拾弐之拾漆
蔵の街遊覧船の観光を終えて、遊歩道に上がってきた旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、まず被っていた菅笠を受付に返しに向かった。
「なあ羅針、そう言えばこの笠、菅笠って言うよな。」
駅夫が菅笠を脱ぎながら、羅針に尋ねる。
「ああ。菅笠だな。編笠とも言うけど。」
羅針が応える。
「そうそう、その編笠、他に誰か角笠とか言ってたし、一体どれが正しいんだ。」
「笠は、色々種類があるからな。俺たちが被っていたこの笠は、菅笠も、編笠も、角笠もすべて正しいよ。菅笠は材料を、編笠は製造方法を、角笠は形を言っているだけだからね。」
「なるほどね。じゃ、良く時代劇に出てくる三度笠ってあるじゃん、あれは?」
「三度笠か。あれは、元々江戸、京都、大坂の三箇所を巡る、毎月三度八の付く日に出発していた飛脚、いわゆる定飛脚を三度飛脚と呼んでいたんだ。彼らが身につけていた笠だから、三度笠って名が付いたと言われているね。」
「へえ、三度飛脚ってのがあったのか。あの独特な形はどうして出来たんだ。」
「実は、あれは元々女性用の笠で、顔を隠すように深くなっていったらしいんだ。それが時代が下ると男性も被るようになり、飛脚が使うようになったってことらしいね。」
「なるほどね。笠一つでそんな歴史があったのか。」
駅夫はそう言って、新たな知識に満足したようだ。
「ところで、最後に船頭さんが仰っていた鯰料理が気になりませんか。」
平櫻が二人に尋ねる。
「あ~あ。平櫻さんの食欲に火が点いちゃったか。船頭さんも罪人だな。」
駅夫がおでこに手を当てて嘆く。
「食べたいんですね。」
羅針が率直に聞く。
「はい。いただいたことないので、出来れば是非。時間が無理でしたら、全然構いませんので。……どうでしょうか。」
平櫻は羅針の顔色を窺うように尋ねる。
「全然構いませんよ。列車の時間指定はないですから。予定が一時間ほど押す位なら、特に問題ないですよ。」
羅針がそう応える。
「それなら、……。」
平櫻が目を輝かせる。
「ええ。行きましょう。是非行きましょう。駅夫も良いよな。」
羅針はそう言って、駅夫にも確認する。
「ああ。」
駅夫はちょっと気乗りしていないようだ。
「もしかして食わず嫌い発動か?」
羅針が駅夫に詰め寄る。
「い、いや、そんなことないぞ。……分かってるよ。珍味はその土地の自慢、宝なんだろ。食べるよ。」
駅夫は、またムツゴロウとワラスボの時のように、食わず嫌いはその土地の人への侮辱になると、羅針に詰め寄られるのを忌避してか、それとも平櫻の手前なのか、明らかに無理をしていた。
「大丈夫なんですか?アレルギーとかなら止めますか。」
平櫻が心配して聞く。
「大丈夫ですよ。こいつにアレルギーなんてないですから。昔アレルギー検査して、何にも出なかったんだから、なあ。花粉症すら出なかったもんな。」
羅針が横から追い打ちを掛ける。
「分かってるよ。平櫻さん、大丈夫アレルギーはないから。こいつの言うとおり、ただの食わず嫌いだから。こいつにかかったら、人参も、ピーマンも、グリーンピースも、全部食わされるから。お陰で好き嫌いは克服してきたけど、地元の珍味だけはまだハードルが高くて……。」
駅夫が情けない声で平櫻に零す。
「何言ってんだ、好き嫌いなく健康でいられるのは俺のお陰だろ。ありがたく鯰食いに行くぞ。」
そう言って羅針が駅夫の背中を押す。
「分かった。行くから、行くって。だから押すなって。」
駅夫が諦めたように言う。
羅針がスマホで検索して出てきた鯰料理のお店に向かうことにした。ここから徒歩で5分程のところに魚料理を扱っているお店があり、鯰の天麩羅や刺身などがあるらしい。三人はそこへ向かって歩き始めた。若干一名は足取りが重そうだったが。
巴波川を望む場所に構えるその店は、周囲の建物とは少し異色で、ここだけ昭和の海辺の街が切り取られたような雰囲気で、とても海無し県の店とは思えなかった。表には今日の定食として海鮮丼など、海の魚が中心のラインナップになっていて、川魚らしきものは見当たらない。
とにかく、確認してみなければ話にならないので、三人は取り敢えず店内に入って確認することにした。
「いらっしゃいませ!」
引き戸を開けると、奥から元気の良い声が飛んできた。
「あの、こちらに鯰料理ってありますか。」
羅針が声を張り上げて、店員に尋ねる。
「はい。ございますよ。なまず丼をメインでやってますが、天麩羅や刺身なんかも出来ますし、コースでも出来ますよ。」
奥から出てきた女性店員が羅針の質問に答える。
「それじゃ、お願い出来ますか。それと、……」
羅針は食事をお願いしつつ、平櫻を促す。
「あの、こちらで食事しているところを撮影してもよろしいですか。」
平櫻が尋ねた。
「ああ、はい。別に構いませんよ。ただし、他のお客様には迷惑を掛けないでくださいね。」
店員は、釘を刺すように許可をくれた。
「すみません。ありがとうございます。私こういう者です。よろしくお願いします。」
平櫻は礼を言い、自分の名刺を店員に渡した。
「あれ、カノンさんですか。あの旅行動画チャンネル鉄カノンの。」
店員が平櫻の名刺を見て、彼女の動画チャンネル名に目が行くと、驚いたように言った。
「ええ。鉄カノンのカノンです。ご存知なんですか。」
平櫻は驚き、戸惑いつつも、少し嬉しそうだ。
「もちろん。良く動画を拝見してます。今は鹿児島の指宿枕崎線の旅シリーズですよね。前回が三回目ですよね。沿線の景色も最高でしたけど、鹿児島市内で黒豚丼と鹿児島ラーメン、それからお寿司20貫を平らげたカノンさんは圧巻でした。
動画とは雰囲気が違ったので全然分かりませんでした。
へえ、栃木にいらしてたんですね。確か鹿児島シリーズが終わったら、次は北海道なんてお話をされてたと思うんですが。なぜ栃木の方に。って、それは動画で明かされるんですよね。すみません。ちょっと舞い上がってしまいました。
後でサインいただいても良いですか。」
店員は、興奮気味に、色々と矢継ぎ早に捲し立てる。
羅針と駅夫はこんな場面に不慣れなためか、警戒マックスで、店員の行動に目を光らせていた。たとえ女性店員であっても、無自覚の危害を加えてくる可能性もあるのだ。さしずめ二人は平櫻を守るSPのような気分である。
幸い、店員は平櫻自身に何かをすることはなく、アイドルにでも出会ったファンのように興奮しているだけだった。
店員の好意なのか、三人は二階座敷の一番見晴らしの良い席に通された。
窓からは巴波川を見下ろすことが出来、遠くから先程船頭さんが唄ってくれた、栃木河岸船頭唄が聞こえてくる。
先程の店員がメニューとお茶に、色紙とペンを持って上がってきた。それと、一緒に記念撮影をして欲しいと頼まれたため、羅針がカメラマンとして店員のスマホで写真を撮ってあげた。
平櫻は店員と一緒に写真に収まった後、色紙にサインを書いた。お店宛てと店員個人宛に二枚書いてあげた。彼女のサインはKANONという筆記体の文字を電車の屋根に載せ、Oをパンタグラフに見立て、車体には鉄カノンの文字と、運転席の窓からデフォルメされた平櫻の似顔絵が飛び出た絵が描かれていた。
本格的な平櫻のサインを初めて見た駅夫と羅針の二人は、単純に驚き、感心した。改めて彼女が人気の動画投稿者であることを認識したのだ。
「ところで、お二人は、カノンさんのボディーガードさんですか?」
店員は駅夫と羅針を見て、そんなことを言い出す。50代の二人がどう見たって平櫻のボデイーガードを勤められる器ではないことは明確なのだが、彼女の目にはそう映ったのだろう。女性一人旅は何かと物騒だ、ボディーガードが付いていてもおかしくないと考えたのかも知れない。
「いえ、このお二人は、私の旅の同行者です。詳しくは、今度出す秋田編の動画でその辺の話をしますので、是非そちらをご覧ください。」
平櫻が店員に動画の宣伝と併せてそう説明する。
「そうなんですね。分かりました。楽しみにしています。サインありがとうございます。家宝にします。」
店員さんはそう言って書いて貰ったサインを押し頂いて、注文も取らずに立ち去ろうとしたのを、羅針は引き留めた。
「すみません。注文よろしいですか。」
「あっ、そうでしたね。すっかり忘れてました。ご注文ですね。」
店員は慌ててポケットからメモを取り出し、注文を取っていった。何度も礼を言って、頭をペコペコ下げながら、降りていった。
三人が注文したのはなまず丼と、天麩羅に刺身、団子汁と叩き揚げというのもお願いした。すべて鯰尽くしである。
「それにしても、平櫻さん凄いね。まるでアイドルだ。」
駅夫が感心したように言う。
「本当に凄いですね。私たち年寄りがボディーガードに見えるほど、彼女には輝いて見えるんですね。」
羅針も冗談半分そんなことを言う。
「もう、止めてくださいよ。あそこまで積極的な視聴者さんはほとんどいませんから。」
平櫻がそう言って照れ臭そうにはにかむが、満更でもなさそうだ。
「それにしても、ビックリしたな。あんな風に突然グイグイ来られるんだね。相手が女性だからまだ良いけど、あれ、男性だったら怖いでしょ。」
駅夫が少し心配そうに言う。
「ええ、まあ。少し怖いですね。小さい頃から合気道をやっているので、悪漢には対処出来る自信はあるんですが、悪気のない人には合気道は使えませんから。嫌な思いをしたことは……。」
平櫻はそこまで言って、言葉を濁し、表情が曇った。
「まあ、そうだよね。無自覚な危害程怖いものはないからね。でも、僕たちが一緒なら、それこそボディーガード代わりには成れるからね。そこは安心して。まあ、合気道習ってる平櫻さんの方が強いかも知れないけど。」
駅夫はそう言って、平櫻を慰める。
「ありがとうございます。頼もしいボディーガードです。」
平櫻はそう言ってにっこりと笑った。
そんな話をしていたら、ちょうど下から料理が運ばれてきた。
先程の店員さんと女将の二人が配膳していく。
「うちの子がなんか、ご迷惑をお掛けしたようで、本当にすみません。サインまでいただいたとかで。本当にすみません。これ、お詫びと言っては何ですが、もし良かったらこちらサービスでお付けしますので、ご賞味ください。」
女将はそう言って、刺身の盛り合わせを三人分付けてくれた。
「いや、迷惑なんてそんなことないですから。むしろ嬉しかったので。……お刺身ありがとうございます。折角なので、遠慮なくいただきます。」
平櫻は、そう言って、女将に礼を言って、店員に目配せをする。先程まであんなに積極的だった店員は、借りてきた猫のようにシュンとしていた。余程女将に窘められたのだろう。
まだ、年の頃は20代中半の大学を出たばかり位だろう。そんな女の子が大好きな動画投稿者に突然出会ったのだ。テンションが上がるのも頷ける。
平櫻は、迷惑を被った訳でもないしと、別段咎めるようなこともなかったのだが、女将としてはケジメなのだろう。これはお詫びの印をした、店員への諫めの印なのだ。断ってしまっては、店員への示しがつかなくなるだろうことは明白であるため、平櫻はそこまでして貰う必要はないとも思ったが、ありがたく受け取ったのだ。
女将と店員が深々と頭を下げて、降りていったのを見送ってから、三人は早速出された料理に手を付け始めた。
三人とも鯰料理など初めて食べるのだ。どんな物か好奇心半分、不安半分であった。特に駅夫は、箸を持つ手も重そうだ。それでも、羅針と平櫻に促されて、最初になまず丼に箸を伸ばし、恐る恐る一口食べた。
「これが鯰か。淡泊な味わいで、このふっくらとした身の食感がとても良い。」
駅夫がなまず丼に載っている鯰の身を解して口に入れた途端、唸るように呟いた。
「ああ。この味付け、甘辛のタレがこの淡泊な身にまた良く合ってる。御飯とも相性良いし、鰻のような豪華さはないけど、泥臭さもないし、鯉とも、鮒とも違うし、川魚の類いとも一線を画す、なんとも言えない、美味さを感じる。鯰、悪くないな。」
羅針も駅夫に続いて、一口食べては、味わうように分析している。
「お二人が仰るとおりですね。淡泊でありながら食べ応えのある、特にクセらしいものもないですし。調理が丁寧なのか、川魚にありがちな泥臭さもないですし、確かにとても美味しいです。船頭さんが絶賛していたの、分かる気がします。」
平櫻もそういって、動画に撮りながら、パクパクと食べ進めていく。
三人は、なまず丼の他にも、天麩羅、刺身、団子汁に叩き揚げもいただいていく。
天麩羅はもちろんサクサクした衣に、白身の鯰が良く合っている。少し甘めの天つゆとも良く合い、なまず丼とも違う味わいを堪能出来る一品だ。
それから、刺身。こちらは透き通るような薄作りの身に、ポン酢を付けて食べる。もちろん臭みはなく、コリコリとした食感が、マグロ丼、天麩羅とも異なり、また違う味わいがあった。
団子汁には身や骨、肝を包丁で叩いて作った団子が入っていて、つぶつぶ感が程良く残っているのが、また食感を楽しませてくれる。更に、出汁の風味や 生姜の香りと相まって、匂いでも楽しませてくれる一品になっていた。
「これだよな。この叩き揚げ。見た目はつみれだけど、揚げてあるからサーターアンダギーのようにも見えるし、初めて見る料理なんだよな。」そう言って、羅針が最初に手を付けた。「美味い。なにこれ。味わいはもちろん今までの鯰なんだけど、揚げてあるからまた食感が違うし、味噌が入ってるから、味もまったく異なるし、団子汁のつみれと同じで骨まで叩いているのか、コリコリした食感もあって、まるで魚のすべてをこれ一つで味わい尽くそうとしているみたいだ。」
羅針は、一口食べただけで、言葉が止まらなかった。
「そう言えば、女将さんがこの叩き揚げは埼玉の方の郷土料理だって仰ってましたよね。ただ、お店独自の味を追求した自慢の一品だとも仰ってましたけど、仰っていた意味が良く分かります。これは、自慢の一品であるべきです。ここまで繊細でありながら、豪華な味わいのある、素朴な一品は他に見ないですよ。本当に美味しいです。」
平櫻も羅針同様、箸も言葉も止まらないようだ。
羅針と平櫻が感想を言い合っている傍らで、駅夫は黙々と食べていた。嫌々食べているのではない、むしろ美味すぎて、言葉にならないのだ。
いつも食わず嫌いをしてしまう自分に腹立たしく思うこともあるが、それは羅針がその食わず嫌いを矯正するために、無理矢理駅夫に色んなものを食わせるからなのだ。アレルギーチェックに連れて行かれたのも、羅針の提案で、万が一を懸念してのことだった。お陰で、子供の頃は野菜のほとんどが苦手で、変わったものは頑として手を付けなかったのが、いつの間にか何でも美味い美味いと食えるようになったのだ。それは偏に羅針のお陰でもある。遣り方は強引ではあるが。
そんな食わず嫌いの駅夫でも、この鯰料理の数々は美味かった。羅針や平櫻のように言葉巧みに表現することは出来なかったが、心の底から美味いと感じていた。
「駅夫、どうだ、鯰料理。食わず嫌いは人生損するだろ。鯰食わずで一生終えなくて良かったな。」
羅針が冗談半分で言う。
「鯰食わず?……ああ、飲まず食わずの捩りか。また訳のわかんないことを……。まあ、こんな美味いものを食えて、確かに良かったよ。平櫻さんのお陰だな。」
駅夫が、羅針の冗談を受け流し、平櫻さんを褒める。
「えっ、私ですか。私、何もしてないですよ。」
平櫻がそう言って戸惑う。
「平櫻さんが、船頭さんの話を聞いて、鯰食べようと言わなければ、こんな美味いものには出会わなかったんだから。決して、羅針のお陰じゃないからな。」
駅夫は、そう言って羅針を腐す。
「はい、はい。平櫻さん様々だよな。俺は用無しと。平櫻さん、ここのお会計全部こいつ持ちになりましたから。駅夫、ごちそうさんな。」
羅針がそう言って笑う。
「そうなんですね。旅寝さんありがとうございます。ごちそうさまです。」
平櫻も羅針の冗談に乗って笑う。
「おい、ちょっと待てよ。……平櫻さんまで、勘弁してよ。これでいくらになると思ってるんだよ。」
そう言って駅夫は頭を抱えた。
三人は、サービスでいただいた刺身の盛り合わせも、ペロリと平らげて、満足し、階下へと降りていき、会計をお願いした。
「本当に美味しかったです。それと、お刺身もありがとうございました。ごちそうさまでした。」
平櫻が満足そうに女将に言った。
「お粗末様でした。ご満足いただけたら幸いです。」
そう言った女将の陰に隠れていた店員に、平櫻は手を伸ばして握手を求めた。
「えっ、私ですか。……あっ、ありがとうございます。」
店員は慌ててエプロンで手を拭き、両手で平櫻の手を包み込み、しっかりと握手した。その顔は、今にも泣き出しそうである。
「お仕事頑張ってくださいね。また機会があったら寄らせて貰いますね。」
平櫻はそう言って、精一杯のエールを店員に送った。
「本当に、ご迷惑をお掛けしました。そう言っていただけると……。いつまでも応援しています。動画撮影頑張ってください。次回も楽しみに待ってますので。本当にありがとうございます。」
店員は言葉を詰まらせながらも、そう言って平櫻の手をいつまでも握っていた。
「ほら、いつまでもカノンさんの手を握っていたら、次の動画出して貰えなくなるよ。……この子ったら、本当にすみませんね。」
女将さんが冗談半分で店員を窘め、平櫻に頭を下げる。
店員は慌てて、平櫻の手を離し、深々と頭を下げた。
駅夫と羅針は、その様子が、初めて出会った時の平櫻にそっくりで、まさに類は友を呼ぶだなと感じていた。
会計を済ませた三人は、お礼を言って、店を出た。店の前には、なぜか行列が出来ていて、皆口々に鯰の話をしていた。おそらくあの船頭さんの影響なのだろう。上手い商売である。
この後は、横浜、関内駅へと向かう。三人は栃木駅へ向けて歩き出した。