レオ・ジラールの事情
本作は同名コミカライズの原作として書きました。レーベル様の許可をいただき、Webで公開します。
2024/06/20 コミックライドアイビーvol.16より漫画連載開始。作画は颯壱幸先生です。
楽しんでいただければ嬉しいです!
王宮の煌びやかな大広間は、華やかな装いの貴族たちで賑わっていた。
王太子の誕生日を祝して夕方から開かれたパーティーは、宴もたけなわ。その大広間から、目立たないように退出する一人の令嬢がいた。
顔色をなくして痛みを堪えるように胸元を押さえ、灰がかった緑の瞳はつらそうに細められている。
苦しそうな息づかいは歩調を乱し、淡い金茶色の髪は体とともに何度も揺れた。
扉を守る衛兵はちらと視線を向けたものの、供も連れず格の落ちるドレスの令嬢は貴族でも下位と判断され、手を貸そうとはしない。
明るいがひっそりと静まる回廊を一人で抜けた令嬢は、待っていた馬車に倒れるように乗りこむ――馭者が見知らぬ者に変わっているとは気づかずに。
明るく照らされる王宮を後に、馬車は暗闇に向けて走り出した。
§
大陸の北西部に位置するリュノール王国は、長い歴史を持ちながら近代的に栄えた中央都市と、趣溢れる風光明媚な地方の両方を備えた小国である。
その王都の目抜き通り……から外れた路地裏に建つ、煤けた壁の雑居ビルの一室では、二人の男性が机を挟んで睨み合っていた。
「はあ? 不採用?」
「ああ、そうだ、レオ。この写真は使えない」
「クレマン、冗談はよせ。あんたとクライアントの注文通りに撮ったんだぜ。なにが気に入らないっていうんだ」
レオと呼ばれた青年は、十数枚の写真が広げられた机上にバンと手をつく。捲った袖から見える腕には筋が浮いていて、彼の抗議のほどが分かる。
ここは、週刊誌「ラ・ガゼット」を発行する雑誌社の編集室だ。
官報という名に反して、扱うのは有名人のゴシップや企業のスキャンダルなど、大衆受けする記事ばかり。出入りする関係者も、報道による真実の追究というような崇高な目的などない俗人がほとんどだ。
今、編集長のクレマンに抗議しているのは、そんな関係者の一人である委託カメラマンのレオ・ジラール。
年の頃は二十代半ばくらい。背は高く、容姿も整っているが、無精に伸ばした黒髪の下で青い瞳が剣呑に光っていた。
「『なにが』だって? おいおい、勘弁してくれよ」
対するクレマンは、彼の父親ほどの年齢で白髪の男性だ。太りじしの体を窮屈そうにスーツに包んで、抗議にも平然とした様子で椅子に掛けている。背後にある窓から入る初夏の日差しが、散らかった編集室を照らしていた。
「女優の密会写真の盗撮なんか嫌だってワガママを言うお前のために、こっちはわざわざカタログ撮影の仕事を回してやったんだぜ。しかも上客の」
クレマンはギシリと古い椅子を軋ませて立ち上がると、机の上から写真を一枚拾い上げる。
「なのになんだよ、これは」
新作のドレスに身を包んだ若い女性が、街角でポーズを取っている。モノクロームながら、歴史ある街並みが鮮やかに切り取られた美しい写真だ。
陰影の具合といい、芸術的ではあるが――。
「必要なのはモデルの画だ。どうして背景の建物のほうが目立ってんだよ」
たしかに、どう見てもこの写真の主役は建物だ。
モデルはただ写っているだけで、もはや彼女のほうが風景の一部と言えるほど存在感がない。
これではどんなによく撮れていても、服を見せるための写真としては失格であろう。
「……その服を売っている店の建物だ。広告になるだろ」
「レオ、何年この業界やってんだ。クライアントや客が見たいのはモデルだ。じゃなきゃ、モデルが着てる服や持ってる鞄だ。それさえよく撮れてりゃ、背景なんてむしろどうでもいい」
クレマンは写真を指で弾いてレオの眼前に突きつける。
「いつもはなんとか仕上がってたが、今回のこれはない。見ろよ、このモデルの表情の死にっぷり。ドレスもちっとも冴えないじゃないか」
正論をぶつけられてこき下ろされて、レオはぐっと唇を引き結ぶ。
(俺のせいかよ)
今回のカタログ撮影は、腹立たしい思い出ばかりだ。
このモデルは二日酔いで盛大に遅刻をしたうえ、気分が乗らないだの、暑い寒い眩しいだのと文句ばかり言って始終こちらの手を焼かせた。
顔見知りで手練れのスタイリストの取りなしがなかったら、レオはシャッターを切らずに帰っただろう。
予定していた撮影時間から大幅にずれ込んだ関係で光線角度も変わり、撮影現場すら変更を余儀なくされ、露出にも現像にも支障が出た。
街路での撮影は歩行者が切れた隙を狙わなくてはならないのに、モデルはふらふらとして立ち位置すら定まらず、怒鳴りつけるのを何度も我慢したのだ。
撮影から現像まで、どうにか見られる写真になったのはレオの苦労のたまものだ。
それなのに全面否定されたら、こちらだってやってられない。
「ドレスのカタログなんだから、服が写っていればいいはずだ」
「じゃあ、服だけ吊るしで撮ればいい。わざわざ人間に着せて撮れとオファーが来ている意味を考えろ」
不満と抗議を込めて反論するレオに、クレマンも溜め息で返してくる。
「その辺の石っころや花なんかはえらく魅力的に撮るのに、人を撮るのはからっきしだな」
「……」
「構図も悪くない、ピントも露出も完璧。けれど、それだけだ。お前の写真は、対象への思い入れやリスペクトが感じられないんだよ」
白髪頭をがしがしと手で乱してクレマンが諭すように言うのに、大きなお世話だと心の中で言い返す。
ゴテゴテと着飾り不自然なポーズを取って、わざとらしい笑みを顔に貼りつけた人間をどう魅力的に撮れというのか。
クレマンは業界に長くいて、見る目は確かだ。その彼が腕はあると言うのだからレオの撮影技術そのものは認められている。
こうやって、自社の雑誌以外の仕事も回してくれるのがその証拠だ。
(それなら黙って採用すればいいのに)
そう思うものの、クレマンは一度決めたことを覆さないと知っているレオは深青色の目を伏せて引き下がる。
もちろん納得などしていないが、ここで反論したところで時間の無駄なのはよく分かっている。
ひとまず、没になった写真の中から雑誌記事に転用できそうなスナップショットを数枚買い取ってもらい、レオは事務室を後にした。
雑誌社の建物を出ると、外はとっぷりと暮れていた。初夏の生ぬるい風に吹かれながら通りを歩く。
(……なにかコンテストでも探すか)
次の仕事はまだ先だ。今日の収入を当てにしていたから、それまで食い繋ぐには手持ちの金では心許ない。
コンテストで受賞できればいくらか賞金が手に入る……とはいえ。
(まあ、そんなの望み薄だけどな)
レオの耳に、去り際のクレマンの声が蘇る。
『いいか、レオ。これからもこの仕事を続けたきゃ、人間を撮れ。そうだな、小説や芝居なんかで人の心の機微ってもんを勉強してみたらどうだ』
誰か誘って評判の演劇でも観てこいとチケットまで渡されたが、余計なお世話だ。
レオは絵空事には興味がない。どんな本を読んでも芝居を観ても、皆が言うように「感動した」とは思えたことはなかった。
ポケットに押し込んだチケットのタイトルは『オフィーリア』
戯曲に登場する悲劇の貴婦人を扱った人気演目だ。
恋人に捨てられ、父も殺されて心を病み、川底に沈んだ美しい令嬢の短い一生をロマンチックに仕立てた芝居に、観客は喝采を送っている。
「悲劇を観るだけでいい人物写真が撮れたら世話ねえって……チッ、雨まで降ってきやがった」
ふて腐れながら天を仰いだ額に雨粒が落ちる。傘なんてない、夕立とはついてない。
風で乱れた黒髪を邪魔そうに掻き上げると、レオは手近なパブのドアを押し開けた。




