拾弐之拾伍
夕食を終えた旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、女将や仲居さんに礼を言って、食堂を後にし、それぞれの部屋へと戻っていった。
まだ、身体は重く、節々が痛かったが、壁に手をついて、足を引き摺るように部屋へと向かった。
貸切風呂の予約時間まではまだあったので、駅夫と羅針は、雨に汚れた上着を脱いで、ハンガーに掛けた後、そのまま敷いてある布団の上へごろりと寝転がった。
「ダメだ、このままだと睡魔に負ける。」
そう言って羅針は身体をなんとか起こす。
「ぐうぐう……。」
駅夫が寝たふりをして、鼾を掻く真似をしている。
「おい、そんなことしてると、ホントに寝ちゃうぞ。風呂キャンなんかしたら、栃木に捨てていくからな。」
羅針がそう言って、駅夫を窘める。
「何だよ風呂キャンって。風呂でキャンプすることか。」
駅夫が徐に起き上がり、羅針に聞く。
「風呂でキャンプってどんなプレイだよ。そうじゃなくて、風呂をキャンセルで風呂キャン。4月ぐらいからSNSで流行ってる言葉だよ。」
羅針がきちんと説明する。
「まじでそんな言葉が流行ってるのか。ってことは、風呂に入らない奴らがいるってことだろ。キャンセルってことは何か事情があって入ることが出来ないんじゃなくて、自分の意思で入るのを止めるってことだよな。」
「まあ、そう言うことになるな。ただ、風呂をキャンセルと言っても、湯船に入るのを止めてシャワーだけにするなんていうのも風呂キャンになるみたいだから、風呂キャンする全員が全員不潔って訳でもないけど、中には何日もシャワーすらキャンセルする強者もいるらしいからな。」
「マジか。ネット界隈やべぇな。」
駅夫は目を見開いて本気で驚いている。
「ああ、大マジだよ。まあ、ネット界隈だからな、どこまで盛ってるかは分からないけど。」
「そうか。確かに大袈裟に書いている可能性もあるのか。とは言っても、一日でも入らなかったら気持ち悪いのに。何日もなんて有り得ないな。」
「まったくだよ。中国に居た時なんて、風呂なんてなくてさ、シャワーもしょっちゅう止まってよ。帰国後は、まさに湯水のように浴びられるシャワーも、じっくり浸かれる湯船もどんなにありがたかったか。風呂キャンなんて絶対有り得ないっつうの。」
駅夫の言葉に羅針はそうだろと言わんばかりに、駅夫に良くするいつもの話をして怒りをぶちまける。
羅針が北京に居た時に住んでいたアパートはセントラルヒーティングだったが、お湯の管理もセントラル方式で、ガス給湯器なんてものはなく、シャワーのお湯はボイラーで温めたお湯が全館に供給されていたのだ。
そのため、夜、シャワーの時間になると、大量のお湯を消費するためか、供給が止まることも屡々で、停電ならぬ〔停水〕、日本語風に言うと〔停湯〕になってしまうのである。
シャワーを浴びる前ならまだ良いが、シャンプーをしている時や身体中が泡だらけになっている時に停湯になると、冷たい水で洗い流すか、水も出ない時は、タオルで拭き落とすしかなくなるのだ。
その惨めさたるや、情けない気持ちにさせることこの上ないのだ。ましてやそれが真冬に発生しようものなら、氷点下10度に下がることもある北京では、命がけの入浴になるのだ。
駅夫は、そんな話を羅針から耳にタコができるぐらい聞いていたので、また始まったと言わんばかりに「分かった、分かった。そう怒るなって。動画でも見て時間潰そうぜ。そうすりゃ眠気も吹き飛ぶだろ。」
駅夫はそう言って、自分のパソコンを起ち上げて、香登の熊山で出会った何森夫妻の動画を検索する。
「そう言えば、投稿したって連絡来てたな。」
羅針が今日メールが来ていたことを言った。
「だろ。ちゃんと見ておかなきゃ。」
駅夫はそう言って、出てきた何森夫妻の動画を再生した。
もう一週間も前になるか、画面には懐かしく感じる夫婦の顔と、香登駅が映し出されていた。
『皆さんおはようございます。私たちは今岡山県備前市にある香登駅に来ています。
今日は、ピラミッドがあるという、熊山に登ります。今日は高津山から油滝神社を通って熊山へ登頂し、展望台でお昼にした後、城山から下山するコースを辿ります。コースの詳細は概要欄と登山コースの記録サイトにも載せておきますので、ご興味のある方は是非ご覧ください。』
こうして奥様の語りで動画が始まった。撮影はおそらく旦那さんだろう。画面の外で相槌を打っている。昔懐かしいテレビを彷彿とさせる編集で、素人感満載だが、それがまた人気の秘密なのかも知れない。
動画は、途中互いが歩く様子を撮ったり、二人が歩く様子を固定カメラで撮影したりと、なかなか凝った作りになっていた。旦那さんのカメラの腕はなかなかで、山中の美しい景色を切り取った映像には羅針も舌を巻いた。
油滝神社や電話会社の敷地にあった熊山の山頂、更に熊山遺跡の映像は、二人とも懐かしく見た。
そして、いよいよ四人が出会った、あの展望台のシーンへと移った。
最初は、夫婦の昼食シーンがあり、コーヒーを点て始めたあたりから、駅夫と羅針が登場した。
夫婦が何気ない会話を続けている奥から、騒がしい二人の声が入っていた。
「こんなに音声拾ってたんだ。申し訳なかったな。」
駅夫が済まなそうにした。
「ああ、本当にな。でも、今のカメラって凄いんだな。」
羅針も済まなそうにはしていたが、それよりもカメラのマイク性能に驚いていた。
動画は、駅夫が夫婦に声を掛けたシーンへと変わる。
『こんにちは、コーヒーですか?良い香りですね。』
駅夫の声だ。もちろん画角の中にはいない。
『私たちが、食後のコーヒーを飲もうと準備をしていると、二人組の男性に声を掛けられました。最初はこんな山の中で、嫌な匂いを立てるなというクレームかとも思いましたが、単にコーヒーの匂いにつられて、思わず声を掛けて来たようでした。
このお二人、実はとんでもない、壮大なことをなさってるお二人で、この後お二人にお話を聞いて、主人と二人で驚いたのです。』
奥様のナレーションが入った後、動画はテーブルの上の携帯カップを映しだし、画面外から声が聞こえていた。聞き取り辛い部分もあるため、駅夫と羅針の声には字幕が付けられていた。
暫く会話が流れた後、再び奥様の声でナレーションが入った。
『今会話にあったように、このお二人は、なんと日本全国をルーレットの出目に任せて、旅をされているのです。日本には今現在、JR、私鉄、路面電車なども含めて全部で1万程の駅が存在するそうなんですが、その中から一駅をルーレットで決めて、そこへ旅をするという、その名もルーレット旅というのをされているお二人でした。
今も続けていらっしゃるはずですので、もしかしたら、皆さんもどこかでお見かけするかも知れませんね。
シャイなお二人でしたので、お顔はお見せ出来ませんが、素敵な男性たちでした。私がもう少し若かったら、恋に落ちていたかも知れませんね。』
奥様が冗談のように言うと、画面一杯に『おい!(`皿´)』というテロップが出て、ご主人が突っ込みを入れていた。
それを見て二人は思わず吹き出してしまった。
この後、二人が夫婦に登山のレクチャーを受けたりした話も盛り込まれ、展望台での一部始終が面白可笑しく編集されていた。
駅夫と羅針が去ると、その後充分な休憩を取った夫婦は、城山を経由して香登駅へと戻っていった。
その間も様々なカメラアングルを工夫されていて、奥様のナレーションも面白く、結構見応えのある動画に仕上がっていた。
「へえ。あの出会いがこんな風な動画になるんだな。面白いな。」
駅夫が感心して言う。
「確かにこんな風になるって、編集の妙だな。俺たちがなんかすげぇ人みたいになってるけど、単なる行き当たりばったりの旅人で、登山もド素人、何森夫妻の方がよっぽど凄い人たちなのにな。」
羅針もそう言って何森夫婦の凄さを改めて認識した。
「動画投稿者って、本当に凄いんだな。……ということはだよ、平櫻さんも凄いんだよ。彼女の動画登録者数は何森夫妻よりも一桁多いからね。俺たちなにげに凄い人たちと知り合いになってるんだよな。」
駅夫がそう言って、腕組みをして感慨深げにしている。
「確かにな。俺たちのことを知っている人がこの世の中に一体何人居るのか、その何万倍という人が知ってくれている人物が身近に居るって、考えられないよな。今や有名人と旅するおじさんだぜ。嫉妬したファンに後ろから刺されてもおかしくないからな。」
羅針はそう冗談めかして言う。
「あり得る。夜道は気を付けような。」
冗談めかしてそう言って駅夫も笑う。
「そろそろ、風呂の時間だな。」
一頻り笑い、その後も夫妻の動画をいくつか見た後、時計を見て風呂の時間だと、羅針は駅夫に告げる。
「もうそんな時間か。今日は汗も掻いたし、雨にも濡れたし、ゆっくりと浸かりたいな。」
そう言って駅夫はパソコンの電源を落とし、風呂に入る準備をする。
「そうだな。」
動画を見ながら、何森夫妻へ駅夫と連名のお礼メールを打った羅針は、最後に文面を駅夫に確認して貰い、送信ボタンを押し、スマホを閉じた。そして、駅夫同様に風呂に行く準備をした。
二人は、階下の浴場に行くと、昨日と同様、平櫻と擦れ違った。
「あっ、お先です。」
平櫻が二人に声を掛ける。
「ごゆっくりどうぞ。」と羅針が応え、「そうそう、平櫻さん、以前お話した登山家のご夫婦が動画を上げたようなので、もし良かったらご覧ください。チャンネル名は〔山恋夫婦〕です。最新動画に私たちの声が出演してますので。」
羅針はそう言ってはにかんだ。
「そうなんですね。この後拝見します。ありがとうございます。」
そう言って平櫻は頭を下げて、階段を上っていった。その足取りは少し重そうだった。
「本当に昼間と雰囲気が全然違うんだよな。女性ってホント怖いな。」
駅夫が平櫻を見送った後、またしても昨日と同じようなことを言っている。
「だから、昔の人は女性を魔女としたんだよ。幽霊も女性が多いだろ。やっぱり男にとっては昔から怖い存在なんだよ。きっとな。」
羅針はそう言って笑う。
「かもな。」
駅夫が何となく納得している。
「ほら、サッサと風呂入っちゃおうぜ。時間がなくなる。」
そう言って、羅針は風呂の入口を開けて、脱衣所へと入っていった。駅夫も慌てて羅針を追って行った。
翌朝、6時。
いつものように羅針は目覚ましが鳴る前に起きたが、流石に昨日歩きすぎたのか、身体の節々が悲鳴を上げている。
羅針はスマホのアラームを解除し、暫くストレッチをおこなった。特に脚は念入りに伸ばした。脹ら脛は肩こりのように凝り固まっていて、ストレッチだけでなく、念入りにマッサージを加えた。
15分程、ストレッチとマッサージをおこなった羅針は、洗面を済ませ、毎朝のルーティンを始める。もちろんやることは昨日の纏めと精算、そしてカメラの画像転送だ。
6時30分になると、いつものように駅夫を揺り起こし「ん~お~は~よ~。」の声を聞く。
駅夫を洗面所に追い遣ると、ルーティンの続きをする。そして、今朝はもう一つ平櫻に渡す特急リバティきぬとスペーシアXの写真を現像する必要があった。
羅針はパソコンに取り込んだRAWデータを確認し、現像ソフトで色味や明るさなどの確認をして、JPEGファイルへと変換していく。
すべての作業が終了した時には、7時をほんの少し回っていた。
「やべぇ。平櫻さん待たせちゃうよ。」
羅針は慌ててパソコンの電源を切り、スマホをひっつかんで、駅夫に声を掛けた。
「もう、そんな時間か。」
駅夫は、呑気にテレビのニュースを見ながら身支度をしていた。
「ほら、行くぞ。」
「分かったから待てよ。」
そう言って駅夫は慌ててテレビの電源を切り、羅針の後を追った。
食堂には当然のように平櫻が朝食の動画を撮りながら、二人を待っていた。
「済みません。遅くなりました。」
「ごめんね。遅くなって。」
羅針と駅夫は、平櫻に開口一番謝った。
「おはようございます。大丈夫ですよ、まだ5分ですから。」
そう言って平櫻はにこりと笑う。
「その笑顔が怖いんだよな。」
駅夫が冗談めかして言う。
「じゃ、旅寝さんには遅刻のバツとして、その煮物の小鉢を私にくださいね。」
そう言って平櫻は悪女の顔になる。
「それは勘弁してくれ。煮物の小鉢を食べないと旅が続けられない病なんだよ。」
駅夫はそう言って返す。
「どんな病気なんですかそれ。とにかく座ってください。もうずっとお預けを喰らったままなんですから。」
お腹がすいて溜まらないという感じで平櫻はそう言って、二人に着席を促した。
「本当にごめんなさいね。平櫻さんに渡す写真の現像に夢中になってしまって。大型ファイル便で送信しておきましたので、後で確認してください。」
羅針が済まなそうに、席に着きながら言う。
「あっ、昨日のきぬとスペーシアXですね。ありがとうございます。早速後で拝見します。それと、動画の方はもう少しお時間ください。いま修正を掛けてるので、出来上がったらお渡しします。」
平櫻が羅針の言葉を聞いて、顔を綻ばせる。そして、渡す予定だった動画の進捗状況についても報告する。
「ありがとうございます。急がないので、ゆっくりやってください。」
羅針が気遣うように言う。
「ありがとうございます。」
平櫻はそう言って頭を下げた。
三人の前にはすでに豪勢な朝食が並べられていた。
メニューは昨朝と変わらず、卵料理、ハム、ウインナー、煮物の小鉢、和え物、海苔、漬物、味噌汁、ご飯となっていた。使っている食材は栃木産のものがふんだんに使われ、湯葉の煮物や、干瓢の和え物なども変わらないが、昨朝とは味付けや調理方法が全然違っていた。
昨朝も美味しくいただいたが、今朝も甲乙付けがたいぐらい美味かった。
昨日の散策が利いているのか、三人とも朝食をペロリと平らげ、もちろん御飯もおかわりをした。
「美味しかったな。また来たいな。」
駅夫がそう言って、コップの水を飲む。
「ああ。リピ確だな。」
羅針もそう言って駅夫に同意し、コップの水を飲んだ。
「確かにまた来たいですね。それにしても、星路さんもリピ確なんて言葉を使うんですね。」
平櫻はコップの水を飲んだ後、驚いたように言う。
「こいつ、言葉遣いには煩いくせに、こういう新しい言葉を時々使うんだよ。意味が分からない時は、生き字引のこいつを引くんだけどね。昨日もなんだっけ、……そう風呂キャンだ、そんな言葉を使ってたからね。」
そう言って駅夫は告げ口するように平櫻に言う。
「そうなんですね。言葉に煩い星路さんなら、そういう言葉を使わなそうなのに。何か理由でもあるんですか。」
平櫻も不思議そうに聞く。
「理由ですか。そんなこと考えたこともないですけど……。」羅針は突然そんなことを言われ、寝耳に水だったが、少し考えてから自分の考えを語り始めた。「……敢えて言うなら、新しい言葉遣いと、乱れた言葉遣いはまったく別物だということですかね。
言葉というのはルールの下に運用されるからこそ、相手に正しく伝わるものだと私は考えます。でも、ルール無視の言葉は相手にきちんと伝わらないですよね。だから、ルールを守った新しい言葉は語彙力の一つとして取り入れたいし、むしろ取り入れるべきだと思いますね。
でも、ルール無視の勝手な言葉遣いは、相手を混乱させ、誤解を生み、トラブルに発展しかねないですよね。だから、ルール無視の乱れた言葉遣いは、ダメだと思うんですよ。」
羅針はそう言って、持論を説明する。
「でも、言葉って生きてるっていうじゃないですか。乱れた言葉も、新しい言葉として使うべきだと考えている人もいると思うのですが、それについてはどう考えているんですか。」
平櫻が更に疑問を呈する。
「まずルールって何のためにあるのかってことです。」羅針は例え話を交えて、話を続けた。「例えば身近にあるルールとして、交通ルールがありますよね。法律としては〔赤信号や黄色信号は停止位置で止まれ、青は安全を確認して進んでも良い〕なんですよ。でも、今巷では黄色で加速する車がいたり、赤信号なのに渡る歩行者がいたりしますよね。
昔、〔赤信号みんなで渡れば怖くない〕とか、〔青は進め、黄色は注意して進め、赤は命を賭けて進め〕とか、そんな言葉が流行りました。冗談で言ってる分には、ブラックユーモアとしても面白い言葉です。でも、これを実際にやったら、どうなるか子供でも分かりますよね。命がいくらあっても足らないってことです。それでも、ルールを守らない人は後を絶たない。自分の生命に直結するにもかかわらずです。」
羅針がそこまで説明すると、平櫻が言葉を挟む。
「でも、交通ルールは法律ですが、言葉のルールは法律じゃないですよね。そこまで厳密になる必要はないと思うんですけど。」
「確かに言葉のルールはただの文法です。交通ルールほど厳密運用する必要はないかも知れません。でも考えてもみてください。
ルールと言うのは、社会を円滑にするためのもので、市民の生命を守るためものですよね。それを守るのことは社会人として当然のことですし、守らなければ社会からはじき出されてしまいますよね。もしルールを守らない人がいれば、自分の生命が脅かされるのですから、隔離するべきだと考えるのは、自然のことだと思うんですよ。
翻って考えれば、言葉のルールにも同じことが言えるんです。
現在運用されている日本語のルールは明治期に確立された新しいルールです。それまでの日本語とは明らかに違う、人為的に作られた日本語です。そのあたりの歴史を話し出すと長くなるのでここでは端折りますが、要はその当時日本全国でバラバラに使われていた言葉、いわゆる方言を標準化して、どこに行っても通じる日本語を新たに作りだしたのです。それが今使われている標準語と呼ばれる日本語の文法です。新たな法律ですね。大日本帝国憲法と同じようなものです。
私たち日本人は、大日本帝国憲法の下に明治政府が政治をおこない、標準語の文法の下に日本語を運用することになりました。
文法とは文の法律ですから、守る必要があります。もし、そのルールを破れば、社会生活が立ち行かなくなります。
たとえば文法とは外れるかも知れませんが、最近よく聞く間違えとして、〔敷居が高い〕と言う言葉を、〔ハードルが高い〕という意味で使う人がいますよね。あれ、本来は〔不義理をしたから、入りづらい〕という意味なんですよ。だから、高級料亭とかを前にして敷居が高いとかいうタレントを見ると、この人は昔この店でどんだけ暴れたんだという、あらぬ妄想を掻き立てられるんですよね。まあ、今はハードルが高いという意味で使っているんだということは、私も理解してるので、それを指摘するつもりもないですが、この言葉を間違って使っている人を見る度に、言葉を知らない人なんだなとか、自分が悪人に見られていることも知らないんだなとか、そうな風に思ってしまう訳です。
いま、日本語において、誤用されている言葉というものは多分にあります。方言の影響もあるのかも知れませんが、標準語としての共通認識を逸脱する意味を使用する人が後を絶たないのです。
そういう、ルールを守らない人は、たとえ生命にすぐ直結はしないとしても、誤用が誤解を生み、度が過ぎれば刃傷沙汰になることもあります。それは、昨今のSNSを巡る炎上沙汰を例に挙げるまでもないでしょう。このことは、交通ルールと何ら変わる事はないんですよ。
ルールを破れば事故に遭う。文法を破れば人と衝突する。それだけのことなんです。
更に言えば、誤用から誤解が生じ、戦争に発展した例も歴史上枚挙に暇がありません。たとえば、太平洋戦争も言葉の誤用から誤解が生じたと言われています。真偽の程は分かりませんが、当時日本に突きつけられた最後通告であるハルノートというのがありました。この中でアメリカ側はCHINAを放棄しろと言ってきた訳です。
ところが、このCHINAと言う言葉が曲者で、アメリカ側はCHINAに満州国を含んではいなかった。ところが、日本側は満州国を含めた中国大陸全土をCHINAだと考えたのです。当然、当時資源確保に躍起になっていた日本としては、満州国を手放すことは国難に直結する大問題であると考えたため、断固としてアメリカ側の要求を飲めなかった訳です。
もし、アメリカの言うとおり、満州国は好きにして良いから、中華民国への干渉を止めて欲しいという、アメリカの意図がきちんと日本に伝わっていれば、もしかしたら太平洋戦争は起こらなかったかも知れないし、たとえ起こったとしても日本側はあそこまで頑なに戦争に固執することもなかった可能性もあるのです。
もちろん、歴史に〔もし〕はありませんが、この話は、言葉の意味、定義がお互いに異なっていたために誤解が生じ、戦争へと発展した問題として、通訳翻訳を生業とする人たちの間では、教訓として語り継がれている逸話の一つでもあるのです。
つまり、言葉というのは、認識が違うとそれほどまでに大きな問題に発展するということです。言葉のルールを簡単に考えている人は、それが分かっていないのです。」
羅針は長々と持論を展開した。
静かに聴いていた平櫻は、星路の言わんとしていることは分かったような気がするが、もし、星路の言うとおり誤解を恐れるなら、むしろ新しい言葉はその誤解が生じる可能性が多分に大きくなるだろう、それならば余計に忌避すべきであると考えた。
「星路さんの仰ることは良く分かります。言葉のルールを守ることは非常に大事だし、ルールを破れば戦争にまで発展する可能性を孕んでいるのだということも、良く分かりました。
では、そのような誤解が生じる可能性の多い新しい言葉を使うのはなぜですか。新しい言葉程、認識も定義も曖昧で、誤解を生み出す原因になることが多いと思うのですが。」
平櫻は、素直に自分の考えをぶつけてみた。
「確かに、平櫻さんが言うように、新しい言葉程誤解が生じますよね。だからこそなんです。」
羅針の言葉に、平櫻は思わず「どういうことですか。」と声を出してしまった。
「簡単なことです。私自身言葉が好きだからです。」そう言って羅針はにこりと微笑んだ。「新しい言葉というのは、新しい知識です。それまでカテゴライズされてこなかった物事を、新しい言葉がカテゴライズするわけです。言うなれば、新発見に等しいことなんですよ。こんなにワクワクすることはないと思うんですよね。
それに、新しい言葉は自分の語彙力のバロメーターにもなるんですよ。
新しい言葉は当然人によっては通じないですよね。そうすると、通じない相手にはその言葉の説明が必要になります。もし自分に語彙力がなければ、その新しい言葉を相手が理解出来るようには説明出来ないですよね。そうすれば、先程言ったように誤解が生じ、トラブルになる。それを防ぐためには語彙力を磨く、そのためには新しい言葉も積極的に取り入れていく。そういうことなんです。
かくいう自分も正しい日本語、正しい言葉を使っているとは決して言えません。だからこそ、日々勉強なんですよ。これは智のスパイラルであり、語彙を増やすための永遠に登り続ける言葉の螺旋階段なのですから。」
そう言って持論を展開する羅針の目は輝き、その表情は新しい発見を目指す科学者や、新開発を目指す技術者のように、希望で満ち溢れているようだった。
「智のスパイラル、言葉の螺旋階段ですか。」平櫻は羅針の言葉を反芻した。「それが、星路さんを新しい言葉に駆り立てる原動力という訳ですね。」と平櫻は羅針に確認する。
「そう言うことになりますね。言葉って本当に面白いと思うんですよ。好きなように使って良いんです。でも、相手に伝える必要がある。だからルールが生まれる。ルールがあればそれを破ろうとする者が現れ、そして勝手なルールを作ろうとする。ローカルルールや専門ルール、プロルールや素人ルール、初心者ルールに外国人用のルールなんていうのもあったりします。やがてそのような勝手なルールが正規のルールに統合されて、ルールが更新されていくのです。
所詮人為的に作られた言葉であり、人為的に作られたルールです。勝手なルールを運用する人が多数派になれば、少数派になった正規ルールを運用する人は、やがて駆逐されてしまうのです。
私はこのことが面白いと感じるのです。」
「そうなんですね。星路さんの言いたいことが良く分かりました。言葉に拘りつつも、新しい言葉を積極的に取り入れようとすることも理解しました。納得できるかといえば何とも言えませんが。」
一定の答えを得た平櫻は、そう言って首を傾げつつも、満足そうな表情を浮かべた。
「平櫻さん、こいつの説明が理解出来たの。すげぇな。俺は何度も聞いてるけど、はっきり言って、言ってることが支離滅裂ってこと以外、理解出来ないんだけど。」
駅夫はそう言って、羅針の説明を理解出来たという平櫻に感心した。
「俺の考えは一貫しているぞ。ルールは守れ、ルールを破りたいなら覚悟をしろ。新しいものを取り入れるにはルール無視のリスクがあるから、自分の知識武装をきっちりしろ。ただそれだけだよ。基本はルールありき。ルールを知った上で、ルールの上で知識を付け、新しい言葉を使いこなせってことだよ。」
羅針は当たり前のように駅夫に説明する。
「だから、それのどこが一貫してるんだよ。〔お前らはルールを守れ、俺はルールのグレーゾーンギリギリで勝手にやるから〕って言ってるように聞こえるんだけど。平櫻さん、俺の言っていること間違ってる?」
駅夫はそう言って、平櫻にも確認する。
「えっ、ええ。そうですねぇ……。確かにそう言う一面があるかも知れませんけど、星路さんは言葉というものを楽しんでいられるように、私は思うんです。そういう意味では一貫しているんじゃないでしょうか。ルールを破ろうとしている訳でもないですし。
例えるなら、キックボードのようなものだと思うんです。」
「キックボード?なんで?」
駅夫は突然平櫻が突拍子もないたとえを出してきたので、面食らってしまった。
「キックボードというは、以前は子供の遊具として脚でキックして進むだけのものでしたよね。それがいつの間にか動力が付いて、キックをしなくても進むようになりました。スピードも出せるようになり、原付と何ら変わる事がなくなりした。
言うなれば、これが新しい言葉です。最初は言葉遊びの延長で誰かが言い出した言葉や、何か新しい概念が生まれてそれに合った言葉を作ったりしたものです。それが、テレビやラジオ、ネットなどのメディアを通して人々の耳目に届き、多くの人が使うようになっていくのです。
キックボードと同じだと思いませんか。キックボードも新しい物好きの人が飛びつき、広まっていく。やがて当たり前のように使う人たちが増えてくる。
現象は一緒だと思うんですよね。
でも、その先が問題だと思うんです。
多くの人が使うようになれば、当然ルールを守らない、好き勝手に使う人が現れるでしょう。キックボードではそれが法律違反になり、新しい言葉では意味の履き違いで誤解が生じるということになると思うんです。」
静かに聞いていた羅針が大きく頷いていたので、平櫻は話を続ける。
「だから、軌道修正という新しいルールが出来るんです。キックボードも細かな法律が出来ましたよね。特定小型原付とか、特例特定小型原付とか、今までの法律との整合性を取るためなのか、ややこしい法律が出来ました。あれしちゃダメ、これしちゃダメってやつです。みんながきちんと法律を守っていれば出来なかった法律です。
新しい言葉もそう言うことだと思うんです。みんながちゃんと使っていれば新しい言葉でも古い言葉でも関係なくルールを正す必要はないんです。ところが、ルールを乱す人がいるから、ルールが強化されていく。自由に使えるはずの言葉が、ルールで縛られていくんです。
星路さんは、きちんとルールを守ってキックボードを黎明期から乗ってきた模範運転者と同じようにしているんだと思うんです。つまり、新しい言葉を、きちんとルールを守って、正しく使おうとしているんだと思うのです。
星路さん、私の言っていることは合ってますか。」
平櫻が、羅針を代弁するように、彼女が理解した内容を駅夫に説明し、羅針に確認した。
「その通りです。流石ですね。」
そう平櫻を羅針が称賛する。
「なんか、また狐に抓まれたような感覚だよ。平櫻さんも毒されてしまったか。お労しや。」
駅夫は何も言い返せなくなり、そう言って平櫻に向かって手を合わせた。
「もう、人を祈らないでくださいよ。私は星路さんの考えを代弁しただけで、別に毒された訳ではないですから。」
平櫻は駅夫に抗議する。
「でも、理解したんでしょ。やっぱり毒されたんだぁ。」
そう言って駅夫は、また手を合わせてる。
「だから、理解はしたけど、納得はしていないですって。星路さんの話には矛盾を孕んでいるし、一概に正しいと言えない部分もあると思います。」
平櫻は、手を合わせている駅夫に向かって言った。
「おっ、それってどういうこと。」
駅夫は、手を合わせることを止め、地獄に降りてきた糸のように、一も二もなく飛びついた。
「まず、一つに、文法と交通法規を同列に扱うことの矛盾があります。星路さんが仰るとおり、交通法規は物理的な安全を守るために明確に定められたもので、違反すれば直接的な危険が生じるものです。一方で文法は、社会的な合意に基づいて出来たものであって、たとえ明治政府が新たに作り上げたと言っても、それは、厳密に守らなくても場合によってはコミュニケーションが成立することがあります。仲間内であったり、同世代間であったり、同一背景、環境に属する人同士では通じるという、矛盾を孕みます。
更に、二つ目として、誤用が誤解を与えることは理解出来るとしても、往々にして誤用は人々の間に生まれた共通誤認によるものが多く、社会的合意形成が100%に足りていないだけで、それを誤用と言うには、あまりにも乱暴すぎる気がします。悪影響が出る、戦争に発展するという星路さんの理論は理解出来ますが、互いに言葉を尽くし、誤解を避けることも出来るはずです。
細かい部分でも納得出来ない部分がありましたが、私が感じたのはそんなところです。」
平櫻は、あまりに旅寝がしつこく手を合わせるので、星路の言葉に納得出来ない部分を列挙した。
「なるほど。そこに矛盾がある訳ですか。」話を聞いていた羅針が、何度も頷きながらそう呟いた。「そうですね。平櫻さんが仰るとおり、その辺は大きな矛盾ですね。良いたとえがすぐに浮かばなかったので、仕方ないですが、私もまだまだと言うことですね。一つ反論を加えるとするならば、交通法規と文法の違いは確かに平櫻さんが指摘するとおりですが、伝統としての価値や秩序を守り、社会を円滑にするという意味では共通していると思うんです。……まあ、それでも、論理の精度はもっと高めないといけませんね。流石、平櫻さんですね。駅夫を黙らせる論理武装をもう少し練る必要がありそうです。」
羅針は、平櫻に感心しつつも、駅夫に反撃する隙を与えないようにと考えた。
「おいおい、ちょっと待てよ。平櫻さんは結局どっちの味方なんだよ。羅針に火を点けてどうするんだよ。俺の頭じゃこれ以上羅針が論理武装してきたら、騙されても気づけないよ。」
そう言って、駅夫は嘆いた。
「どちらの味方でもないですよ。星路さんに騙されてるかどうか分からなかったら、私を頼ってください。今度は私が騙して差し上げますから。」
平櫻はそう言ってコロコロと笑った。
「えっ、マジかよ。前門の羅針後門の平櫻かよ。俺の立場は……。」
駅夫はそう言って腕で目を塞ぎ、泣くフリをしていたが、すぐに堪えられなくなったのか、笑い出し、「お前ら二人で結託したら、俺は、俺たちの親と結託するからな。」
そう言って、悪の組織の三下みたいな顔をする。
「マジかよ。おばさんとウチのお袋が結託したら、言葉では絶対敵わないよ。平櫻さん、この同盟は決裂ということにしてください。」
羅針は慌てたようにそう言って、平櫻に手を合わせて謝った。
平櫻は、急な展開についていけず、キョトンとしていたが、どうやら星路にも頭が上がらない人物がいるのだということだけは理解した。
「しょうがないですね。同盟破棄のペナルティは受けてもらいますからね。」
平櫻はそう羅針に向かって言うが、すぐに吹き出して笑い出してしまった。
「もう、平櫻さん、最後まで追い詰めなきゃ。でなきゃ俺が追い詰められるだろ。」
駅夫が笑いながら、平櫻を窘める。
「まったく、今度はそっちで結託かよ。平櫻さんどっちに付くかよく考えてくださいね。」
羅針はそう言って平櫻に詰め寄った。
話に夢中になっていた三人は、漸く食堂には自分たちしかいないことに気付き、慌ててごちそうさまをして、仲居さんに礼を言って食堂を後にした。