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日本全国鐵輪巡礼 ~駅夫と羅針の珍道中~  作者: 劉白雨
第拾弐話 静和駅 (栃木県)
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拾弐之拾肆


 旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、県道36号のガード下で一休みした後、再び天王宮てんのうぐうへ向けて歩き出した。

 左手に線路を見ながら、線路脇の農道をひたすら三人は歩き、擦れ違う列車を写真や動画に収めていった。

 何が来るか分からないため、踏切の音が聞こえてくると、三人はカメラを線路に向けて構える。普通列車であろうと、特急車両であろうと、来る車両に関係なく取り敢えず撮影していた。


「羅針、そう言えば、東武に新しい特急が導入されたって、ニュースかなんかでやってたけど、見たか。」

 駅夫がどこかで見聞きした最新特急のことを聞く。

「ああ、スーペーシアXのことか。実物は見たことないな。でも、導入されたって言っても、運用開始は2023年7月15日で、もう間もなく一年が経つぞ。平櫻さんは乗ったことありますか。」

 羅針がそう言って、平櫻にも尋ねる。

「はい。一度だけ乗りました。」

 平櫻がそう言うと、二人は驚いたように羨望の眼差しを向けた。

「乗ったんだ。どうだった。」

 駅夫が興味津々で聞く。

「良かったですよ。乗り心地はもちろんのこと、サービスも最高でした。」平櫻が答えると、駅夫は先を促すような目をしていたので、平櫻は話を続ける。「……友人と二人でコンパートメントを取ったのですが、1編成当たり4席しかないため、当初は結構予約を取るのが大変で、運行開始から二月ふたつき位たってから漸く乗れたんですよ。

 そうそう、浅草駅から乗ったんですが、ホームが特別仕様で、スペーシアXの映像が流れていたり、ホームの装飾も高級感に溢れていたりして、乗る前からワクワク感を掻き立てられて、久々の友人との旅にテンションは上がりまくりでした。

 列車は、旧来のスペーシアの形状を踏襲しつつも、窓枠は江戸文化の組子や竹編み細工を現代的に取り入れたらしく、ボディーの色は日光東照宮の陽明門に使われている胡粉ごふんをイメージした高貴な白が使われていて、青みがかった陶磁器のようなカラーリングは伝統と革新を感じさせるような外見になっていました。まあ、今時の言葉で言えば〔恰好かっこ可愛い〕ってところでしょうか。あっ、これ友人の受け売りです。

 ……外見の格好良さはもちろんですが、内装もかなり豪華でした。

 特に私たちが乗ったコンパートメントはプライベートが完全に守られる造りで、友人と二人で駅弁広げたりお酒を飲んだり、周囲に気兼ねなく、結構ワイワイしながら旅を楽しめました。

 最後尾の6両目がコンパートメントのある車両になるんですが、ここにはコックピットスイートという、運転台のすぐ後ろに定員七人の最高級の部屋もあるためか、案内係の方が付いて、様々なサービスの案内をしていました。

 部屋は扉が閉まる完全個室でしたが、定員が四人なので、二人で利用した私たちには充分すぎる広さでした。

 コの字型に配置されたソファーは高級感に溢れ、テーブルは折りたたみ式で、必要に応じて広げられるのもありがたい配慮でした。床には青い絨毯、壁には赤と茶色を基調とした歌舞伎を彷彿とさせる色が用いられていて、落ち着いた雰囲気を感じさせる室内は、日光までゆったりと過ごすことが出来ました。

 そうそう、5両目にはカフェカウンターがあって、アルコールとソフトドリンクが提供されていました。中には湯葉のお味噌汁なんていうのもありましたね。結構美味しかったですよ。メニューは他にもスナックやスイーツ、お土産やグッズなんかも販売してました。

 利用には整理券が必要だったんですが、結構人気で争奪戦が激しくて、そこはちょっとマイナスポイントですかね。

 でも、総じてサービスも行き届いているし、設備も充実しているし、2時間程の列車の旅は全然退屈しませんでした。」

 平櫻は堰を切ったように一気呵成に乗車レポートを繰り広げた。


「流石、専門家だね。思わず聞き入ってしまったよ。」

 駅夫が呆気にとられたような表情で、呟いた。

「ああ。流石ですね。もう乗った気になりました。」

 羅針も、話が微に入り細に入りしていたので、感心頻りだった。

「お二人とも褒めすぎですって。動画にした時に調べたので、ちゃんと覚えていただけですから。すみません、べらべらと語ってしまって。」

 平櫻が照れ臭そうに言って、喋りすぎたことを謝る。

「いや全然構わないって。それにしたって凄いって。」

 駅夫がそう言って、褒めちぎる。


 そんな話をしながら、三人がもう間もなく天王宮に着くかといった時、渡ってきたばかりの第234号踏切道が警報音を鳴り響かせた。三人は慌てて振り返り、最後の撮影になると、線路へ向けてカメラを向け、列車を待ち構えた。

 三人の準備が整うのと同時に、下り線路を走ってくる特急列車が見えた。

 列車が近づくにつれその全貌が明らかになり、それが今話していたばかりのスペーシアXと分かると、三人のテンションは今日一番の爆上がりをした。

 雨粒を蹴散らし爆走してきたスペーシアXは、胡粉を模した白いボディが鈍く光り、ファーンと警音を鳴り響かせて、三人の目の前を颯爽と通り過ぎていった。


 一瞬の出来事に、三人はその場にしばらく呆けたように立ち尽くしていた。

「すげぇな。」

 駅夫が魔法から解けたように呟いた。

「ああ。」

 羅針もその声を聞いて、絞るように声を出す。

「はい。今のは凄すぎました。」

 本物を見たことも乗ったこともある平櫻でさえ、言葉を失っていた。


 やがて我に返った三人は、自分たちが撮影した映像を見返し、上手く撮れていたか確認する。

 だが、そこに映っていたのは、雨の中を疾走するスペーシアXの姿が切り取られていただけで、三人が感じた迫力や畏怖、そして子供のような憧れの気持ちはどこにも感じられなかった。

「なんか違う。失敗だな。」

 特に写真に対して一家言ある羅針が、自分の一眼のモニターを見ながら悔しそうに呟いた。そこにはピントはもちろん光もアングルもタイミングもすべて完璧と思われる、雨を切り裂くスペーシアXの姿があったが、羅針の目にはただの金属の塊が通り過ぎているだけにしか見えなかった。

 モニターには完璧なフレームで収まったはずのスペーシアXだった。しかし、あの瞬間に胸を打った轟音も、雨粒が弾ける感覚も、そして全身を駆け抜けた震えるような感動も、まるでそこには存在していないように思えた。


「そんなことないよ、かっこ良く撮れてるじゃん。」

 脇から覗き込んだ駅夫が感想を言う。

「いや、これじゃない感が酷すぎる。ここまで酷いのは初めてかも知れない。」

 羅針は慰める駅夫の言葉に、反論し、肩を落とす。

「仕方ないですよ。目の前のあの迫力は、心臓を抉るぐらいの衝撃でしたから、それをその小さなモニターから感じようなんて無理な話だと思います。私も星路さんの写真は良く撮れていると思いますよ。きっと大きな画面で見れば、同じような感動が得られると思います。」

 平櫻もそう言って慰める。

「だと良いですけど。」それでも、気落ちしていた羅針だったが、気持ちを切り替えて「天王宮へ向かいますか。」と力なげに言った。

「そうですね。」

「そうだな。」

 平櫻と駅夫が顔を見合わせながら応じた。


 三人が雨の中を歩いて行くと、何もないだだっ広い田畑の中にポツンとお宮が建っていた。目的地の天王宮である。

 石造の鳥居には笠木が反り返った明神みょうじん鳥居で、かなり立派な注連縄が渡されていた。その奥には、石造の立派な狛犬が出迎えてくれ、更に奥には平入切妻造の簡素な社殿が建っていた。

 その社殿の壁は四方に板が張られていたが、上の方には隙間があり、まるで四阿を板で囲ったような造りになっていた。


 鳥居の前で脱帽一礼し、いつものように参拝をする。

「なあ、ところでこの天王宮ってどの神様を祀っているんだ。」

 駅夫が聞く。

「ああ、それがな、この天王宮はまったく情報が出てこないんだよ。郷土資料とか扱っている図書館とかに行けばもしかしたら分かるかも知れないけど、悪いけど俺には分からなかった。」

 そう言って羅針は謝る。

「なんだ、お前でも分からないことがあるのか。まあ、ネットも完璧じゃないし、資料がないんじゃお前もお手上げか。」

 駅夫が仕方ないなと言う風に諦める。

「ただ、ここの天王宮については分からないけど、おそらく系統である天王神社や天王社についてなら分かるぞ。」

 羅針が負け惜しみとも取れることを言い出す。

「おっ、いいねそういうのが聞きたいんだよ。で、どういうことなんだ。」

 駅夫が、パッと顔を綻ばして、興味津々で耳を傾ける。


「まず、天王神社、天王社というのは、牛の頭と書く牛頭天王ごずてんのうを、祇園精舎の守護神として崇めた、仏教の祇園信仰に基づく神社なんだ。この牛頭天王は、日本古来の神であるスサノオの本地ほんじ、つまり本当のお姿であるとして、スサノオ信仰も取り込んだ神仏習合に発展していったんだ。

 今現在は、いつも出てくる明治の神仏分離によって、牛頭天王とスサノオを分けて祀る神社が増えてきたけど、こうして、天王神社、天王社として、祀り続けている神社も全国に点在しているみたいだね。

 ちなみに、ここの天王宮の社号は最後に〔宮〕が付くけど、これには特に意味はなくて、なんとか神社、なんとか大社、なんとか宮と好きなように呼ばれていたらしいね。ただ、明治から昭和にかけては、神社と呼べるのは政府公認であること、大社と神宮は天皇の許可、いわゆる勅許がないと名乗れなかったみたいだね。

 もちろん今は政教分離で自由に名乗れるから、この天王宮が、天王神宮とか、天王大社とか名乗っても全然問題ないんだけどね。」

 羅針はざっと、天王信仰について語った。


「流石羅針だな。こういうの語らせたらピカイチだよな。」

 駅夫が感心半分、からかい半分で言う。

「まったく、どうせ話半分で聞いてたんだろ。」

 羅針が照れ隠しで駅夫を詰る。

「そんなことないぞ、牛頭天王とスサノオがくっついて離れたってことだろ。ちゃんと聞いてるよ。」

 本当に聞いていたのか、聞いていなかったのか、駅夫が巫山戯たように言う。

「まったく。でもまあ、良いか。後でテストに出すから。不合格なら飯代な。」

 羅針がそう通告する。

「おい、待てよ。そりゃ勘弁だよ。……平櫻さん動画撮ってたよね。後でそれ頂戴。」

 駅夫がそう言って、慌てて平櫻にお願いする。

「えっ、あっ、はい。それは構いませんけど。……分かりました。後でお渡ししますよ。」

 平櫻はそう言って星路の顔色を伺うと、しょうがないなという顔をしていたので、許可が出たと判断し、渡す約束をする。

 星路は、平櫻のその言葉を聞いた後、悪戯っ子のように口角を上げたので、おそらくこの後すぐにテストするつもりだと平櫻は察したが、パソコンに取り込んでから切り取らないとならないため、どうしようも出来ないので、合否は旅寝の運に任せるしかないだろうと思っていた。


「さあ、そろそろ駅に向かいますか。」

 一通り写真や動画を撮影し終わった羅針は、それぞれ写真や動画を撮っていた二人に声を掛けた。

「ああ。良いぜ。」

「はい。分かりました。」

 駅夫と平櫻がそう言って羅針のもとに集まる。


 参拝と撮影を終えた三人は、静和駅に向かって歩き出した。

 このあたりは梨の産地なのか、いくつもの梨園が沿道に現れた。時期はもう後一月ほどなので、最後の追い込みとばかりに、袋を被った梨の実がぶら下がっていた。

 梨が熟れ始めた良い匂いが漂う中、三人はひたすら歩いた。

 そろそろ疲れが出てきたか、車と擦れ違う時に声を掛け合う位で、三人は黙々と歩いていた。


 静和駅には20分程で到着した。

 今朝10時過ぎにこの駅を出発して、今の時刻は16時45分になろうとしていたので、7時間近くを散策していたことになる。


「雨の中を良く歩いたな。」

 漸く傘を畳むことが出来た駅夫が開口一番そう言う。傘を持つ手が疲れたのか、手を揉んだり、振ったりして、疲れを取ろうとしていた。

「ああ。まるっと7時間、休憩を入れても5時間は歩いているだろうな。」

 羅針も傘に付いた雨粒を弾き落としながら応える。

「本当に良く歩きましたね。こんなに歩いたのは久しぶりでした。」

 平櫻もそう言いながら、雨合羽を脱いで雨粒を払い落としていた。

「なっ、だから言っただろ、こいつにかかるととんでもない距離を歩かされるって。」

 駅夫が平櫻に言ったとおりだったことをアピールする。

「そう言えば、そんなこと仰ってましたね。言いつけを守って動きやすい恰好にしたのは正解でした。ありがとうございます。」

 平櫻は、駅夫の思惑を知ってか知らずか、駅夫に礼を言って頭を下げる。

「平櫻さんを使って、俺を陥れようったって、そうは問屋が卸さないんだよ。」

 羅針は、駅夫の思惑をしっかりと分かっていて、ざまあ見ろといわんばかりである。

「あっ、そう言うことだったんですね、それは分かりませんでした。まさか星路さんを陥れようだなんて、そんなこと旅寝さんがなさる訳ないですよねぇ。」

 平櫻は恍けたように言ったので、どうやら、駅夫の思惑は分かっていたようだ。

 しかし、そう言われてしまっては駅夫は二の句が継げず、「二人して。」と拗ねたようにぼやくしかなかった。


 三人は、雨具の水滴を落とし、濡れた身体をタオルで拭いた後、改札を抜け、地下道を通り、ホームへと上がって、列車を待った。

 やがて20400型の宇都宮行きが到着した。

 羅針と平櫻はロングシートに一直線だったが、流石に疲れたのか、駅夫もその後を追って羅針の隣に座った。

「流石に疲れたか。」

 羅針が駅夫に声を掛ける。

「まあな。」

 駅夫が一言応える。

「お疲れ様でした。」

 平櫻も駅夫に声を掛ける。

「ありがと。平櫻さんもお疲れ様でした。良く付いてきたね。」

 駅夫は礼を言い、平櫻を労う。

「年上のお二人に付いてくのが、これほど大変だとは思っても見ませんでした。自分の体力のなさを痛感しました。」

 平櫻はそう言って正直な気持ちを吐露する。

「そんなことないよ。こいつが異様に体力があるだけだから。」

 駅夫が羅針を指して言う。

「何言ってるんだよ。運動が苦手できた俺が体力なんてある訳ないじゃん。こいつの方が体力おばけですからね。平櫻さんそこは間違えないようにお願いします。」

 羅針は駅夫を詰り、平櫻を諭す。

「何が運動苦手だよ。何でもそつなく熟すくせに。」

 羅針は昔から体育の授業やスポーツなどでは、目立った活躍はしてこなかったが、それでも足手纏いになることはなく、何でもそつなく熟すことは出来ていた。

「そんなことないだろ。お前の方が何でも出来て、クラスの女子から黄色い声援を浴びまくって鼻の下伸ばしていたじゃねぇか。まるで昨日のことのように覚えているぞ。」

 羅針がそう言って反論する。

「鼻の下は関係ないだろ。まったく。ああ言えばこう言うだからな。本当に敵わないや。平櫻さん、こういうヤツだからね。気を付けるんだよ。」

 駅夫が勝てないと踏んだのか、今度は平櫻を味方に付けようとする。

「あっ、はい。」

 平櫻は困ったように、生返事をする。

「平櫻さん、鼻の下を伸ばすような男は信用したら駄目ですよ。信用するなら自分一択ですからね。」

 羅針はそう言って、負けじとアピールする。

 傍から見ると、まるで恋人を取り合う恋敵といった様相だが、その実、単なる味方の争奪戦である。

 平櫻は、また始まったとばかりに呆れたように二人を見て、「お二人とも信用出来ません。」と言った後、暫くして堪えきれずに笑い出した。

「またやられたよ。」

「また平櫻さんに一本か。」

 駅夫と、羅針は二人してまたおでこに手を当てている。本当にこうしてみると兄弟のようである、と平櫻は思った。


 そんな馬鹿なことを言い合っているうちに、列車はいつの間にか栃木駅に到着しようとしていた。到着放送を聞いた三人は慌てて降りる準備をし、栃木駅のホームに降り立った。


 三人は改札口を抜け、北口から宿へと向かう。

 駅前のロータリーには迎えに来た車が、入れ替わり立ち替わりひっきりなしに帰宅してきた家族を乗せていく。バスも長蛇の列を呑み込んでは大きなエンジン音を響かせ走り去っていく。

 日が暮れかけた栃木駅前に建つ、雨に濡れそぼったモニュメントの煌樹こうじゅも、どこか寂しげに、帰宅を急ぐ人々とそれを運ぶ車で慌ただしいロータリーを眺めているようだった。


 雨はだいぶ小降りになりつつあったが、それでも止む気配はなかった。再びペトリコールの匂いが三人の鼻をついたが、疲れ切った三人には、そんな匂いももう良く分かってはいなかった。


 三人は傘を差して、蔵の街大通りを歩き始めた。

 昨日歩いた時は感じなかったが、今日は雨に煙る街並みに、少し郷愁のようなものを感じた。古い建物が散見するこの通りは、どこか懐かしく、祖父母に連れられて歩いた田舎町の商店街を彷彿とさせた。

 雲の向こうで陽が傾き始めたのか、徐々に薄暗さが増していく栃木の街に、早くもヘッドライトを点け始めた車が時折通ると、雨粒に光が反射し、幻想的な景色を作りだしていた。

 羅針はそれを一眼で捉えようと、度々立ち止まってはシャッターを切っていたし、平櫻も動画に収めようとカメラを向けていた。ただ一人駅夫だけが、その光景を自分の目に直接焼き付けようとしていた。


 駅夫にとってその光景は、祖父母と歩いた田舎町で見た光景そのものであり、彼らとの思い出が走馬灯のように蘇っていたのだ。長い年月を生き抜いた証であるゴツゴツとした温かい祖父の手が、その祖父を支え家族を労ってきた柔らかくもしっかりとした冷たい祖母の手が、今ありありと駅夫の脳裏に蘇ってきたのだ。もう既に他界してしまった二人だが、その思い出が鮮やかに蘇ってきた。

 光や音、温度、そして匂いに至るまで、自分の目で、耳で、肌で、鼻で、大切な思い出と共に、すべてを駅夫は感じたかったのだ。

 そう、先程スペーシアXを撮影した時に羅針は失敗したと嘆き、それを振り払うかのように、今は夢中でシャッターを切っている。決して言葉にはしないが、おそらく無力感を覚えているのであろう。駅夫にはそれが手に取るように分かっていた。だからこそ、駅夫はこの美しい景色に対して同じ思いを抱きたくはなかったのだ。


 15分の道程を、随分長く感じたが、漸く三人は宿に到着出来た。

 宿の扉を開けると、心地よく暖かい空気が三人を包み込んだ。扉を閉めると途端に街の喧騒から解き放たれ、漸く安息の地へと辿り着いた安堵感に、三人はくずおれるように壁に寄りかかり、天井を仰ぎ大きく溜め息をついた。

 丸一日歩いた脚は鉛のように重く、三人は暫くそこで身動き出来なかったが、既に夕食の提供時間は始まっていたので、一旦部屋に戻り、荷物を置いてから食事を摂ることにしようとした。


「でもさ、このまま部屋に上がると部屋から降りてくる気力はなくなるぞ。」

 駅夫は、羅針の言った「部屋に戻ろう」という言葉を否定する。

「それもそうだな。」

 羅針は駅夫の言葉に、部屋に一旦戻ることを諦めた。

 平櫻も同じことを考えたのだろう。三人は部屋に上がることなく、そのまま食堂へと向かうことにした。

 ややもすればその場に座り込んでしまいそうになる身体に鞭を打って、動くことを拒絶しようとする足を引き摺るように、食堂へと入っていった。


 席に着くと、三人はもう何もする気力がないかのように、行儀悪くテーブルに肘をつき、顎を乗せて暫くぼぉっとしていた。

「みなさんどうされたんですか。」

 食事の準備に現れた女将が三人の様子を見て、心配そうに尋ねてきた。

「ああ、すみません、行儀が悪くて。今日一日歩き通しだったものですから。」

 羅針が顔を上げて、女将の問いに応える。

「そうなんですね。どちらを歩かれたんですか。やはり、蔵の街を散策されたんですか。」

 仲居さんと共に料理を準備しながら、女将は更に問いを続けた。

「ええ、巴波川沿いを歩いた後、実は静和駅の周辺を散策してきたんです。」

 羅針が答える。

「静和駅ですか。どなたかお知り合いでもいらっしゃるんですか。」

 観光地など何もないことを、遠回しに聞いているのか、そう女将が言う。

「いいえ。実は私たちルーレット旅というのをしてまして、静和駅が目的地だったので、それで静和駅周辺を散策してきたんです。」

 羅針は、正直に今回の旅の目的を説明した。話も長くなるし、流石に面倒くさいとも感じていたが、2日間お世話になっている宿である。そこは羅針の性格として嘘はつけなかったし、余計なことを考える気力もなかった。

「ルーレット旅ってなんですか。」

 羅針の予想どおり、宜の如く話が長くなった。

 羅針は、ルーレットを回して目的地を決めるこの旅の遣り方を、掻い摘まんで説明した。

「……と言うことなんです。それで今回は静和駅だったという訳なんです。」

「それは凄いですね。それで静和駅の周辺を巡ってきたんですね。如何でしたか。」

 羅針が説明を終わると、既に食事の準備を終えていた女将は最後まで熱心に耳を傾け、感心したように言った。

「ありがとうございます。静和駅の周辺は色々見所があって楽しかったですよ。赤塚山にも登りましたし、田畑が広がる風景も素敵でした。土の匂いとか、蛙の鳴き声なんかも楽しみました。凄いかどうかは分かりませんが、こんな風に三人で旅を楽しんでいるんですよ。」

 羅針は、話を締め括るようにそう言った。

「そうなんですね。とても素敵なことですね。私も旅行が好きなんですが、旅館の女将をやってるものですから、嫁に来てからこの方旅行なんて行ってないんですよ。旅行に来るお客さんは沢山受け入れてるんですがね。」

 女将はそう自虐めいた冗談を言って、コロコロと笑った後、料理の説明をきちんとして、女将の仕事を熟し、最後に「ごゆっくりどうぞ。」と言って、奥へと引っ込んで行った。


 夕飯のメニューは昨晩と変わらず、肉料理、魚料理、刺身がメインで、煮物、和え物、茶碗蒸しが付いて、御飯、漬物、味噌汁に、デザートである。この宿は食材の問題がない限り、毎日このメニューのようだ。

 もちろん、出てくる料理は異なる。まずは肉料理の鍋だが、今日は鋤焼き風の味付けで、溶き卵でいただく。魚料理は鮎の塩焼き、刺身には鮪、サーモン、鰺だった。

 冷えた身体に鋤焼きの温かさが身に染みるし、鮎の塩味が渇望していた塩分を補ってくれる。まさに疲労しきった身体に栄養を補給するという、食事の原点を体感しているようだった。

 一口一口の舌で感じ、喉で感じるその栄養分に、頭のネジが吹き飛ぶのではないかと思えるほど、体中の細胞が歓喜で沸き立つのだ。


 三人は言葉もなく黙々と食事を続けていた。駅夫と羅針が黙々と食べているのは不思議でも何でもないが、動画を撮影している平櫻も、撮影はしているものの、すっかり食レポのことなど頭から抜け落ちているかのように、ほぼ何も言葉を発していなかった。

 それほどまでに三人は疲れ切っていたのだ。

 栃木名産の湯葉も、干瓢も、地元の食材も、今の三人にとっては栄養補給をするための食材でしかなかった。


 熱燗で頼んだ地酒も、一本目の徳利は身体を温めるためか、グビグビとやったが、二本目からは徳利へはなかなか手が伸びず、代わりにお櫃の御飯へと手が伸びた。

 三人がデザートの苺大福に手が伸びる頃には、三人で結局徳利を7本しか空けていなかったが、お櫃は完全に空になり、半分ほどお替わりをお願いした。


 女将さんには、「今日はお酒より御飯が進むようですね。」なんて冗談半分に言われてしまった。昨日は四合瓶を3本も空けていたのだから、そんなことを言われるのも道理である。

「すみません。御飯がとても美味しいものですから。お酒より進んでしまいまして。」

 羅針が照れ臭そうに言い訳をした。

「本当に美味かったです。」

 一番飲んだ量が少なかった駅夫も、少し赤らめた顔で言う。

「とっても美味しかったです。何だか自分の限界に挑戦出来そうな気がしました。」

 平櫻はそう言ってはにかむ。

「平櫻さんは限界突破しちゃダメだから。そんなことしたらこの宿の倉庫と俺たちの懐が空になっちゃうからね。」

 駅夫がすかさず冗談半分で制止する。

「もう、酷いなあ。私にだって限界はありますよ。その半分ぐらいで限界ですから。」

 口を尖らかして、駅夫に反論するが、結局平櫻は冗談に乗っていた。

「あらやだ。お姉さんそんなに沢山召し上がるんですね。召し上がっていただくのは全然構わないんですけど、すべて召し上がってしまわれると、他のお客さんが困っちゃいますから、ほどほどにしてくださいね。」

 などと言って、女将も冗談に乗ってくれた。

「あっ、女将さんまで。やめてくださいよ、もう。」

 平櫻は口を尖らかして頬を膨らます。

 その様子を見て羅針と駅夫が笑い出し、つられて平櫻も笑い、一緒に女将さんも上品に笑っていた。





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