拾参之捌
旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、ホテルでの朝食を終えて、一旦部屋に戻り、再びロビーに集合した。
「それじゃ、行きましょうか。」
羅針の一言で、三人はホテルを後にした。まず向かうのは横浜開港資料館である。9時半開館なので、慌てる必要は無い。
日曜日の朝9時、既に街は動きだしていた。
ここ関内駅周辺は、桜木町と石川町という二大観光地の賑わいに挟まれた静寂のオアシスであり、まるで観光地の喧騒という大波が押し寄せる孤島のように、観光客の足音はまばらで、地元の人々が行き交う姿が目に入る。
煌びやかな観光地からの逃避所にしては、独自の魅力を放つこのエリアでは、いかにも観光客然とした三人は、少し目立つ存在である。
とはいえ、彼らはそんなことに頓着はしない。ここが治安の悪い海外で、観光客をカモにする犯罪者の巣窟であれば、そんなことも言っていられないが、幸いここはまだ、海外に比べて相対的に治安の良い日本である。
一眼をぶら下げた羅針を先頭に、キョロキョロ辺りを見て廻る駅夫、その後ろから動画の撮影をしながら付いて歩く平櫻。どこからどう見ても、犯罪者にとっては恰好のカモで、怪しい三人組だが、今更そんなことを気にしても、三人にとっては意味がない話なのだ。
地元の人々も慣れたものである。こんな怪しい三人組でも、何か犯罪でも犯しているのでなければ、見向きもしないのだから。いや、逆に、内心では関わらない方が良いと思っているのかも知れない。
地元民の本心は分からないが、三人はそんな雰囲気の街を、ひたすら海岸の方へ向けて歩いていた。
流石、外国との交流を一世紀半に亘り深めてきた街である。どこか日本とは雰囲気が違っていた。歴史のあるこの街に建つ建物は、古い物も新しいものもあるが、そのどれもがどこか洗練され、お洒落であり、海外の息吹を感じさせるような街になっている。
また、この街に集う人々の姿も違っていた。歩く姿勢、服装、どこか余裕を感じさせる表情、それが、この街のオーラを作り上げているといっても過言ではない。
新宿や渋谷の方が規模としては都会なのに、街を歩く人々が洗練されていなかったりするが、この街はまったく違っていた。まさに大人の街なのである。
だからこそ、三人の恰好は余計に場違いなのだ。
ホテルを出て、国道16号の尾上通りから、県道21号の関内大通り、国道133号の本町通りへと抜けていく。
流石、開港後に発展しただけあり、今はタワーマンションが上に載ってしまった元銀行の建物であったり、元銀行の集会所であったり、蘭学者で火薬の研究でも名を馳せた、本名黒岩撰之助である中井屋重兵衛の店舗跡であったり、近代パンの発祥地の碑であったりと、少し歩くだけで、史跡が其処此処に遺っている。
「ちょっと歩くたんびに、こんなの見付けてたら、一向に到着しないな。」
駅夫が自分で呆れたように言いながら、史跡に建てられた説明書きを読んでいた。
「じゃ、すっ飛ばして行くか。」
羅針が意地悪く言う。
「すっ飛ばす訳ないじゃん。俺たち何のためにこの旅続けてるんだよ。見付けたからには、全部読んでくに決まってんじゃん。誰が建てた説明書きかは知らなくても、建ててくれた人に感謝しなきゃ。」
駅夫が珍しくそんなことを言う。
「何意固地になってるんだよ。まあ、時間があるから、心行くまで読んでも構わないけど。」
羅針はそう言って、駅夫の後ろから碑文を撮影する。もちろん後でも読み返せるようにするためだ。碑文だけではなく、当然その碑が指し示す古い建物も撮影し、碑文を一生懸命読んでいる駅夫も撮影する。
その二人の後ろで、動画を撮影している平櫻は、一向に先へ進まない二人を微笑ましく見ていた。もちろん、碑文の撮影をし、動画のネタ作りも忘れないが、それよりも、いつもの自分とは違う、こんな亀のような観光をする二人に対して、漸く驚かなくなってきたことに、ある種感動と、驚きと、喜びを以てこの状況を楽しんでいた。
そんな亀の歩みも、横浜開港資料館に到着して終了した。
ゴールの横浜開港資料館の前には開港広場公園があり、噴水から水が吹き上がっていた。
この場所は日米和親条約が1854年に締結された場所で、この条約が締結されたことに依って下田と箱館(現在の函館)が開港され、近代日本の歴史が始まったのだ。その象徴として、この公園がここに設置されたのである。
「皆のもの、ここが日本の夜明けの地ぜよ。」
駅夫が誰かさんの真似をする。
「まずはお前の頭が夜明けを迎えないとな。」
羅針がすかさずツッコんで笑う。
「こいつ。」
駅夫が拳を振り上げ笑う。
「それにしても、何度もこの辺り来てるけど、こんな場所があったのは初めて知った。」
羅針が辺りを見渡しながら、呟く。
「そうなんだ。てっきりとっくに知ってるもんだと思った。」
駅夫が不思議そうに言う。
「まあ、基本的に中華街か山下公園にしか用がないからな。」
羅針がそう言って、カメラをあちこちに向け始めた。
「そんなもんか。」
そう言って駅夫もスマホを公園全体に向けてシャッターを切った。
「そんなもんだよ。」
羅針はそう言って頷く。仕事の関係で中華街に用がある位で、折角ならと足を伸ばして山下公園で海を眺め、船が行き交う姿を観察する位である。仕事出来ているのだから、余計な寄り道はしない。以前は月に数回は来ていたので、趣味の写真撮影に元町や桜木町の方にも足を伸ばしたが、最近は年に数回と数が減ってしまったのだから、余計に中華街以外には足が伸びなくなってしまったのだ。
平櫻はというと、その向こうで一人、いつものように動画の為のナレーションを撮っていた。
カメラのレンズに手を翳して撮影を終えた平櫻は、「お待たせしました。」と言って、二人の許に来た。「お二人見てたんですか。」二人の視線に気付いた平櫻は照れ臭そうに言う。
「プロの技を見せて貰ったよ。」
駅夫が感心半分からかい半分で言って笑う。
「また、そんな事言って。」
平櫻が口を尖らせて笑う。
「ほら、二人とも行くよ。」
羅針が笑いながら、公園の横に建つ、開館したばかりの横浜開港資料館へと向かう。
開港広場公園の横に建つのが横浜開港資料館であり、元英国領事館の建物を利用して、人々に横浜開港の歴史を届ける場所になっている。
この建物は、1931年に建築された、明治期に良く見られる西洋建築で、その風合いから、どこか歴史の重みを感じさせ、敷地内に入って建物を間近に見ると、今の現代建築では感じられないような迫力を感じることが出来た。
「こういう建物を良く遺してあるよな。」
駅夫が感心して言う。
「確かにな。」
羅針も建物を見上げて言う。
「こういう建物って、耐震とかって大丈夫なんでしょうか。」
平櫻はそんなことが気になるようだ。
「確かに気になりますよね。もちろん、当時の耐震技術では今の耐震基準を到底クリア出来ないでしょうから、耐震工事を施していると思いますよ。この建物がどういう耐震工事をしているかは分かりませんが、鉄筋補強したり、免震装置を入れたり、その建物に合った方法でしているでしょうね。」
羅針がそう答える。
「ですよね。こういう建物がちゃんと遺っているのも、そう言う技術力のお陰ってことですよね。」
平櫻が感心したように言う。
「そうですね。」
羅針も頷いて、この古びた西洋様式の建物を改めて見上げた。関東大震災、太平洋戦争、そして東日本大震災を潜り抜けてきたその建物に、ある種畏敬の念を覚えた。
三人が中庭に回ると、〔たまくす〕と呼ばれる高さ10mを越えるタブノキが植わっていた。このたまくすは、浮世絵を始め、ペリー来航を描いた画家ハイネの〔横浜上陸〕などにも描かれており、横浜の歴史を見てきた生き証人でもある。
「ほら、これ。」
羅針が検索を掛けて、ペリー上陸の絵を駅夫と平櫻に見せる。
「この、右にある木がこれか?」
駅夫が羅針のスマホを見て言う。
「そうらしいよ。」
羅針が頷く。
「でも、形が違いますよね。年月が経ったからってことでしょうか。」
平櫻が絵と実物の木を見比べて言う。
「話によると、震災と戦火で焼けたらしいですからね。その度に復活したみたいで、それで形が異なるのかも知れませんね。」
羅針が応える。
この震災や戦火に見舞われながらも生き延びてきた木は、傍に立つだけでも、生命の息吹のようなものを感じることが出来た。
入り口から建物の中に一歩入ると、博物館としてリニューアルされてはいたが、館内は綺麗に手入れされており、当時の雰囲気がそのまま遺っているようだった。
入館料を払い、事前にお願いしていた館内での撮影についても平櫻が確認を取り、注意事項のレクチャーを受けると、いよいよ展示室へと入っていく。
三人がまず入った第一展示室は、ペリー来航前後の世界情勢を含む、横浜開港の歴史が展示されていた。
「なあ、羅針。そもそもさ、日本が鎖国したのって、あれだよな、……長崎の大浦天主堂で見た二十六聖人殉教の話からだよな。あれから秀吉はキリスト教弾圧に傾いたっていう。」
駅夫がペリーの肖像画を見ながら、羅針に尋ねる。
「そうだな。そもそもの話をするなら、鉄砲伝来から話は始まるけどな。」
羅針が言う。
「どういうこと?」
駅夫が首を傾げる。
「そもそも、鉄砲というか火縄銃をもたらしたのはポルトガル人で、そのポルトガル人が熱心に布教しようとしていたのが、イエズス会のキリスト教だったんだ。当時、仏教の一部勢力といざこざがあった信長は、牽制のためにイエズス会に布教の許可を出したんだよ。仏教よりも手厚い保護を以てね。」
羅針が答える。
「それじゃ、そもそもの始まりはポルトガル人の布教から始まったってことか。」
「そういうことだな。信長が熱心な仏教信者だったら、そもそもキリスト教の布教は有り得なかった。でも、仏教の一部勢力は信長と対立していた。イエズス会に取っては渡りに船って訳だ。
ところが、秀吉の時代になって、イエズス会が日本人を奴隷にして海外に連れ去っていることが発覚したんだ。その時の経緯は端折るけど、結局イエズス会への信用をなくした秀吉は、伴天連追放令を出して、布教は禁止、貿易は許可するっていう方針を採ることにしたんだ。」
「つまり、金は寄越せ思想はいらねぇってことか。」
「そう言うことだな。
それでも、親方様である信長の意向でもあったから、キリスト教に対して無碍には出来なかったのかも知れない。布教は禁止したけど、信仰には目を瞑っていたんだ。
ところが、今度はスペインが問題を起こした。サン・フェリペ号事件だな。これは、長崎で聞いただろ。」
「ああ、土佐に流れ着いたスペイン船の船員が余計なこと言ったって、あれだろ。」
「そう。まあ、歴史の真実は分からないけど、布教は日本を征服するための足掛かりだ、みたいな話だな。事実はどうあれ、それまでもスペインとは上手くいっていなかった関係が、更に悪化して、結局秀吉はキリスト教弾圧に舵を切らざるを得なくなったんだ。
伴天連追放令はあくまでも布教の禁止で、信仰の禁止ではなかった。それが、信仰まで禁止したのだから、余程腹に据えかねたんだろうな。その結果が二十六聖人殉教だからな。キリスト教側からしたら聖人の殉教だけど、秀吉からしたら単に間者の処刑だからな。
長崎でも言ったけど、日本人信者からしてみたら、飛んだとばっちりだよ。国家権力を以て信仰を推奨していたのが、180度方向転換した上、処刑されちまうんだから。信者としてはやりきれなかったと思うぜ。」
「そうだよな。手のひら返しは堪らないよな。」
「まあな。でも、国家転覆に繋がる危機を未然に防いだという点では、秀吉は英断だったと言わざるを得ない。民衆の心情はともかくとしてな。
結局大きな弾圧はそれ位で、その後秀吉は朝鮮出兵に掛かりっきりで、フィリピンに派兵してスペインを駆逐するなんて話も結局立ち消えして、うやむやの内に終わったらしいな。」
「スペインとはその後も関係修復することはなかったのか。」
「そうみたいだな。スペイン側は、いつ秀吉が攻めてくるか戦々恐々としていたみたいだけど、何もなかったから、肩透かしを喰らったって感じじゃないかな。」
「そりゃそうか。で、その後は徳川の時代か。」
「そう。家康が天下を取ると、キリスト教弾圧も本格的になって、キリスト教布教とセットでの貿易が問題視されたんだ。様々な問題を西洋人は起こしていたからね。徳川側も腹に据えかねたんだろうな。淡々と弾圧を続けていたんだ。ところが、それを加速させた事件が起こったんだ。」
「もしかして、島原か。」
「そう。島原の乱。あれで、幕府のキリスト教弾圧に火が着いた訳だ。その上貿易制限が掛けられた、つまり鎖国の始まりだ。」
「その時から200年以上、この男が来るまで制限は解除されなかった。そう言うことだな。」
駅夫が目の前に展示されている、四角い顔の軍服を着た男、マシュー・カルブレイス・ペリーの肖像写真を見て言う。
「そう言うことだな。」
羅針が大きく頷く。
「でも、このルーレット旅で歴史の点と点が結びつくって、なんだかな。」
駅夫が何とも言えない顔で言う。
「確かにな。海外を締め出した象徴の長崎と、海外に門戸を開いた横浜っていう、どちらも、日本の歴史になくてはならない重要な場所だからな。」
羅針がそう言って、再びペリーに目をやった。
「そもそもさ、なんで横浜なんだ。それこそ江戸の近くで言えば、品川とか、新橋とか、逆に船橋とか千葉の辺りでも良かったんじゃないか。」
駅夫が、そもそもの話を聞く。
「横浜が選ばれたのにはいくつか理由があると言われているんだ。
元々ペルーと開港の約束をしたのが神奈川だったんだけど、なぜ神奈川にしたのかというと、千葉側は浅瀬が多く、大型船が近寄れなかった為なんだ。
今では千葉側も大きく埋め立てられているから、大型船も停泊出来るようになっているけど、当時は国道14号の辺りまで海岸線だったからね。神奈川辺りが適していたようなんだ。もちろん、江戸に近い場所に外国人居留地を造るなんてもってのほか、品川、新橋なんて端から候補にはなかったと思うよ。」
羅針が説明する。
「そうか。確かにそう言われてみればそうか。でも、神奈川が開港地になってたのなら、なんで横浜なんだ。」
「実は、神奈川は東海道の宿場町だったために、日本人とのトラブルを懸念した幕府が、横浜に開港することを提案したんだ。
ペルー側も横浜を調査した結果、了承し、晴れて横浜は外国人が居留する町へと変貌していくことになったんだよ。」
「なるほどね。確かに地図で見たら、東海道からちょっと外れているのか。この場所なら外国人を隔離しておくにはもってこいというわけだ。」
駅夫は地図を見ながら納得する。
二人は引き続き、そんな話をしながら、資料の一つ一つに目を通していく。
三人がいるこの第一展示室には、ペリーの肖像写真や手記を始め、当時の瓦版や錦絵、地図、写真などが展示されていた。中には教科書で見た覚えのある、写真や絵も展示されていたし、先程たまくすのところで見た〔横浜上陸〕の絵もあった。
更に興味深いのは、今まで絵でしか見てこなかった黒船の模型が展示されていることだ。サスケハナ号はペリーの初来航時の旗艦で、ポーハタン号はペリー再来時の旗艦であり、この艦上で日米修好通商条約が締結された。
こういう模型が大好きな駅夫は、熱心に見ていた。
「こういうの見てると、子供の頃作った戦艦の模型を思い出すな。」
駅夫が呟く。
「戦艦って、ほとんど巡洋艦とか、駆逐艦とかばっかりだったじゃないか。戦艦は高くて小遣いじゃ買えなくてさ。仕舞いには潜水艦にまで手を出してな。」
羅針がそう言って思い出したように笑う。
「確かに。大和とか武蔵は憧れたな。結局買えなくてさ、宇宙戦艦の方は買ったけどな。」
「ああ、あの玩具みたいな小さいヤツな。懐かしいな。あんなの全部どうしたんだっけな。」
「さあ、実家の押し入れにでも仕舞ってあるんじゃないかな。もしかしたら、お袋に捨てられてるかも知れないけど。」
駅夫が少し寂しそうな顔をする。
「かもな。所詮母親には息子の趣味は理解出来ないってことだよ。」
羅針が悟ったように言う。
「おいおい、まだ捨てられたって決まったわけじゃないのに、ひでぇ言いようだな。」
駅夫はそう言って笑う。
「どうしたんですか。」
資料を一通り見てきた平櫻が、駅夫と羅針が笑っているのを見て、声を掛けた。
「いや、母親って息子のことを理解してないって話ですよ。」
羅針が笑っていた理由を言う。
「どういうことですか。」
平櫻は言葉の意味は分かるが、その真意が掴めずに聞き直す。
「子供の頃に作ったプラモデルを捨てられたかも知れないって話をしてたんだ。」
駅夫が平櫻に説明する。
「ああ、そう言うことですね。母親って何でも捨てたがりますからね。私たち姉妹も、母親に色んなもの捨てられましたよ。お姉ちゃんは大量に集めていた少女漫画、私は旅行雑誌、一番下の妹は100均で買い漁ってた化粧品を捨てられてましたね。そのたんびに親子喧嘩が勃発して、……ってあれ、そう言えば理沙は、そんな話聞いたことないな。……あの子、要領良いからなぁ。……って、多分、母親にとって娘も息子も関係ないと思いますよ。自分がいらないと思ったら何でも捨てますから。」
そう言って、平櫻は笑った。
「平櫻さん、それ、盛大なブーメランになる可能性があるって、分かってるよね。」
駅夫がツッコむ。
「えっ、あっ、ああ。私が母親になったらやりかねないってことですか。確かにそうですね。気を付けなきゃ。」
そう言って平櫻は苦笑いをした。
三人は建物を移り、今度は新館にある第二展示室へと向かう。
第二展示室には文明開化で発展していく、開港後の横浜の歴史が、テーマ別に展示されていた。欧米文化と併せて中華文化も、横浜の街に浸透していく様子が展示されていた。
羅針にとっては自分の語学力を付けてくれた学びの地でもある中華街について、これまで学んできたことの補強をするような資料に釘付けとなった。
そもそも、横浜に中華街が出来たのは、米、蘭、露、英、仏の五カ国と締結された修好通商条約に依り、開港地である横浜にも外国人居留地が建てられたことが始まりである。そこに欧米人と共にやって来たのが、買弁と呼ばれる中国人の商人や取引仲介者、欧米人に雇われた中国人たちである。
やがて香港や上海との定期航路が開設されると、往来する中国人の数も多くなり、居留地の一角に、関帝廟、中華会館、中華学校などを建設し、ここを中心に中国人コミュニティが形成されていったのだ。これが現在の中華街の原形になったと言われている。
元々西洋人のために割り当てられたこの居留地は、田畑を埋め立てられて作られていたため、湿気が酷く、西洋人は不満であった。そのため、多くの西洋人が高台にある元町の方へ住居を移していったが、中国人たちは風水的にも良い場所である、この地に街を造っていったである。
ここにある資料は、その中華街が、やがて東アジア最大の中華街を形成するに至った歴史の発端、つまりその黎明期の一幕を展示していたのだ。
「何を見ているんですか。」
平櫻が傍に寄ってきて尋ねる。
「ああ、中華街の資料ですね。」
羅針の目の前には、1900年頃に撮影された中華街大通りの写真や、1870年頃に店の前で撮られたとみられる記念写真、当時使われていたマッチ箱、それと当時の中国人社会を描いた資料が展示されていた。
「これが、昔の中華街ですか。今とは全然雰囲気が違いますね。」
平櫻が中華街大通りの写真を見て言う。
「そうですね。当時は唐人町とか南京町なんて呼ばれていた時代ですが、日本人も多く住んでいて、観光地というよりも、生活物資を調達する場所でしたからね。簡単に言ってしまえば、中国人が多く利用する市場みたいな場所だったようです。」
写真に写っている、中華街として発展する前の時代について羅針が説明する。
「そうなんですね。観光地としての中華街にもこんな時代があったんですね。今では考えられないですね。」
平櫻が、不思議な面持ちで、現在の煌びやかな様子が一切無い、その写真を見ていた。
「私が初めて中華街を訪れた時も、今のように観光地化されていたわけではなくて、まだ、いくつか普通の商店も見られましたからね。観光地化が加速したのはここ2、30年ってところですかね。見る見る変わっていきましたよ。」
羅針は高校時代に来た当時の、記憶の彼方にある中華街を思い出していた。記憶も定かではないが、当時既に、お土産物屋や中華料理を売りにした店はもちろんあったが、普通の八百屋や、洋品店、文房具店に本屋など、普通の商店街としての一面も残っていた。そこは、中国人が多く住んでいると言うだけの生活の場だったからだ。
「今では、日本とは思えない街並みになってますよね。」
平櫻は、昨晩見たばかりの中華街大通りを思い出して、そう言う。
「そうですね。中国本土でも、あんな中華中華した場所はないですよ。まさに、中華のエッセンスを濃縮したような場所ですからね。」
羅針がそういて顔を綻ばす。
「中華の濃縮果汁みたいなものですね。」
平櫻はそう言って笑う。
「濃縮果汁がどうしたって。」
資料を見て廻っていた駅夫が、丁度傍に来た。
「いや、お前を薄めたら、美味いジュースが出来そうだって話だ。」
羅針が適当なことを言う。
「俺が?なんで。」
そう言って駅夫は平櫻を見るが、平櫻は何も言わず、ただ微笑んでいた。
「その、笑顔が怖いんだよ。」駅夫は、平櫻の笑顔を見て、ブルブルっと身体を震わせた。「で、どういうことなんだよ。説明しろよ。」
何も言わないで笑っている羅針と平櫻を見比べて、駅夫は二人を詰った。
第二展示室は、他にも開国後に発展していった横浜の街や、横浜で誕生した様々な品物が展示されていた。
今まで日本になかったものが、ドンドン出来上がっていく姿は、まるでニュータウンと称して、鉄道が出来、宅地開発し、巨大なショッピングモールが建ち並んでいく様子と、どこか似ている気がした。
また、ハイカラなどと称された舶来品だけでなく、洋食なども庶民の間に浸透し、パンやアイスクリーム、スパゲティなどが、日本風にアレンジされて浸透していくのは、新しいものを貪欲に受け入れていくも、自分たち好みにしていく日本人らしさを感じた。
三人は、一通り展示室を見て廻り、開港160年からの歴史の割には少ない展示物に、少々物足りなさを感じつつも、震災や戦火を潜り抜け、これだけの資料が遺されてきたということに、尊敬と敬意と、感謝の念を覚えた。