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アパートへ

 ジャンヌの自宅部分にあるシャワーを借りて体を清め、ざんばらに切られた髪を整えてもらい、診療所を後にしたのは白々と夜が明けるころだった。マクシムも帰らず、結局皆で徹夜である。


「はあ、なんだってこんなことに……」

「す、すみません。なるべくご迷惑を掛けないようにしますので」


 ちなみに、靴をなくしたソフィアが履いているのはレオのスニーカーだ。もちろん大きすぎるので、目一杯紐を絞ってどうにか脱げないようにしている。

 ぺたぺたと自分は裸足で歩きながら、レオは参ったと言いたげに大きく息を吐く。


「これ以上の迷惑ってなんだよ。もういいから、その言葉遣いも止めてくれ」

「え?」

「敬語なんてガラじゃない。まだるっこしくて面倒」

「そうで……そ、そうなの」

「俺の口が悪いのにも慣れてくれ。お前さんに合わせて変える気はない」

「いいで……大丈夫。うん、分かった、平気。でも、あの」

「なんだよ。はっきり言え」


 頼んでもいいだろうか。少し迷ったが、さっと差してきた朝日に背中を押されるように、ソフィアは願いを口にする。


「お前、じゃなくて、ソフィアって」

「は?」

「名前で呼んでほしいです……って、ほしい、の。ええと、いつも叱られるときにばっかり『お前』って呼ばれていたから、その……」


 敬語にならないようにつっかえながら話すと、レオは気詰まりをどうにかしたいと言わんばかりにがしがしと自分の髪を乱す。


(だ、駄目だったかな。図々しかった?)


 ハラハラしながら返答を待っていると、はあ、とまた溜め息と共にレオがこちらを向いた。黒髪の下で、早朝の空よりも濃い色の青がソフィアを映す。


「分かった、ソフィアだな。俺のことはレオでいい」

「はい、レオ。ありがとうござ……じゃなくて、ありがとう!」

「お、おう」


(よかった、怒ってないみたい……!)


 叔父たちとの生活では、ソフィアの要求が通ることは決してなかった。同じ立場での話し合いなどできなかったのだ。

 それなのに、川に落ちてから会った人であるレオやジャンヌたちとは言葉が通じる。


(それがこんなに嬉しいなんて)


 一方的でない会話に心が弾む。

 それに、誰かとこんなに話したのは何年ぶりか分からないくらいだ。声の出し過ぎで喉が痛いし、殺されかけて逃亡中のはずなのに、気分が軽い。

 満面の笑みを浮かべて礼を言うと気まずそうに視線を外されてしまったが、気にもならなかった。




 それから間もなく、レオのアパートに到着した。石造りの複数階建ての一階に、レオが住む部屋がある。

 貴族の屋敷ではない一般人の住宅にあがるのは初めてだ。こちらから同居を頼んでおいてなんだが、未知の世界に足を踏み入れることに緊張を感じていた。


 だが、歩きながら「散らかっている」「狭い」「置いてあるものには不用意に触るな」等々、さんざん言い聞かされた。

 そんなレオのあけすけな物言いのおかげで他人の家に向かう心構えもできたし、多少なりとも打ち解けた気がする。


「ここだ」

「こちらが……わあ」


 扉が開けられ、先に室内に入ったレオが軽く振り返る。その向こうの光景にソフィアは目を大きく見開いた。


「なんだよ、文句あるのか」

「ないです」


 レオの部屋は自分で言うとおり散らかっていた。しかしまず目に飛び込んでくるのは、至る所に無造作に置かれ、壁にも数多く貼られた写真のほうだ。


(写真がいっぱい……! そういえば、カメラマンって聞いたわ)


 川にいたソフィアを見つけたのも、雑誌社に写真を納品した帰り道だったそうだ。

 写真は花を近接で写したものや風景を撮ったものが多く、どれもソフィアが知らない場所が写っている。人物写真はほとんど見当たらない。


(見るなとは言われなかったけど、じろじろ眺めたら良い気はしないわよね)


 じっくり一枚ずつ見たいが、ひとまず我慢だ。

 それに、初めて入った部屋の新鮮さにも興味は尽きなくて、ソフィアはなんとか写真から視線を外す。


「狭いだろ」

「こういうお家には初めて入ったので、比べられないです」


 ドアから入って正面にテーブルセットとキッチンがあるが、どちらも小さいから補助的なものだろう。

 右手の窓側にはベッドが置いてある。さっきまで寝ていましたというような毛布の具合に気恥ずかしさを感じるが、ならばここは寝室なのだろう。


「えっと、レオ。リビングはどちら?」


 玄関から入ってすぐ寝室というのは珍しい気がしたが、そういう間取りもあるのだろうと勝手に納得したソフィアは、また溜め息を吐かれてしまった。


「……ここが寝室で、リビングで、ついでにキッチンだ」

「えっ」

「今見えているこれで全部。狭いって言っただろう」


 この一室で、起きてから寝るまでの全てをまかなうのだと聞いて、ソフィアは驚いた。


「これでも広いほうだぜ。もっと狭いとこに住んでるヤツも珍しくない」

「そ、そう」


 叔父たちにより令嬢らしい楽しみからは遠ざけられたが、ソフィアは屋根裏や物置に押し込められたわけではなく、庶民的な生活とは無縁だった。

 虐げられ、世間と切り離されていたとはいえ、ソフィアの常識はあくまで貴族の生活に基づいているのだと実感した最初だった。


(ここで全部……)


 ソフィアは改めて部屋を見回す。フォルジュ邸の使用人室よりは広いが、書斎よりは狭い。ビリヤードルームあたりが近い広さだろうか。

 キャビネットの上に積まれた本は雪崩を起こしそうで、一台しかないソファーにまで浸食している。

 床やテーブルなどの上にも雑多な物が放置してあるが、無秩序に散らかっているというよりは、置き場所が定まっていないという印象だ。


「そうすると、レオはここで眠っているのね」

「……あー……そう、なんだが」


 どう見ても一人用のサイズのベッドを見ながら尋ねると、レオはなにかを察したようで、額を押さえて言い訳のように話し始める。


「一応、もう一部屋ある。本当ならそっちを寝室にするんだろうが、俺は暗室に使っているから、ないのと同じだ」

「暗室?」


 おうむ返しにしたソフィアに、レオはベッドと反対側の壁にあるドアを指差した。


「写真の現像をする部屋だ。光が入らないように窓を塞いでいるし、触ると危険な薬品もあるから、ソフィアは入るな」

「写真の……レオの大事な場所なのね」

「大事……まあ、そうなんだろうな」

 場所に大事という言い方は少し変だったかもしれない。意外そうに眉を上げたレオは、一瞬遅れて返事をした。

 レオの声が今までで一番柔らかく聞こえた気がしたが、表情のほうは苦々しそうにして視線を外している。


(……?)


 なにか気にかかることがあるのだろうか。

 引っかかったが、ソフィアはひとまず入室禁止について返事をする。


「分かったわ、暗室には勝手に入らないって約束する。それでね、ベッドなんだけど。あれで二人眠れるかしら。狭くない?」

「一緒?」

「寝相は悪くないはずだけど、誰かと眠ったことはないから分からないの。寝ぼけて蹴ったりしないかしら」


 誰かと一緒に眠るのは、ごく幼いときに母親と同じ寝台に入った数回くらいしか記憶がない。

 そう言ってあれこれ悩み始めたソフィアに、レオが思い切り動揺する。


「ちょっと待て。ソフィア、お前、俺と同じベッドで寝る気か」

「だってあれしかないのでしょう?」


 きょとんとして首を傾げると、レオは信じられないものを見たように狼狽えた。


「ソフィア……それなりの年齢の男と女が一緒のベッドに入る意味って分かるか?」

「眠るのよね」

「なるほど、そうきたか。ほかには」

「ほか? ええと……あっ、冬はぎゅってくっつけば寒くないわ」


 吹雪の日に、子ども(ソフィア)を抱いて眠ったら温かくていい夢が見られたと、母が言っていた。

 屈託なく言うソフィアに、レオはますます頭を抱えてしまう。


「どうやら、お嬢様っていう生き物の感覚を甘くみていたらしい。いいか、ソフィアがいる間、俺はベッドを使わない。ソファーで寝る」

「どうして?」

「あのなあ、どうしてもこうしてもないだろ!」

「だってこのソファー、二人掛けよ? わたしでも横になるのは無理そうなのに、レオなら絶対にはみ出るわ」


 ソフィアがレオと話すときは見上げる必要がある。自分より背の高い彼には、どうしたってこのソファーは小さい。

 狭くとも、ベッドのほうが脚を伸ばせるだけよほどマシである。再度そう言っても、ソファーで寝るとますます意地を張られてしまう。


「俺は、絶対に、一緒に、寝ない」


 一緒に暮らす上でどうしても譲れない。そうしないのならば、どうにかジャンヌを説得して診療所に置いてもらえ、と言われてしまった。


「う、うん。分かった」


 そこまで頑なになる理由が分からないが、ひと言ずつ区切って、噛んで含めるように宣言されては頷くしかない。


「先が思いやられる……」


 今日一番の深い溜め息を吐いたレオに、やはりソフィアは首を傾げるのだった。


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