ベストショット
何かの音に目を覚ます。時計を見るとまだ夜明け前だ。いつもよりかなり早い時間だったが、テーブルにはレオの後ろ姿があった。
寝ぼけながら「おはよう」と言おうとして、ほうっと息だけがこぼれる。
(……おはよう、だって。ふふ、おはようって、わたし……)
「おはよう」とか「おやすみ」とか、そんなひと言を掛ける相手が、もうずっといない生活だった。
挨拶を言える人が身近にいるというだけで、こんなにも朝が違って見える。
使用人すらソフィアを無視するよう強制していた叔父たちとの暮らしは、本当におかしかったのだ。
(ベッドからキッチンが見えるのも、慣れたなあ)
狭い部屋に最初は驚いたが、住んでみれば過ごしやすかった。
食事をするためだけに長い廊下を歩かなくていいし、掃除もすぐ終わる。シャンデリアのように手入れが面倒な物もない。
風呂も狭いが、蒸気がすぐ籠もるから寒くない――と、今のところ、悪いことよりも便利が勝っている。
(またソファーで寝たんだろうな)
レオは最初に宣言したとおり、決してベッドを使おうとしなかった。
家主が狭いソファーで寝て、居候がベッドを占領するのは悪い気がして、自分こそがソファーに寝ると何度も言った。実際にソファーで寝ようともしたのだが、その度に却下されてベッドに一人で戻されてしまっている。
(もう熱も下がったし、このベッドから落ちたことはないから寝相は悪くないと思うんだけど)
いくら「蹴らない」と約束しても納得してくれない。また隙をみて頼んでみるが、今はせめて鼾をかいたり寝言をいったりしてレオの睡眠を妨げないようにと願うばかりだ。
だんだん覚醒してきたソフィアが今度こそ「おはよう」と言おうとして、レオの服装が撮影に行ったときのままだということに気づく。
タオルもテーブルに置いてあるから、顔は洗ったのだろう。手元にスタンドライトを引き寄せて、一心になにか眺めている。
「レオ、寝てないの?」
慌てて起き上がり、おはようの挨拶の前にそう声を掛けてしまったソフィアを、レオは怠そうに振り返った。
「ソフィア、起きたのか……って、朝か。寝ようと思ったんだがな」
「もしかして現像でなにか問題があって、それで寝られなかった?」
「問題か。問題といえば問題だな――って、ソフィア。もうちょっと気を使えって」
急いでベッドから下りてテーブルに近付く。ジャンヌから借りた薄い寝間着はサイズが少し大きく、慌てたせいでずり落ちた肩にため息を吐きながらタオルを掛けられてしまった。
扱いが子どもに対するそれだが、ソフィアに異論は無い。
「ったく、襟のあるパジャマも用意しなきゃだな」
「あ、ご、ごめんね。それで写真は……わあ、きれい」
なにかトラブルがあったのかと心配した現像は問題なかったようで、何枚もの写真がテーブルの上に置かれていた。
ワンピースやセットアップ、秋物の軽いコート。どのヴァネッサも綺麗だし、洋服は素敵だ。
なにも悪くなさそうに見えるのだが、レオの顔はなにか言いたげである。
「こっちも素敵。オーナーさんはどれを選ぶのかな、どれも良くて、わたしだったら決められない」
「悩むか? これか、これだろ」
そう言って、ほらと見せられた二枚の写真にソフィアの目が釘付けになる。それは、最後にソフィアがアドバイスした、貴族風に撮ったものだった。
「これって、わたしが……」
「ああ、そうだ」
肌に馴染む濃い茶色のスーツを着た高貴な女性が庶民のブティックにいるという、ものすごく違和感があるのにそれが逆にスタイリッシュに見えてしまう写真になっていた。
店内での座っている様子も、外で薔薇を手に取るポーズも美しく、ほかの写真とは一線を画したインパクトがある。
(これが本当に、あのときの写真?)
写真の中の世界は、あの場でソフィアの目に映っていた光景とはまったく違っていた。
こんなに素晴らしい瞬間を切り取れるなんて、想像できなかった。
「すごい……」
「ああ。俺の指示した写真よりモデルも服も魅力的だな。まさかこの上品なモデルを見て、二日酔いで大遅刻するなんて思う奴はいないだろう」
軽く笑って、レオは立ったままのソフィアを見上げる。その青の瞳はもどかしげな色を映していた。
これはと思える写真が撮れて満足な反面、それを引き出したのが素人のソフィアだという事実が腹立たしくもある――そんな空気を察して、ソフィアの心がひるむ。
「ご、ごめんなさいっ」
(勝手に出しゃばって、わたし……!)
レオはプロのカメラマンだ。大事な仕事の領域を引っかき回されて怒らないはずがない。
いたたまれなくて深々と下を向いたソフィアの頭は、呆れたような手つきで元に戻された。
「なんで謝る?」
「だって、レオ」
「いや、本当に。なにも謝る必要はないだろう。それより、ソフィア。これを見せたら……ちょっと困ったことになるかもしれない。それで考えてたら、この時間に――」
「困ったこと?」
「あー……まあ、そのときになったら分かる。なにもなければそれでいいしな」
今は気にするなと重ねて言って、時計を見たレオは「朝まで少し寝る」とソファーに倒れ込んでしまった。
どうやらレオは、怒っていたのではなくて困っていたようだ。だが、それがどうしてか分からなくて、ソフィアは首を傾げる。
(困ったことって、なんだろう)
考えても分からないが、写真はどれも綺麗だ。
レオが言うとおり、最後の二種類が飛び抜けているようにも見えるが、ほかの写真もどれもソフィアは好きで、甲乙つけがたい。
「……きれいだなあ」
実は、一番気に入ったのは最後の最後に皆で撮った集合写真だ。
ブティックのオーナーと店員と、モデルのヴァネッサと。その中にソフィアもいる。
十年間、一度も撮られることがなかったソフィアにとって記念すべき一枚だった。
撮影者であるレオは写っていない。残念だけど仕方ないから、代わりにこれを撮ったときのレオの顔をよく覚えておこうと思う。
わちゃわちゃと並んだソフィアたちに呆れて、仕事じゃないから適当に撮るぞなんて言っていたレオが、ファインダーを覗き込んだ瞬間に真剣な雰囲気にさっと変わった。
そうなることは撮影の間、横から見ていたから予想はついた。
けれどレンズ越しに向けられる視線がこんなに強いとは知らなくて、ソフィアは小さく息を呑む。
(……あんなレオに撮られて、ヴァネッサさんはよく平気だな……)
物心ついてから写真を撮られるのが初めてのソフィアは、どこを見たらいいかも分からなかった。
二枚あるうちの下のレンズを見ろと言われたが、どうしてもその奥に、レオの真剣な眼差しを思い浮かべてしまう。
レオと目が合っている気がした写真の中で、ソフィアは自分でも知らない顔で微笑んでいた。
§
レオの言う「困ったことになる」の意味を知るのは早かった。
撮影した写真を納品に行くというレオに付いてブティックに行くと、オーナーだけでなくヴァネッサも待っていた。
「なんだよ、暇なのか」
「レオに任せてまたボツになったら堪らないからね。ほら、見せなさいよ」
だがヴァネッサは、渡された写真を見て黙り込んでしまった。
にこにこと眺めていたオーナーも、最後に撮影した写真になると、眉をぎゅっと高く上げる。
(や、やっぱり、わたしのアドバイスは余計だった……?)
「あ、あの、どう……でしょうか?」
ヒヤヒヤしながら尋ねたソフィアに返ってきたのは、長い長い沈黙だ。そして――。
採用されたのは最後に撮った二枚だった。
一枚だけを選べなかったオーナーは、急遽予定を変更して、店内で撮った写真はダイレクトメール用に、もう一枚の立ち姿は引き延ばして店頭に飾るようにと結局二枚を発注した。
おかげで予定より報酬が増えて喜んだレオの隣で、ソフィアはヴァネッサにがっしり手を掴まれていた。
「ヴァネッサさん……?」
「ソフィア、明日は空いてる? 空いてるわよね!」
大きなモデル事務所へ応募するための写真撮影に立ち会ってほしいというヴァネッサの依頼を、ソフィアは断ることができなかった。
というのも、ほかのカメラマンに頼む予定だったが、ソフィアが手伝ってくれるならレオに任せるとまで言われたのだ。
ソフィアのせいで、レオに金銭的負担を掛けていることはよく分かっている。
居候を長時間一人にできなくてマクシムと一緒に取材に行けないレオは、しばらく雑誌の仕事から離れている。
自分がどれほど力になれるかは非常に不安だが、カメラマンとしてレオが呼ばれるなら行くしかない。
レオと視線を交わして頷いたソフィアに、ヴァネッサだけでなくオーナーからも期待の眼差しを向けられて、またプレッシャーに押しつぶされそうになりながらブティックを後にした。




