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危機一髪

 荷物を放り出して駆け寄れば、原因はすっかり焦げて発火寸前のなにかだ。


「手を離せ!」

「で、でも、あっ、お水っ?」


 すっかり動転しているソフィアは、どうしたらいいか分からないらしい。

 言っている間にとうとう端から火が上がる。


「バカ、水は一番駄目だ! あーもう、よこせ!」


 強引に割り込むとコンロの火を消し、そこらにあった鍋の蓋をフライパンに被せる。

 煙は蓋で遮られ、ひとまず落ち着いた。


「……普通の火事なら水を掛けるのはいいが、料理の火に水は駄目だ。油に引火して余計に燃えたり、最悪は爆発したりする」

「そ、そうなのね……」

「こういうときは、蓋をして空気を遮断すれば火は消える」

「じゃあ、もう……?」

「ああ、大丈夫だ」


 そっと蓋をずらすと、火も煙も消えてすっかり大人しくなった黒焦げの物体が見えた。

 二人の深い安堵の息が重なる――危なかった。もう少し帰宅が遅れていたら、アパートが焼けていたかもしれない。

 フライパンの中身は正体不明だが、シンクの隅に殻がある。どうやら卵料理をしようとしたようだ。


「……ごめんなさい」


 しょんぼりと項垂れるソフィアに、堪えきれなかった溜め息が落ちた。


「あの、お料理、したことなくて――」


 言われて額を押さえる。

 そうだ。ご令嬢に家事ができるかどうか分からないと自分でも考えていたのに、確認するのを忘れていた。

 調理せずにすぐに食べられるものは、あまり用意していなかった。なにか作ろうとして、初心者なりに身近な食材である卵に手を延ばしたのだろう。


「……昼飯はどうした」

「あまりお腹が減らなくて、今が初めてです」


 調理台を見れば、皮を剥こうとしたらしいジャガイモのなれの果ても転がっている。可食部分の少なさに嫌な予感がした。


「ソフィア、怪我はしてないか?」

「は、はい、大丈夫で……」


 平気だと言いながら、ソフィアは慌てて背中に両手を引っ込める。隠した手を強引に取れば、指にいくつも絆創膏が巻いてあった。


「これは、その」

「無茶しやがって」


 もう一度出た溜め息は自分に対してだったのだが、ぴくりと体を震わせたソフィアにレオも気まずくなってしまう。


(……調子が狂うな)


 しおしおと縮こまる様子は叱られた子犬のようで、逆にレオのほうが罪悪感を抱いてしまう。


「食事に関しては俺が悪かった。いいから座って少し休め」

「……はい。ごめんなさい」


 気を取り直して何事もなかったかのように言うと、ソフィアは泣き出しそうな顔で――実際、半泣きで――すごすごと下がった。

 とにかく、まだ充満している煙を外に出さなくては。窓を開けようとして、レオはふと違和感に気づく。


(俺の部屋、こんなに広かったか?)


 テーブルの天板が見えている。

 床も、壁際に物がまとめられてずいぶん歩きやすくなっている。溢れそうに詰まっていた棚もすっきりして、空いている段まであるのには驚いた。


「部屋……ソフィアが片付けたのか?」

「あっ、そ、その、許可無くすみません。あのままですと、ぶつかって落としたり壊したりしそうで……本とか、まとめただけで捨てていないですし、気をつけて触ったので――」

「あーいや、怒ってない。だからそう構えるな」


 まだ動揺が残っているのか、言葉遣いが敬語に戻っている。落ち着くように言って、こちらが怒ってないと分からせるために視線を合わせた。

 仏頂面はいつもだが、怒った顔ではないはずだ。


「あの、レオ。本当にごめ――」

「不可抗力だろ、謝るなって。それで、ソフィアは料理をしたことはないんだな。でも、部屋の片付けはできる」

「は、はい。コリンナも叔母も散らかしてばかりなので、掃除はいつもわたしが」

「だから、言葉」

「あっ、う、うん」


(――なるほど)


 改めて部屋を見回す。

 レオは片付けが不得手だ。写真の道具は例外だが、日常生活に必要な物品管理や掃除ははっきり言って苦行である。

 つい出したまま、使ったままで放置してしまい、読み終わった手紙や大事な書類もどこかに失くしてしまうことが多かった。

 だが料理はわりと得意である。郷里では忙しい母に代わって炊事をしていたくらいだ。

 ふむ、と考え込むレオに、ソフィアが恐る恐る問いかける。


「あの、レオ?」

「……よし、決めた。料理は俺がする。ソフィアは掃除担当だ」


 そう言えば、ソフィアは緑の瞳を丸くした。



 §



 ソフィアは言われたとおりにソファーに掛け、キッチンに立つレオの後ろ姿を眺める。


 ――やってしまった――。


 なにか食事を作ろうとしたが、料理は未経験。叔父はソフィアが家庭内で味方を作らないように使用人との接触も制限したため、キッチンに足を踏み入れることもほぼなかった。


(オムレツとマッシュポテトならできると思ったんだけど……)


 昔、両親が生きていた頃、よく朝食に出たメニューだ。

 父の好物だったそれらは特別凝ったソースも掛かっておらず、レシピもシンプル。

 手順も知っていた。ジャガイモは茹でて潰し、卵は溶いてフライパンで焼く。それくらいなら、ソフィアでもできるはず。

 うまく作れたら、レオにも食べてもらいたい。そう思ったのだ。


(……ジャガイモは手強かった……)


 洗って土を落とすところまでは良かった。けれど、皮を剥くのが難しい。

 ナイフはどうしたってソフィアの思うように動いてくれなくて、剥きたいのは皮だけなのに実のほうまで削れてしまう。

 そもそもジャガイモは丸くてでこぼこしていて、何度も手が滑って落とした。

 食べるところよりも捨てるところのほうが多いような有様のうえ、手をあちこち切ってしまい、とうとう諦めることにした。


(片付けをしたときに、絆創膏を見つけていて助かったわ)


 自分の不器用さにがっかりしながらも、気を取り直して卵に向かい合う。

 卵は割れた。黄身は潰れたがどうせ混ぜるし、入ってしまった殻はできるだけ取り除いたから大丈夫なはず。


 今度こそと意気込んでフライパンに卵を入れたが、なかなか焼けない。

 しばらく待って、コンロに火をつけていないことに気がついた。慌てて火をつけ、焼けてくる卵を見守っているうちになぜか煙ばかりが上がってきたのだ。


 さらに卵もどんどん焦げて、でもフライパンからは取り出すことができなくて慌てふためいているところに、レオが帰ってきたのだった。

 もう少し彼の帰宅が遅かったら、本当に火事になったかもしれない。


 深く深く反省しているうちにいい匂いが漂ってくる。

 鳴りそうになるお腹を押さえながら、ソフィアはレオに声をかけた。


「あの――」

「もうすぐだ。ソフィア、皿を」


 それくらいならちゃんとできる。立ち上がってレオのそばに行くと、小鍋にはクリームスープが煮えており、フライパンは綺麗なオムレツが焼き上がるところだった。


「わあ、上手!」

「こんなもんだろ。一人だと面倒だから滅多に作らないけどな」


 言いながら、レオはフライパンを傾けてぽんとオムレツを皿に載せる。半月型の明るい黄色のオムレツは焦げ目もなくふわふわとして、とてもおいしそうだ。

 空いたフライパンでさっとバゲットをあぶり、それも一緒に盛り付ける。


「ほら、食うぞ」

「すごい、おいしそう」

「そういうのは食べてから言え」


 レオの言葉が荒いのは相変わらずだが、会った日よりも声音が柔らかい気がする。


(わたし、思い切り失敗したのに……)


 そういえば、レオはソフィアに注意はしたが、嘲ったりはしなかった。

 こんな分かりやすい失敗ではなく、ほんの僅かな失態でも家では罵倒されたのに。


(……レオは、叔父様たちとは違うのね)


 改めて実感する。

 レオが特別なのか、これまで自分がいた境遇が特殊なのかはよく分からない。けれど、レオの不器用な優しさに触れた気がして、ソフィアの胸がほっと和んだ。


「ほら、食べるぞ」

「うん」


 揃っていないカトラリーをそれぞれ手に、テーブルに向かい合う。

 ――食事は、とてもおいしかった。

 できたてのオムレツは温かくて甘くて、じんわりと体に沁みてくる。

 しばらく食べていないから、胃がびっくりしないようにゆっくりよく噛まないと、と自分に何度も言い聞かせた。

 スープのほうは、缶詰を牛乳でのばしただけというが、まるでお店で出されたもののようだった。そう伝えると大げさだと言われてしまったが。


(ちゃんと味が分かる……)


 十年近く一緒に暮らしていた叔父一家より、会って数日のまだほとんど会話も交わしていない人と食べる食事のほうがおいしいなんて。

 しみじみ味わいながら、ソフィアのこのアパートでの初めての食事は終わった。


 片付けくらいはしようとしたのだが、手の切り傷を理由にそれも却下されてしまう。

 所在なくて、それなら自分の仕事になった片付けでも、と見ると玄関扉の近くに大きな紙袋が投げ捨てられている。袋に書いてあるロゴによると、どこかのブティックのショップバッグのようだ。

 レオが帰るまでは無かったから、なにか買ってきたのだろう。


「レオ、これ片付けてもいい?」


 紙袋を持って、最後の皿を洗うレオに訊く――と、しまった、と言うような顔をして紙袋を見つめた。


「……忘れてた。それ、ソフィアにやる」

「わたしに?」


 驚いて、言われるままに紙袋を覗く。入っていたのは女性物の服だ。

 貴族用のドレスではなく平民が好むタイプのもので、可愛らしいワンピース、リボンのついたブラウスにハイウェストのスカート。それに靴下や髪留めなどの小物もいくつか。

 目を丸くするソフィアに、レオが言いにくそうに説明する。


「あー、仕事に行った店で季節物の入れ替えをしていて、それはもう返品するやつだっていうから。ソフィア、着る服ないだろ」


 つまりレオは、今日の給料を現物支給にしてもらったのだ。

 着の身着のまま手ぶらでここにいるソフィアは、服だってジャンヌに貰ったこの一枚で着替えなんてない。

 店の入れ替えで棚落ち品だというが、ちょっと前まで普通に売っていた服だ。季節的にも今にぴったりである。しかもかなり質がいい。


「レオ……」


 ソフィアは行きずりの同居人で、料理もできない。レオには迷惑しか掛けていないのに、こうして服まで用意してくれるなんて。


(川に落ちたわたしを見つけて助けてくれただけで充分なのに……)


 なんだかんだ自宅に匿ってくれて、看病もしてくれて。

 ――気遣いとか優しさとか。

 それがどういうものだったか忘れるくらい長い時間を過ごしてきたソフィアにこの仕打ちは堪らなくて、涙が出そうだ。

 服を抱き締めて泣きそうに俯くソフィアに、レオが慌てる。


「適当に持ってきただけだからな、好みじゃないとか文句言うなよ」

「文句なんてない! ありがとう、レオ! すごく嬉しい……!」

「そ、そうかよ」

「これ、明日着ていい?」

「好きにしろ……靴は、出かけられるようになってからな」


 靴まで用意してくれようというのだろうか。

 びっくりして顔を上げると、レオはソフィアに背を向けてさっき洗ったはずの皿を、もう一度洗っている。

 かろうじて見える横顔は気まずそうだが……気分を害してはいないようだ。


「あの……ありがとう」

「いいって」


 腕の中にある服がなんだかやけに特別に思えて、ソフィアはもう一度礼を言った。


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