拾弐之玖
雨が降る蔵の街、栃木市の巴波川沿いに整備された遊歩道の綱手道を、旅寝駅夫と星路羅針、平櫻佳音の三人は傘を差して散策を続けていた。
綱手道は全長900メートルほどの遊歩道で、沿道には蔵や旧家が点在し、巴波川には遊覧船が浮かび、近年、観光地として注目を集めている場所である。建ち並ぶ建物は江戸時代のものだけではなく、明治・大正・昭和・平成・令和と、五つの時代にわたって建てられたものが混在しており、時代の移り変わりを目の当たりにできる、まるで巨大な博物館のような場所でもある。
しかし、観光地とはいえ、もともとここは地域住民の生活の場でもある。歴史ある旧家や蔵の合間には、昭和時代から近年にかけて建てられた住宅が並び、観光客の通る遊歩道と住民の生活圏が重なっているのだ。
朝のこの時間帯は、出勤する人や通学する学生たちが行き交うため、三人は散策を楽しみながらも、彼らの邪魔にならないように気を配って歩いていた。
「俺たちはあくまでも余所者だからな。」
駅夫が元気よく挨拶をしていった小学生の集団と擦れ違った後、ポツリと呟く。
「そうだな。彼らがここで生活し、街を守ってくれてるからこそ、こうして観光地が維持されてるんだからな。彼らの生活を邪魔しちゃ悪いよな。」
羅針はそう言ってあたりを見渡す。そこには雨に煙る蔵の街と、傘を叩きつける雨音だけが響いていた。
登校する子供たちは長靴を履いて、キャラクターが描かれたカラフルな傘を差し、黙々と学校に急いでいた。中には、三人に気付き「おはようございます。」と元気よく挨拶していく子供もいて、三人は戸惑いながらも挨拶を返した。
「守るって、こういうことなのかしら。」
小学生たちが登校する様子を眺めながら、平櫻は傘を揺らして小声で呟いた。平櫻は羅針が言った街を守るという言葉に対して、なにか違うと感じて思わず呟いてしまったのだ。
「どういうことですか。」
平櫻の言葉を聞いた羅針が尋ねる。
「あっ、すみません。星路さんに反論するとかではなくて、ただ、子供たちが見ず知らずの観光客にまで挨拶をすることが、この街を守っていることになるのかなって思ったんです。単に愛嬌を振りまいているだけのような気がしたので、街を守るということとどうも結びつかなくて。」
思わず呟いてしまった言葉を星路に聞かれ、少し平櫻は焦ったが、正直に感じたことを星路に告げた。
「確かに子供たちの挨拶が街を守るってことに直結するとは、私も考えていないですよ。でも、子供たちが挨拶を元気よくする街は、往々にして犯罪率も低いって聞きますし、未来を担う子供たちが元気であれば、街を守ることに繋がるんじゃないかと思うんです。
それに、子供たちが元気な街は、大人たちも元気だということでもあり、その地域コミュニティが元気な証拠でもあると思うんです。地域コミュニティが元気だということは、その街に活力があって、様々な問題を自浄していく力があるような気がするんです。
だからこそ、子供たちが元気だと言うことは、延いては街が生きている証拠であり、街を守ることに繋がるんじゃないかなと思うんですよ。」
羅針はそう言って自分の考えを補足する。
「確かに、挨拶は防犯の第一歩って聞きますから、あの子たちはただ、人に会ったら挨拶しなさいと、大人たちに教えられているだけなのかも知れません。元気に挨拶することは、確かに街が生き生きしていると感じますし、仰るとおり、街を守ることに繋がるのかも知れません。でも、それって本当に街を守ることになっているのでしょうか。
挨拶することは良いことなので、それをするなとは言いませんが、どこか歪んでいるような、そんな変な感じがするんです。そうは思いませんか。」
平櫻が挨拶をする子供たちに感じる違和感を言葉にしようとするが、言葉が上手く出てこない。
「私は特に変な違和感はないですよ。単に元気な子供たちだなという感想があるだけです。平櫻さんを否定するとか、そういう話ではなくて、残念ながら平櫻さんが抱く違和感を、私は抱くことが出来ないというだけです。」
羅針はそう言って、平櫻が言おうとしている違和感の存在を認めつつも、やんわりと否定する。
「そうですか。そう言われてみると、もしかしたらこの違和感は子供たちに対して感じているのではないのかも知れません。子供たちが元気に挨拶するって、確かに良いことですもんね。
でも、この何かが食い違っているような、違和感というか、心地の悪さみたいなものは拭えないんです。何でしょう、このモヤモヤした感じは……。」平櫻は少し考え込むような仕草をしたが、続けて「……そうですね、もしかしたらこの街の雰囲気というか、造りというか、構造というか、何かそういったものに、心地の悪さみたいな違和感を覚えているのかも知れません。この街自体が悪いのではなくて、守っているという観点からすると、凄くずれているような感じがするんです。」
平櫻は逡巡しながらも、羅針の言葉を聞いて、自分が感じている違和感が子供たちにないかもしれないと考え始めた。そして、この拭い去れない心の中の、街を守っているという言葉に対する違和感が、実は別のところに原因があるのではないかと思い至った。
「……私が感じるこの違和感は、もしかしたら、良く見る小江戸をテーマにした街造りをしていながらも、完全に観光地化をしていないこの状況にあるのかも知れません。先程まで子供に目線が行っていたので、子供自体にこうじゃないというような違和感を覚えていましたが、視点を引いて俯瞰的に見てみると、この街全体に異質な感じがある気がします。
子供自体に違和感があるのではなくて、子供たちの存在がこの街とそぐわないというか、合っていないというか、どこかチグハグな感じがします。違和感はもしかしたら街の方にある気がしてきました。
子供たちが元気に挨拶することは、子供たちを守ることに繋がるのは分かります。防犯の観点からも、挨拶は良いことでしょう。でも、その子供たちを街は守っているのでしょうか。ましてや、この街は、この街自身を守っているのでしょうか。」
平櫻が少し思案しながら、自分の違和感を分析するように、考えを巡らした。
「確かに、言われてみればこの街に違和感はあると思います。子供たちの存在がそぐわないというのも分かります。仰るとおり街が人々を守っているのかと言われれば、それを否定する言葉は私にもありません。
しかし、観光地とは概ねこういう場所じゃないでしょうか。
何かの観光スポットが注目を集めて、その周辺に波及して、徐々に観光地が出来上がっていくものだと思うので、街が発展していく過程において、新旧入り混じる状態に違和感を抱くのはごく自然のことだと思うのです。
ましてや観光地化が進めば、余所者が大挙して押し寄せてくる訳で、様々な危険に晒されることは自明の理です。だからこそ、この街の住民たちが守っていかなければいけないのではないでしょうか。
当然観光客の私たちも配慮することは大前提ですが。」
羅針は平櫻の言いたいことを否定するつもりはないものの、その違和感はここだけの話ではないだろうし、これを違和感としてしまうと、観光地というのは、人為的に作られていくものであるのだから、どこの観光地も違和感だらけという話になっていくと思うのだ。
「仰るとおり、観光地とは概ねこんな感じです。
でも、日本全国にある、同じような水運や運河をテーマにした観光地に、小樽や伏見、柳川といった場所がありますが、ここまでの心地の悪さ、何か違うなと言う異質な感じを抱いたことはありませんでした。
特に千葉の佐原は街そのものが江戸の街並みを再現していて、沿岸の建物はほぼ江戸時代や明治期の建物ばかりで、観光地として完成していましたので、違和感はほぼ皆無でした。
ああいうところを見ると、観光地としては大成功しているようですが、果たして、そこに住む人たちにとってはどうなんでしょう。あれは街を守っていると言えるのでしょうか。
確かに街は賑やかになり、経済も潤ったでしょう。でも、星路さんが仰るとおり、観光客が大量に押し寄せると言うことは、それなりに様々な問題が発生するはずです。
それこそ、騒音や、ゴミ、事故、軽犯罪に至るまで、問題は次から次と止まることを知らないでしょう。外国人観光客に至っては、言葉も通じず、文化やマナーの理解もないケースもあります。受け入れる側の心労はいかばかりか、想像に難くないです。
私の地元の鹿児島でも観光地化に力を入れていて、様々な整備をしていますが、そのどれもに、同じような問題が山積みで、姉が観光推進課に勤めているのですが、いつも愚痴ばかりなんです。
ですから、一見、この街が観光地化しすぎないようにバランス良く街を守っているようにも見えますが、私にとっては観光地化の推進と街の生活保護の両面で鬩ぎ合っているように見えるのです。決して街を守っているとは言えないし、それが、私の感じる違和感に繋がっているように思うのです。」
平櫻は、言葉を選びながらも、この街の現状に疑問を呈していた。これまで数多くの観光地を見てきた彼女ならではの視点なのだろう。平櫻自身生意気なことを言っていると自覚しながらも、星路が熱心に話を聞いてくれて、真剣に議論の相手をしてくれているので、思い切り自分の考えをぶつけて行くことが出来て、嬉しかったのだ。
「確かに、この現状を見る限り街全体が一丸となって、小江戸風の町を造り上げようとしているようには見えないですよね。だから、チグハグ感が残る街造りになってしまっている。それは、私も感じるところはあります。これが最終形態なのか、それとも道半ばなのかは分かりませんが、確かにそういう意味では街を守れているとは言えないし、違和感はありますね。」
羅針も平櫻の言うことに一理あると考え、頭ごなしに否定することなく多少の理解を示した。
「でもさ、これまで観光と縁のなかった人たちが住んでいる街に、いきなり観光地を造れって言ったって、右から左に『はいそうですか』とはならないと思うけど。」それまで黙って聞いていた駅夫が口を挟む。「新しく建てるならまだしも、住み慣れた家を改築するなんて、お金も時間も、ましてや気持ちの整理もつけなきゃいけないだろ。この街が観光地化に舵を切ってから、どれぐらい経つのかは知らないけど、それなりに時間が掛かる話だと思うよ。
ましてや住民たちにとって、街を守るとかそう言う話の前に、自分たちの生活が立ち行くのか行かないのか、その方が問題のような気がするけど。」
駅夫にとって二人の議論が平行線を辿っているように見えたので、堪えきれずに駅夫自身が考える正論を説いたのだ。
「そのとおりですね。旅寝さんが仰るとおりだと思います。だから、そこに違和感を覚えるのかも知れません。もちろんこの違和感が良いとか悪いとかそういう次元の話ではなくて、単に違和感があるというだけの話なんですが、街を守っているかどうかという話になると、私はそれは違うような気がします。
観光地化を推進するなら、当然現状の街並みを取り壊して、意図的に景観を整備していく訳で、それは守ると言うよりも、良く言えば改造、悪く言えば破壊をしているという方が近い気がします。旅寝さんが仰るとおり、住民にとっては生活に直結する問題だと思うんです。
もし、現状のこのままを維持しようとしているのであれば、それは守っているということにもなるでしょうが、観光客が大挙として押し寄せる中で、観光客に迎合していくこの状態が、果たして街を守っていると言えるのでしょうか。」
平櫻が駅夫の言葉を受けて、違和感の原因を特定できたように感じた。そして、その違和感が街を守るという大義と相容れているのかと言うことに、疑問を感じずにはいられなかったのだ。
「こう考えたらどうでしょう。この違和感がある街並みは今だけの特別な、限定開催された展示会や展覧会だと思うというのは。」
それでも街を守るという言葉に固執しているのか、それとも確固たる考えがあるのか、羅針が別の観点から考え方を提案した。
「確かに期間限定の特別展だと思えば、この風景にも価値が生まれますね。限定と言うことは、今だけの特別感が生まれるでしょうから。」
平櫻もそれには同意した。
「そうですよね、この風景に価値が生まれたなら、それは守るとかなんとかそういう言葉とは異なる次元の話になると思うんです。
つまり、この風景の価値を、変化という荒波の中で下げないようにしている。それが、私たち観光客の気を引き、価値を見出した人々がここに集まることに繋がる。そうすることで経済が回り、街を維持し発展させていき、その結果、街の様子が変貌していく。そういうことなんじゃないかなと思うんです。これが街を守るってことに結果として繋がっているんじゃないかなと、こう思う訳です。
守る対象が景観ではなくて、街の価値、街の存続と考えるのはどうでしょうか。」
羅針は守るという対象を街そのものから、価値というものにシフトして、平櫻に説明を試みた。
「確かに、価値というものを守るという意味では、この街の現状そのものに価値を見出すことは理解出来ます。それがこの街の存続に繋がっているというのも理解は出来ます。人が生活を営むことでこの街が維持され、この現状という価値を守っていることに繋がると言うことですよね。……仰りたいことは何となく分かりますが……。でも、それって、本当にそれで良いのでしょうか。価値があるからといって、すべてを犠牲にして生活し続ける意味というか、意義というか、そういったものがあるとは、とても思えないのですが。
ましてや、街を守るなんてことに繋がっていくとは到底思えません。もしこのまま住民たちの心がバラバラになれば、街は簡単に崩壊するような気がします。」
平櫻は星路の言葉を理解出来ても、納得がいかなかった。
「私の持論になるかも知れませんが、」羅針はそう断りを入れて話を続けた。「カメラを趣味とする人たちの間では、『今見ている日常の風景は、いずれ非日常になる。今の日常をカメラに収めることは、未来へ残す歴史の証拠になるんだ。』ってことを良く言ったりするんですよ。
子供の頃に撮って貰った写真を見返すと、その背景は今見ることができない風景があったりしますよね。この言葉は単にそういうことを言ってるんだけなんですけど、いかにも高尚な趣味であるとでも言うような、そんな言い方をしたりするんです。
カメラなんてそんな高尚な趣味でもないんですけど、アマチュアカメラマンが写真を撮るモチベーションを上げるためにそういうことを言ったりもするんですよ。
しかし、こういう今しか見られない風景を、違和感も含めたこういう風景を、写真や動画に残したりすることは、とても高尚なことなんじゃないでしょうか。
ましてや、平櫻さんは動画としてネットで公開している訳ですよね。この光景を写し撮って公開することで、見ている人がこの街の違和感も含めた魅力や価値を感じ取るんじゃないでしょうか。
確かに、生活している場所にズケズケと観光客が大量に押し寄せてくることは、ここを生活の場としている人たちにとっては、迷惑極まりない話ではあると思います。
ですが、この街の価値が上がれば、生活も向上していくと思うんですよね。今はそのための過渡期であると考えるのはどうでしょうか。
価値が上がれば、街が活気づきます。そして、人の往来が良きにつけ悪しきにつけ多くなり、街が人々の耳目の的になります。確かにこれまで培ってきた生活は出来なくなるかも知れません。穏やかな日常は消え去るかも知れません。
しかし、古い価値観を守ってきた町や村が、衰退し、消え去った例は枚挙に暇がありません。この街がそうなる可能性は低いかも知れませんが、可能性がゼロではないでしょう。シャッター街のように、街はあるのに人がいないという場所もあるのですから。」
羅針は少し熱くなっているかもと自覚はしながらも、平櫻に熱を込めて自説を説いた。
「確かにそうかも知れませんね。そんな高尚なことをしているつもりは毛頭ないですが、誰かのお役に立てているのなら嬉しいことですね……。
……この街の価値を守っているですか。違和感も含めて価値がある。今はその価値を高める過渡期にある。……街を衰退させ、廃墟にさせないためにも、この過渡期を乗り切るべきだ。そう仰りたいんですよね。」星路の言葉を反芻した平櫻が星路を見ると、大きく頷いている。「……確かにそうかも知れませんね。……上手く言えませんが、観光地化を推進する人だけでなく、ここで生活する人たちにも恩恵を受けられる、そんな街造りをして欲しいですね。余所者の私が言うことではないですが、私はそれが街を守ることだと思います。」そう言って、平櫻は少し考えていた。
観光を推進する人々も、今の生活を守ろうとする人々も、この街の住民なのである。どちらか一方の遣り方だけで街を造り替えていくことは、平櫻には違う気がするのだ。それが、平櫻が感じる違和感に繋がっているのかも知れないと、星路の言葉を噛みしめ、結論めいた考えに至った時、自分の中にある違和感の根源を見出せた気がしたのだ。
街を守ると言うことが、一体どういうことなのか、おそらく答えはないのだろう。しかし、平櫻の中では、一つの区切り、落としどころを見付けられたような気がしたのだ。
平櫻が抱いた、街を守るという言葉に対する違和感の正体は、なんとなく結論づけられたが、その言葉の意味や価値、そして人々の思いに考えを巡らせることが出来たことの方が、よっぽど価値があり、非常に有意義な時間になったと平櫻は感じていた。
平櫻にとっては、星路と議論を交わせたことが何よりも大きな収穫だった。星路に対しては生意気な反論だったかも知れないが、彼は頭ごなしに否定することもなく、根気よく議論に付き合ってくれたのだ。
星路はコミュ障であるから、ビジネスライクな話し方しか出来ないんだという旅寝の説明が、最近では良いように裏切られているような気がしているのだ。
星路の丁寧なしゃべり方は相変わらずで、旅寝に話す時と平櫻に話す時の違いに関して寂しい思いもあるのだが、それでも敬遠されることなく、旅程の相談を受けたり、議論に付き合ってくれたり、クイズを出してくれたりするのは、非常に嬉しかった。二人との出会いを考えると、ぞんざいに扱われたり、無視されたりしてもおかしくないのだから。
旅寝は「星路がため口になったら勝ち」みたいなことを言っていたが、平櫻はため口にならなくても、話してくれるだけで充分だと思っていた。ましてや時折、平櫻か旅寝のどちらに話しかけて良いのか分からなくなって、敬語とため口が混じっていることもあって、それもまた平櫻を嬉しくさせるのだ。
三人は登校する小学生たちを除けながら、そんな話をして、綱手道の散策を続けた。
途中、個人経営のクリーニング店や、昔ながらのラーメン屋など、どこか懐かしさを感じる店も散見され、三人はその度にカメラのレンズを向けて写し撮っていった。
「本当なら、あそこで遊覧船に乗る予定だったんだけど、今日はこの雨だから、明日にするから。」
羅針が駅夫へ、対岸にある遊覧船の受付をしている建物を指差して言った。
「了解。明日10時からだろ。」
駅夫が応える。
「そう。明日は横浜までの移動だから、ここをお昼過ぎに出ても充分時間はあるからな。たまには観光らしいこともしないと、だろ。」
「まあな。この前お袋に言われたよ。『あんたたち、折角お金掛けて旅に出掛けてるのに、なんでいつも背景が同じ様な場所の写真を送ってくるの。』ってさ。」
「まあ、自然豊かな場所で写真を撮れば、どうしたって背景には木しか写ってなかったりするからな。そりゃしょうがない。それじゃおばさんのためにも、ここで沢山写真撮っていかなきゃな。」
羅針はそう言って、駅夫にカメラを向けてシャッターを切る。駅夫は戯けた顔で収まった。
その後も、写真や動画を撮ったり、ガイドアプリの解説を聞いたり、羅針がクイズを出したりしながら、ゆっくりと1㎞弱の遊歩道を三人は歩き通した。
雨は強くなったり弱くなったりしたが、止むことはなかった。
綱手道は、左側へ大きくカーブする巴波川の本流と別れ、瀬戸ヶ原堰で支流の方へとそのまま真っ直ぐ進んでいく。
三人は富士見橋まで来ると、その足で栃木駅へと向かった。
栃木駅は朝ラッシュの時間を過ぎ、人はそれほどいなかった。
三人は傘に着いた雫を落とし、折りたたむと、昨日と同じように東武日光線のホームに上がり、静和駅へと向かうために、上りホームで列車を待った。
間もなく南栗橋行きの20400型が入線してきた。
雨に濡れた車両も趣があるが、三人はそんなことには目もくれず、駅夫は定位置のかぶりつきへ、羅針と平櫻はロングシートに陣取った。
この時間は特急の通過待ちもなく、車内も然程混雑なく、静和駅へ8分で到着した。
昨日来たばかりだが、雨の静和駅はまた雰囲気が異なっていた。雨音がまるでオーケストラのように響き渡り、どこからかカエルの声も聞こえてきて、静かだった駅がまるでコンサート会場のようだ。
ふと、線路の向こうに目をやると、線路の脇に立つ木々が、昨日は風に揺らめいて煌めいていたが、今日はしっとりと項垂れているようだ。しかし、元気がないのかというとそんなことはなく、恵みの雨を受けて、まるでシャワーを気持ちよく浴びているかのようにも見えた。
街中ではペトリコールの匂いが鼻をつき、どこか鋭く、雨が都会を支配しているような匂いだった。しかし、ここでは木々の発する匂いなのか、爽やかなマイナスイオンを思わせるような匂いが、線路から立ち上る鉄の匂いと混ざり合いながら、穏やかに漂っていた。まるで、森の妖精が人間界に潤いを与えようとしているかのようだ。
三人はホームでその雰囲気の違いを写真や動画に収めてから、地下道を通り、改札口を抜けて駅舎まで来た。待合室でスマホにそれぞれ地図を広げ、この後の散策コースを確認する。
「一応確認するけど、静和を散策するだけで良いんだよな。」
羅針が駅夫に最終確認をする。
「ああ。もちろん。ちなみに、ぐるっと廻るとどれぐらい掛かるんだ。」
駅夫が大きく頷く。
「静和の面積がおよそ3.3㎢で、東京ドームで約70個分になるから、隅々まで見ようと思えば、2時間から3時間は優に掛かるだろうな。」
羅針がざっと試算する。
「了解。ところでさ、なんで面積を言う時って東京ドームで換算するんだ。俺たちは関東に住んでるからイメージ湧くけど、関東以外の人だとピンと来ないよね。」
そう言って、駅夫は平櫻に話を振る。
「えっ、ええ。私は東京ドームを実際に見たことがあるので、大体の感覚は分かりますが、九州だと福岡ドームで換算しますね。」
平櫻はそう応える。
「怒ったりする人はいないの。良く『東京ドームなんか分かるかよ!』っていう人いるじゃん。」
駅夫が更に聞く。
「ああ、いますね。怒り狂う人。私の周りでも時々見かけますよ、そうやって言う人。でも、まあ、大抵は元の数字を言ってるので、自分で大きさの分かるもので換算すれば良いだけの話なのになぁって思ったりはしますね。」
平櫻はそう言って苦笑いした。
「まあ、そうだよね。」駅夫は平櫻の言うことに大きく頷き、「そういうことだよ。だから、東京ドームじゃなくて、東京タワーが何本立つかで教えてくれよ。」羅針に無茶振りをする。
「知るかよ。自分で計算しろよ。」
羅針が呆れたように拒否する。
「なんだよ、ケチだな。」
駅夫が羅針を詰る。
「まったく、しょうがないな。……3.3㎢に東京タワーを建築すると何棟建てられますか。」
スマホを操作しながら羅針はそう言って、スマホに向かって言う。
「面白い質問ですね!東京タワーの高さは333メートル、基底面積は約2,500㎡です。
まず、3.3㎢を㎡に変換します。3.3㎢は3,300,000㎡になります。
次に、東京タワー1本あたりの基底面積を使って計算します。3300000㎡÷2500㎡=1320
したがって、理論的には3.3㎢のエリアには約1,320本の東京タワーが建つ計算になります。ただし、実際には建物間のスペースやインフラも必要なので、実際にこれだけの本数を建てることはできません。」
羅針のスマホから、そう言って音声が流れてきた。
「なにそれ。」
駅夫がビックリしたように目を見開いている。
「これ?AIチャット。質問すると何でも答えてくれる、便利なヤツ。検索して出てこないようなものは、これで聞くのが一番早い。」
羅針がドヤ顔で言う。
「へぇ。そんなのがあるのか。俺にも使い方教えろよ。」
駅夫が好奇心丸出しで言う。
「お前、機械音痴のくせに、こういうのはやりたがるんだよな。ったく。教えてやるから、ほら、スマホ出しな。」
羅針が呆れたように言う。
「良いだろ。機械音痴関係ないし。やりたいものはやりたいんだから。」
子供のように目を輝かせて、早く教えろと駅夫は羅針を急かす。
「分かった、分かった。ガイドアプリは渋ってたのに、まったく、自動車教習所であんなことしたヤツとは思えないな。」
羅針は、今朝の話を蒸し返そうとする。
「だから、それは言わない約束だろ。それに、ガイドアプリの内容はお前に聞けば良いけど、この何だ、AIアプリとやらは、色々と俺でも使えそうじゃん。」
駅夫は完全に欲しい玩具を前にした子供のようだ。
「AIチャットな。まあ良いけど。まずはアプリ購入画面を開いて、……そう。それからAIチャットって入力して、……そう。それから、……そう、それを選択して、インストールして。後は画面の指示に従えば良いから。」
羅針が、今朝平櫻がやったように、駅夫自身に操作させる。今までなら、羅針がインストールまでしてやることも多かったが、羅針も心を入れ替え、本気で駅夫の機械音痴を克服させようと思い立ち、自分でやらせることにしたのだ。
「できた。」
駅夫が嬉しそうに、スマホの画面を羅針に見せる。
「ああ。良く出来ました。良い子良い子。」
そう言って羅針は駅夫の頭を撫でようとする。
「やめろって。もう。」
駅夫は笑いながら羅針の手から逃げる。
「ほら、早速使って見ろよ。」
羅針が促す。
「ああ。何聞こうかな。……そうだ。静和駅周辺でおすすめの散策場所はありますか。」
駅夫が早速、アプリを使ってみる。
「静和駅周辺でのおすすめの散策場所としては、どんな場所が好みですか?自然を楽しむ公園や歴史を感じる建物、地元の食文化が味わえる場所など、興味があるテーマがあれば教えてください!」
AIチャットから逆質問されてしまった。
「羅針、逆に質問されちまったよ。これどうしたら良いんだ。」
駅夫は、既にパニック気味だ。
「しょうがないな。聞かれたことに返事をすれば良いんだよ。例えば散歩したいだけとか、歴史を感じたいとか、美味いものが食べたいとか、話し相手だと思って会話してやれば良いんだよ。但し知識は豊富だけど、理解力は小学生並みだからな。話し方には気を付けろよ。」
羅針が呆れながらも、教えてやる。
「分かった。じゃ、……岩舟町静和の地域内を徒歩で散策したいので、お勧めを教えてください。」
駅夫は言われたとおり、聞きたいことを駅夫なりに噛み砕いて聞いた。
「静和駅周辺での散策をお考えとのことですね。以下に徒歩で訪れることができるおすすめスポットをご紹介します。
1、岩船山高勝寺。静和駅から徒歩約7分の場所にある歴史ある寺院です。
2、岩舟中久保第一公園。駅から徒歩圏内にある公園で、インターロッキングの遊歩道と芝生のコントラストが美しい場所です。
3、岩舟中久保第二公園。こちらも駅から徒歩でアクセスできる公園で、広々とした芝生が広がっています。
4、岩舟浅間神社。こちらは木花開耶姫命を祀る神社で、静かな雰囲気の中で参拝や散策を楽しむことができます。
5、みかも山公園。少し足を延ばしてみかも山公園まで行くと、四季折々の植物を楽しめる広大な自然公園があります。
これらのスポットを巡りながら、静和の自然と歴史を感じる散策をお楽しみください。」
AIチャットは一挙にお勧めを教えてくれた。
「ちょっと待って、どこって、どこって。」
駅夫は完全にパニックになっている。それもそうだ。全部聞いたことのない場所ばかりだろうから、言われても何が何だか分からないのだろう。
本来なら、一つ一つAIに質問して教えて貰えばいい話なのだが、駅夫にそれをさせてしまうと陽が暮れてしまうので、羅針が助け船を出す。
「まず、その中で、岩舟町静和にあるのは一つもないから。唯一岩舟浅間神社だけは、昨日行った場所だな。」
「マジか。なんだよ、結局ちゃんと教えてくれないのかよ。これだから機械は駄目なんだよ。」
駅夫はそう言ってむくれる。
「まあ、そう言うなって。さっきも言ったろ、理解力は小学生並みなんだって。お前が大人になって、子供のこいつが知ってることを引き出してやらなきゃ。小学生に難しい言い回ししたって、理解できるわけないだろ。
ほら、それよりどうするんだ、聞き直してみるか。それとも、あてもなくぶらつくか。」
羅針がそう言って駅夫を諭す。
「ああ、AIアプリってなかなか難しいんだな。」
駅夫はそう言って、期待していたようなものと違ったのか、がっかりしている。
「AIチャットな。しょうがないな、ちょっと待ってろ。……住所を岩舟町静和に限定して散策スポットを教えてください。岩舟町静和以外の情報は必要ありません。」
羅針は、自分のスマホでAIチャットに質問する。
「申し訳ございません。岩舟町静和エリア内での散策スポットに関する情報が限られており、具体的な観光名所のご紹介が難しい状況です。しかし、地域の自然や街並みを歩きながら、地元の方々との交流や季節の花々を楽しむことができるかもしれません。また、近隣の観光スポットについては、栃木市観光協会のウェブサイトなどで情報を収集することをおすすめします。」
AIチャットからの答えは、結局何にもないということだった。
「ほら、聞いただろ。静和には何にもないんだよ。」
羅針が駅夫に向かって言う。
「なるほど、そうやって聞くんだな。でも、結局何もないのか。分かったよ。じゃ、取り敢えず、その地域の自然や街並みを楽しもうじゃないか。道端の自然を満喫しに行こうぜ。」
駅夫はがっかりしながらも、切り替えて、雨傘を開いて表に出た。
「まったく。平櫻さんお待たせしました。そろそろ行きましょうか。」
羅針が駅夫に呆れながら、待合室の動画を撮っていた平櫻に声を掛けた。
「はい。」
平櫻は既に黄色の雨合羽を羽織って、ウェアラブルカメラに防水ケースを被せ、準備万端だった。
「雨合羽を着たんですね。それなら動きやすいですよね。」
羅針が平櫻の恰好を見て、驚きつつも、流石だなと思った。
「はい。雨の日はいつもこの恰好で散策するんですよ。街中だと、お店に入りにくいので傘を使うんですけど、やっぱり両手が使えないのは不便なので。」
平櫻はそう言って、両手を広げて自分の恰好を披露する。
「素敵ですよ。落ち着いた色の黄色も良いですよね。」
羅針はそう言って褒める。
「ありがとうございます。この合羽お気に入りなんですよ。」
平櫻は少し照れ臭そうに言う。
「おーい、早く行くぞ!」
駅夫が駅舎の外から焦れて声を掛けてきた。
「了解。今行く。それじゃ、行きましょうか。」
羅針は駅夫に返事し、平櫻を先に行くよう促した。