5 邪悪
とうとう諸悪の根源……煌斗が姿を現した。
彼の悪意に満ちた笑みを見て、私は理解した。
この人は――邪悪な存在だ。
煌斗は楽しそうに、展望台の外に浮かんでいる。
「てめえ……ずっと隠れてやがったな」
煌斗を挟み撃ちするように、ディルベルとミュリエルが浮かぶ。そして、刺すような敵意を注ぎこんでいた。
一方、煌斗は余裕すらにじんだ態度で、にやにやとしている。
「ああ……あの時の竜どもか」
「あの時、あたしとディルベルを捕まえたハンターは、あんただったのね」
「みたいだな。ヒョウガを作り出せる奴は2人いるが、それぞれ得意属性がちがうみてえだ」
ディルベルは険しい表情で、煌斗を睨みつける。
「てめえの得意属性は火。楓弥の方は氷。前に俺が戦った虚像は、火を操っていたからな」
「あんたは今までもずっと、自分は安全な場所で隠れていたってわけね。ずいぶんと卑怯じゃない」
「いーや、そういうのはな……」
その時、ディルベルがカッと目を見開いた。そして、煌斗へ向かって突進していく。
「臆病者って言うんだよ!!」
煌斗は楽しそうに笑った。両手をそれぞれ左右に向けて、炎を撃ち出す。
ディルベルは回避、ミュリエルは自分も炎を撃ち出して、相殺した。
だけど、その時……!
別方向から吹雪が襲いかかる。楓弥だ。
(楓弥さん……!)
私はハッとして、そちらを見た。さっきまで私の目の前にいたのに……!
楓弥は空間転移で3人の頭上まで移動していた。そして、ディルベルたちの死角から攻撃したのだ。
「ぐっ……!」
「きゃ……っ」
煌斗だけに注意を向けていた2人は、その攻撃を防げない!
翼が即座に凍り付く。2人は中庭へと落下していった。
「ディルベル! ミュリエル……!」
私は展望台の端まで走り寄った。下を見ると、2人が倒れているのが見える。
「さあて……後は、人間が2人か。まずはそこの小娘だ。楓弥、始末しろ」
楓弥の狐耳がぴくりと動いた。ぎこちない動きで私を見る。
すると、燐太郎が私の前で両手を広げた。
「兄ちゃん……やめてくれ。エリンはオレを助けてくれた。恩人なんだ」
楓弥は放心したように私と燐太郎を眺めた。
すると、煌斗が笑いながら言った。にじんだ悪意が、黒いもやとなって幻視できそうなほどの邪悪な笑みで。
「楓弥。敏いお前なら――わかるだろう? それとも、お前の可愛い弟を、人間に売り払ってやろうか?」
「…………っ!」
楓弥がくしゃりと顔を歪める。そして、その姿がかき消えた。
次の瞬間、楓弥は展望台のすぐそばに浮かんでいた。
「楓弥さん、待って!」
私の言葉に、耳を傾けてくれる様子はない。彼は頑なに、顔をこちらに向けようとはしなかった。
私を見ようとはしないまま、こちらに手を向ける。その指先がわずかに震えていた。
煌斗が満足そうな表情を浮かべ、楓弥を眺める。
「ああ、弟がいてはまともに術も撃てないな。そうだ、こうするのはどうだ?」
闇色に染まった瞳が、展望台の中を捕らえる。私のそばにいた燐太郎を見据えて、口を開いた。
「燐太郎、『今から苦しめ。そして、5分後に心臓を止めろ』」
「煌斗! やめろ……!!」
途端、これまで冷静だった楓弥の様子が一変した。感情を爆発させて、煌斗につかみかかっている。
その直後……燐太郎が苦しみ出した。
「う……ああっ……!」
「りんくん!」
人型を保っていることができなくなったみたいだ。狐の姿に戻ると、燐太郎はその場でうずくまった。
私は慌てて彼のところに駆け寄る。そっと背中を撫でると、体温がとても高くなっている! 熱に浮かされているかのように、燐太郎はぎゅっと目をつぶって、荒い息を吐き出した。
苦しそうな燐太郎を見て、煌斗は哄笑した。
「はははは! 愚鈍なお前のために、タイムリミットを設けてやったぞ! これで、お前も真面目に仕事ができるだろう?」
「煌斗ぉ……!」
すさまじい怒りを露わにしながら、楓弥は煌斗の胸元をつかむ。
「りんにかけた命令を解除しろ!」
「お前も知っているだろう? 一度、下した命令は、俺にしか解除できない。ああ……怒りのあまり、俺を絞め殺しても構わないよ。その場合は、燐太郎も道ずれだけどね」
楓弥は怒りから一転して、悲しみの感情を瞳に浮かべる。彼の中では今、とてつもない葛藤が繰り広げられているのだろう。
やがて、彼の手から力が抜ける。敗北したように煌斗から手を離した。
「やめろ……やめてくれ……! りんは……りんの命だけは……」
「では、この場にいる邪魔者どもを始末しろ。わかるな? 5分以内だ」
煌斗……! 何てヒトなの!?
人間の中にも、どうしようもない悪人はいるけれど。
こいつは、その何十倍も卑怯で、邪悪だ!
楓弥の瞳から、感情が抜け落ちる。そして、ゆっくりと私の方を向いた。
楓弥は今まで、こうやって苦しめられてきたんだね……。本当はやりたくないことに手を染めるなんて、どれだけ自分の心を傷つける行為だろう。
楓弥の表情は無だ。しかし、口元は耐えるように噛みしめている。その唇の端から、一筋の血が流れた。まるで本当は泣きたくても泣けない、彼の悲しみを表すかのように。
楓弥が氷のつぶてを撃ち出す。
それが私に飛来する直前――クラトスが滑りこんで、防御壁を張った。
「楓弥……! こんなことは、もうやめるんだ」
「止めるな! 邪魔を、しないでくれ……!!」
悲痛な声が辺りに響き渡る。その声に、私の胸は苦しくなった。
「楓弥さん。あなたの弟は、私が……私とクラトスが必ず、助けます。だから、あなたはこれ以上、傷つかないで」
楓弥が呆然と私の姿を見る。そして、一瞬だけ泣きそうな表情を浮かべた。
だけど、その感情はすぐさまかき消えてしまう。彼はクラトスに向かって、次の攻撃をくり出した。
クラトスはそれを防ぎながら、私に言う。
「エリン、りんを任せる! 君なら――君の祈りなら、きっと届くはずだ」
「うん、任せてよ!」
私たちを巻きこまないために、クラトスはそのまま離れていく。その後を楓弥が追った。
燐太郎は今も苦しんでいる。狐の姿のまま、荒い息を吐き出していた。
私は燐太郎の隣に膝をついて、祈りを捧げる。
「ペタルーダ様……お願いします。りんくんを、助けて。《ペタルーダ様の祝福を》」
祝福の光が燐太郎を包みこむ。すると、燐太郎の表情が少しだけ和らいだ。
様々な記憶が見える。燐太郎と楓弥が一緒にいる。笑い合っている。2人はとても仲がいい兄弟だったんだね。
燐太郎が顔を持ち上げて、小さく笑った。
「エリン……。エリンの祈りの光……あったかいよ……」
「うん……。もう少しだけ、頑張って。りんくんのことも、楓弥さんのことも、必ず助けるからね」
「なあ……エリン」
兄弟だからよく似てるね。楓弥の目は銀の月、燐太郎の目は金の月みたいな色だ。
その両目に涙の幕が張られていく。悲しそうに燐太郎は呟いた。
「兄ちゃんがあんなことをしたのは、全部、オレのせいなんだろ……?」
「ちがう……! りんくんも、楓弥さんも、悪くない……!」
「でも、オレがいる限り……兄ちゃんは無理をし続ける。……オレは、兄ちゃんを止めたいよ……」
感情が決壊したように、両目からぽろぽろと涙が零れていく。
「……オレが死ねば、兄ちゃんはもう悪いことをしなくても、すむのかな……?」
「りんくん……」
胸が詰まった。
こんな子供に……どうして、こんなことを言わせてしまっているのだろう。
私は認めない。罪悪感に苦しむ楓弥も、自分のせいだと追い詰められている燐太郎も。
どうして、この2人がこんなに苦しまなきゃいけないの?
「そんなこと、させない! 絶対にさせない……!」
私は心から願った。
(ペタルーダ様! お願いします……! 燐太郎の体にある【隷属石】をとり除いてください)
その時、
『――エリン』
ペタルーダ様の声が、応えてくれた。