人助けなんてガラじゃない
突然の雨に駆け込んだ客で混雑する店内で、簡単な夕食を安ワインとともに流し込む。
グダグダと時間を潰し、軽くなった財布を懐にしまって店を出るころは夜もすっかり更けていた。
ふらりと道に出たレオのすぐ横を、ガラガラと高い音を立てて貴族が乗る馬車が過ぎていく。
もう少しで轢かれるところだったというのに、馭者は邪魔だと顎を上げるだけだった。
(面白くねえな)
去っていく馬車の向こうに目をやると、あちら側では裕福な平民が好んで乗る自動車が見せつけるように走っている。
(どっちも俺とは別次元の人種だな)
このリュノール王国も近隣各国の例に漏れず、王族を始めとする貴族たちがいまだ強い権限を持っており、平民との間には格差がある。
政治の面でもそうだが、文化面では特にその違いが分かりやすい。
しきたりや歴史にこだわる貴族は権威にこだわり、新しい時代の流れを忌避していた。
馬車を手放さず、大仰なドレスを着て夜会に赴く貴族たちは、自動車に乗り軽やかなワンピースでガーデンパーティーを催す平民を「軽薄だ」と言って卑しむのに忙しい。
感情的な溝はなくならないものの、貴族を超える資産を持つ平民も増え、両者の実質的な差は急速に縮まってきている。
車と馬車が行き交い、貴族と平民の両者が多く集まる王都は夜でも活気に満ちている。
レオはその街の華やかな表通りから顔を背けて裏路地に入る。
あまり治安のよくない裏道を抜けると、王都内に数本流れる川のひとつに出た。人気のないその川に沿って行くと、レオの住む安アパートへの近道になる。
城下でも大通りを外れると街灯がほとんどないが、雨雲が去った夜空に浮かぶ月は明るい。
夕立で普段より水かさが増した川面には、対岸の民家の庭灯が光っている。散った花びらが月の光に照らされて流れくる夜の川は、一枚の絵のようだ。
以前なら写真を撮りたくなっただろうが、今のレオにはその気持ちがなかった。
――レオの本職は風景写真だ。病弱だった亡弟に外の景色を見せたいと撮り始めた写真にのめり込み、地方のコンテストでいくつか賞も取った。
明るい将来を夢見て上京したのは十年近く前。
しかし、風景写真家の門はひどく狭かった。
そもそもの需要が少なく、コンテストや展覧会は貴族の独擅場。
縁故が全ての世界で、いくら技術があっても後ろ盾もなく、話題性もない平民のレオが上位に入賞することはない。
平民というそれだけで、作品も見ずに門前払いを受けたことも数知れずだ。
いい加減無理だとわかっても、それでもカメラを手離せず、こうして三流ゴシップ誌の下請けとして有名人のスキャンダル盗撮やカタログモデルの撮影をして食いつないでいる。
生きるのに精一杯の生活で、風景を撮る心の余裕もなくなってどれくらいが経つだろう。
こぼれた溜め息が川面を渡る風にまじる。
「そういや、水辺ばっかり描いている平民の画家がいたな。なんとかって賞を取ったって、マクシムが言ってたか」
人嫌いの画家らしい。記者をしている友人がインタビューを申し込んで断られたと愚痴っていた。
(絵なら、平民が描いても評価されるんだな)
風景画は許されるのに、写真は駄目だと言われる理不尽さにまた腹が立つ。
(俺だって、好きなものを好きなように撮れさえしたら)
物販のコマーシャルフォトでは、景色はあくまで背景だ。なくても困らない、その程度の認識。
「……面白くねえ」
橋の近くで足元に転がる石を拾い上げると、思い切り川へ叩き込む。ポチャンという音で、水面に浮かぶ月の影と花びらが束の間千切れた。
それに少しだけ胸がすいて、もう一石投げ入れようとしたレオの視界の端に、なにか白いものが映った。
目を凝らせば川縁に、流れ行く花びらとともになにかが漂っている。
「……布? ああ、ジャンヌのやつ、また洗濯物を飛ばしたのか」
少し上流には、この辺りで唯一の診療所があって、小間使いが辞めたばかりだ。
腕はいいが性格が雑な女医がやっているそこはこれまでも、包帯やタオルを洗って干したまま忘れるのはしょっちゅうだった。
「しょうがねえな」
自分も世話になることも多い。恩を売っておくのも悪くないと考えたレオは、川に近付くと漂う布に手を伸ばす。
ぐいっと引っ張るが、木杭にでも引っかかっているようで手繰れない。面倒に思いながら川縁の茂みを覗き込むと、布の向こうに肌が見えた。
「……は? 手?」
ひゅっと喉が鳴り、バランスを崩した片足がばしゃりと川に落ちる。
漂っていたのは包帯やタオルではなく、ドレスの裾――川縁に頭を乗せた格好で、胸から下を水につけた状態で女性が倒れていた。
脚を川に突っ込んだまま、レオは月明かりのさす草むらに目を凝らす。
何度瞬いても、頬をつねっても、川に半分浸かって行き倒れている女性は消えはしない。
「い……やいやいや、嘘だろ、おい」
あまりのことにすっかり酔いも冷めた。
持っているドレスの裾を取り落としそうになって、逆にどうしてか握りしめ、驚きが治まらないまま女性の状態を怖々確認した。
……微かに胸元が上下している。
つまり、息はある。
恐る恐る手首を取れば、折れそうに細く氷のように冷たかったが、ちゃんと脈を打っていた。
「……生きて、る」
そう口に出して、どっと肩の力が抜けた。
数回深呼吸を繰り返し、どうにか心を落ち着けてから辺りを見回したが、事故の気配はなく、静まりかえっている。
踏まれて倒れた草もなく、どうやら流されてきたらしいと判断する。
さらに近付いて顔を覗き込むと頬はすっかり白くなっており、どのくらいの時間こうして水に浸かっていたのかと不安になる状態だ。
平民には縁遠い手の込んだ造りのドレスに、長すぎるほどの長い髪――つまり、貴族の令嬢だ。
(なんで貴族がこんなとこに?)
供も付けずに出歩くわけがない。第一、こんな夜なら馬車で移動するはずだ。
拐かしを始めとするトラブルの気配を察してげんなりするが、見つけてしまった以上、無視はできない性分である。
躊躇いつつも肩の辺りを軽くゆすってみる。かろうじて小さく息がこぼれるだけで、目を開ける気配はない。早く水から引き上げて手当てをしないと危ないだろう。
「人助けなんて、ガラじゃないってのに」
むしろ、今日入るはずだった収入がなくなり、次の仕事も当分先な自分のほうこそ助けが必要だというのに。勘弁してほしい。
とはいえ、このまま見過ごすのは絶対に寝覚めが悪い。
大きな溜め息をひとつ吐いて、レオはざぶりと両腕を水に入れた。