拾参之漆
朝6時
いつものように星路羅針は目が覚めると、スマホのアラームを解除する。
起き抜けでボォーっとする頭を振り、頬を叩いて洗面所へ向かう。
昨日は食べ放題の店を出た後、余韻に浸りながらホテルに帰ってきた。部屋に転がり込んで、昼間買ったケーキやパンを冷蔵庫に仕舞ってから、なんとかシャワーだけ浴びて、ベッドへと倒れ込んだ。
本当なら、このケーキやパンは、夕陽を見ながら港の見える丘公園で食べる予定だったが、あまりの景色に結局食べそびれてしまった。ドライアイスを入れて貰ってはいたが、結局暑さで少しダメージを負ってしまっていたが、まあ味に問題はないだろう。
昨晩は腹一杯で身体が重かったが、今朝は綺麗に消化されたのか、身体が妙に軽い。平櫻佳音の忠告通り、食べ放題のセオリーを守ったためかは分からないが、胃もたれも然程ない。プロのフードファイターではないのだから、当然胃に筋肉痛のような痛みと疲労は感じるが、どよんとした胃もたれ感はなかった。
羅針は、「流石平櫻さんだな」と思い、朝のルーティンに取りかかる。
6時半。「ん~お~は~よ~。」の声を聞く。
旅寝駅夫を揺り起こす時間だ。どうやら、夢の中でまだ食べ放題を続けていたのか、「もう食えないぃぃぃ。」と寝言を連発していたので、強制終了させた。
「危うく、腹が破裂するところだった。」
起き上がった駅夫は、脂汗を掻きながら、夢だったことにホッとしたようだ。
「食べ過ぎだよ。」そう言って羅針は笑うと、「この後朝食だからな。」と追い打ちを掛ける。
「もう、食い物は良いよぉ。」
駅夫は情けない声を発しながら、洗面所へと消えていった。
羅針が朝のルーティンを続けていると、洗面所から出てきた駅夫が「すんげぇ出た。」と、まるで何日も通じがなかったような声で、腹を手で押さえながら羅針に報告してきた。
「汚ねぇな。そんなこと報告しなくて良いから。」
羅針は顔を顰めながら抗議する。
「仕方ねぇだろ。」
駅夫が不満げに言う。
「……まあ、俺もさっきたぁぁっぷり出したんだけどな。」
羅針は笑いながら強調する。
「なんだよ。お前もじゃねぇか。」
そう言って駅夫は文句を言いつつも笑い声を上げた。
「でもさ、なんか胃の調子もそんなに悪くないし、これはあれか、平櫻さんのアドバイスのお陰なのかな。」
駅夫がそう言うと、駅夫の腹がギュルギュルギュルと大きな音を立てた。
「おいおい、昨日散々食べておいて、まだ腹減ってるのかよ。どれだけ食い意地張ってるんだよ。」
羅針はそう言って笑うが、その羅針の腹も大きな音を立てた。
「そう言うお前だって、腹の虫が大合唱中じゃねぇか。」
駅夫はそう言って笑い返す。
7時前に駅夫と羅針は、朝食会場である階下のレストラン前にいた。
「おはようございます。」
エレベーターから降りてきた平櫻が、二人の姿を認め声を掛ける。
「おはよう。」
「おはようございます。」
駅夫と羅針が応える。
「お二人ともお早いですね。」
平櫻は、いつも7時ぴったりにくる二人が自分より前にいることが不思議だったようだ。
「いやね、腹の虫が治まらなくて、我慢出来なかったんだよ。」
駅夫がそう言って平櫻に言い訳する。羅針も大きく一つ頷いた。
「ああ、それですね。胃が活発に動いている証拠ですよ。きっと胃が大掃除してるんですね。」平櫻はそう言って微笑み、話を続ける。「お腹が鳴る理由っていくつかあるんですが、一番は血中血糖値の低下によって、脳が胃にスペースを空けてって命令するんです。すると胃は中の物を腸に送り込むんですが、その時に内容物に混ざっている空気が鳴るんだそうです。」
平櫻がそこまで説明すると、
「あれって空気の音だったのか。」
駅夫が驚いたように言う。
「ええ、そうみたいですね。もちろんそれだけではないですが、腸の入り口を空気が通る時に大きな音を立てるらしいです。空腹を感じるとそうやって胃はスペースを作るために運動するから、音が鳴るというのが仕組みだそうです。」
そこまで言うと、平櫻は穏やかな表情から厳しい表情に変えて、声のトーンを落とした。
「でも、注意しなきゃいけないのは、空腹でもない時に鳴る音です。もちろん、胃の正常な運動によって発生する音なので、鳴ること自体にはまったく問題ないんですが、胃や腸からのSOSってこともありますから。充分気を付けてくださいね。」
平櫻はそう言って、今度はクルッと明るい表情に変えた。
「まあ、お二人のお腹が必要以上に鳴っているのは、消化が一段落着いたから、次を頂戴っておねだりしてるんだと思いますけどね。」
平櫻はそう言って、にこりと笑う。
「そうなのか。お腹が鳴る以外、然程空腹を感じないのだけど。」
駅夫が自分のお腹を擦りながら聞く。
「そうでしょうね。胃や脳は、そろそろ朝食の時間だって認識してるんで、昨晩位の量が入ってくための準備をしようとして、一生懸命働いて空腹を作っている最中で、せっせと胃の中を掃除してるんですよ。」
平櫻はそう言って笑う。
「そうなんだ。一生懸命頑張ってるんだな。」
駅夫はそう言って、少し優しく胃の辺りを擦っていた。羅針はなるほどという表情で自分の腹の辺りを見つめた。
そんな話をしていると、時間になって、レストランの入り口が開いた。
普段はイタリアンが人気のお店らしいが、宿泊客向けの朝食は、よくあるビジネスホテルのバイキング形式である。パン派も御飯派も満足出来るようなメニューで、和洋中取り揃えられていた。
「流石に、中華はいいや。」
羅針ですら、中華系のメニューを外し、がっつり和食のラインナップである。
「腹は鳴ってるのに、空腹を感じない、この変な感じがなぁ。」
そう言って駅夫は、胃に優しそうな、スープやフルーツ、ヨーグルトなどを中心にした洋風のラインナップである。
「どれも美味しそうですよ。」
平櫻はそう言って、ほぼ全種類をテーブルに並べていた。
「ブレないなぁ。」
駅夫は感心したように言う。
「流石ですね。」
と言いつつも、羅針は自分が食べる訳ではないのに、その量を見て胃が重くなるのを感じた。
「すみません。もう、クセみたいなもので。」
そう言って平櫻は照れ臭そうに笑う。
いただきますをして食べ始めた三人、駅夫と羅針は、流石に食べるペースがいつもより遅かった。ただ、ペースは遅くても、手は止まらなかった、胃が食べ物を欲していたからだ。だが、そんな二人を横目に、平櫻は相変わらずパクパクと食べ進めていた。
「平櫻さんは、胸焼けとか、胃の調子が悪いとかないの?」
駅夫が不思議そうに聞く。
「ええ。ほぼないですね。流石に限界を超えたらあると思いますけど、競技にでも出ない限り、そんなことにはならないので。」
平櫻は、当然のことのように言う。
「凄いですね。しょっちゅう腹の調子を崩す自分としては、羨ましい限りです。」
羅針はそう言って、羨望の眼差しを送る。
「そんな大したことじゃないですよ。」
平櫻は謙遜するが、どこか嬉しそうである。
「ところで、今日の予定ですが、」そう言って、羅針が話題を変える。「桜木町の方へ向かうってことで良いですかね。」
「はい。それでお願いします。」
平櫻が応じる。
「俺もそれて良いよ。前言ってたロープウェイには乗るんだろ。」
駅夫が確認する。
「ああ、ヨコハマエアキャビンな。もちろん乗るつもりだよ。それと、観覧車もな。」
羅針が応える。
「観覧車?観覧車って、あの観覧車?」
駅夫が訝しげに聞く。
「お前の言う〔あの〕が、どのあのかは分からないけど、港のところにあるやつな。ロープウェイとセットで乗れるらしいから、折角ならな。」
羅針が言う。折角ならと言うが、その実、駅夫と二人きりなら絶対に選ばない選択肢である。
「折角ならねぇ。ふ~ん。」
駅夫は何かを察したように、ジト目で羅針を見る。
「なんだよ。折角なんだから、乗るだろ。お前は乗らないのか?」
羅針は恍けたように反撃する。
「乗るよ。俺だけ下で待つなんて、どんな苦行だよ。」
駅夫は追求するのを諦めた。
「ただ、営業時間がどこも10時からだから、まずは横浜の歴史を学びに行こうと思う。」
羅針が駅夫に言う。
「横浜の歴史?」
駅夫が目を見開く。
「横浜開港資料館ってところがあるんだよ。そこでまずはお勉強だな。」
羅針がそう言って笑う。
「勉強かよ。せめて学習って言ってくれよ。お前言ってたじゃん、勉強って中国語だと強制って意味だとかなんとか。」
駅夫が嫌そうに言う。
「ああそうだな。だから勉強なんだよ。しっかりと横浜の歴史を学ぼうな。」
羅針が笑いながら、敢えて勉強を使う。
「勘弁しろよ。どうせ、学ばないと歴史を歩んできた人たちに失礼とかなんとか言うんだろ。」
駅夫が諦めたように言う。
「良く分かってるじゃん。……で、その近くに鉄軌道と転車台の遺構があるから、それを見て、赤レンガ倉庫に移動だな。ここでお昼をして、観覧車乗って、エアキャビンで桜木町へ。その後は、バスで山下公園に行って、氷川丸を見学しようと思ってる。どうだ。」
羅針が駅夫に確認する。
「ああ、別に問題ないよ。」
「平櫻さんも、これでいいですかね。」
「はい。問題ありません。」
平櫻は大きく頷く。
「それじゃ、取り敢えずそう言うことでお願いします。出発は9時を予定してるので、ロビーに9時集合でお願いします。」
平櫻にも確認を取り、今日の予定を大まかに決めた。後は道中で何かあれば、臨機応変に対応すれば良い。
「そう言えば、羅針、昼飯は赤レンガ倉庫で摂るんだよな。」
駅夫が確認する。
「ああ。そうだな、そのつもりだ。」
羅針が応える。
「あのさ、昼飯って何にする予定なんだ。メニューを見てからってことなんだろうけど、一応方向性っていうか、何にするか候補はあるのか。もちろん、横浜の郷土料理にするんだよな。」
「いや、特には決めてないな。取り敢えず目に付いたもので良いんじゃないかと思ってるけど。……横浜の郷土料理か。なんかあったかな。」
羅針が何か問題か?とばかりに言ったが、駅夫の言葉に、ルールのことを言っていることに思い至った。
「まさか、中華にイタリアンってことはないだろ。」
駅夫が冗談半分でそう言うが、実際思い付かないのだ。
「そうだな。横浜発祥の料理って言うことなら色々あるな。それこそ、ナポリタン、シーフードドリア、プリンアラモードとかね。中華系で言えば、サンマーメンなんていうのも横浜発祥だな。後は、食パンとか、家系ラーメンとか、他にも横浜で生まれたものだけでなく、横浜から日本に入ってきたものも含めたら、相当な数になるだろうな。」
羅針がざっと列挙する。
「もちろんそういうのも良いんだけどさ、伝統的な料理って無いのかよ。」
駅夫が、羅針の答えに満足しなかったのか、更に聞く。
「横浜って、開港前はただの小さな漁村だったからな。開港前の資料ってあまり残ってないみたいなんだよな。考えられるとしたら、当時良く獲れてたしらすや蛤なんかの料理があったと考えられるし、江戸前寿司のネタになるような多くの魚介類も普通に食べられていたと思うけど、それこそ、そういうのは横浜で食べるより、今は三浦半島とか、湘南エリア、小田原辺りの方が良い物食べられるからな。お前が期待しているような、いわゆる伝統料理って風には出てこないと思うぞ。それこそ刺身とか、お寿司とか、煮物とか、いわゆる和食の基本、田舎料理ってヤツだな。」
羅針がそう言って説明する。
「そうなのか。確かにそうかもな。思い付く料理って大抵開港後、文明開化の後、西洋の影響を受けたものばかりだもんな。」
駅夫が残念そうに言う。
「だから、ここは東小金井方式だよ。伝統料理じゃなくて、ここでしか味わえないもの、ここで流行ってるもの、要は、好きなもの食べようぜってことだ。」
羅針が、東小金井駅に行った時に、伝統料理を扱うお店がなくて、結局ネパール料理を選んだ経緯を引き合いに出した。
「しょうがねぇな。まあ、横浜で食えば、どれもこれも文明開化の音がするってか。」
そう言って駅夫は苦笑いをする。
「そう言うことだ。」
羅針もそう応えて苦笑いをする。
「それから、もう一つ大事なことを忘れてるんだよ。」
羅針が駅夫に向かって言う。
「何を?」
駅夫はピンときていないようだ。
「あのぉ、次の目的地を決めるルーレットですよね。」
平櫻がピンときたようだ。
「そうです。」
羅針が大きく頷く。
「あっ、そうだ。すっかり忘れてた。」駅夫が、やっちまったとばかりに慌てて自分のスマホを出して、ルーレットアプリを起動しながら「回すだろ。」と聞く。
「もちろん。」
羅針は大きく頷く。
「じゃ、回すよ。……ドゥルドゥルドゥルドゥル……ジャン。ん?タチコシ駅?タテコシ駅?カンヨウ駅?これなんて読むんだ。」
駅夫がアプリを起動すると同時に、ルーレットを回した。結果を読めずに、羅針に見せる。
「館腰駅だね。東北本線の駅だったと思う。仙台空港の傍だから、宮城県だな。」
羅針が答える。
「以前仙台空港口って愛称が付いてましたよね。」
平櫻もどうやら知っていたようだ。
「そうですね。仙台空港鉄道が開業した時に改称したんですよね。」
羅針が言う。
「そうみたいですね。私が初めて来た時はもう鉄道が開業してて、館腰駅は利用しなかったんですよ。昔は凄く不便だったらしいですね。」
平櫻が言う。
「確か開業は2007年で、当時周囲は何もなかった。それまではバス移動でしたからね。かなり不便な空港だったことは確かです。」
「そう言えば秋田空港も、鉄道の乗り入れがなくて、ちょっと不便でした。宿の送迎がなかったら、足に困っていたでしょうから。当時の仙台空港もそんな感じだったんですかね。」
「おそらくそうですね。鉄道ってやはり重要なインフラだって、こういうのを見ると良く分かりますよね。」
「そうですよね。鉄道がないと困りますもんね。」
羅針と平櫻がそうやって盛り上がってると、駅夫が口を挟む。
「ところでさ、その館腰駅はどんなところなんだ。」
「ああ、仙台空港のすぐ傍という以外、何もないんじゃないかな。無人駅だし。」
羅針が答える。
「じゃ、静和みたいな感じか。」
駅夫が顎に手をやりながら言う。
「そうだな。下手すると静和より何もないかも知れない。ほら、こんな感じの場所だよ。」
羅針がスマホで館腰駅周辺の航空写真を見せる。
館腰駅の住所は宮城県名取市植松になるため、羅針が見せたのは名取市の航空写真だ。
名取市は仙台湾に面した、宮城県南部に位置し、陸前丘陵にまで広がる市で、八万人弱の人口を有する、仙台市のベッドタウンとして発展し、仙台空港を有することで、玄関口としての役割も大きく果たしている。
館腰駅があるこの植松という地区は、仙台空港の一部がその区域に入るが、市街地は主に東北本線沿いに広がり、それ以外は田園地帯となる。
「マジで、何もないな。」
羅針が見せた地図を見て、駅夫が驚愕する。
「だろ。これだと、駅周辺を散策して、後は仙台空港の見学だな。」羅針は、再度検索を掛けて、「……ほら、観光地が一件もヒットしてこない。名取市に広げれば、多少は出てくるけど、これを廻るには、多分車が必要だろうな。」
羅針は、名取市の観光協会のサイトを調べてみているが、歴史的建造物といえば神社仏閣か古民家といったところだ。お祭りや体験型の施設もあるようだが、期間限定だったりもするので、そのあたりも詳しく確認する必要がありそうだ。
「これは、マジで厳しいな。……取り敢えず、駅周辺を散策しよう。そうしよう。」
駅夫は諦めたかのように、そう言って笑うが、その笑いはどこか虚しさを含んでいた。
次の館腰駅の観光については、一旦保留と言うことで、三人は朝食を終えると、部屋に戻ってから、再びロビーに集合した。