2 山神リコスの苦悩
私の祈りに応じて、山神リコスが姿を現してくれた。
とても綺麗な白銀色の狼だ。
私がその姿に見とれていると、リコス様が突然、私にぶつかってきた。
「え……!?」
床も地面もない空間なのに、私の体は仰向けにされる。狼に押し倒されたような体勢。私の胸に前足がのっかると、全身に圧迫感がかかって、動けなくなった。
『頭から食ってやろうか、小娘』
冷酷な声。むき出しにされた牙。ぞっとした。
本当は……怖い。
だけど、ここでひるんだらダメだ!
「リコス様。あなたは幻獣の神様なんでしょ!? それなら、幻獣を助けるために力を貸してください!」
『はっ……なぜ? 俺様があんな愚かな連中を?』
「あなたが神様だからです。神様というのは、皆を助けるために大きな力を持っている。力を持ったからには、その責任を果たすべきだと思います」
『ははん? 貴様、この俺様に説教をかます気か? やはり食いちぎってやるべきか』
リコスが唸りながら、私に顔を近付ける。目を逸らしてはダメだ、と私は必死に自分に言い聞かせていた。
「……リコス様は人間が嫌いなんですね」
『反吐が出るほどに』
「そして、幻獣のことも嫌いなんですね」
『反吐にまみれるほどに』
馬鹿にしたように鼻を鳴らしながら、リコスは私の上から退いた。
私はドキドキとした胸を押さえて、上半身を起こす。
「あなたの過去にいったい何があったの……」
『貴様が知る必要はない』
リコスは鼻の頭にしわをよせて、不快感を露わにした。
私は胸の前で、ぎゅっと自分の手を握りしめる。祈るポーズで目をつぶった。
(お願い……! ペタルーダ様……少しでいいの。力を貸して)
そんな願いをこめながら、口を開いた。
「リコス様……私はあなたのために祈ります」
『あぁ!?』
私は知りたい。
リコスがなぜ、幻獣を見捨ててしまったのか。
七神はみな、幻獣の神様なのに……。今の世界では、加護を与えてくれるのは太陽神ペタルーダ様だけだ。
それはなぜなの?
お願い、教えて……!
「《リコス様に、祝福を》」
私が強く願うと、それに応えるように光があふれた。
強い思いが、私の中に流れてくる。
それはリコスの記憶だった。
◆ ◇ ◆
魔法なんてもんが、この世に生まれたばかりに……。
世界の均衡は崩れた。
人間というのは、どこまでも愚かな存在だ。
俺はそれを思い知った。
魔法がない時代は、俺たち七神に必死に祈りを捧げて、幻獣を神の遣いとして、あんなに大事に扱っていたくせに。
過ぎた力を手にした途端、調子に乗りやがった。
世界では、幻獣狩りが行われるようになった。それが魔法の発展のために、必要不可欠だったからだ。
人間は自分たちのために、幻獣を犠牲にする道を選んだ。
だから……自分の欲のために、他の命を平気で踏み潰す連中のことが。
俺は憎くて仕方なかった。
人間のいない、平和な社会を作ろう。
俺はそう思い立った。
俺は獣の幻獣だから、まずは獣だけを集めて。
試験的に俺は【マギアレープス】だけを集めて、村を作った。
村の周囲には、厳重に結界を張った。人間どもにこの地が荒らされることがないように。
幻獣だけの平和な集落だ。
【マギアレープス】たちは、俺に感謝した。
『リコス様……今の我々があるのは、あなた様のおかげです。いつも見守っていただき、ありがとうございます』
そう言って、毎日のように俺に祈った。
平和な時は何年も続いた。
やはりだ。俺が思った通り。
俺の理想の世界に、人間は必要ないのだ。
だが……束の間の平穏は、崩れ去った。
俺が少し目を離している間に、とんでもないことが起こっていた。
先代の村長は、壮年の狐だった。
ある日、村で病気が流行った。何匹もの【マギアレープス】が倒れ、村長もまた命を落とした。
そして、あの男……煌斗が村長についた。
煌斗は欲深い狐だった。彼の野望は巨大すぎて、救いようがなかった。あの男は、小さな集落の長に収まっただけでは満足しなかったのだ。
あの男が村長についてから、数日後のこと。
あいつは村の者たちを集めて、こう言った。
『村で疫病が流行ったのは、リコス様への感謝の心が足りなかったからだ。リコス様からの神命が俺に下った。これから村に生まれる子供たちには、特別な儀式を施すようにとのことだ。そうすれば、その子供はすべての災いから逃れ、健やかに成長できるだろう』
俺からの神命だと……!? そんなこと、俺は一言も言っていない……!
そこから先のことはおぞましすぎて、思い出したくもない。
煌斗はあろうことか、人間の幻獣ハンターとつながりを持った。そして、醜悪な行為によって金銭を得るようになっていた。
子供たちの体内に、あんなものを埋めこんで……!
そして、人間に売り飛ばすなど……!
言語道断!
下劣極まりない行為!
そして、それは神である俺への、重大な裏切りだ!
……俺は!!!!
幻獣であるお前らを、人間から守ろうとしたのに!
すべては、お前たちの平和のためであったというのに!!
なぜ、こんな裏切りができる!!?
その時、俺は思い知った。
ああ、この世界で救いようがないのは、人間だけではないのだ。
幻獣だって、同じだ。
知性を持つ生き物は、みな、どうしようもない。
救いようがない連中なのだと――!
◆ ◇ ◆
そこで記憶は途切れた。
今のは……。
私はハッとして、目を見開いた。
胸に流れこんできたのは、すさまじい怒り。そして、裏切られた者の悲しみの感情だった。
その感情に同調して、私は泣きそうになっていた。
「あなたは、幻獣を守りたかったのね……。でも、裏切られてしまった」
『貴様!? その力はなんだ……!? なぜ俺の中を見ることができる!!?』
リコスは威嚇するように、背中の毛を逆立てる。
『貴様は何だ……!? その力は何だ!?』
びりびりとするほどの、リコスの怒気。それを正面から浴びて、私の足はすくんだ。
どうしよう、怖くて立てない……。
その場にへたりこんだままでも、それでも、リコスとの対話をやめるつもりはなかった。
「私は……聖女エリン。私はペタルーダ様と約束したの。私にはこの力があるから、責任があるから、幻獣たちを助ける」
『生意気な小娘がァ!!』
リコスが破裂するような勢いで吠える。そのすさまじい怒気で、周囲の空気が振動した。
今にも折れそうになる心を、私は奮い立たせる。
ここで、私が諦めたら燐太郎はどうなるの?
楓弥は……?
クラトスが死んじゃう……! そんなの、絶対に嫌だ!
だから、私はどんなに怖くても、逃げ出すことはできないのだ。