拾弐之壱
星路羅針はガサゴソする音で目が覚めた。
「わりぃ、起こしちゃったか。」
珍しく旅寝駅夫が早起きして自分の荷物を弄っていた。
「おはよ。珍しく早いな。って温泉か。」
駅夫の傍に置いてある洗面用具を見て、羅針はピンときた。
「おはよ。そう、温泉。お前も行くだろ。」
「ああ。」
羅針は、眠い目を擦り、スマホのアラームをキャンセルし、自分の荷物から洗面用具を取り出す。
二人は、今日も朝風呂に興じた。
この3日間で、露天を含めて5度目の入浴である。痛み軽減や疲労回復に効果があるという温泉成分に効果があったのかは分からないが、二人とも気持ちよくリラックス出来たことは間違いない。旅の疲れも癒えて英気を養うことが出来たのは、偏にこの温泉と美味い食事に依るところが大きいのだろう。
そんな温泉でゆったりと湯船に浸かって、ややもすれば長湯になるのをなんとか堪えて、朝食の時間に間に合うように、風呂から上がる。
朝食はいつもの大広間である。豪華絢爛な大広間はこれで見納めだと思うと、二人とも感慨深く、あちこち眺めてしまった。
「おはよ。」
「おはようございます。お待たせしました。」
既に席に着いて動画を撮影していた平櫻佳音に二人は挨拶をする。
「おはようございます。」と平櫻も応える。
平櫻はテーブルに並んだ朝食を一通り撮影しながら二人を待っていたようだ。
今朝の献立は昨日とほぼ変わらないが、焼き魚が鰰の一夜干しで、柔らかく淡泊な味わいが、起きたばかりの胃に優しく感じる。
小鉢には山独活と切り干し大根の和え物、煮物は雁擬きと隠元の含め煮が並び、更に自家製のもっちりとした豆腐と温泉玉子は、炊きたて御飯のあきたこまちに良く合う。
他にも石蓴と豆腐の味噌汁に、いぶりがっこと赤蕪漬けの香の物が付いて、デザートには林檎が鏤められたヨーグルトが出た。
どれも丁寧な作りであり、田舎の祖母が丹精込めて手作りしてくれたような温かみを感じる、どこか懐かしく味わい深い朝食だった。
「旅行に来ると、こうして朝からちゃんと食事を摂ることが出来るのが嬉しいですよね。」
平櫻は駅夫と羅針に向けて話しかける。
「そうだね。確かにこの旅を始めてから朝食をちゃんと摂らなかったことはないか。」
駅夫が少し考えてから平櫻に応え、羅針の顔を見る。
「これだけの朝食を自分で用意しようと思ったら、手間も費用も掛かりますからね。毎日となるとなかなか出来ることじゃないですよ。」
羅針の言葉に、独り暮らしをしている駅夫と平櫻の二人も同意して頷く。
「お二人は、旅行に出られる前、普段はどんな朝食を摂られてたんですか。」
平櫻が半分興味本位で聞く。
「俺は大抵前の晩の残り物か、パンかな。御飯の日もあるけど、大抵は食パンに目玉焼きとハムを載せて済ませることが多いかな。」
駅夫がまず応える。
「私は、大抵お粥とマントウですね。お粥といっても日本の病人食のようなものではなくて、中華風の具材がしっかり入ったもので、マントウも自分で作り置きしたものを食べてます。」
羅針が応えると、横から駅夫が口を挟む。
「そうそう、こいつの作るお粥とマントウは最高なんだよ。塩加減も絶妙で、なぁ。」
そう平櫻に言って、羅針に軽く頷いてみせた。
「へぇ。それは是非頂いてみたいですね。でも、ご自分でマントウも作られるなんて凄いですね。」
平櫻が感心を寄せる。
「いや、たいしたことありませんよ。小麦粉に水とイーストを混ぜて発酵させるだけですから、たいした手間でもないですし。」
羅針がこともなげに言う。
「後で作り方を教えて頂いても良いですか。」
「もちろん良いですよ。」
羅針が快く応じた。
三人は秋田の食材をふんだんに使った朝食に舌鼓を打ちながら、そんなたわいもない会話を楽しみ、この後の予定を確認した。
朝食を終えた三人は、一旦それぞれ部屋に戻り、二日間お世話になった部屋に別れを告げ、荷物を纏めて8時にロビーで集合した。
精算を済ませ、女将に礼を言い、若旦那の運転で峰吉川駅まで送迎して貰う。
三人が送迎車に乗り込むと、窓の外に見える赤い屋根の主屋が三人に別れを告げるように、朝日を受けてキラキラと輝いていた。
宿を出ると、すぐに雄物川を渡る橋に差し掛かった。すると、右後ろから差し込む朝日が川面を照らし、その光彩陸離とした反射光が、餌を探して忙しく飛び回る鳥たちと相まって、幻想的な景色を作りだしていた。それはまるで三人が旅立っていくことを惜しむかのようだった。
橋を渡ると車は雄物川沿いの道を駅へと向かう。堤防で川は見えなくなったが、車内では刈和野での思い出話に花が咲き、やがて奥羽本線の線路を潜るとすぐに峰吉川駅に着いた。10分ほどの道程は、送迎して貰う距離としては充分だが、別離を惜しむドライブとしては短すぎた。
三人は、若旦那にお礼をし、再来を約束して、送迎車を降りて別れを告げ、若旦那が帰っていくのを見送った。
駅で列車を待つ間も、平櫻は動画の撮影に勤しみ、駅夫と羅針はそれを離れた場所から眺めていた。夏を先取りしたような陽射しが駅へと降り注ぎ、グングン気温が上がって不快感を覚える。ホームの背後にある林から吹き抜けてくる風は、幾分かその不快感を和らげてはくれるが、額に吹き出してくる汗までは拭ってくれなかった。
「良いところだったな。」
駅夫が平櫻の動画撮影に配慮しつつ、小声で羅針に話しかける。
「そうだな。見所はあまりなかったけど、なんかおじいちゃんおばあちゃんの家に行ったような、そんな感じがしたな。」
羅針は額の汗を拭いながら、小声で応える。
「でも、良かったのか?周辺の名だたる観光地に寄らなくて。」
秋田とか大曲、角館、田沢湖と名だたる観光地が周辺にあったのにも関わらず、一歩も立ち寄ることなく刈和野駅周辺だけで済ましたことを、駅夫は言っているのだ。
「もちろん。そりゃ、行ったことないから、行きたいって気持はあるし、行った方が楽しいってのもあるけど、俺たちの旅はそんなんじゃないだろ。もしかして、お前行きたかったとか。」
羅針は応えつつもその気持を慮ったが、この旅のルールを決めたのは駅夫である。
「まあ、行きたいか行きたくないかで言えば、行きたいに一票入れるけど、俺たちは名もない場所をどう楽しむかで、レベルアップするんだからな。」
駅夫が冗談半分なのか、訳の分からない理論を展開する。
「なんだよレベルアップって、ゲームじゃあるまいし。」そう言って駅夫の理論を一刀両断するも、羅針は少し考えて話を続けた。「……まあ、俺も旅行会社に居たっていう自負はあったし、旅行のなんたるかを知ってるつもりでいたけど、この旅では、その常識が常識じゃなかったって思い知らされてるからな。ある意味レベルアップしたのかもな。で、俺たちは今レベルいくつなんだ。」
羅針はそう言って駅夫の考えに乗った。
「今のレベルか。『ステータス』って言ったら画面が出てくるから、それ見れば分かるよ。」
「ステータス。」
羅針が駅夫の言うとおりにしてみるが、ここは異世界ではないのだから、当然ステータス画面なんか出てくることもなく、何も見えてはいないのだが、羅針はからかおうとしている駅夫に逆襲を掛ける。
「お、レベル143か。もうひと頑張りすれば150に到達だな。」
羅針はそう言って、いかにも目の前にステータス画面が表示された体を装う。
あまりに羅針の仕草が自然だったので、駅夫は一瞬、本当にステータス画面が現れたかのような錯覚を起こし、驚いた表情をしたが、そんなことはあるはずないと思い直し、羅針を詰る。
「また、俺をからかおうとしたって、そうはいかないからな。ステータス画面なんて表示される訳ないだろ。」
駅夫は自分が嘘をついたことを悪びれることなく、笑い飛ばすように言うが、羅針は目の前の空間をまるでタブレットを操作するかのように、スクロールさせたり、タップしたりしていた。
「お前には見えないのか、この画面。ほら、ここに俺のレベルが表示されてるだろ。その下にはほら、スキルってあって、コンフュージョンレベル100、旅寝駅夫翻弄レベル100とあるだろ。」
詰っても続ける羅針に、駅夫は危うく騙されそうになるが、羅針の言葉を反芻して、その真意に気付く。
「コンフュージョン?翻弄?それって、俺を混乱に陥れてるってことじゃねぇか。この野郎!またやられた。」
一瞬でも信じた自分が悔しいのか、歯噛みし拳を振り上げる駅夫を見ながら、羅針は笑った。
羅針の笑い声に、離れた場所にいた平櫻が驚いたようにこちらを見ていたが、何事もないと分かると、再び動画撮影を続けた。
「まあ、冗談はともかく、こんな観光地とは程遠い、故郷のような場所を、旅行鞄持って観光に来るって、今までは考えもしなかったからな。お前が言うようにレベルが上がったのかも知れないな。」
羅針が一頻り笑った後、自分の考えを言った。
「そうだな。長休みの帰省みたいな、子供にとっては世界が変わる程の大旅行だけど、大人にとっては単なる移動みたいな感じか。」
駅夫なりに羅針の言葉を噛み砕いて理解しようとする。
「そうそう。ちょっと普段と生活圏が変わっただけっていうね。」駅夫の言葉に応えて羅針は続ける。「でもさ、自然を満喫することが出来たとしても、そこにワクワクするような箱物がある訳でもなく、ワイワイするような施設がある訳でもなく、地元の家庭料理的なものはあっても、名物料理と呼ばれるような郷土料理が出る訳でもなく、観光地としての必要最低限が揃ってる訳ではないけど、それでも、俺たちを惹きつける何かがこういう場所にはあってさ。
多分、こういうのは観光じゃないんだと思うんだよな。
俺たちがやってることは、なんて言うのか、上手く言えないけど、どこかに行って、見て廻って、写真撮って、郷土料理食って、温泉入って、お土産買ってっていう、要は王道の観光とは一線を画す、いわば括弧付きの『観光』であって、完全に別物だと思うんだよな。言葉にするとやってることは同じなんだけどさ。その対象が違うって言うか、……上手く言えないな。」
羅針が一生懸命言葉を探しながら、自分の考えを纏めようとしていた。
「確かにお前の言うとおり、普通の観光じゃないよな。有名観光地には行かないし、なにかアクティビティをする訳でもないし、ただ街ブラをして、なんて言うか内覧みたいな感じがするんだよな。」
駅夫が羅針の話を聞いて、唐突に大凡観光とは関係のない言葉を絞り出す。
「ないらん?」
耳慣れた音なのに、意味に辿り着けなかった羅針がきょとんとして聞く。
「部屋借りる時にするじゃん。事前に見せて貰う、あれ。」
「ああ、内覧ね。……なるほどね。確かにその土地を部屋と見立てて考えたら、日常を体験しようとしていることは、内覧とも言えるか。引っ越しするつもりで下見してると言えば、言い得てはいるな。」
「そうそう。下見。それが言いたかった。」
駅夫が我が意を得たりと言う感じで手を叩いて、羅針を指差す。
「下見か。……確かに観光って言うと、その土地の歴史とか風物とか景色なんかを見て楽しむっていう感じがするけど、俺たちがしてる事って、観光よりもその土地がどんな場所なのか、どんな商店があって、人々がどんな暮らしをしているのか、その街の日常を見て廻ってるようなものだからな。」
羅針はそう言って自分たちがしている旅が、これまで経験してきた観光とは明らかに違うものであるということを認識するとともに、今度はその概念に対する相応しい言葉が気になりだした。
「確かに、お前の言いたいことは分かるけど、ただ内覧とか下見とかは、ちょっと言葉が違う様な気がするんだよな。」
そう言って、駅夫の言いたいことに納得はしつつも、羅針は疑問として駅夫にぶつける。
「そうか。じゃ、なんて言うのが良いと思う。お前の言葉を借りれば、見せられる観光よりも、見る観光なんだろ。」
駅夫がそう言うと、羅針は脳をフル回転しているのか返事は上の空だ。
「ああ、そうだな……下見、……内覧、……見物、……見学、なんかどれもいまいちピッタリこないな。……散歩、あっ、散策だ。散策って目的もなく散歩しながらあちこち見て廻ることだろ。これがピッタリこないか。」
ブツブツ言っていた羅針は、我が意を得たりという感じで駅夫を見た。
「散策ねぇ。なんか、犬の散歩感が強くて、しっくりこないんだけど。」
駅夫にはあまり刺さらなかったようだ。
「それなら散策観光、もしくは散策見物とかならどうだ。」
羅針が言葉をくっつけて言い直す。
「散策観光か。たしかに、プラプラしながら観光する感じは増すけど、なんか耳慣れない変な言葉で、どうもしっくりこないな。」
駅夫はまだ納得いかないようだ。
「……じゃ、諸国漫遊とか……じゃだめか。」駅夫の表情を見て速攻で却下し、羅針は思考を続ける。「……じゃ、英語でスロートラベルとかはどうだ。最近の流行らしいし、観光に特化しない旅行スタイルをこう言うらしいから、ぴったりだと思うけど。」
「スロートラベルか。意味はそうなんだろうけど、どうもな。ゆっくり旅行って字面が違う気がする。」
「じゃあさ、素見ってのはどうだ。素顔の素と見るで素見。」
羅針が何か思いついたように、提案する。
「素見か。それは面白い言葉だな。お前が作ったのか。」
「いや、素に見ると書いて『すけん』とも読むけど、『ひやかし』とも読むんだよ。」
そう言って、羅針は笑う。
「こいつ、結局からかいやがったな。真剣に考えてたのに。」
駅夫は羅針を小突く。
「お前がどれも却下するからだよ。これ以上は付き合ってらんねぇよ。」
そう言って羅針は笑う。結局羅針は言葉に拘りはあったものの、しっくりする言葉が思いつかなかったし、言葉で括る概念ではないと感じ始めていたこともあって、早々に匙を投げ、駅夫をからかうことにシフトしたのだ。
「なんだよ。お前なら絶対ぴったりの言葉を考えてくれると思ったのに、しょうがねぇな。
結局、どんな言葉を当てても、俺たちの旅のスタイルにはしっくりこないってことなんだな。じゃ、こういうのはどうだ、旅寝星路方式、略して旅星スタイル。これなら、俺たち独自の旅スタイルだってことになるだろ。」
駅夫が笑いながら安直な言い方を提案する。
「なんだそれ。ある時は観光、ある時は巡礼、ある時は下見、ある時は散策、ある時は登山、ある時はスロートラベル、またある時は素見、してその正体は旅星スタイルってか。臍で茶も沸かねぇよ。」
羅針が呆れたように言う。
「そりゃ、臍じゃ茶は沸かせねぇからな。」
駅夫が真っ当なことを言うと、二人はどちらからともなく声を出して笑い出した。
再び大きな声で笑い出した二人に、いつの間にか傍に戻ってきて動画を撮影していた平櫻が驚いて、二人を見る。
「どうしたんですか。」
平櫻が聞くと、二人は気まずそうな顔をしていた。
「いや、こいつが馬鹿なことを言うからさ。」
駅夫が羅針を指差して告げ口する。
「いや、こいつが変なことを言ったんですよ。」
羅針も駅夫を指差して言い返す。
「また、二人して。本当に仲が良いんですね。」
そう平櫻は言いながら、この二人は本当に50代の男性だろうかと疑問に思ってしまった。まるで中高生の子供たちのように相手のせいにして言い訳をする姿が、何となく微笑ましく、かわいらしさまで感じていた。
そこへ列車接近の注意放送が鳴り響いた。
三人は、予期していなかったのか、突然の大音量に全身をビクッと震わせた。あまりに間抜けた反応をした三人は、互いに顔を見合わせて声を上げて笑った。
701系のステンレス車両がカーブに合わせて車体を傾けながら駅に進入してきた。
列車に乗り込んだ後、羅針と平櫻は空いているロングシートに座り、駅夫はいつものように運転席のかぶりつきに向かった。
通勤通学が一段落した車内には、観光客がチラホラ乗っているだけだった。