピュータ制御の今の船とは違い、設備は非常にシンプルで、室内の真ん中に、操舵輪が鎮座し、その前には厳つい機械があった。この厳つい機械は船の後方にある舵と繋がっており、操舵輪の動きを舵に伝える重要な役割を担っているという。
「おもかじいっぱい、よーそろー。」
駅夫が操舵輪の前で巫山戯て回すフリをしている。
「駅夫、その言葉の意味を知ってるのか。」
羅針が試すように聞く。
「えっ、船の進路を変えるときに言うヤツだろ、面舵は右、取舵は左。それ位は知ってるよ。戦艦のプラモ作ってた時に、お前に教わったからな。」
駅夫が答える。
「俺が教えたんだっけ。よくそんな昔のこと覚えてるな。じゃ、復習テストだな。ようそろうってどういう意味だ。」
「よーそろー?えっと、それは……。」
駅夫が言葉に詰まる。
「ようそろうは、そのまま直進て言う意味ですよね。英語ではsteadyですね。」
平櫻が横から答える。
「正解です。ちなみに取舵、面舵は英語でなんて言うか分かりますか。」
羅針が今度は平櫻に聞く。
「ええ。取舵がport、面舵がstarboardですね。昔の船は左舷を岸に着けたのが由来だとか聞きました。」
平櫻が難なく答える。
「じゃ、中国語ではなんて言うんだよ。」
駅夫が遣り返そうとばかりに羅針に聞く。
「中国語は簡単だよ、取舵は左舵《zuǒduò》、面舵は右舵《yòuduò》だな。そのまま左舵、右舵って漢字で書くだけだよ。ようそろうは把定《bǎdìng》、手偏に巴っていう字に、定めると書いて把定。つまり直訳すると舵のバーを定めるって意味だね。」
羅針が熟々と答える。
「ホントに隙がないな。じゃ、取舵、面舵の由来も知ってるんだよな。」
悔しそうに駅夫が更に聞く。
「もちろん。元々瀬戸内水軍で使われていたってのが有力な説だけど、十二支の方角で、正面を子とすると、右を卯、左が酉になるだろ、それで右を卯舵、左を酉舵にしたんだそうだ。酉舵はそのまま取舵に、卯舵は転訛して面舵になったって話だ。もちろん……。」
「諸説ありだろ。」
駅夫が口を挟む。
「ああ、そうだ。
ちなみに、ようそろうは、よくそうろうの音便化で、漢字で書くと適宜の宜に候で〔宜候〕もしくは好きに候で〔好候〕と書く。つまり、そのままで良いという意味だ……。」
「で、ようそろう、と言う訳か。」
「そう言うことだ。」
「流石だな。」
そう言って駅夫は手を叩いている。
「あのな。本当ならお前にクイズで出しても良かったんだぞ。思わず答えちまったけど。」
羅針が呆れたように言う。
「たまには良いだろ。」
そう言って駅夫はなんだか嬉しそうだ。
巫山戯ている三人の前には、羅針盤のようなものもあったが、その窓際にはレーダーらしきものもあった。
竣工当時はレーダーなど存在しない時代であるから、これは、おそらく戦中、もしくは戦後に取り付けられたものであろう。
窓の外を見ると、舳先から横浜港が一望出来た。桟橋も視界に入らないためか、まるで今まさに大海原を航海しているような気分を味わえた。
そして後ろを振り向くと、壁には氷川神社を祀った神棚があった。良く見るとお供え物なども新しいものが供えられていて、今でもきちんと祀っていることが分かる。三人も思わず手を合わせた。
操舵室の裏には無線室もあり、巨大な無線機器が設置されていた。アマチュア無線の三級を持っている平櫻は、この隔世の感がある巨大な無線機に驚いていた。
「平櫻さんアマチュア無線の免許持ってるの。」
駅夫が驚いて言う。
「はい。一応三級なんで、モールス信号も出来ます。英文だけですが。」
平櫻が得意げに言う。
「へえ、凄いですね。自分はモールス信号が覚えきれなかったので。」
羅針も感心したように言う。
「あれは、自分で音を出してみないとなかなか覚えないですよ。私は父のリグ、あ、機械ですね、モールス信号専用の機械を借りて練習したので、覚えることが出来ました。」
平櫻が経験則を語る。
「そうなんですね。やっぱり音がないとなかなか覚えないですよね。モールス信号を打つ機械があるんですね。やってみないと、あの点と線だけの記号だけではなかなか覚えられないですよね。」
そう言って羅針は納得がいったようだ。
「それにしても、この機械は大きいですよね。おそらく短波無線機だと思うんですけど、アマチュア無線用の短波無線機はもっと小さくて、これぐらいの重箱位なんですよ。今はもっと小さいのもあって、お弁当箱位なんですよ。」
平櫻はそう言って手で大きさを示す。
「それは、技術革新によるものなのか、それともこの機械が業務用だからなのか、どっちなんですかね。」
羅針が疑問に思う。
「おそらく両方あると思いますが、現在の高出力無線機も流石にここまで大きくはないと思いますので、当時は運用が大変だったんだなって思いますね。本当に驚きです。」
そう言って、平櫻はガラス窓越しに見える巨大な機械を熱心に見ていた。
そんな平櫻を見て、羅針は思った。平櫻のコミュニケーション能力はアマチュア無線で培われたのではないだろうかと。アマチュア無線は不特定多数の人と交信することを楽しむ趣味だと聞く。自分に足りない、苦手とするコミュニケーション能力を有する平櫻の原点を、羅針は見た気がした。
操舵室の真下には船長室があり、それなりに豪華な設えになっていた。当然船の全責任を負うその重責に見合った待遇ではあるが、貴賓などを出迎えたりすることもあっただろうから、当然のこととも言える。
部屋には、良く映画などで見る手書きの海図が置いてあった。当時は、六分儀などで測量し、自船の位置を海図にプロットしていくという作業が日々必要であった。当時の航海がどれほど大変なことだったのか、この紙の海図からも窺い知ることができた。
船橋を離れ、デッキを下に降りてくると、今度は二等客室、三等客室とグレードが下がる。
特に三等客室の船客は自由に船内を歩き回ることが出来ず、かなり行動を制限されていたという。運賃が安かったのもあるだろうが、13日間行動が制限された中での船旅はかなりキツかったであろう。船室も二段ベッドが四つ設けられ、部屋もかなり狭く、3m程の幅に、奥行き5m程の広さで、まさに鰻の寝床である。
「こんな狭い部屋に押し込まれていたんだな。」
駅夫が三等客室を見て嘆く。
「でも、これならまだ良い方だよ。比べるのは違うかも知れないけど、寝台列車のB寝台なんて三段ベッドだったからな。こんなもんじゃなかったんだぜ。」
羅針が言う。
「星路さんブルートレインとか乗られたことあるんですか。」
平櫻が聞く。
「えっ、ええ。ありますよ。明星に乗って、鹿児島にも行きました。」
羅針が平櫻の故郷、鹿児島にも行ったことを答える。
「鹿児島にもいらしたんですか。如何でしたか。」
平櫻は少し嬉しそうにその様子を聞く。
「とても楽しかったですよ。と言っても、鹿児島の駅を見て、西郷さんの銅像を見て、桜島を見て、それで蜻蛉返りしてきました。ブルトレに乗るのが目的で、観光は二の次でしたので。」
そう言って羅針は笑う。
「へえ。でも良いなあ。私も乗りたかったなぁ。サンライズとか、北斗星とかは乗りましたけど、やっぱりブルトレは乗りたかったですよ。寝台特急と言えばブルトレですからね。私が物心ついたときにはドンドン廃止になっていってて、乗りたいって思うようになった時には、もうなかったですから。」
平櫻は残念そうに言う。
「そうですか。私も乗ったのは子供の時分ですからね。懐かしい思い出です。」
羅針は懐かしそうに目を細めた。
三人は、更に下へと降りる。
そこにはこの船の心臓部、機関室があった。今はただ巨大な機械が置かれただけの、明るい部屋になっていて、8気筒ディーゼルエンジンが左右に設置されていた。
もちろん、8気筒ディーゼルエンジンといっても自動車で見るようなものではなく、全長24.5m、全幅12.5m、高さは10m以上もある巨大なもので、四階分がぶち抜かれていた。
「凄いな。」
駅夫がただただ感心するように呟く。
「ああ。」
羅針も言葉がない。
「凄いですよね。」
平櫻も動画を撮りながら溜め息を漏らしていた。
このエンジンは、B&W社製のダブルアクティング4ストローク8気筒ディーゼルエンジンで、出力は11,000馬力あり、最大速力は18.21ノット、航海速力は16.0ノット、航続距離は18,700海里/15ノットに及ぶ。
当時としては最新鋭のエンジンで、1892年にドイツの技術者ルドルフ・ディーゼルが発明したレシプロエンジンは、1900年代に改良が重ねられ、外航船舶に搭載されて最初に成功を収めたのが1912年、それから18年、氷川丸はそんな世界最新鋭の技術を投入して建造されたのだ。
当時はこの部屋いっぱいに油の臭いが充満し、エンジンが立てる、耳を塞ぎたくなるような轟音が響き渡っていたのだろうことは、想像に難くないが、今となっては、当時のものか分からないが、微かに感じる油の臭いと、観光で来た子供たちがはしゃぎ廻る声が響くだけだった。
三人にとって、この老齢船の心臓部に対し、ああだこうだ言う言葉は持ち合わせていなかった。ただただ、そこにある巨大な機械が、唸り音を上げて、世界中を旅していた当時に思いを馳せるだけであった。
こうして一通りゆっくりと見て廻った三人は、間もなく閉館時間という時になって、漸く出口から船外に出て桟橋に降りてきた。
そして、振り返って、改めて氷川丸の船体を見上げる。
「この船が100年近く前に造られて、太平洋を横断したり、ヨーロッパまで行ったりしていたなんて、凄い話だよな。」
駅夫が言う。
「まったくだな。戦時中なんていつ敵船に攻撃されるか分からない中、航海してたんだから、船長を始めとした船員の苦労はいかばかりだったか。想像もつかないよ。」
羅針が当時の船員たちに思いを馳せる。
「でも、色んなものが現在にも通じるものがあって、彼らの苦労が、今の船舶技術の向上に繋がったんだと思うと、感慨深いと思いませんか。」
平櫻はそう言って、荒削りだった当時の技術や設備、サービスが、現在の最新客船に受け継がれ、洗練されてきたことに感動を覚えていた。
「確かにそうですね。日本は海洋国家なんて言われてますけど、この時代から現在の技術、サービスが蓄積されていった、高々100年もない話なんですよね。」
羅針が言う。
「でも、そう考えたら凄くないか。たった100年で、今や世界に誇れる豪華客船を日本は保有し、海洋国家として名を馳せるまでになっているんだからさ。」
駅夫はそう言って、凄いことなんだと主張する。
「確かにな。高が100年、されど100年か。」
羅針が頷く。
「そうですね。この時代から始まったんですね。」
平櫻も感慨深げにそう言って、改めてこの巨大な老齢船を見上げた。