拾参之玖
横浜開港資料館で、横浜開港の歴史を学んだ、旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、この歴史的な建物を見て廻り、其処此処に横浜開港と文明開化の残滓を見て取ることが出来た。この残滓が建物の風合いとなって、刻んできた歴史と、時の流れと共に、かつての時代の熱さのようなものを感じた。
そんな時代の熱さからクールダウンした三人は、受付で見学と撮影の礼を述べてから、資料館を後にした。
開港広場公園から国道133号の海岸通りを横浜方面へ向かうと、横浜開港資料館の裏手に、薩英戦争記念銘板がひっそりと貼られていた。1863年の薩英戦争で犠牲になったイギリス将兵を記念して、横浜在住のイギリス人が作成したものらしい。日本人からしたら日本を蹂躙しに来た者たちの名簿であるが、イギリス人にとってはお国のために戦った英霊である。こんな形でも彼らを讃えたかったのかも知れない。
こんな場所にも、横浜の歴史の一端が刻まれていた。
三人は国道133号の海岸通りを渡り、〔開港波止場〕の広場へと来た。
公園は棒のような照明が両脇に並び、三人を迎え入れてくれた。奥に進むと、畳のような板状のオブジェ、スクリーンパネルがドミノ倒しのように建てられていた。斜めに見ると畳のように見えた板状のオブジェは、隙間だらけの格子状になっており、これはライトアップ用の照明装置だった。
どこかお洒落な街並みは、こう言ったオブジェ一つからでも感じることが出来る。
広場はドット模様が施されており、中央にはガラス張りにされた地面があった。その下を覗き込むと、鉄道の遺構が横たわっていた。〔鉄軌道と転車台〕の遺構である。
平櫻はもちろん、横浜に何度も来たことのある羅針ですら知らなかったこの場所を、二人とも今回初めて知り、是非訪れたいと思っていた。
案内板によると、明治20年代後半に整備された鉄道設備で、この鉄軌道を使う様子などが写った写真も残されている。軌道幅は1060㎜の狭軌で、今のJRで使用されている軌道幅とほぼ変わらない。また、転車台の鉄部は直径が2.5mであり、小型機関車しか使用出来ないことから、この鉄軌道は敷地内での荷役作業用に設けられたものだと考えられている。
「これが、工事中に発見されて、こうしてしっかりと残してくれる。本当にありがたい話ですね。」
羅針が説明書きのパネルを見ながら、隣にいる平櫻に言う。
「ええ。本当にそうですね。このパネルも『誰が建てたかは知らなくても、建ててくれた人に感謝しなきゃ。』ですよね。」
パネルを読んでいた平櫻も感慨深げに頷き、ホテルからの道中で駅夫が言っていた言葉を引用する。
「おっ、平櫻さん、分かってるじゃん。」駅夫がそう言って、サムズアップをしている。「ところでさ、鉄道遺構だから二人が興味を示すのは分かるけど、そもそも、これなんなんだ。羅針、最初に言っとく、鉄道の施設とかいうのはなしだからな。」そう言って、羅針に釘を刺して聞く。
「釘刺されちったよ。」羅針はそう言って笑いながら、「港湾施設だよ。」と当たり前のことを言う。
「だ、か、らぁ~。」
駅夫はああ言えばこう言う羅針に呆れながらも、先を促す。
「分かったって。」羅針は笑いを堪えながら、話を続ける。「ここは、おそらく荷役用のヤードで、船からの荷物や、船に積む荷物を運ぶために敷設された線路だよ。狭軌を用いてるってことは、桜木町駅まで繋げて、各地に荷物をそのまま運搬してたんじゃないかな。
どう使っていたか、詳細はこのパネルからは分からないけど、おそらくそう言うことだね。」
今度は真面目に、羅針は説明する。
「なるほどね。」
駅夫はその説明で納得したようだ。
「それで、良いのか。」
羅針は、然程詳しい説明をしていないぞと思いながら聞く。
「どうせ、何も分かっていないんだろ。いつものお前なら、ここで詳しい資料を出して、延々と説明を始めるのに、それをしないってことは、資料がないか、詳しいことが解明されていないかのどちらかだからな。これ以上追求してもしょうがない。だろ。」
駅夫がどうだと言わんばかりの表情で言う。
「凄いですね。あの説明で、そんなことが分かるんですね。流石ですね。」
横から平櫻が感心したような声を上げた。
「えっ、まあ、半世紀の付き合いだからね。これぐらいは分かるよ。」
駅夫は突然の平櫻の言葉に驚きながらも、照れ臭そうに言う。
「何照れてるんだよ。実際、どう使っていたかは分からないけど、それまでにない荷物取扱量になるわけだからね。鉄道の輸送量を活用する必要が出るのは当然の流れじゃないかな。まあ、分かるのはそれだけ。
お前の言うとおり。ネットに出てくる資料は当時の港湾図位で、それこそ、どういう運用をしていたかは、分からないな。桜木町駅に繋いでいた可能性は考えられるけど、それも確かじゃない。埠頭だけで完結していた可能性も充分ありうる。
それこそ、市の図書館や、さっき行った横浜開港資料館所蔵の資料なんかを紐解けば、何かしら分かるかも知れないけど。
お前のことだから、そこまでは求めてないんだろ。」
今度は、そう言って羅針が駅夫の考えを言い当てる。
「良く分かってるじゃん。」
駅夫がそう言ってサムズアップしている。
「本当にお二人って、分かり合ってるんですね。なんか長年連れ添ったご夫婦みたいですね。」
平櫻は冗談半分感心半分でそう言って笑う。
「こいつと、夫婦?……あなた、今夜は何にしますか。」
駅夫が巫山戯出す。
「ああ、ステーキに鋤焼き、寿司が良いな。」
羅針がそれに乗る。
「そんなに贅沢したら、あなたの給料じゃウチ破綻してしまいますわ。」
駅夫はそう言って、オイオイと泣くフリをする。
「黙って、俺の言うとおりにしろ。」
羅針が昭和の頑固亭主を演じる。
「そんなこと言うなら、もう離婚よ!」
駅夫がそう言って、プイとする。
このまま、茶番劇が続いていきそうな雰囲気に、平櫻はおかしくて腹を抱えて笑っていた。
「二人とも演技が板に付きすぎですって。……もう、おかしい。」
そう言って、呼吸が苦しくなったのか、平櫻は大きく深呼吸をする。
そう言う平櫻に、駅夫と羅針は顔を見合わせて、手を出し。
「観劇料。締めて100万円になります。」
声を合わせて二人が言う。
「えっ。」
平櫻は腹を抱えて笑っていたが、ピタッと笑い声が止まった。その豆鉄砲を喰らったような顔に、駅夫と羅針は笑い出して。
「冗談だよ。」
「冗談ですよ。」
駅夫と羅針はそう言って声を上げて笑った。
「もう。」
平櫻は口を尖らして文句を言いつつも、そんなことにまで息ぴったりの二人に、再び笑い出した。
三人は、山下臨港線プロムナードの高架を潜り、海辺に出てきた。
そこには、小さな船だまりが設けられ、何艘か船が停泊していた。
「そこに見える防波堤があるだろ、あれがいわゆる象の鼻ってヤツだ。」
羅針が、駅夫に説明する。
「あれが?」
不思議に思っている駅夫に、羅針が航空写真を見せてやる。
「ほら、これ。」
「なるほどね。確かに象の鼻だ。」
「元々、ここは東波止場とかイギリス波止場と呼ばれていた場所で、あそこは、その防波堤だったんだ。
寒村だった横浜村に、幕府が開港場を設けたのはさっき見たよな。」
「ああ。距離的にも江戸から良い感じで離れていたし、ペリー側もここが良港だって考えたからって話だよな。」
「そう、対岸の千葉方面は浅瀬が多い上に、防衛上の観点からも幕府の目が届く位置が良かったんだろうな。
それはともかく、ここに東波止場と西波止場が出来て、東はイギリス波止場、西は日本波止場と呼ばれていた。それが、この場所だって訳だ。」
「なるほどね。ここがまさしく横浜開港のスタート地点。歴史の転換地点という訳だ。」
駅夫が辺りを見渡して、しみじみと感慨深げに言う。
「星路さん、この高架橋は何ですか。」
平櫻が辺りを動画に撮っていたが、今潜ってきた高架橋について、羅針に尋ねた。
「これは、山下臨港線プロムナードと言って、山下公園から新港地区を結ぶ遊歩道になってるんですよ。元々山下臨港線という貨物線があった場所で、当時山下埠頭の造成に伴って、開通させたんですよ。1965年に完成して、1986年に廃止になるまで21年間使用されたんです。臨港線が廃止になっても、暫くは麦芽輸送に使用されていたようですが、翌年にはそれもなくなったんです。2002年に遊歩道が整備されて、今は人が歩けるようになってますね。」
羅針が説明する。
「貨物線の跡なんですね。なんか違和感があったので、何だろうなって思ったんです。ありがとうございます。」
平櫻はそう言って、納得したように再び撮影に専念した。
散り散りになって撮影していた三人は、自ずと羅針の許に集まってきた。
「そろそろ、次に行こうか。」
羅針が駅夫に言う。
「ああ。」
駅夫が頷く。
「次は、赤レンガ倉庫ですね。楽しみだったんですよ。」
平櫻はそう言って、ニコニコしている。
「全部買い占めないでよ。」
駅夫が冗談で言う。
「それじゃ、半分なら良いですよね。」
平櫻が切り返す。
「おっ、言うねぇ。さては羅針に仕込まれたな。」
駅夫がそう言って、羅針を見る。
「砲台は多い方が良いからな。お前を攻撃するには、最高の味方だ。」
羅針はそう言って、平櫻に向かって微笑む。
「マジかよ。……平櫻さん、おじさんに味方してくれたら、赤レンガ倉庫で欲しいもの全部買ってあげよう。」
駅夫が猫なで声で平櫻に媚びを売る。
「ホントですか。じゃ倉庫ごと買ってください。」
平櫻も容赦ない。
「そりゃ無理だよぉ。」
駅夫はがっくしと、大袈裟に肩を落とす。
それを見て、平櫻と羅針は声を出して笑った。
「二面楚歌とはこのことか。」
駅夫が肩を落としながら嘆く。
「あと二面で詰みだな。平櫻さんあと二人味方を作りましょう。」
羅針がそう言って追い打ちを掛けた。
「分かりました。あと二人ですね。」
平櫻もそう言って笑う。
そんな冗談を言い合いながら、三人は赤レンガ倉庫へ向かって歩いていた。
途中、木の妖精を模したキャラクターのレリーフが付いた横浜開港150周年記念碑と一緒に記念撮影をした。
「このキャラが、さっきのたまくすの木の妖精なのか。」
横浜開港資料館に立っていた、たまくすの木の説明書きにあったキャラだと、羅針が説明する。
「へえ。これがあの木の妖精なんですね。可愛い。」
平櫻がそう言って動画だけでなく、写真も撮った。
記念碑を過ぎると、いよいよ赤レンガ倉庫が目に入ってくる。
近づくにつれ、徐々にその存在感を増してくる、煉瓦造りの倉庫は、陽光に映え、休日で集まった人々が、まるで砂糖に群がる蟻のように、建物の中へと吸い込まれていくのだ。
三人は、赤レンガ倉庫を写真や動画に収めながら、やはり吸い込まれるように中へと入っていった。
この赤レンガ倉庫は、1911年に横浜税関新港埠頭倉庫、つまり保税倉庫として建設された。
開港されてから急速に発展を遂げてきた横浜港は、明治に入り大規模な港湾工事がおこなわれた。その一つが現在の大さん橋の前身である鉄さん橋の築港工事、そして、もう一つが東洋初の接岸式埠頭としての新港埠頭の建設であり、屋根だけの上屋、倉庫、クレーン、鉄道などを備えた日本で最初の近代的な港湾施設として誕生したのである。
そこに建設されたのが、この横浜税関新港埠頭倉庫である。
この倉庫は、まず2号倉庫が建設され、その後、1913年に1号倉庫が竣工した。
日本初の荷物用エレベーターや消火栓としてのスプリンクラーに防火扉などを備え、また、定聯鉄構法という、煉瓦の中に鉄材を埋め込む耐震構造を備え、当時最先端の技術を詰め込まれた倉庫として誕生した。
日本の倉庫の手本となったこの倉庫も、1923年9月1日に未曾有の大震災が襲った。関東大震災である。最新の耐震技術によって2号倉庫は辛うじて倒壊を免れたものの、1号倉庫は中央部が完全に倒壊し、使い物にならなくなってしまった。
この大震災を切っ掛けに煉瓦造りの建物は、鉄筋コンクリート造りへと移り変わり、煉瓦造りが廃れていった要因にもなった。
その後鉄筋コンクリートによる補強工事が施されたが、結局1号倉庫は半分以下の大きさに縮小されてしまったのである。
時代は下り、1945年日本が敗戦を迎えると、港湾施設である赤レンガ倉庫もGHQに接収された。そのおよそ10年後、接収が解除され、再び港湾施設として機能を取り戻し、海外との貿易が再開されると、戦前の記録を更新する程の港湾施設へと発展し、日本経済の発展に寄与していった。
しかし、海上輸送のコンテナ化が進むと、徐々に赤レンガ倉庫の役割はなくなり、解体も見当されるまでになってしまう。こうして1989年に倉庫としての役割を終え、赤レンガ倉庫は放置されることとなったのである。
ところが、解体を待つだけだった赤レンガ倉庫も、横浜市の都市再生計画において、保存が検討され、みなとみらい駅周辺を近未来的な街にする一方、赤レンガ倉庫周辺に歴史的景観を活かした街造りをすることとなった。
そこで、横浜市は国から赤レンガ倉庫の建物と周囲の土地取得をおこない、保存のために改修工事を施し、2002年漸くリニューアルオープンに漕ぎ着けたのである。
それが、この赤レンガ倉庫である。
その外観は、当時の西洋建築の粋を極めた建築であり、装飾的な尖塔が屋根に並ぶが、その栄枯盛衰を体現した建物は、歴史の重みというものを今に伝えようと、必死に生き延びているようにも見えた。
「で、これがその赤レンガ倉庫か。」
駅夫が道中、羅針の長々とした説明を聞きながら来たので、想像が膨らんでいたのだろう、中に入っての第一声が、思っていたのと違ったのか、がっかりしたような声色だった。
それもそのはず、三人が入ってきたのは1号倉庫、今は1号館と呼ばれている建物であるが、歴史的な外観とは違い、中は完全に商業施設と化したショッピングモールが広がり、空調も効いた館内は、買い物客、観光客でごった返していたからだ。
「まあ、そう言うなって。とにかく中を楽しもうぜ。……平櫻さんは、どこか行きたい場所はありますか。」
羅針は駅夫を宥めつつ、平櫻に確認を取る。
「行きたいお店は何店舗かありますけど、見ながらで構いませんので、折角なら端から見ていきませんか。」
そう言って、平櫻が提案する。
「分かりました。じゃ、適当にブラブラしながら、気になったお店があったら入るって言うことで。……駅夫もそれで良いか。」
羅針が駅夫にも確認する。
「ああ。それで良いよ。」
駅夫は最初のがっかり感を引き摺りながらも、既にキョロキョロと辺りを見渡して物色を始めていた。
「じゃ、この犬ころが走り出さないうちに行きましょうか。」
羅針が駅夫を見ながら、平櫻に言う。
「はい。」
平櫻は返事をしつつ。あまりに言い得ていたため、思わず吹き出してしまった。
「ウゥゥゥ、ワン」
吹き出された駅夫は、手を犬の前足のようにして、平櫻に向かって吠えた。
「きゃっ。……もう。」
と声を上げて平櫻は後退りして、口を尖らした。
それを見て羅針は笑っていたが、「行きますよ。」と言って二人を促した。
「ワン。」
「はい。」
駅夫と平櫻はそう言って応えて、笑った。