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日本全国鐵輪巡礼 ~駅夫と羅針の珍道中~  作者: 劉白雨
第拾弐話 静和駅 (栃木県)
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拾弐之拾壱


 熊鷹神社と愛宕神社を参拝した、旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は、この後どうするか話し合っていた。


「駅夫、この裏手にある赤塚山あかつかやまはどうする、登るか。」

 羅針が山頂の方を指差して駅夫に尋ねる。

「行っても良いけど、この雨だしな。平櫻さんはどうする。」

 駅夫は雨の様子を見ながら、平櫻に聞く。

「お二人が行くのであれば、ご一緒しますが。」

 平櫻も雨の様子を気にはしているようだ。

「それじゃ、折角ここまで登ってきたんだし、このまま山頂まで行ってしまおうか。」

 羅針は雨が然程強くないのと、足元が水浸しにはなっていないのを確認して、行けると判断した。

「了解。でも、〔無理はしない〕だろ。」

 駅夫はそう言って二人の間の標語を確認する。

「もちろん。それは大前提。」羅針はそう言ってサムズアップをし、「平櫻さん、無理はせず、ついてこられないようなら早めに言ってください。その時はすぐに下山しますから。絶対に無理はしないでくださいね。」と言って、羅針は平櫻にも念を押す。

「分かりました。」

 平櫻は大きく頷く。

「じゃ、行こうか。」

 羅針が先頭を切って進み、平櫻、駅夫と続いて歩き出した。


 低山でも遭難することは羅針も駅夫も、熊山に登った時に身を以て学んでいたので、慎重且つ大胆に赤塚山登山にアタックするつもりでいた。

 とは言っても、晴れていれば麓から5分も掛からずに登れる山だ。ましてや彼らがいる中腹の神社からは1、2分で登れるだろう。そこまで気負うことはないはずである。それこそ猪なんかに遭遇しない限り。


 だが、二人の生命に責任を感じている羅針にとっては、自分の判断が万が一を引き起こさないよう、細心の注意を払って歩みを進める必要があると考えていた。なぜなら、熊山での轍は二度と踏まないと決意していたし、これから登る道は登山道でもない、獣すら通ったかどうかも分からない、危険な雑木林の中だからである。


 駅夫も羅針と同じことを考えていた。熊山での猪との邂逅は心躍る千載一遇の出会いであった。しかし、一歩間違えれば危険との遭遇だったのだ。いつも冷静沈着な羅針があの時見せた、恐怖との戦いによる血の気を失った青白い顔は、駅夫にとって忘れがたい記憶となり、二度と羅針に精神的負担を掛けてはいけないと心に誓ったのだ。

 この山で、羅針と平櫻に何かあってはいけないと、駅夫は気を引き締めた。


 三人は神社の裏手に回り、道なき道を歩いて行く。

 先頭をいく羅針は慎重に進むべき道を選択していく。滑りやすい場所がないか、躓きやすい石や倒木はないか、落葉に隠れた窪みはないか、そして、最も恐れるべき野生動物と出会でくわさないかどうか、羅針は見逃さないよう一つ一つに目を光らせた。ここは人がほとんど通らないような場所であり、一歩間違えれば危険と遭遇する場所なのだから。

 そうやって、スマホのGPSと方位磁針を頼りに山頂の方角を目指し、時折後ろを振り返り、平櫻と駅夫の二人がきちんと付いてきているかも確認しながら、一歩一歩進んでいった。


 その羅針の背中を追うように、平櫻は時折木に手をついて息を整えながらも付いて行く。黄色い雨合羽を着た平櫻がヒョコヒョコと登っていく様は、まるでヒヨコが親鳥の後を懸命に付いていくようだ。

 駅夫はその後ろから、余裕を噛ましながらも、平櫻が滑り落ちてこないように、その一挙手一投足に注意を払っていた。

 羅針は駅夫を、駅夫は羅針を信頼し、互いに阿吽の呼吸で平櫻の安全を確保しながら山を登っていった。まるで親鳥がヒナを引率するように。


 雑木林の中は、雨粒の音と、三人が落ち葉を踏みしめる音以外、無音だった。時折、東武日光線を走る列車が立てる音と、踏切の音が耳に届くと、ここが現実世界なのだと認識出来るぐらい、静かだった。

 雨で煙った雑木林の中は、ジメジメとしていて、湿気が皮膚に纏わり付き、湿った土や木々の匂いが鼻をつく。せ返るような匂いが、まるで三人の五感を鈍らせようと襲いかかってくるようだ。


 雑木林を抜ける三人は、獣も通らないような場所を、羅針の先導の元、時折落ち葉の下から現れる、岩や、木の根に足を取られながらも、懸命に登っていった。

 標高差は然程ない、山とも言えないような場所である。しかし、木の葉をパタパタと叩く雨粒の音が、三人の心を不安にさせる。更に、五感を研ぎ澄まし、敏感になっている三人は、時折聞こえる不規則な音が、獣の存在を想起させ、あらぬ不安を掻き立ててしまっていたのだ。


 パキッ。

 辺り一面に大きな音が響いた。神経を張り詰めていた三人は、その大きな音に驚き、ビクッと身震いして、フリーズしてしまった。

「ごめんなさい。私が小枝を踏みました。何でもないです。」

 平櫻が暫しの静寂を破って謝罪をし、すまなそうに、また恥ずかしそうに微笑む。

「怪我はないですか。」

 羅針がビビってしまったことを隠すように、平櫻の心配をする。

「はい。大丈夫です。ありがとうございます。」

 平櫻はそう言って頭を下げた。

 その後ろで、駅夫はファイティングポーズを取って固まっていた。

「平櫻さん、猪が出ても俺がやっつけてやるから、安心して小枝でも何でも踏みつけてくれて良いからね。」

 駅夫は良く分からないことを口走り、ファイティングポーズを解いた。

「はい。よろしくお願いします。」

 平櫻はその意味の分からない言葉におかしさを堪えつつも、礼を言った。それを見ていた羅針も堪えきれずに笑った。暫し三人の緊張が解けた瞬間であった。


 三人はそれだけ神経を研ぎ澄まし、周囲の危険に五感を働かせていたのだ。それほどまでに三人は極度の不安に駆られていたのである。

 その不安は、危険に遭遇しないようにとする羅針と駅夫の決意によるものであり、平櫻が感じる言い知れぬ恐怖によるものでもあったのだ。

 もちろん不安の要素はそれだけではなかった。

 駅夫と羅針は傘で防ぎきれない雨粒にズボンを濡らし、気化熱に脚から体温を奪われていく。平櫻は雨合羽を着ているとはいえ、汗で服の中は蒸れ、不快感が募っていく。そんなことも不安を増長させる要因だったのである。

 些細なことが三人の心にプレッシャーを与えていたのだ。


 立っている木を頼りに手をつきながら、休み休みゆっくり登ったせいか、山頂までの距離は然程なかったが、それでも5分は掛かった。ただでさえ雨で視界も悪い上、傘を差し、雨合羽を着た状態で、雑木林に視界を遮られているのだ、先が見渡せない不安で、三人にとってはこの5分が永遠とも言える時間に感じた。


 雨で煙った雑木林を抜け、三人の前に視界がようやく開けると、雨粒が葉を叩く音も、湿った匂いも遠ざかり、目の前には灰色の空を背景にした山頂が広がっていた。

 三人は、漸くそこで不安から解き放たれたのだ。


「ここが山頂か。」

 駅夫が羅針に後ろから声を掛けてくる。

「ああ、そこに祠があるだろ。多分あの当たりが山頂だと思う。」

 あたりを見渡しても、看板らしきものはなかったため、仕方なく羅針はこぢんまりと安置されている小さな赤い祠を手で指した。


 そこには、背の高い携帯電話用の電波塔が建ち、巨大な円柱形の給水タンクが存在感を主張していた。そして、その奥に小さな赤い祠が、所在なげに鎮座していたのだ。

 そもそも何の祠かも分からない。石の台座の上に建てられた祠の高さは1mはあるだろう、丁度小学生の背丈と変わらないぐらいか。屋根は立派な平入切妻造りで、正面には入母屋破風が設けられている。大棟には立派な鳥衾とりぶすまもあり、造りは簡素だが、その佇まいは威風堂々としていた。しかし、風雨に晒された赤い塗装が、その年月を物語っており、苔生した石の台座がそれを証明していた。


「OK!分かった。」

 駅夫がそれを見て、羅針に向かってサムズアップをした。

「平櫻さん大丈夫ですか。」

 羅針は平櫻にも声を掛ける。

 足元に気を付けながら山道を歩いてきた平櫻は、まるで全速力でもしたかのように肩で息をしていた。

「はい、……大丈夫です。……まるで氷の上を歩いているようで、……思ったより足に力が入っていたみたいです。……一休みすれば大丈夫です。」

 一言言う度に大きく息を吸っていた平櫻は、リュックから水筒を取り出して喉を潤し、息を整える。

「帰りは、そこの山道を降りて行きますから、多分大丈夫だと思いますが、ゆっくりと休んでください。それと、これ、良かったらどうぞ。」

 羅針は、リュックから携行食の栄養補給ゼリーを平櫻に渡す。

「ありがとうございます。いただきます。あ、でもお代は……。」

 平櫻はありがたく受け取りながらも、慌てて代金について尋ねようとする。

「いいですよ。無理させたんですから、サービスです。」

 羅針は平櫻を遮り、そう冗談めかして言って、にこりと微笑む。

「それじゃ、お言葉に甘えて。いただきます。」

 平櫻はそう言って頭を下げた。

「平櫻さん、これ使いな。」

 後ろから、駅夫が折り畳みの椅子を差し出す。

「えっ、そんな、これは旅寝さんが休むために……。」

 平櫻がそう言いかけた。

「良いんだよ。おっさんは地べたに座れば。」

 駅夫が遮るように言う。

「すみません。何から何まで。ありがとうございます。」

 平櫻は再び二人に頭を下げた。駅夫と羅針は、照れ臭そうにしながらも微笑んでいた。

 三人は木の下に入り雨粒を除けながら、休憩することにした。


「羅針、ここの標高は73.6mだって。」

 ビニールシートを広げ、そこに座り、羅針から貰った栄養補給ゼリーを口に咥えながら、駅夫がスマホで標高アプリを起ち上げて計測していた。

「大体それ位だろうな、駅夫、地面につけて計測してみ。」

 隣に座る羅針も、栄養補給ゼリーを口に運びながら、駅夫に再計測させる。

「あ、73.3mだ。」

 駅夫が計測結果を読む。

「そうだな、それが地図に表示されてた値だよ。」

 羅針がそう言って、その数字がおそらく正しいことを言う。

「なるほどね。やっぱ、この標高アプリおもしれぇな。」

 余程気に入ったのか、熊山に登った時に入れたアプリを、これまでも駅夫は時折起動してはあちこちで計測していた。

「へぇ、そんなアプリがあるんですね。正確に出るもんなんですか。」

 平櫻が興味を持って聞く。

「ええ。ほぼ正確に出ますね。どうやって出してるのかは分からないですけど、国土地理院の標高表示と1mも誤差は出ないですよ。」

 羅針が答える。

「それは凄いですね。」

 平櫻は感心している。

「ただ、海抜表記とは誤差が出る場合があるので、注意が必要ですね。」

 正確を期すかのように羅針が一言付け加える。

「それってどうしてですか。」

 平櫻がその理由を尋ねた。


「羅針、ちょっと待て、それクイズにしろよ。」

 羅針が答えようとしたところに、自分で理由を考えたいのか、駅夫が口を挟んだ。

「なんだかんだ言って、お前もクイズが好きだな。」

 羅針が呆れたように言う。

「こういう風に育てたのはお前だからな。責任持ってクイズを出せよ。」

 駅夫が謎理論を展開して、出題を強要する。


「なんだそれ。ま、良いよ。クイズな。」呆れたように羅針は言い、「……それでは問題です。標高と海抜は地表の高さを表す数字ですが、どういう違いがあるでしょうか。」

 羅針は、少し考えてから、クイズ番組よろしく問題を出した。

「なんだよ、随分ざっくりとしたクイズだな。もう少しないのかよ。」そう言う駅夫に、羅針が首を横に振ると、しょうがないなと言う風に肩を竦めて、駅夫は思考を始める。「要は標高と海抜の違いを言えってことだろ。そんなの簡単じゃん。標高は山の高さを言うんだよ。だから、山に使うんだな。海抜は海からの高さだから、どこでも良いんだよ。だから、ここは山だから、標高も海抜も使うけど、静和駅みたいなところは海抜しか使えないんだよ。だろ。」

 駅夫が自信満々に答える。

「なるほどね。……それじゃ、平櫻さんはどうですか。」

 羅針は駅夫の答えを確認し、考え込んでいる平櫻に答えを促す。


「難しいですね。旅寝さんの仰るとおりのような気がしますけど、駅でも標高表示って見たことがあるんですよね。確か日本一高い野辺山のべやま駅って、標高表示をしていた気がするんですよ。確かにあのあたりも山だって言えば山ですけど、違う気もしますし。

 多分基準が違うんじゃないですかね。海抜はそのまま文字通り海面を基準にしていて、標高は、道路元標のように、標高元標のようなものがどこかにあって、それを基準にしてるんじゃないでしょうか。だから、数字が違ったりするのかも知れません。何とも言えないですけど、基準にする場所が違うと言うことでしょうか。

 そうですね、私の答えは、基準にする場所が違うと言うことにしてください。」

 平櫻が珍しく即答せず、あれこれ思考を巡らせて、漸く回答した。


「ファイナルアンサー?」羅針が二人に確認すると、二人とも大きく頷いたので、羅針は続けて「正解者は……おまけで平櫻さんが正解です。まあ、平櫻さんは半分正解と言ったところですけどね。駅夫は完全に外れな。」

 羅針が勿体付けて、甘めの採点をする。

「ホントにお前の出すクイズは難しいな。じゃ、答えは何だよ。」

 駅夫はそう言って羅針に正答を言うように促す。

「正解は、海抜の基準が測定地点の周辺の海面で、標高の基準が東京の特定期間の平均海面であると言うことだね。それと、標高は離島を除く日本全国で統一の基準が用いられているということだから、正確には二つの違いがあるってこと。

 だから、平櫻さんの答えは厳しく言えば半分正解ってことです。

 それと強いて言えばってことで、海抜は津波などの海に関する情報に用いられ、標高は山などの高さに関する情報に用いられる傾向があるという違いもありますね。

 だから、駅夫が言うことも一理あるけど、どちらも用いないって訳じゃないから、不正解ってことだな。」

 羅針が正答に関する説明をする。

「そういうことなんですね。」

 平櫻が半分とはいえ正答したことを素直に喜び、微笑んでいた。

「なんだよ、平櫻さんには甘くて、俺には厳しいのかよ。所詮お前も男ってことか。」

 そう言って駅夫は口を尖らして、子供のように拗ねる。


「俺は公平にジャッジしているぞ。」拗ねている駅夫に羅針は反論するが、そう言えば、火に油なのは分かっているので、「だから、お前の正答分に100点満点中30点をやるよ。」羅針は宥めるようにそう言って、空中に花丸を描いて「よく頑張りました。」と言った。

「何だよ、30点て。」

 駅夫は文句を言いつつも、少し嬉しそうだ。

 羅針は単純なヤツと心の中で思っても、決しておくびにも出さないで「30点は赤点ギリギリセーフだな。」と言って笑う。

「はあ?まあ、赤点じゃなければ良いか。」

 駅夫は、赤点と聞いて再び怒りモードに移行しそうになったが、セーフと聞いて矛を収めた。そのコロコロ変わる表情が面白いのか、平櫻は笑って見ていた。


「ところで、その基準ってもう少し詳しく教えて貰えますか。」

 平櫻が、巫山戯合っている二人に口を挟んで聞いた。

「あ、はい。良いですよ。」羅針は巫山戯るのを止めて、解説の続きを始めた。「海抜というのは周辺地域の海面を基準にしているというのは良いですかね。」平櫻が頷いた。「この基準は、全国各地の海面が基準になっています。この基準となる海面は、国土地理院が管理する、験潮場けんちょうじょうと言う、海面を測定する施設がデータを収集しているんです。他にも海上保安庁が管理する験潮所けんちょうじょ、気象庁が管理する検潮所けんちょうじょなんかもあります。それぞれ字は違うんですけど、やってることは同じで、潮位の計測ですね。ここで計測された潮位が海抜の基準になっているようです。」

 羅針はまず海抜について説明した。


「管理する官庁も、測量する場所も異なるんですね。それでは基準もバラバラ、数値が異なるのも頷けますね。標高の方はどういう基準なんですか。」

 平櫻がそう言って、標高の基準についても尋ねる。


「標高は、東京の隅田川河口にあった霊岸島れいがんじま、今は新川しんかわと呼ばれる場所で、1873年から約6年間に亘って海面を測定し、その平均を基準にしたらしいですね。

 標高にはもちろん基準点になる場所があって、いわゆる原点と言われる場所ですね。それが、国会議事堂の前庭に、西洋風の小屋があって、その中に日本水準原点と呼ばれるものが収められているんです。ちなみにこの小屋は日本水準原点標庫と呼ばれています。この水準原点を基準にして全国に水準点が設けられて、標高が測定されています。

 それと、離島に関しては、海抜と標高が食い違わないように、周辺地域の海面を基準にしているようですね。」

 羅針が標高についても説明をした。


「そうなんですね。ありがとうございます。ところで、その水準原点が国会議事堂にあるなんて不思議ですね。国会にあってもおかしくはないのでしょうが、なんか違和感がありますね。どうして国会にあるんですか。」

 平櫻が羅針の解説に礼を言いつつも、違和感について語り、理由を尋ねた。

「そうだよね。それこそ国土地理院とか、海上保安庁とか、気象庁とか、もっと言えば天文台とか、あるいは国土交通省とか、それなりに標高と関係のある官公庁なり施設にあってもおかしくないだろ。」

 それまで羅針の解説を黙って聞いていた駅夫が、口を挟んできた。


「確かに、そう言った公の施設にあってもおかしくないけど、元々この水準原点を決めたのが陸軍だからね。」

 羅針がそう言って、二人の疑問に答える。

「ちょっと待てよ、陸軍が決めたってどういうことだよ。」

 駅夫が更に聞く。

「要は、明治以降、国土の測量は大日本帝国陸軍の外局である、参謀本部陸地測量部と言うところの担当だったんだ。つまり陸軍の仕事という訳だ。この陸地測量部というのは今の国土地理院の前身に当たるんだけど、その建物が国会にあったという訳だ。だから、その跡地に水準原点があってもおかしくはないだろ。」

 羅針が経緯を説明する。


「なるほどね。陸軍が測量してたのか。なんか随分仰々しい話だな。というか、国土地理院って軍の部局だったのかよ、それは知らなかった。」

 駅夫は測量を軍が担当していたことに違和感があるのか、そんなことを言う。

「まあな。内部は今と昔では随分変わってるだろうけどな。

 それは良いとして、必ずしも仰々しい話でもないぞ。国家にとって国土の情報というのは最重要機密事項であって、国外に持ち出すなんてもってのほか。もちろん民間で測量するなんて、あってはならない国家転覆罪レベルの犯罪に該当する話なんだよ。当時はな。」

 羅針がそう説明して、駅夫の違和感を払拭しようとする。

「そうか。でもさ、当時はそうだったかも知れないけど、今じゃ地図なんてそこら中に溢れてるし、世界中の地図が見たい放題じゃん。それが、国家機密だなんて言われてもあまりピンと来ないんだよな。」

 駅夫はそう言って首を傾げている。


「確かに今の価値観からしたら、地図なんてありふれた情報だろうけど、当時は測量技術も拙いし、測量方法も徒歩で測量してた訳だし、もちろん測量データの蓄積もないから、すべて一から測量しなきゃならないだろ。手間暇とコストが莫大に掛かってたんだよ。そんな情報をそう簡単に国や軍が公開すると思うか。

 歴史でシーボルト事件って習っただろ。あれが最たるもんなんだよ。」

「シーボルト事件て、あのドイツ人の医者だか学者だかっていう男が地図を持ち出そうとしたとかなんとかいう、あの話か。」

「そう、それ。当時はまだ江戸時代だったけど、日本には最高水準の測量地図があったんだ。いわゆる伊能図だな。」

「千葉県の名士、伊能忠敬いのうただたかが半生を懸けて、日本全国を測量して作り上げたっていう地図だろ。もちろん知ってるよ学校でも散々習ったし、レプリカも学校の授業で見たし。歩いて測量して作ったなんて、あの感動は今でも覚えてるよ。」

「そうだな。確かに授業で見たな。俺はそこまでの感動はしなかったけど。でも、今の俺らぐらいの年から測量を始めたって話だから、今ならすげぇ人だったと思えるんだけどな。

 まあ、それは良いとして、彼が作り上げた伊能図は幕府禁制の、超機密情報だったんだよ。それをあろうことか、シーボルトは国外に持ち出そうとした。学者なんだから、学問で必要なんだとかなんとか理由を付けてね。

 船が難破して発覚しなかったら、その後どうなっていたか。もしかしたら明治政府ではなく、ドイツ政府が日本を統治していたかも知れないって話だ。

 だからこそ、幕府はシーボルトの言い訳を許さなかった。結局強制的に地図を没収して、国外退去の上、永久追放、それと関わった日本人には死罪になった者も含めて50人以上が処罰されたって言われている。」

「まじで、そんな大事おおごとだったのか。教科書なんて、『シーボルトが国外追放されました』って書いてあるだけだっただろ。まさか、そんな大事だったとは知らなかったよ。」

「まあ、歴史の教科書なんて、事実を羅列して、関連を学ぶことが主体だからな。事件、事故、事案、事柄の詳細な内容なんて二の次三の次なんだよ。歴史の授業は事柄を覚えることもそうだけど、本来は人類が犯してきた過ちを繰り返さないために学ぶものだからな。大体学校の授業では、歴史を学ぶ時間が足りなさすぎるんだよ。

 って話がそれた。

 とにかく、それほど地図ってのは当時から大事だいじだったんだよ。」

「だから、明治政府は軍に測量を委託したって言うのか。」

「そういうことになるな。軍であれば機密保持は完璧だし、スパイでもなければ、情報を引き出すことは出来ないし、セキュリティレベルは最高クラスになるからな。」


「あのぉ、そろそろ行きませんか。凄く興味深い話なんですけど、ちょっと寒くなってきたので……。」

 興に乗って話がドンドン脱線していく二人に、平櫻は声を掛けた。身体が冷えたのか、唇が震え、合羽の上から身体をさすっていた。おそらく掻いた汗が降りしきる雨で冷えたのだろう。

「そうですね。写真を撮ったら行きましょうか。寒いですよね。カイロとかありますか。……なければ、これ使ってください。ごめんなさいね、気が付かないで。」

 羅針は、首を横に振る平櫻に、リュックから使い捨てカイロを取り出して、いくつか手渡す。

「ありがとうございます。助かります。私こそ話を遮ってしまってすみません。」

 平櫻は震える手でカイロを受け取り、袋を開けて、一つは服の下へ忍ばせ、一つは手を温めるために使い、残りは羅針に返却しようとした。

「良いんですよ。それは差し上げます。遠慮はなしですから。……あっ、ゴミはください。」

 羅針はそう言って空き袋を平櫻から受け取り、ゴミ袋に入れて、リュックにしまう。

「お前は、本当に用意が良いな。」

 駅夫が感心したように言う。

「お前は寒くないのか。」

 羅針が駅夫にも聞く。

「俺は大丈夫だよ。少し寒いけど、カイロがいるほどじゃないから。」

 駅夫はそう言って頷く。


「じゃ、ちゃっちゃと撮影して、どこかでお昼にしようか。」

 羅針が駅夫に言って、立ち上がる。

「ああ、そうしよう。腹減ったしな。」

 駅夫がそう言うと、立ち上がって、ビニールシートに付いた水滴を払い落として畳んでいく。

「すみません。椅子ありがとうございました。」

 平櫻はそう言って、椅子を折り畳み、駅夫に返そうとして、付いた汚れをどうしようか逡巡していた。

「あっ、汚れたままで良いよ。ビニール袋に突っ込んじゃうから。」

 駅夫はそう言って、リュックから取り出したビニール袋に、折り畳んだビニールシートを入れて、そこへ平櫻に椅子を入れるよう促す。

「すみません。ありがとうございます。」

 そう言って、平櫻は借りていた折り畳み椅子に付いた水滴を、ある程度撫でて落とし、申し訳なさそうに入れた。


 三人はそれぞれ別れて、山頂で各々写真や動画を撮影し始めた。

 被写体には、巨大な電波塔と、巨大な円柱形のタンク、そして小さな祠があった。

 その並びはまるで時代が交錯しているようだった。ベテランの風格がある赤い祠と、その隣に聳え建つ無機質な新参者の電波塔、そしてどっしりと構える給水タンクは我が道を行く売れっ子である。そのどれもがこの山の主であり、トップモデルであると主張しているようだ。

 そのモデルたちの背景には、木々の間から、灰色の雲の下に広がる岩舟町の田園風景があり、空から落ちてくる水滴を受け止める木々の広がった雑木林があった。


「駅夫、三角点見付けたぞ。」

 羅針が落葉の中に埋もっていた標石を見付けて、駅夫に声を掛ける。

「おう。」木々の間から眼下に見える景色を撮影していた駅夫が、羅針の声を聞いて近寄ってくる。「……これか。一応ここが山頂になるのか。」そう言って、一枚パチリとスマホで撮った。

「山頂……、まあ山頂にはなるのか。ここより高いところがなければな。」

 羅針は正確を期すように言う。

「それにしても、ここにもあるんだな。これは、あれだろ、さっき言ってた水準点とは違うもう一つのヤツ。」

 羅針の言葉をスルーするように、駅夫は水準点と三角点に話を変える。

「ああ。基準という意味では同じだけど、これは高さじゃなくて距離の基準だからな。そこにも書いてあるけど、三角点てヤツだ。熊山でクイズ出しただろ。何カ所あるかって。あれだよ。」

「あれね。45㎞おきに973箇所あるっていってたヤツな。ブログにも書いたし、もちろん覚えてるよ。」

「そう言えば書いてあったな。……よし、写真撮ったら、そろそろ行こうか。」

「そうだな。平櫻さんに無理させたら可哀相だからな。」


 二人は早々に撮影を切り上げて、携帯電話用の電波塔を見上げて、動画を撮影していた平櫻に声を掛けた。

「お待たせ。」

「お待たせしました。そろそろ行きましょうか。」

 駅夫と羅針が声を掛ける。

「はい。星路さん、カイロありがとうございます。お陰でだいぶ身体も楽になりました。あの、ところでお代は……。」

 平櫻が礼を言って頭を下げ、また代金について言おうとする。

「良いんですよ、それもサービスです。……動画の撮影が済んだら、行きましょうか。」

 羅針が平櫻の言葉を遮って、にこりと笑い、そう言った。

「すみません。本当にありがとうございます。」

 平櫻は再び大きく頭を下げた。

「よし、飯だ飯。腹減ったからサッサと行こうぜ。ほら、平櫻さんも、置いてくぞ。」

 駅夫がそう言って羅針の背中を押す。

「危ないって。」

 羅針はそう言って笑う。駅夫と平櫻もつられて笑った。

 三人の笑い声と雨音だけが山頂に響いていた。




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