アクシデント
ひとまずソファーの上に散らかる本を片付けてソフィアをそこに座らせると、レオはバスルームへ向かった。
トイレと一緒になっている水場は小さな洗面台と、シャワー付きの狭いバスタブがあるだけの空間である。
殺風景でそっけないそこで、曇りまくった鏡に映る自分の顔はかなり疲れていた。
(ったく、とんだ災難だ)
仕事は上手くいかないし、とんだお荷物を背負ってしまった。
拾った本人が面倒を見ろというジャンヌの言は間違っていないが、踏んだり蹴ったりである。
(仕事も駄目になって金もないってのに、同居人ができるなんてな……しかも貴族の)
個人的な恨みはないが、貴族という階層に対する鬱憤は常にある。
一流の写真家になるのは狭き門だと知っているが、平民のレオの前には門すらない。実力云々以前に生まれで足切りをされる悔しさは、持って生まれた者には知り得ないだろう。
それに、普段でさえレオの収入は自分一人食べていくのにぎりぎりだ。
ソフィアは若い女性だから大食漢ではないだろうが、どうしたって支出は増える。
(しかもアイツも無一文。殺されそうになったのが本当なら、顔を出して働かせるわけにもいかないし)
救いは、このアパートの家賃は前払いで半年分を払ったばかり。しばらくは追い出されることも、大家から未払いを催促される心配もないということか。
だが、不安は金銭的なことだけではない。身内に虐げられていたとのことだが、伯爵家の令嬢だ。どうしたって自分たち庶民とは感覚が違う。
現に今だって、狭いレオのアパートに目を丸くし、ベッドは一緒に使えばいいのかなどと言い出す始末。
貴族は常識からして違うようで、これからの暮らしを考えると頭が痛い。
(やっぱり、見なかったことにすればよかったか……?)
実際、助けずに去るのは簡単にできたはずだ。
ソフィアは草の茂みに隠れるように水に浸かっていた。ほかに人もおらず、レオがいたことも誰も知らないのだから、疑われることもない。
けれど――汚れた服を脱ごうとして、ポケットから皺になった紙切れが出てきた。ガゼット社でクレマンとの言い合いの最後にレオに寄越した舞台のチケットだ。
「オフィーリア……」
妙なシンクロにすっと頭が冷える――悲劇のヒロインは水底に沈んだ。
レオが見なかったことにしていたら、ソフィアもきっと同じ道をたどっただろう。
「……しゃーねえな。どうにかするか」
亡くなった弟に重ねるわけではないが、人の死というものは堪える。もしかしたら助けることができたとすれば、なおさらだ。
もう一度、昨晩のあの時に戻ったとしても、やっぱり助けるだろう。
(まあ、あいつも悪党ではないだろうし)
ソフィアはかなりの世間知らずだが、性根が腐っているわけではなさそうだ。殺されかけたのにジャンヌに払う治療費のことを気にするくらいだから、盗みを企んだりもしないだろう。
診療所で目を覚ましたばかりのときは怯えた様子もあったが、髪を切ってからの彼女にはそんな気配もない。
(……あれには驚いた)
思い出すと呆れ半分、痛快半分といったところか。
髪は貴族令嬢が重視するもののひとつだ。手入れの行き届いた美しく長い髪は特権階級のステイタスであり、誇りでもある。
一般市民の間ではショートヘアも流行し始めているが、貴族の女性はそうではない。髪を切るのは寡婦になったか修道院に入るため、というのが通例だ。
だというのに、ソフィアは惜しげもなく切り捨てた。
(見かけによらず、逞しいのかもな)
長い前髪に隠されていた瞳は、どこか懐かしい常緑樹の色をしていた。
その瞳がレオに向ける眼差しは、弟を思い出させる。性別も色も違うが、変に擦れていないところが似ているのかもしれない――などと考えてしまうのは、文句を言いつつも、レオがソフィアを受け入れている証拠だと気づいてしまう。
はあ、ともう一度大きく息を吐く。
あくまで同居人として受け入れたのだ。お客様として迎えたわけではないから、生活の面倒を全部レオが見なくてもいいはずだ。
「……あいつ、家事くらいはできるのか?」
レオは撮影で不定期に家を空けるから、不在のときは自分でやってもらう必要がある。
まずは最低限のことから教えて、と段取りを考えているとだいぶ気持ちがマシになった。
知っているかどうかいちいち確認したり教えたりするのは面倒だが、こちらのやり方を覚えてもらえばそう邪魔にもならないだろう。
裸足で歩いてきた足や、袖口から入り込んでいた川の泥を落とす。全身に熱いシャワーを浴びると、ようやくすっきりした。
が、染みついた一人暮らしの癖で着替えを持ってきていなかったことに今頃気づく。
「しまった……あー、そうか。こういうこともあるのか」
これまでは場所なんて考えずに着替えていたし、夏など半裸状態でうろついていたのだが、同居人――しかも若い娘――がいるならそれは不可能だ。
今後は気を付けることにして、問題は今だ。
バスローブなんて洒落たものはない。しばし悩んだが、諦めてタオルだけ巻いてレオはバスルームを出る。
どうして自分の家でこんな不便な思いをしなくてはならないのかと憤りつつ、こっちを見てくれるなと念を送りながら声を掛ける。
「悪い、着替えを忘れて……って、なんだ。寝てんのか」
気まずい思いを押し隠して話しかけたが反応がない。
見ないようにしていたソファーのほうに顔を向けると、ソフィアは肘掛けに持たれるように顔をうつ伏せていた。
(そうだった。気絶は寝たうちに入らないよな)
タイミング的には眠ってくれていて助かったが、あれだけ気を揉んだのに実にあっけなくて拍子抜けする。
ほっとしたのと、呑気に眠っているソフィアを見たら自分もあくびが出た。幸い今日は撮影の仕事は入っていないから、ひとまず自分も休むことに決める。
目を覚まさないうちに、と急いで着替えると、戻ってソフィアの肩を揺する。
「ソフィア。寝るならベッドに……ん?」
揺すられて首がかくんと倒れ、寝顔が露わになる。頬が真っ赤で、息も荒い。
(熱?)
慌てて額に手を当てる。めちゃくちゃ熱い。
直接肌に触れられて、ようやくソフィアの瞼が持ち上がった。薄く開いた瞳は熱で潤んでいて、なかなか視点も合わない状態だ。
「おい、大丈夫か」
「レオさん……?」
「ここで寝るな。立てるか?」
「す、みませ……」
息苦しそうに絞り出した声まで熱い。どうにも動けなさそうだと判断すると、軽く舌打ちをして横抱きに持ち上げた。
「運ぶぞ」
なにか返事をしたようだがレオの耳には届かない。体も熱く、かなり具合が悪そうなことにも動揺したが、驚いたのは腕にかかる重さだ。
(こんなに軽かったのか?)
水を吸ったドレスを着ていないソフィアは片腕でも持ち上げられそうで、線の細さは怖くなるほど。
ますます病床の弟を思い出してしまって、漠然とした不安を感じてしまう。
「そこにいろ。ジャンヌを呼んでくる」
ベッドに横たわらせ毛布を掛けると、返事の代わりに小さく頷くのが見えた。
熱で震える手で毛布を抱き込み丸くなったソフィアをそのままに、レオは診療所への道をとって返した。