目が覚めたら知らないところ
――人の気配を感じて目を覚ますと、ソフィアは見知らぬ女性に顔を覗き込まれていた。
肩までの黄褐色の髪に、薄青色の涼やかな目元の女医はジャンヌ・メルシエと名乗り、ソフィアがこの近くの川から引き上げられたこと、救助されて応急処置をしたところだと教えられる。
数枚のタオルと着替えを渡され、目覚めてくれて助かったとほっとされる。
「意識の無い患者を着替えさせるのは重労働なのよね。早速だけど着替えて。私の服だけど、濡れたままよりずっとマシよ」
「は、はい。お借りします」
「そこに衝立があるから」
自分も寝間着から着替えてくると言って奥の部屋へ行ったジャンヌを見送りつつ、ソフィアは辺りを見回す。
使い込んだ鍵付きのキャビネットには薬品と器具が並び、棚には薬学の本や症例集。狭いし古いし散らかっているが、清潔感はあって、ここが診療所だというのは間違いなさそうだ。
(わたし……どうなって――)
ふっと目の前が暗くなって、馬車から落ちたときのことを思い出すと同時に、くしゃみが出た。心理的なものか身体的なものか分からない悪寒がざっと全身を走る。
(……着替えよう)
自分が横になっていたせいですっかり濡れた診察台からそっと降りると、靴も履いていないことに気がついた。川に落ちた衝撃でか、流されている間に脱げたのだろう。
まだ体温が戻らずにかじかむ指と、濡れて貼り付くドレスに苦労しつつ脱いで、乾いたタオルで体を拭うとやっとほっと息が吐けた。
渡されたワンピースは初めて着るタイプのデザインだった。
(こ、この着方でいいのかしら)
広めに開いた襟ぐりも、ぴったりと体に沿うラインも慣れなくて気になってしまう。大判のタオルで上半身を覆うと、ようやく少しだけ落ち着いた。
剥き出しになる膝は隠しようがなく、居心地の悪さを感じながら診察台の乾いているところに腰掛け髪を拭き始める。
十年以上切っていない髪はひたすら長く、あちこち絡まっている。なかなか水気が取れない髪をタオルで押さえているところに、ジャンヌが戻ってきた。
「あのっ、この度は――」
「ああ、お礼ならあなたを川から引き上げたレオに言って。私はここに運ばれてからのことしか分からないし。それで、服の下に怪我はない?」
「い、いえ、平気でしたが……、その、訊かないのですか?」
「川に落ちていた理由を? そんなのレオが戻ってきてからでいいでしょ。治療が先よ」
私は医師だから、と揶揄うように片目を瞑って、ジャンヌはソフィアの腕などについた擦り傷に手早く薬を塗ってくれる。
「普段と違う痛みや、気分の悪さはある?」
「大丈夫です」
「そう。じゃあ、様子見かしらね」
寒気がして全身が怠いが、特別な違和感はない。川に落ちる前はもっと体調が悪かったのだが、それも今はだいぶ平気そうだ。
手際よく処置をしていくジャンヌに、戸惑いながらもほっとしつつ、そういえば先程も聞いた名前が出てきたと思いだす。
「その、レオさんというのは――」
「やあジャンヌ、いい夜だね!」
尋ねる言葉に、バタンとドアが豪快に開く音と陽気な男性の声が重なった。
「おっ、どっからどう見てもワケアリの見知らぬお嬢さんがいる! 初めましてこんばんは、僕はマクシム・ドゥーセといいます。お名前を伺っても?」
「あ、あの」
慣れた様子で診療所に入ってきた背の高い赤毛の男性は、ソフィアに声を掛けながら、ジャンヌにまっすぐ向かう。
ジャンヌは呆れたように肩を竦めると、マクシムではなく、その後ろにいた黒髪の男性に声を掛けた。
「レオ。私が頼んだのはコーヒーであって、マクシムじゃないわ」
「連れてくるなとも言われなかったし、別に俺が呼んだわけじゃない」
(あの方が、もしかして……)
ジャンヌの言う「レオ」だろうか。
顔を覆うほど長い髪の隙間からそっと窺うと、背の高い黒髪の男性がいた。マクシムと違って表情に愛想はないが、ソフィアが起きていることにほっとしているように見える。
腕まくりしたシャツが濡れている。間違いない、彼が自分を助けてくれた人だ。
「まあまあ、ジャンヌ。焼きたてのクロワッサンはどうかな」
「……ふうん。気が利くじゃない」
「深夜のバターは背徳の味がしていっそう美味いよねえ」
がさりと紙袋が開けられると、ふわりとバターの香りが立つ。飛び交う会話に圧倒されていたソフィアにもコーヒーが渡された。
「はい、お嬢さんにも。コーヒーでいいかな」
「あ、ありがとうございます……」
冷え切った手に、紙コップの温かさと湯気が沁みる。
(……温かい)
今は飲むより触れていたい。
コーヒーの香りと温もりを堪能していると、早速クロワッサンにぱくついたジャンヌが、奥にいるレオを指差した。
「そっちで黙んまりしている黒髪がレオよ、あなたを拾ってここに連れてきた人。ぜんぜん体力ないから、こーんな細いお嬢さん一人運んだだけで疲労困憊なっちゃって」
「おい、ジャンヌ」
「あははっ、朝にはすっかり筋肉痛なんじゃない?」
そういう紹介をされると思っていなかったのだろう。コーヒーを零しそうにしたレオは、心外だという顔をした。
「あの、助けてくださって……ありがとうございます」
「別に。偶然見つけて、放っておくのも寝覚めが悪そうだっただけで」
言いにくそうに返されるが、暗闇の川辺で意識不明の人間を見つけるなんて、それだけでかなり心臓に悪そうだ。
見なかったことにもできたはずなのに、こうして助けてくれたことは感謝するべきだろう――それが、ソフィアにとって良くても悪くても。
(……わたしは、生きていて良かったのかしら)
具合の悪さはだいぶ去ったが、思い出すと胸が痛くて、手元のコーヒーに視線を落とした。
「ん? 『拾った』って……ああ、二人とも濡れてるし、もしかしてそこの川に落ちたとか。あっ、まさかの心中未遂――」
「マクシム、なんなのそれは。いくら三流紙でも、もう少し捻った記事にするわよ」
「厳しいなあ、ジャンヌ」
「嬉しそうにしないでいいから。つまんない推理をしょっちゅう聞かされて、こっちは迷惑」
「えー、そう言わず!」
楽しそうに「参った」と頭を掻くマクシムは、ジャンヌに下げられても満足そうだ。
一体どういう関係だろう。首を傾げそうになったソフィアに、それで、とマクシムの朗らかな茶色の瞳がひたりと止まる。
「お嬢さんは――いや、『お嬢さん』って言うのもアレだなあ。名前を教えてもらえる?」
「そういえば聞くのを忘れてたわね」
「はは、ジャンヌらしい」
「あっ、ソフィアです。ソフィア……フォルジュと申します」
僅かに言い惑って、うつむき加減で本名を口にすると、マクシムとジャンヌが揃って眉を上げた。
「んー? フォルジュって、もしかして伯爵家の?」
「……ご存じでしたか」
「この仕事をやっているといろいろね」
「仕事?」
「僕ね、記者なんだ」
「三流ゴシップ誌のな」
「何流だろうが記者は記者だよ」
レオに突っ込まれてもマクシムは負けじと笑みを深める。仲の良い二人なのだろう。
「ラ・ガゼットっていう雑誌なんだけど知ってるかな。で、そっちのレオは同僚のカメラマン」
「そう、でしたか」
家に届けられる新聞以外で、ソフィアが外の情報をを目にすることは滅多にない。挙げられた雑誌の名前は知らなかったが、マクシムの返事になるほど、と頷く。
一般的に、平民は貴族の家名などあまり興味がなく、知っていても高位の有名どころくらいだろう。だが、記者ならば聞き覚えがあってもおかしくない。
約十年前に当主夫妻が亡くなって以来、表舞台に名が上がる機会がすっかり減ったフォルジュ家を知っていたことには驚くが。
「そんなお嬢様が、なんだって川に?」
言いたくないならいいけど、と遠慮する様子をみせながら、マクシムの瞳は好奇心でいっぱいだ。
すでに名前も、貴族であることも知られている。今さら隠すのもおかしい気がして、ソフィアはおもむろに口を開いた。
「……今日は王宮で夜会がありました。でも、途中で具合が悪くなって、わたしは一人で帰宅するところでした。その途中で――」
「ああ、物盗りにでも遭った?」
「物盗りかは分かりませんが、橋の上で突然馬車が停まって、刃物を持った男が乗り込んできて……逃げようとして、川に落ちました」
そのまま、レオに拾われたところまで流されたようだ。
「ええっ!? そりゃ大変だ……無事で良かったなあ。どこの橋から落ちたか分かる?」
「いえ、そこまでは。暗かったですし」
自分で言いながら、作り話に聞こえそうな内容だと思う。だがマクシムは気の毒そうな顔をした。
「それは災難だったねえ」
「わたしの話を信じてくださるのですか?」
「うん。まあ、とりあえずだけど」
軽く頷かれて拍子抜けをする。
もちろん嘘など吐いておらず、襲われたのも川に落ちたのも事実であるが、叔父たちに何から何まで否定され続けたソフィアにとって、自分の説明をひとまずは信じてくれるマクシムの態度は新鮮だった。
ソフィアが助かったのは、偶然が重なった結果だろう。
落ちた橋は川までの距離が近く、水深もそれなりにあったため、水面にも水底にも体を強く打ち付けることがなかった。
ショックで気を失ったが、そのおかげで抵抗なく流されたことも幸いした。
ソフィアは泳げないから、もし目を覚ましたままだったら、パニックになって暴れて溺れたはずだ。
(……この人たちが信用できるかも分からないのに、話してしまったわ)
もしかしたら暴漢の仲間かもしれないし、川に落ちたソフィアを助けたのではなく、攫ってきたのかもしれない。
それでも会ったばかりの第三者に打ち明けた理由を無理に探すなら、予想外の事態に混乱し、自棄になったからかもしれない。
(だって……まさか、殺されそうになるなんて)
視線を感じて顔を上げると、こちらを見つめる青い瞳と目が合った。
川に浸かっていたソフィアを見つけてこの診療所に運んでくれたというレオが、測るような眼差しを向けている。
蔑む色のない淡々としたその視線に、どうしてか心が落ち着く。不思議な気持ちを押さえ込むように胸に手を当てると、マクシムが「それじゃあさ」と間延びした声を上げた。
「乗り込んできた奴に落とされたわけじゃないんだね?」
「はい。逃げようと馬車から飛び出したら、そのまま落ちました」
襲ってきた男もそうなるとは思わなかったようで、ソフィアが川に落ちてかなり驚いていた。
「犯人に心当たりはある?」
ジャンヌに問いかけられて思わず肩が揺れる。
心当たりはあった。
襲ってきた男が扉を施錠しなかった馭者に悪態をつき、「死体がなければ報酬がパアだ」と喚く声が川に落ちるソフィアの耳に届いた。
報酬ということは依頼主がいるということだ。
(わたしを殺そうと思う人なんて……)
ソフィアは交友関係が狭い。犯人と訊かれて思い浮かぶ顔は、見知った人のものだった。