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日本全国鐵輪巡礼 ~駅夫と羅針の珍道中~  作者: 劉白雨
第拾参話 関内駅 (神奈川県)
120/181

拾参之参


 小山駅から2時間かけて乗り通してきた列車が、横浜駅に着くと、旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、前の人に続いてホームに降りた。

 土曜日の横浜駅は異常に混雑していた。ホームの端であるにもかかわらず、階段を降りる人が多すぎて、なかなか先に進めなかった。

「今日は何かあるのか。」

 駅夫が羅針に尋ねる。

「いや、横浜スタジアムで野球の試合はないし、デパートで催し物をやってるかも知れないけど、それで、ここまでの人混みにはならないだろう。いつものことなんじゃねぇの。」

 羅針が周囲の催し物のスケジュールをネットで確認してみるが、人混みに繋がるようなイベントは見つからなかった。


「ちなみに、この横浜駅って、昔はここじゃなかったって知ってる?」

 羅針が駅夫にイライラを紛らわせようと質問する。

「へえ。それは知らない。」

 駅夫が応える。

「桜木町のところにあったんですよね。」

 混雑の様子を動画に収めていた平櫻が、応えた。

「そうですね。元々は桜木町のところですね。……それから、三回移転して、今のこの場所になったんだけど、開業以来ずっと工事しているって、まことしやかに囁かれてるんだよ。どこかしら工事しているらしいんだ。」

 そう言って、羅針の蘊蓄講座が始まった。

 

 初代横浜駅は、1872年日本初の鉄道路線である、新橋 ─ 横浜間の終着駅として、現在の桜木町さくらぎちょう駅の位置に開業した。

 その後、東海道本線が西へ延伸したことにより、この初代横浜駅はスイッチバック駅となってしまったため、機関車の運用に不便を生じることとなった。

 そこで、この運用方法を解消するために、神奈川駅から平沼ひらぬま駅を経由して保土ケ谷(ほどがや)駅へ抜ける短絡線が設けられたが、東京駅開業に伴い電気鉄道を停車させる駅が必要となり、高島町たかしまちょう駅を1914年に開業した。

 高島町駅の開業に伴い、平沼経由の短絡線を廃止し、この高島町駅を二代目横浜駅に改称した。それが1915年である。

 そして、この二代目横浜駅が正式開業したことで、初代横浜駅は桜木町駅に改称されることになったのだ。

 その後、平沼経由の短絡線を復活開業し、そこへ新たに三代目横浜駅を1928年に開業させた。これが現在の横浜駅である。


「こうして、移転してきた横浜駅なんだけど、現在の駅舎が三代目なのか四代目なのか議論が分かれていて、その大きな原因が、ずっと改修工事を続けていることなんだよ。だから、三代目の駅舎を改修しているのか、四代目なのか、だれも分からなくなっているんだ。」

 羅針がそう言って、常に変化を続ける横浜駅の説明を更に続ける。


 現在横浜駅はJR東日本を始めとして、東急鉄道、横浜高速鉄道、京浜急行電鉄、相模鉄道、横浜市交通局の6社局が乗り入れをしている。一日平均乗降客数は230万人を数え、新宿駅、渋谷駅、池袋駅、大阪・梅田駅に次いで世界第五位を誇る数字である。


「これだけの巨大駅なんだから、土曜日の昼間ともなれば、人を掻き分けて進まなければならないほど混雑していても不思議じゃないだろ。」

 羅針は駅夫に、如何に横浜駅が巨大駅であるか、その歴史と現状をこうして懇々と説明した。


「そんなこと言っても、多すぎなんだよ。」

 駅夫は、羅針の説明を聞いても、まだ人混みに愚痴っている。

「そう言うけど、お前もこの人混みを形成している一人だからな。」

 羅針が、身も蓋もないことを言う。

「そうなんだけどよ。あれ見てみろよ。」駅夫が顎で隣のホームを示す。そこは京浜東北・根岸線用の3番4番ホームで、ホームから人が落ちるのではないかと思うぐらい混雑していた。「あれに乗っていくんだろ。勘弁してくれよって感じ。」そう言って、駅夫は大きく溜め息をついた。

「確かに、朝のラッシュじゃあるまいし、ちょっと多すぎるな。とは言っても二駅だけだ。おそらく皆、桜木町で降りるだろ、もしかしたら中華街狙いで石川町まで行くかも知れないけど、……まあ、とにかく行こう。」

 羅針が、色々考えを巡らせるが、駅夫の気持ちを和らげる材料は見付からなかった。


 漸く動き出した人々に続いて、東海道本線のホームから階段を降りて、コンコースを通り、3番4番の京浜東北・根岸線のホームへ上がる。ホームドアがなければ、本当に転落事故が起きそうなぐらい、ホームは混雑していた。コンコースと違って蒸し暑く、人熱ひといきれで空気が濁り、汗の臭いが充満し、息苦しささえ感じた。都内の殺人的朝ラッシュを経験している、駅夫と羅針が辟易しているのだから、どれほど酷いか推して知るべしである。


 間もなく接近放送と共にブルーのラインが施された233系1000番台が入線してきた。構内放送で駅員が、「降りる人を優先してください。割り込み乗車をしないようにお願いします。前の人を押さないでください。駆け込み乗車はしないでください……。」と、次から次へ注意事項を羅列していく。その声はガラガラにれ、言葉はがなり立てるようであるが、果たしてどれだけの人の耳に届いているのか、人々の反応を見るにつけ、発車ベルの代わりになってしまっているかのようで、ただただ虚しく響いていた。


 三人も到着した列車に無理矢理乗り込むと、平櫻を守るように挟みこんで、駅夫と羅針は位置取りをした。

 列車のドアが、「キンコン、キンコン、キンコン」という警告音と共に人々を押し込めるように閉まると、閉じ込められた乗客たちからは、これ以上の押し合い圧し合いがなくなったことに安堵した溜め息が、そこかしこで漏れた。

 とはいえ、依然として車内の混雑は酷かった。ホームほどではなかったが、それでも体臭が気になるぐらい人と人の距離が近く、半袖の腕が他人の腕に触れる不快感は、不快指数が計測不能である。列車が揺れる度に発する吊革の軋み音も、不快指数を押し上げていた。

 それでも、乗客たちは水を打ったように静かで、まるで御通夜のように、皆黙って下を向いてスマホを弄っていた。


 特に、平櫻にとっては、驚愕そのものであった。

「これは凄いですね。こんなに凄いラッシュは初めて体験しました。」

 日本全国鉄道を乗り歩いている平櫻でも、これ程の混雑は初めてのようである。

「そうなんだ。俺が会社勤めを始めた頃は乗車率200%なんて当たり前で、車両によっては 300%を超えることもあったんだよ。なあ。」

 駅夫が、平櫻にそう言うと、羅針に同意を求める。

「ああ。2000年ぐらいまでは酷かったな。2000年越えてから漸く200%を切るようになったんじゃないかな。それまでは、駅に押し屋と剥がし屋ってのが居てね、乗客を無理矢理押し込んだり、乗り切れない客を無理矢理引き摺り降ろしたりするんですよ。」

 羅針が懐かしそうに言う。

「ネットで見たことあります。あれ、日常的にあったんですね。」

 平櫻が言う。

「それ位酷かったんだよ。スーツのボタンが引き千切られて、どっか行ってしまったりしてね。駅に直してくれる店があって、裁縫道具を持っていない男性が列を作ってたよね。」

 駅夫が懐かしそうに言う。

「そうそう。あれも結構馬鹿にならないから、自分で携帯できる裁縫道具を買って持ち歩いてました。お陰でボタン付けは相当上達しましたよ。」

 羅針も、そう言って声を殺して笑う。

「でも、そう考えたら、こんな混雑なんて、ぬるいよな。肌感で250%はない位だろ。話は出来るし、スマホは見ること出来るし、身動きも取れるしね。」

 駅夫が言う。

「確かにな。当時の300%なんてホントに地獄だったからな。クーラーはないし、身動きは取れないし、新聞や雑誌を開くなんてもってのほかで、下手すると足が着いてない時もあったからね。あまりの混雑にドアが外れたこともあったし、窓ガラスが割れたこともあったよね。生き地獄とは、まさにあの通勤ラッシュのことを言うんだと思うぐらい酷かったんですよ。」

 羅針も顔を顰めながら言う。

「本当に大変だったんですね。」

 今乗っているこの殺人的な満員電車が温いと言う、旅寝と星路の二人が経験してきた朝ラッシュがどんなものだったのか、想像の域を超えていて、平櫻は恐ろしさすら感じていた。

 

 三人がそんな話をしていたギュウギュウ詰めの列車は、4分程で桜木町駅に到着すると、大量の乗客が吐き出されるように降りていった。羅針の予想どおり、みなとみらい地区へ遊びに行く人々だったのだろう。250%の乗車率が、一挙に100%を切った。

 三人は、ホッと一息つくと、永遠とも思えた4分間の地獄が終わったことを実感した。


 列車が桜木町駅を出ると、目的地の関内かんない駅はすぐそこである。

 14時55分、定刻通り列車は関内駅に到着した。三人は、どっと疲れた身体に鞭打って、列車を降りた。ホームに降り立つと、暫く呆けたように、青く塗られた駅の壁を見つめていることしか出来なかった。


 横浜スタジアムを本拠地とするプロ野球チームの応援歌が発車のベル代わりに鳴り響くと、磯子行きの列車は出発していったが、それでも三人はその場で動けなかった。

 今回の移動は、今までよりも時間は短かったが、やはり長距離移動をした後で、最後の最後に満員電車に押し込められたことで、疲れがどっと出たのだ。


 一息ついた三人は、漸く記念撮影を始める体力を取り戻した。

 駅名標の前で、いつもどおり三人一緒に記念撮影し、一人一人それぞれ撮影した。その表情には笑顔が作られていたが、疲労の色は隠せなかった。

 駅構内の撮影を一通り済ませると、まずはホテルに向かうために、改札口へと降りていった。


 この関内駅は、JRと横浜市営地下鉄が乗り入れる駅であり、JRは2面2線の対向式ホームで、地下鉄は2面3線であるが、1面1線と1面2線の二層式になっている。関内駅の一日平均乗車人員は、JRが五万人前後、地下鉄が二万人前後を推移している。


 現在、関内という地名は存在しないが、この関内という名称は、かつて、1859年の日米修好通商条約を始めとする、いわゆる安政五カ国条約の締結によって、横浜に設置された開港場である横浜港の区域一帯を関内と呼んだことに由来する。

 また、関内駅北側は経済、行政の中心として栄え、南側にはかつて商業の中心として栄えた伊勢佐木町いせざきちょうがある。そして東側には横浜スタジアムを含む横浜公園が存在し、試合のある日などは多くの観戦客で賑わう。

 更に北口は2011年から始まった再整備計画によって、駅舎を南口方向へ移動して空けたスペースに、保育所が新設された。駅直結の保育所として、好評を博しているようである。

 

 三人は南口出口に降りてきた。

 駅構内は地元のプロ野球チーム一色で、壁が青に塗られているのもそのためだと思われる。選手の顔写真が其処此処に貼られ、流石にお膝元の駅であると窺い知ることができた。


 駅舎から出てきた三人は、空を見上げると、雲はあるものの良く晴れた青空が広がっていた。気温も六月にしては高めであるが、海からの風が届いているのか然程暑くは感じない。ただ、湿気を含む風であるためか、逆に不快感を覚えた。

 三人は、青く塗られた入り口をバックに、再び記念撮影をした。良く見ると駅舎の上に青いヘルメットが二つ載っていて、無機質な駅舎が、何となく見た目も可愛く感じる。


 駅前の通りは歩道になっていて、道一杯に人々が行き交っていた。三人は邪魔にならないように撮影していたが、中には無遠慮に視線を寄越す者もいて、早々に退散することにした。

 まずは横浜スタジアムの方へ向けて歩き出し、お上りさんよろしく、目に付くものを撮影していく。

 みなと大通りに至る手前左側は、旧横浜市庁舎の跡地になるが、現在再開発の工事をしていた。案内板によると2026年春に開業予定で、地上34階のビルが建つらしい。


 みなと大通りを左折し、横浜スタジアムを横目に見ながら歩き、ハマスタ入口交差点を左折し、尾上町おのえちょう通りを歩く。ホテルはこの通り沿いにある、スタイリッシュという言葉が合いそうな外観の建物である。


 三人はチェックインすると、30分後にロビー集合を約束して、早速部屋へと向かった。

 ブラウンを基調としたインテリアが、旅の疲れを癒やしてくれる。

 平櫻と別れて駅夫と羅針が入った部屋は、ツインの禁煙室で、タバコはやらない二人にとって、臭いがないのは快適だった。ビューは残念ながら関内の街並みを見下ろすことは出来ても、ビル群に阻まれ、港の方を見渡すことは出来なかった。


 この後の観光に備えて、駅夫と羅針は持ち歩く荷物を取り出した。

 結局移動中は酒盛りに参加しなかった駅夫は、温くなったビールを備え付けの冷蔵庫に入れ、つまみだけを取り出してパクついた。2時間以上も立ちっぱなしだったのだから、小腹が空いていたようだ。

 羅針に「夕飯すぐだから食べ過ぎるなよ」と、窘められたが、腹が減っては観光が出来ぬとばかり、駅夫はすっかり冷めてしまった宇都宮餃子をパクついていた。


 一息ついた二人は、約束の時間にロビーへと降りた。

 いつものことだが、平櫻は既にロビーのソファーに座って待っていた。

「平櫻さんは、いつも行動が早いね。」

 駅夫が褒める。

「そうですか。そんなことないと思いますけど。お二人はいつも時間ぴったりじゃないですか。」

 平櫻もそう言いつつ謙遜する。

「いや、今朝は遅刻しましたよ。」

 羅針は今朝の朝食に遅れたことを言った。

「5分だけじゃないですか。遅刻したことにはなりますが、たいした問題じゃないですよ。目の前に食事が並べられて待ては、こくでしたが。」

 平櫻はそう言って笑う。

「すみません。」

 羅針は平櫻に改めて頭を下げる。

「ほら、そんなことは良いから、早く出掛けようぜ。」

 駅夫が辛気くさい雰囲気になりかけた二人に口を挟み、促した。

「分かったよ。それじゃ、平櫻さん行きましょうか。」


「駅夫、まず元町へ向かうから。」

 先にドアを開けて外に出ようとしていた駅夫に羅針が後ろから声を掛ける。

「了解。」

 駅夫はそう言って、表に出て行った。

「どうぞ。」

 羅針は平櫻を先に行かせ、後から表に出た。


 三人は尾上町通りを折り返すように、横浜スタジアムの方へと歩き出す。

「平櫻さん、元町は行くところを決めてあるんですか。」

 これから行く元町は平櫻のリクエストである。夕飯までの3時間ほどの時間を取って、彼女が行きたいところへ付いていくことにしていた。

「はい。最初は商店街を廻って、その後は元町公園とその周辺を巡って、最後は港の見える丘公園に向かおうと思っています。」

 平櫻がざっと予定を説明する。

「分かりました。この時間は平櫻さんの好きなように廻って貰って構わないので、目に付いた場所があれば、自由に寄って貰って構いませんから。」

 羅針もそう言って、平櫻に先導を任せた。


 三人は横浜スタジアムの横を、根岸線と併走して南進する。

 暫く行くと左手に学校が見え、中華街の西門である延平門えんぺいもんがあった。三人はその前を通り過ぎ、大きな病院を過ぎて、首都高の高架を潜り抜けると、漸く元町地区に到着した。


 ここ元町地区は言わずと知れた商業地区で、元町商店街は150年からの歴史を有する。

 この元町地区は、1859年の横浜開港に際し、開港場に住んでいた人々の移住先として整備された街である。横浜村の人々が移住してきたこともあり本村、元村、元村町などと呼ばれていたが、翌1860年から久良岐郡くらきぐん横浜元町となった。


 この元町が商店街として発展したのは、居留外国人に依るところが大きい。仕事場である山下と、居住地である山手の間を日々行き交うその途中に、この元町は位置したため、外国人向けの商売が軒を連ねるようになったのだ。


 時は下り、1970年代に入ると、当時流行っていたニュートラファッションに対抗して、ハマトラファッションがこの地で生み出され、一躍ファッションの街として脚光を浴び、各地から若者が押し寄せるようになった。

 ちなみに、ハマトラとはヨコハマトラディショナルの略で、山手にあるフェリス女学院やサンモールの女子学生が身につけていたカジュアルファッションを、ハマトラと呼んだことが始まりである。


 現在も異国情緒残る観光地として、また流行の一端を担う街として、横浜中華街と並んで人気の観光スポットとなっており、各地から観光客が訪れる場所でもある。


 そんな街の入り口に、今三人は立っていた。

 お洒落な佇まいなのだが、どこか懐かしい雰囲気を醸し出していて、建ち並ぶ商店もショーウィンドウに並ぶ商品もどこか懐かしく、若者向けと言うよりも、ミドル向けやそれ以上に向けたものが目立つ。ハマトラと持て囃された、流行の最先端を行っていた、往時の面影はすっかり影を潜めていた。

 一世を風靡したファッションも今は見る影もなく、ファストファッションに身を包んだ、往時の若者たちが白く染まった頭をキョロキョロさせながら、当時を懐かしんでいた。


 平櫻は石畳の通りを、動画を撮影しながら、目的の店へ向けてズンズン進んでいく。

「羅針、これで良かったのか。」

 駅夫が小声で羅針に耳打ちしてくる。

「何がだ。」

 羅針が聞き返す。

「いや、平櫻さんだよ。……彼女に完全に任せちゃったみたいだけど。」

 駅夫は平櫻に聞かれないか気にしながら聞く。駅夫が聞きたかったのは、どうやら観光の主導権を平櫻に渡しても良かったのかということみたいだ。

「ん?まあ、良いんじゃないか。だって、元町なんて俺たちおじさんには縁遠い街だし、俺たちだったら神社仏閣しか行かないだろ。彼女に任せた方が、新たな発見もあるだろうし、お洒落な街を体験出来るじゃん。」

 羅針は自虐的にそう言って笑う。

「まあ、そうなんだけどさ。」

 駅夫はどこか納得がいかないようだ。

「まあ、そう言うなよ。彼女だって文句も言わず俺たちに付いてきてくれてるんだしさ、少しぐらいは良いんじゃないか。労いって意味でもさ。」

 羅針がそう言う。

「まあ、お前がそう言うなら良いけどさ。」

 駅夫は不承不承納得した。


「あっ、そうだお前に言っとかなきゃいけないことがあった。」

 羅針が思い出したように言う。

「なんだよ。」

「多分楽しみにしてたと思うんだけど、上海蟹はお預けだ。悪いけど。」

「マジかよ。何でだよ。予約取れなかったのか。」

 駅夫は相当ショックだったのか、羅針に詰め寄る。

「実は、上海蟹って10月から2月までが輸入解禁なんだよ。だから、今はそもそも上海蟹が入荷していないって話なんだよ。完全に失念していた。本当に悪い。期待させちゃった分、申し訳なかった。」

 羅針がそう言って、手を合わす。

「なんだよ、そう言うことか。そう言うことならしょうがないじゃん、良いよ良いよ。秋にまた来ようぜ。楽しみが先延ばしになったってだけじゃん。」

 理由が分かったら、駅夫はすっきりした顔で、羅針の背中をポンポンと叩いている。

「そうだな。秋に来ような。」

 羅針はそう言って、申し訳なさそうに頷いた。


 石畳の道を先に行く平櫻が一軒のパン屋の前で立ち止まった。

「星路さん、旅寝さん、まずはこの店から寄ります。」

 平櫻が振り返って、二人を呼ぶ。

「分かりました。」

「分かった。」

 二人は、平櫻に応えて、足早に向かう。


「こちらのお店は、1960年代後半に開業したお店で、今全国に70店舗ほど展開するんですが、ここが一号店で、ここでしか買えないカレーパンが美味しいらしいんですよ。長崎にもあるので、行ったことはあるんですが、フルーツパイやタルトも絶品なので、お二人も是非。」

 平櫻はそう言って店内へ先に入っていった。

 二人は、後に続いて店内に入っていく。扉を開けると、パンの良い匂いが三人を包み込んだ。

 平櫻は驀地まっしぐらに横須賀海軍カレーパンと書かれたポップの立つパンをトレーに取った。駅夫と羅針も同じようにカレーパンを取り、他にもいくつか美味そうなパンが並んでいるのを選んでいく。平櫻が言うように、フルーツパイとフルーツタルトも人気商品として置いてあり、三人は躊躇なくトレイに乗せた。

 喫茶スペースもあり、ここでお茶が出来るようだが、三人はそのまま持ち帰ることを選ぶ。


 パン屋を出ると、次はケーキのお店である。

「こちらは1980年代に開業した、フランス料理のお店なんですが、和食の良さをふんだんに取り込んだ料理が話題で、料理はもちろんスイーツも有名なんですよ。特に煉瓦の形をしたケーキは絶品なんですが、ロールケーキも美味しいらしいんですよ。」

 そう言って、平櫻は店に入っていく。

 ショーケースに目的のロールケーキを見付けると、平櫻はそれを一本丸々購入した。他にも、煉瓦をモチーフにした色とりどりのケーキが多数取り揃えられていて、それもいくつか見繕っていた。

 駅夫と羅針は、流石にロールケーキ一本をそれぞれで買う勇気はなく、二人で一本購入し、ケーキも一番人気というショコラケーキを選んだ。


 ケーキ屋の次は和菓子店だ。

「こちらは2000年に入ってから出来た和菓子店なんですが、伝統の技に新たな技術とアイディアを融合させて作り上げる和菓子は、絶品だとして評判なんですよ。一番人気はどら焼きなんですが、最中も有名なんで、お二人も是非。」

 そう言うと、少し格式張った店構えにもかかわらず、平櫻は躊躇なく入っていく。

 ショーケースには伝統的な和菓子から、カラフルな最中まで、色々取り揃えられていた。

 三人は、もちろん看板商品のどら焼きを購入する。

「なあ、羅針、この最中とどら焼きの詰め合わせって、親に送ってやらないか。こう言うのなら喜ぶと思うんだけど。」

 駅夫が羅針に聞く。

「そうだな。このぐらいなら、持て余すこともないか。平櫻さんはどうする。」

 羅針は駅夫に同意し、平櫻にも聞いた。

「それじゃ、私も送ろうかな。」

 そう言って平櫻も送ることにした。

 三人は、宅配の手配をお願いし、手続きをした。


 三人は、スイーツの店以外にも、オルゴール専門店だったり、雑貨店だったりを見て廻ったが、ブティックやシューズ店などは、平櫻の求めているものとは違うのか、ショーウィンドウを見ただけで通り過ぎていた。


 いくつかのお店の前で、その店の来歴や一押し商品を紹介する姿は、いつもなら羅針の担当なのだが、ここ元町では、羅針の出る幕はなかった。

「平櫻さんの説明も分かりやすいな。流石プロだよ。」

 駅夫が平櫻を褒める。

「確かに、分かりやすいですよ。勉強になります。」

 羅針もそう言って駅夫に同調する。

「またまた、そんなに褒めても何も出ませんよ。」

 平櫻はそう言って照れ臭そうに微笑む。


 元町通りを一通り見て廻った三人は、手に手に紙袋を提げ、ショッピングを楽しんだ。

 最初はあまり乗り気ではなかった駅夫も、平櫻の説明のお陰か、元町の魅力に嵌まり、いくつかの店の前で立ち止まってしまい、二人を伴って店内に入ることもあった。

 こうして、元町通りを堪能した三人は、元町公園の方へ坂を上がり始め、更に元町の奥地へと進んでいった。




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