拾参之肆
元町通りでショッピングを楽しんだ旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、元町公園の方へと向けて坂道を登っていく。
元町通りもそうだったが、並んでいる建物がどれもお洒落なのだ。建ってから数十年は経つ建物であるため、最先端の洗練された雰囲気は流石にないし、年季の入った建物も多いが、それでもどこか懐かしさを感じながらも、衰えない美的センスは、この異国情緒溢れる大人の街となった元町に人々を惹きつける魅力を創りだしていた。
坂を少し上がると、商店街の裏手は住宅街が広がり、生活感が溢れ、更に森林も現れた。既に商店街の喧噪は届かず、静かな住宅街を縦横無尽に張り巡らされた路地が、迷路のように三人の前に立ち塞がる。
表のお洒落さとは縁遠い、下町の住宅街である。時折場違いな豪邸が建ち、高級車が止まっているのだが、この狭い道を表通りまで出すのは一苦労するだろうと思われる。そんなことを考えながら、かつて山手と称され、外国人が多く住む高級住宅街であったこの裏道を上がっていく。
坂の途中に、大正活映撮影所跡の石碑があった。
「この大正活映って何。」
駅夫が道端に立つ石碑を見て、羅針に尋ねる。
「ああ、無声映画の会社だね。」
そう言って、羅針は説明を続ける。
この大正活映は、1920年に設立された無声映画の配給会社で、1922年まで撮影をしていた。ハリウッド俳優のトーマス栗原と作家の谷崎潤一郎が関わったことでも知られる製作会社である。作品は谷崎潤一郎が脚本を書いたものを中心に30本もの作品が撮影されたが、一作目の〔アマチュア倶楽部〕はその後の日本映画界の礎を築き上げた人材を育てたとして、今なお映画界に語り継がれている。いわば日本映画の原点である。
「流石、星路さんはよくご存知ですね。」
羅針が大正活映の説明を終えると、平櫻は舌を巻いた。
「こういうのの説明は、羅針に軍配が上がるのか。」
元町通りでは真価を発揮できていなかった羅針が、ここに来て水を得た魚のように熟々と説明を始め、そんな幼馴染みの面目躍如に、駅夫もどこか嬉しそうである。
「おい、これを登るのかよ。」
駅夫が突然現れた目の前の階段を見て、辟易している。
「はい。そうです。頑張ってください。」
平櫻が、駅夫を励ます。
「ここは額坂だな。」
羅針がまたしても説明を始めた。
この坂は、おでこが付きそうな程の急坂であることからとか、かつて谷に挟まれて額のように突き出た地形の場所にある坂だからとか、名付けには諸説あるが、坂の両側に〔ブラフ溝〕と呼ばれる石造側溝が残っていることでも有名である。
ちなみに、ブラフとは切り立った崖のことで、この側溝は房州石を船底型に加工して組み合わせ、谷戸に流れ込まないようにしたものである。洋風側溝としては現存最古のものの一つと言われる。
やはりここでも説明は羅針の方に軍配が上がる。駅夫にとっては、二人もガイドを独占出来るという贅沢な観光である。
「それにしても、どうしてそんなに詳しいんですか。」
平櫻が感心したように羅針に聞く。
「この辺りは良く来ますから。中華街目当てですが、時折散策で訪れるんですよ。写真を撮るにも恰好のロケーションですし。」
羅針がそう答える。
「なるほど。でも良く来られるからって、そんなに詳しくはならないですよ。やっぱりそういうのがお好きなんですね。」
羅針の一面を見られたことに、平櫻は思わずにこりと微笑んだ。
生い茂る木立の間の階段を一段一段上がっていくと、頂上には額坂と彫られた石碑が一基建っていた。三人はもちろんここで写真を撮る。
更に小径を進むと、道の脇に無残にも壊された建物跡が現れた。〔山手80番館遺跡〕である。かつて閑静な住宅街として外国人たちが多く住んでいたこの辺りも、関東大震災や第二次世界大戦の空襲により、その多くが破壊されたそうで、この山手80番館もその一つである。近年発掘調査がおこなわれ、現在地下室と思われる遺構が残されているが、その佇まいは歴史に押し潰された亡骸を見るようであった。
「こんな、場所もあるんですね。」
平櫻が、その遺構を動画に撮りながら、悲しそうに呟く。
「そうですね。華やかな場所の裏には、こうして歴史に埋もれていった場所もあるんですよね。ここはたまたまこうして発掘されているから、目に留まりますが、多くが跡形もなくなってますからね。物悲しくもなりますよね。」
羅針が自分の説明を聞いて、感傷に浸っている平櫻を慮る。
小径を抜けて山手本通りに抜けると、元町のお嬢様学校と呼ばれる女子校の施設が現れた。どこか幽玄で、近寄りがたい雰囲気があり、流石に三人はカメラを向けることも出来ず、左向け左をして、このまま港の見える丘公園へ向けて、山手本通りを歩いていく。
「羅針、あれ電話ボックスだろ。」
山手本通りを暫く歩くと、駅夫が目の前に現れた白塗りの建物を指差した。
「ああ。自動電話のボックスだな。こんなところにもあったんだな。」
羅針も駅夫に言われて気付く。
「あっ本当だ。中に電話がありますね。……どうしてこれが電話ボックスだって分かったんですか。お二人の小さい頃は現役だったんですか。」
平櫻がボックスの中を覗き込むと、緑色のカード式公衆電話と、その上に昔のベルと通話口を備えた木製の電話機が設置されていた。
「いや、そんなことないよ。まあ、ここは現役みたいだけど、長崎で見たんだよ。同じように白くて六角形の建物をね。」
駅夫が理由を言う。
「あれは、確か、グラバー園の中ですね。同じようなのがありましてね、そこにも緑色のカード式公衆電話が設置されていたので、私の1ヶ月前の頃は現役でした。」
羅針はそう言ってにこりとする。
「へえ、グラバー園にもあるんですか。全然気が付かなかった。何度か行ってるのに。……って、やだ、そういう意味で言ったんじゃないです。」
平櫻がちょっと残念そうに言った後、羅針が冗談を返したことに、自分が言った言葉が、まるで100年以上生きているみたいに聞こえたことに気付き、慌てて取り繕った。
「ほら、ここですよ。」
そんな平櫻の動揺を知ってか知らずか、羅針がスマホでグラバー園の地図を起動し、平櫻に見せる。
「あっ、本当だ。こんなところにあったなんて。気付かない訳です。こっちの方はあまり行かないですからね。良く見付けられましたね。……あっ、ありがとうございます。」
平櫻が地図を見せて貰った礼を言う。
「たまたまですよ。なあ。」
羅針が駅夫に同意を求める。
「ああ。たまたま。っていうか俺はお前の後を付いてっただけだから。たまたまって言うより、知らないうちにだな。」
そう言って駅夫は笑う。
「今度、グラバー園に行った時は探してみます。」
平櫻はそう言って、自分のスマホを起動して、地図にピンを立てた。
更に山手本通りを進むと、左手に横浜外国人墓地が姿を見せた。
背の高い門柱が二本建ち、その上にはランプがちょこんと載っていた。右の門柱には日本語で、左の門柱には英語で墓地についての詞書きがなされた石版が貼られていた。
更にその門柱から横に延びていく石塀には美しいU字型の曲線がデザインされ、歴史的な意匠としてこの地を守っていた。
「ここが有名な外国人墓地か。」
駅夫が正門の前で写真を撮りながら言う。
「ああ。結構歴史に名を残す人物が埋葬されていたりするからな。」
羅針が応える。
「寄っていきますか。」
平櫻が二人に聞く。
「平櫻さんが寄りたければ。」
駅夫が応え、羅針も頷く。
「じゃ、入り口だけ覗いても良いですか。」
平櫻が確認する。
「ええ、構わないですよ。」
羅針が応え、駅夫も頷いた。
三人は古びた門柱の間を抜けて、様子を見るために、中へと進んでいく。
庭園風に整備された園内だが、もちろん墓地なので墓石が建ち並び、異国の地で命を落とした人々がここで永遠の眠りについていた。
この地に外国人が埋葬されたのは、ペリーが2度目の来航をした時に、事故死した船員を埋葬するために、幕府に掛け合って選定されたのが始まりである。当時ここには増徳院と言うお寺があり、その後も多くの外国人がこの地に埋葬された。
1862年に発生した生麦事件で殺害されたチャールズ・レノックス・リチャードソンもここに埋葬されている。
この墓地は埋葬されている各国領事団が負担して設立した管理委員会が運営管理をしてきたが、現在財団法人に引き継がれている。今では22区5600坪、約18,500㎡の墓域に、5000柱、3000基の墓石を数えるまでになっている。
羅針の説明を聞きながら、三人は奥へ進むと、丁度見晴らしの良い展望台になっていて、墓地を見下ろせるようになっている。しかし、鬱蒼とした木々の間に辛うじて墓石が見え隠れするだけだった。良くある庭園墓地のようだが、やはり外国人の墓地ということもあり、其処此処に十字架が見られ、墓石にも十字架があしらわれているものが数多く見られ、日本の庭園墓地とはやはり雰囲気が異なっていた。
平櫻は見渡すように動画を撮ると、それで満足したのか、二人に「お待たせしました。」と言った。
「もう、いいのですか?」
羅針が聞いた。
「はい。充分です。一つ一つ見ていたら時間がいくらあっても足らないですし、それに、特別どなたかお参りしたい方が居る訳でもないですし。」
平櫻はそう言って、もう一度墓地を見渡すようにしてから、一礼した。
羅針も駅夫も、それに習って一礼して、墓地を後にした。
「なあ、羅針、一つ気になったんだけど、さっき生麦事件で殺害された人もここに埋葬されたって言っただろ。日本では当然犯罪者として大名に切り捨てられたんだろうけど、海外ではどんな反応だったんだ。特にイギリスはその後、薩英戦争にまで持ち込んだんだから、相当日本バッシングがあったと思うんだけど。」
墓地を出てから港の見える丘公園へ向かう途次、駅夫が尋ねた。
「ああ、海外の反応は概ね日本に好意的だったようだよ。
当時、島津藩の島津久光が東海道を下ることは外国人居留者には通達済みで、大名行列のことは周知されていたらしいんだ。
当時、大名行列に対する認識は、イギリス国王陛下の行列と同等という認識もあったようで、どれだけ不遜なことかは、多くの外国人が認識していて、この大名行列に遭遇した別の人物は、下馬して道端に寄り脱帽して礼を尽くしたため、お咎めがなかったという話も残っている位で、島津藩側も外国人に対して、問答無用で斬りかかるみたいなことはなかったようなんだ。
ところが、件の男は以前から問題を起こすような人物で、粗暴の限りを尽くし、上海では罰金刑にまで処せられたらしく、この時もこの男はそんなことはお構いなしと、同行していた者たちが制止するのも聞かずに、大名行列に割り込んでいったようなんだ。当然無礼打ちされるよね。日本側からしたら暗殺者の可能性だってある訳だから、悪ふざけで済む話ではないからね。
この男に近しい人物たちの手記には、彼の死は痛ましいが、なるべくしてなった。みたいなことがいくつか残されてるみたいだから。どんな人物だったかは推して知るべしじゃないかな。
まあ、事の経緯はほぼ伝聞だし、真相の真義は分からないけど、海外での反応は概ねそんなところだったみたいだね。
ただ、イギリスはもちろん違ったよ。犯人処罰と賠償請求をしてきたんだから、相当怒り心頭だったんじゃないかな。なにせ自国民が斬り殺された訳だからね。東洋の端っこにある島国で起きたことなんて、英国本土で真相を知ることなんて、当時は不可能だっただろうしね。
もちろん、言いがかりって側面もあったかも知れないね。それで、日本を手中に出来れば、イギリスにとっては大きな収穫になるからね。
いずれにしても、交渉の場を設けて、島津藩と直接交渉しようとしたんだから、そこは紳士の国としてのメンツを保とうとしたんじゃないかな。けど、結局決裂して、戦争に発展、最終的には島津藩が賠償金を支払い、切り捨てた人物は逃亡扱いで手打ちにしたようだから、まあ、なるべくしてなったというところかもね。」
羅針がざっと生麦事件のあらましを話す。
「そうなんだ。そんな人物だとは全然知らなかった。今までは島津藩何やってくれちゃってるのとか思ってたけど、相手の人物像を聞くと、そりゃやられて当然かって思うよね。でも、日本と全面戦争にならなかったのはどうしてなんだ。そりゃ当時は藩が国みたいなものだから、薩摩と直接って言うのは分かるけど、徳川家が出張ってきても良さそうなものじゃん。」
駅夫が質問を続ける。
「ああ、そうだな。本来なら日本は侮辱された訳だから、国を挙げてイギリスに抗議するべきだったんだけど、それをしなかったのは、やはりイギリスの軍事力だよね。各国を手中に収め、陽の沈まない国とまで言われたイギリスに喧嘩を売ろうなんて大名は、島津以外いなかったってことだよ。」
羅針が答える。
「そりゃそうか。大艦隊で来られたら、日本は一溜まりもないもんな。そりゃ賢明な判断だ。」
駅夫も納得する。
「もし、あのまま全面戦争になっていたら、今頃日本はイギリス領日本になっていたかも知れないな。」
「そうなったら、俺たち英語話さなきゃならないのか。そりゃ勘弁だ。島津の殿様はよく頑張ってくれた。感謝だな。」
そう言って駅夫は天に向かって手を合わせている。
「まったく、何に感謝してるんだか。」
そう言って羅針は笑った。
三人は港の見える丘公園へ向けて、山手本通りを歩いていた。この辺りに来ると、観光客も多くなり、歩道も少し歩きづらくなってきた。
左手に見えるブラフ99ガーデンも、かなりの人出で賑わっていた。右手には煉瓦造りの岩崎博物館があり、ここにも人集りができていた。
人々の話し声に、車が行き交う音、横断歩道を使わずに渡ろうとして鳴らされるクラクションに、怒鳴り声。幽玄だった山手本通りは、今や猥雑で、人のエゴがぶつかり合う、混沌に満ちた通りと化していた。
素敵な見栄えの通りも、そこを行き交う人々によって、ここまで品位が下がるのかと思うと、昨日巴波川で羅針が平櫻と議論した街を守るという話で、平櫻が言っていた観光地化に依る弊害とはこのことかも知れないと、羅針は感じていた。
その平櫻は動画撮影用カメラを構えながら先を歩いていたが、車のクラクションや、怒鳴り声がする度に、身体をビクッとさせ、顔を顰めながら二人を振り返り、二人の様子にホッとして顔を綻ばせていた。
平櫻にとっては憧れのこの街も、観光客という要素が加わることの弊害に心底辟易していた。それでも、来たいと言った手前、二人の前で文句や弱音を吐くことはなく、笑顔を見せていたのだ。
正面の通りを渡るとそこが港の見える丘公園入口になっていた。
ここは、言わずもがな有名な観光地である。この時間帯は夕暮れ時であるためか、カップルが大勢押し寄せてきていた。
公園に一歩入ると、そこには美しい花壇が整備され、木立が造られていた。そこを行き交う人々は、もちろん先程まで混沌を作り上げていた観光客である。話し声だけでなく、叫ぶような大声が飛び交い、雰囲気は台無しだった。
三人はそんな喧騒を抜け、奥へと歩を進めた。
公園の奥には、間もなく沈みゆこうとする陽の光に照らされた広場が現れ、整然と配置されたプランターには色とりどりの花々が咲いていた。その奥には白い柱と緑色の屋根で構成された上屋があり、人々はその向こうで、まるで花火見物でもするかのように横に並んで、カメラやスマホを向けて、写真や動画を撮っていた。
なぜかここだけは秩序があった。
三人は、その秩序ある列に入れて貰い、一緒になって動画や写真を撮った。
目の前には横浜港が広がり、左は横浜マリンタワーから、大さん橋に停泊している大型客船、右は横浜ベイブリッジから本牧ふ頭の辺りまで見渡すことが出来た。
ここに立つと、潮の香りに包み込まれ、遠くから汽笛の音も聞こえてくる。後ろの方からは相変わらず人々の話し声が聞こえてくるが、ここに列を成して撮影をしている人々からは、声の一つも漏れてこない。それほどまでに素晴らしい景色なのだろう。
徐々に港は暗くなり始め、早々に灯りが灯り始める。西に沈んでいく太陽は、赤みを帯び、やがて水平線の向こうへと消えていった。オレンジに染め上げられていた空は、一瞬濃いブルーに染まると、一挙に暗闇へと変わった。
横浜港には夜の帳が降り、すっかり夜の街へと変貌を遂げていた。
それまで、列を成していた人々は、陽が落ちると一人消え、二人消え、徐々に人々がいなくなっていった。
三人も暫く言葉もなくこの夜景を眺めていたが、羅針が「そろそろ行こうか。」と声を掛けた。
三人は後ろ髪を引かれながらも、港の見える丘公園を後にした。